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中西理の下北沢通信(旧・大阪日記) このページをアンテナに追加 RSSフィード

2001-07-01 WHAT’S NEWと日記風雑記帳7月 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

WHAT'S NEWと日記風雑記帳7月

 7月31日 エジンバラ行きに備えてイアン・ランキンのジョン・リーバス警部シリーズを何冊かまとめて読んでいる。日本ではゴールド・ダガー賞受賞作でもある「黒と青」が翻訳されて以来、新作が立て続けに出版されているこのシリーズは英国ミステリの人気シリーズであるが、イングランドではなくスコットランドエジンバラを舞台にしていて、単に風土的な違いによるお国ぶりに留まらずスコットランド議会の政治的な背景とかスコットランド開発公社を中心とした地元の情報産業の動向とか、物語に時事問題がからんでくることで、日本で普通に暮らしていたのでは関心の埒外にあるエジンバラの状況とかが伺えるのが面白い。英米のミステリの面白さはそれが基本的に都市小説の色彩を持っていて、舞台となっている街の状況というのが日本での新聞や書物の知識からでは分からないぐらいビビッドに伝わってくるということで、もう10年以上も前のことになるが、ロバート・B・パーカーのスペンサーシリーズを片手にボストンに出掛けて散策したり、コリン・デクスターのモース警部シリーズをガイドにオックスフォードの町を徘徊したりしたこともあり、これが海外旅行をする時に観光ガイドでは分からないいろいろな発見があったりしてなかなかに面白いのである。

 もちろん、ミステリ小説としても面白い。リーバス警部はセント・レナーズ署に勤務する現役の刑事なのだが、その捜査は警察としてのチームプレー無視の独断専行。上司の警告を無視したり、捜査から外されて休職中でありながら、自分で独自の捜査を敢行したり、他人の縄張りに土足で踏み入るなど日常茶飯事で、そのため、どの作品をプロット自体は英国のミステリよりはアメリカの私立探偵小説に近いものとなっている。英国にはハドリー・チェイスのように米国のスタイルを意図的に模倣したものしかハードボイルド小説というものはないのだが、一見、導入部はいくつかの関連のない事件が並行して進行していき、それを捜査する捜査陣の姿が描かれるという意味ではモジュラー式の警察小説のような形を取っているといってもこのシリーズではそれが大団円に向かって関連のあるひとつの事件に収束していくようなプロットが多く、さらにギャングなど組織犯罪や権力者による捜査妨害もからんでくることからして、英国版のハードボイルド小説といった感じもあるのだ。さすがにあそこまでむちゃくちゃな人間ではないが、新宿鮫がハードボイルドという分類ならこれを警察小説という分類に入れるのはこれが英国ミステリであるということからきている予断にすぎないという気がするのだが、どうなんだろうか。

 

 7月30日 映画「千と千尋の神隠し」(9時〜、三番街シネマ)、映画「王は踊る」(1時40分〜、梅田ガーデンシネマ)を見る。

 「千と千尋の神隠し」はいわずと知れた宮崎駿アニメの新作である。私は宮崎アニメの熱心なファンというわけでもないので、どうなんだろうと思いながらややはすに構えたスタンスで見始めたのだが、これが予想以上に面白かった。アニメ史上に残る傑作なのかといえばちょっと首をかしげてしまうところはあるのだが、映像によるイメージ構築という意味ではやはりオリジナリティーの高さ、完成度ともに評価せざるをえないところがある。宮崎アニメの場合、人と自然との調和などといった主題が作品の背後にどうしてもすけて見えてきてしまうというところがあって、それがあまりに強く見えてきてしまう時には引いてしまうのだが、そういうところはこの作品にも確かにあって、「オクサレさま」のくだりなどは「なんだかなあ」と思ってしまったりするのだが、全体としてはそういうところはそれほど表面化しているわけではない。もちろん、「もののけ姫」同様にこの物語に多数登場している日本の八百万の神々というのがほとんどが出自をたどればある種の「自然」が神格化されたものであり、そこには日本における無原則な開発を批判するエコロジストの立場が垣間見えるが、そういうことはあまり説明されずにむしろ徹底的にビジュアルの面白さで押していっているところにこの映画の魅力はある。

 どちらも竜が登場して主人公とかかわる重要な役割を果たすということもあり、宮崎版「ネバーエンディングストーリー」といった風情もあるが、両者が大きく違うのはエンデの「ネバー〜」が男の子を主人公にそれが姫を救うという騎士物語の形式を借りているのに対して、「千と千尋の神隠し」の主人公、千尋が女の子であり、その意味で騎士物語にように単純に敵と戦う話にはしなかったことにあるだろうか。

 実は最初は「千と千尋の神隠し」という題名からして、これは維新派の「さかしま」と同じような臨死体験の話なのかと思っていて、だとしたらそういう形でこういう話を展開するのは見え透いている(もちろん、「さかしま」がそうだといってるわけじゃない)などと思っていたが、それはまったくの誤解のようで、物語の構造としてはむしろ「不思議の国のアリス」に近いといっていいかもしれない。

 

 7月29日 ク・ナウカ「天守物語 新演出版」(7時半〜、都立潮風公園噴水広場)を観劇。

 もともとこの日は12時からびわ湖ホールで行なわれるダンスピクニックでCRUSTACEAを見た後、イデビアン・クルーコッペリア」を1時半から見て、さらにその後もダンスピクニックの続きでAbe"M"ariaのダンスなどを見る予定だった……。それがなぜ東京にク・ナウカを見に行くことになったかといえば28日に深夜まで仕事をしていたうえに帰宅後も原稿書きなどしていたせいで、起きたらすでに1時半でこれからびわ湖ホールに行ったのでは着くのはメーンのイデビアン・クルーの公演も終わってしまったころ。あまりにも情けないので、急きょ予定を切り替えて新幹線に飛び乗り、イデビアンと予定が重なっていたせいで、諦めていたク・ナウカの野外劇を見に東京・お台場まで出掛けることにしたのだ。

 「天守物語」はク・ナウカの代表作品でこのページにも小倉城での野外公演のレポートが表紙からリンクして読めるようにしてあるが、初演の利賀新緑フェスでの野外公演から、野外だけでも湯島聖堂、小倉城公園、芝・増上寺、さらに劇場ではさいたま芸術劇場の公演と様々なロケーションで繰り返し再演されたのを観劇してきた。今回はお台場に近い都立潮風公園というすぐ近くに海のあるク・ナウカのこれまでの上演と比べてもきわめてユニークな立地での公演であるというのに加えて、演出を一部変えた新演出版での上演だということもあって、これまでの再演とは少し違った意味でどんなものになるのか注目していた。

 新橋からゆりかもめに乗り、船の科学館駅で降りる。駅に着くと船の科学館の巨大な建物が進行方向右手に見えているが、駅から少し新橋方向に戻った後、科学館を左手に見ながら水と緑のプロムナードと名付けられた道を真っ直ぐに海の方向に向けて直進していくと突き当たりに小さな池のある広場があり、ここがク・ナウカの公演場所となっていた。この日は台風の影響か東京は暑い大阪と違い気温も低く、夕方近いこともあり、名前の通りに潮風が吹いてきて気持ちがいい。もっとも、演出の宮城聰によれば公演の準備をしていたころはスタッフが熱中症で倒れてしまうほど暑かったということなので、本当にいいタイミングでこの公演を見ることができたわけだ。

 場所に不慣れだったため6時ごろとちょっと早めに会場に着いたので、会場から向かって左手の海がすぐ近くに見えるベンチに座り、東京駅で買ってきた弁当を食べながら公演の開始時刻を待つことにした。(続く) 

 劇団そとばこまちから挨拶状が届いた。内容は4代目座長だった生瀬勝久が7月31日付で退団。同日付で小原延之が5代目座長に就任するというもので、これと同時に山西惇、みやなおこ、八十田勇一、日詰千策、小椋あずき、高橋ヒデオ、牧野晋弥、大西規世子とこれまで劇団の中心的存在だった俳優、座付き作家、制作が軒並み退団。新座長、小原延之を中心としたまったく新しい体制で劇団を再構築することになるようだ。

 生瀬勝久が劇団を退団するらしいという情報は実はすでに聞いていたので、座長交替自体はそれほど意外というわけではなかった。そとばこまちは私が最初に見た小劇場の劇団であったということや元々、私の出身校でもある京都大学出身の劇団であったこと。さらには今はいない旗揚げメンバー(というかその前もあるので事実上の旗揚げメンバー)である辰巳琢郎、上海太郎、川下大洋といった連中が私とほぼ同世代であり、当時は面識はなかったが、同じ頃にキャンバスにいたということもあってこの劇団にはそれなりの思い入れもあるだけに、若干の感慨もないではないが、座長の舞台、テレビでの多忙なスケジュールからほとんど本公演も打てず事実上、劇団としては死に体に近いといわれてもしかたない昨今の状況を考えればおそかれはやかれなにか体制を変える必要があったことは明白でむしろ遅きに失した感があるといえるかもしれない。劇団そとばこまちからの手紙がポストに入っているのを見た時には解散の発表かもと3割ぐらいは思ったということもあり、劇団が存続したことは喜ぶべきことなのであろう。

 ただちょっと驚いたのは制作の大西を含め、西村頼子を除くと古手のメンバーがほぼ全員退団となったことで、そういう意味では制作体制も含めイチからのスタートという感は否めずこれはもう新しい劇団と考えた方がいいのかもしれない。そとばこまちの場合は当時の詳しい状況は分からないのだが、座長を上海太郎から生瀬勝久へとバトンタッチした際にも相前後して、川下大洋ら生瀬より上の世代が退団している経過もあり、これは想像にすぎないが、小原への受け継ぎを決めた時点で院政政治にはならないようにとの配慮が働いた側面もあるのかもしれない。

 とりあえずはだれが座付き作家となりどんな方向性の作品を上演することになるのかというのは興味深いところだが、これからはいままでよりも頻繁に本公演が見られるのだとすればそれは歓迎すべきことだと思う。新座長のお手並拝見といったところだろうか。

 7月28日 このところ朝からの勤務が続き、夜中に時間が取れなかったためこの日は仕事が終わった後、ホームページを更新しようと家に帰ったら、なんとマンションの玄関の鍵がないではないか。部屋の鍵は持っていたので、だれか戻ってきたらその時に一緒に入ろうとしばらく待ったのだが、マンションの明かりはほんど消えていて、午前1時すぎまで待っても人っ子ひとり現れる気配がないのでついに断念。江坂駅の近くのホテルに泊まることになってしまった。情けないことこのうえない。 

 7月27日 プロジェクトKOTO-10「惑星より愛をこめて」(7時半〜、大阪芸術創造館)を観劇。



 7月26日 ニパフ・アジア・パフォーマンス・アート連続展「京都」公演(7時〜、京都アートコンプレックス1928)を見る。

 パフォーマンスアートといってもこれは演劇でもダンス(舞踊)でもなく狭義の意味のいわゆるパフォーマンスである。日本人だけでなく、アジアからのアーティスト(といってもこの日はメキシコ人も参加していた)も交えて6人のアーティストが作品を上演した。これは現代美術の世界でコンセプチャルアートといわれているものと考えたらいいのだろう。この手の作品はもちろん初めて見るわけではなく、東京にいた時にはいくつも見たことがあり、その中には面白いと思われたものもないではなかったのだが、この日は正直いってちょっと困ってしまった。

 というのは見ていてパフォーマンス自体が楽しいと思われるものが少なく、コンセプト自体も「うーん、どうなんだろう」と頭を抱え込んでしまうようなものばかりだったからだ。この企画は3日間にわたってこの会場で開かれていて、毎日日替わりで違うパフォーマーが登場する仕組みになっていたため、この感想はあくまでこの日私が見たものはという条件付きでないとフェアとはいえないということをあらかじめ断っておく必要はある。

 この日見たもののうち比較的面白かったのは2番目に上演された黒田オサムという人の作品で、この人は1931年生まれというから70歳という老齢のパフォーマーであるのだが、それを逆手に取って宮沢賢治の詩の一部を引用、朗読しながら「葬式パフォーマンス」のようなものをやり、これがとぼけた味でなかなか楽しいものであった。

 ところが後のものは私に取ってちょっとしんどいもので、例えば最初に登場した泉暁子という人は時計の音や水を流しに流していたり、フライパンでなにかを炒めたり、野菜を切っているような音が組みあわされた背景音楽の流れる中にヒモでつながれた額縁に入った油絵のようなものを持って舞台に登場。舞台上や観客席の間を動き回りながら、持ってでてきた絵に赤のマジックで落書きのように見える絵を描いたすえに最後には木づちで額縁もろともその絵をこなごなに砕いてしまう。

 解釈はしようと思えば簡単なのだ。額縁に入った油絵は伝統的な芸術の象徴という風に考えればそれがひもにつながれているというのは伝統的美術、あるいは美術の制度制の呪縛と考えることができる。そうだとするとそれにマジックで落書きしたりsるのはそうした旧来の価値観の拒絶、そしてそれを木づちでこなごなにくだく行為は伝統の破壊とそこからの解放。時計の音は時間に追われること、野菜を切るような音は日常性で全体としてパフォーマーの心象風景を暗示している……。しかし、こんな図式的な解釈でいいのか。もし、この解釈があたっていたとしたらあまりに表層的で深みに欠けるがどうなんだろう。とここまで考えて思考停止してしまったのだ。

 最初にパフォーマンスをいくつか東京で見たことがあるとは書いたが、こうしたものにそれほど造詣が深いというわけではないのでひょっとすると私がこうしたものを面白く思えないのは作品のコンセプトに対する私の構え方に齟齬があるのかもしれない。

 その可能性はおおいにあるのだが、この日上演された2人の外国人(カトニーラ・ベロ=メキシコ、ング・フォンチャオ=マカオ)の作品にも古色蒼然とした匂いを感じとってしまった。ベロの作品は最初に舞台にカードをスパイラルな模様に見えるように1枚ずつ置いた後、それを拾ってその跡に1つづつ小石のようなものを置いていき、その後、拾ったカードを会場にいる人たちに1枚ずつ配ってその代わりに彼女の着ている白いTシャツにマジックで彼女が提示した言葉から連想される言葉か絵をそれぞれ書いてもらうというもの。このパフォーマンスを見て、私は60年代末ぐらいにニューヨークオノヨーコがやっていたというパフォーマンス(もちろん、話に聞いただけで見たわけじゃないけれど)のことを連想してしまった。なんとなくコンセプト的に似ている感じがしたからだ。もちろん、私の思い違いかもしれないのだが、現代芸術としてやっているパフォーマンスでこれはまずいのじゃないのだろうか。

 この日行なわれたパフォーマンスダムタイプを比べるのは筋違いかもしれないが、同じ現代美術に源を持つパフォーマンスとして乱暴を承知で比較すると私にとってダムタイプが面白いのはそれがいかにも「現代」を感じさせるカッコよさを持っているからだ。

 その意味ではこれは中国系のダンスパフォーマンス(例えばYring)にも感じたのだが、ング・フォンチャオのパフォーマンスにはダムタイプのような、あるいはフォーサイスのような、レニ・バッソのようなカッコよさがないのだ。正直言って日本に住む私の感覚からするとかなりダサイ。もちろん、中国系ならすべてそうかというとウォン・カーウェイの映画などは感覚的には上記のようなパフォーマンスと同質なスタイリッシュな感じを受けたから、これはむしろ属人的なものなんだろうと思う。

 さて、この日は最後にサエグサユキオというアーティストがある意味で暴力的な客いじりの演出を含んだ作品を上演した。実はこれについてはあまり客観的に感想を書くことができない。というのは私自身はその客いじりのターゲットにされてしまったからだ。

 これは舞台でパフォーマンスをやると見せかけて、客席の観客の膝のうえに何度か(いつも同じなのかどうか不明だが、この日は3度)モノを無理やり載せて、そのまま舞台に去った後、今度は突然、観客席に乱入して至近距離で、その観客を見つめるというものだ。これについては今、冷静になってから反省しているのだが、この日は私はちょっと大人なげないことをしてしまった。というのは私はもともと客いじりのような演出で、自分が対象になることは好まないうえに、この日はそれまでのパフォーマンスにかならずしもなじめなかったことから「来るならこい、絶対に協力して相手はしてやらないから」とすっかり好戦的な気持ちになっていたからだ。

 もちろん、なんらかのやばい雰囲気は感じていたものの、パフォーマンスの内容までは知らなかったので、突然、パフォーマーがすぐ近くにやって来た時には驚いたのだが、一方ではターゲットにされていたことは感じていたので、どうするかを一瞬考えた。相手と目を合わせてにらみ付けるか、無視するかということだが、結局、もうこの時には好戦的かつ不愉快な気持ちになっていたので、後者の無視する戦略を取ることにした。

 目を合わせると冷静さを失って本当にけんかになりそうで怖かったからだ。この後はとにかくなぜだか自分が先にその場を逃げ出したら負けだという気持ちが沸々と起こってきたので、とにかく相手があきらめてなにかの行動にでるまでひたすら数を数えながら、基本的には相手とは目を合わせずに相手の指の指輪を見ながら、心の中でひたすら数を数えることにした。

 まあ、こうして書いているとあまり恰好よくないというより相当恰好悪いのだが、こうしていれば私の方は途中からもし相手が引かなければ1時間でのこのまま粘るつもりでいたので、小屋の制約もあるし、どこかで相手が困ってなにかの行動に出るだろうと思ったからだ。

 結局、このパフォーマンスは相手が立ち上がって私のところにやってきて、「あなたに幸せが訪れますように」といって終わったのだが、この時点ではパフォーマンスだからという理由で簡単に許すのは悔しかったので、「不愉快です」と小声で相手にだけ聞えるように捨てぜりふを残して会場を出て、アートコンプレックスの建物から出て前の道で煙草を吸うことにした。

 もちろん、そのまま帰るつもりはなかった。しかし、ちょっと驚いたのはそこで煙草を吸っているとまだ会場ではそれぞれのパフォーマーが挨拶とかをしているはずなのに私の捨てぜりふがよほど気になったのかサエグサユキオ氏が追いかけてきて「不愉快だったですか」と話しかけてきたことである。この日、本当に大人げなかったと反省しているのはここでも「パフォーマンスだからということは分かってますから」と答えた後で言わずもがなの「でもはっきり言って不愉快だったのは確かです」と正直に答えてしまったことである。

 本当はこの時点ではかなり冷静な気持ちになっていたのだが、正直言ってこの種のコンセプトの挑発的パフォーマンスを続けるなら、相手によっては本当にけんかになることを覚悟する気持ちがなければやる資格はないと思ったからで、そういう意味でそれは相手に伝わるようにはっきりと意思表示をしておいた方がいいと思ったからだ。

 なにか自分がターゲットにされたことをいまだに根に持っているように見えるかもしれないが(そういう部分がまったくないとはいわないけれど)、私はこの種のパフォーマンスを好まない。念のために言っておくが一時の遊気舎がやっていたような演出の一部としての計算された客いじりは別なのだが、客に直接働き掛けることでハプニング的にそこからなにかが生まれてくるとか、観客/舞台の制度的な関係が解体できると考えるのはあまりにナイーブな考え方だと思っており、この種の方法論は前衛的方法論としてはもはや有効性を持たないと考えているからだ。

 その意味ではこの日自分がターゲットになったことはある意味で幸運だったかもしれない。それはそうなったことによる生理的な不快感は確かに厳然とあったことは否定できないが、もし、他人がそういう目にあっているのを見たとすればこの日のそこまでの気分の流れからして、単純に他人が困っているのを見るのは面白いということではすまなくて、コンセプトへの拒否感からそういうものを見せられるのが一層不快だったかもしれないからだ。

 そういうのも含めて舞台を楽しめないのは真面目すぎるからだとある人に言われたが、自分にそういう性向があるということは否定できない。もっとも、それを「真面目」と名付けるかどうかには異論はある。とにかく、私は客いじりが嫌いである。そして、それは私が観客(目撃者)であり、パフォーマー(当事者)ではないからだ。そして、観客には観客の立場があり、それは実作者になれないから仕方なく選んだのではなく、自らのアイデンティティーとしてその宿命を選び取った。そういう矜持が観客であり続けることには時として必要なのだと思っている。

 7月25日 8月の仕事のスケジュールが固まり、8月19〜26日までエジンバラ演劇祭に観劇ツアーに行くことがほぼ本決まりに。まだ、向こうでの宿が取れていないので正式にはフィックスしていないものの、一昨年時期を完全に勘違いしていたというアホな理由で行きそこなったエジンバラについに行くことができそうだ。アビニョン演劇祭には3回行ったし、ロンドンミュージカル観劇にも何度か出掛けたことはあったのだが、エジンバラは全くの門外漢。だれか過去に行ったことがあって、情報を持っている人(劇場はどの辺りに多いとかレストランでどこがおすすめとか)がいれば伝言板への書き込みでもメールでもなんでもいいので教えてほしい。

 その前に8月5日に休みが取れたので北九州に飛ぶ劇場「ロケット発射せり。」の観劇ツアーに出掛ける計画。しかし、調べてみると飛行機って近すぎるせいか伊丹からは飛んでないのね。早起きして新幹線で行くしかないのか。その前にチケット確保しなくちゃいけないのだけれど。ネット予約で調べたら全然空いてないのだけれど宿はどうしようか。とにかく、前回公演を引っ越しのごたごたで見逃している(さらにシアターテレビの放映も見逃した)ので、行くことだけは絶対行くつもりなのだ。

 7月24日 ピーター・ブルックハムレットの悲劇」(6月23日、世田谷パブリックシアター)についての感想をレクエストを相当昔のことながらもらっていたので書いておこうと思う。今年はどういうわけだか、「ハムレット」のあたり年で、この後は関西でも劇団四季ハムレット」が上演されるし、扉座が「フォーティンブラス」と「ハムレット」を連続上演する。さらにここ数年演出を少しずつ変えながら「ハムレット」の上演を続けてきた蜷川幸雄も新演出版での上演が予定されている。このうち、劇団四季(9月6日)、扉座(9月15日)はチケットをすでに確保して観劇予定があるため、これらの上演を見たうえでまとめて感想を書くつもりだったのだが、上記の理由もあり、ブルック版については簡単に感想だけは書いておくことにしたい。

 ピーター・ブルックの上演は黒人俳優であるエイドリアン・レスターをハムレットに起用したり、オフィーリアにインド人のシャンタラ・シヴァリンガッパを持ってきたということに特徴はあっても演出自体はオーソドックスなものであった。その意味ではざん新な演出を期待していた私には肩透かしを食わされた感が強かった。これでも欧米の演出としてはある種の前衛の基準にあてはまるのかもしれないが、日本でのなんでもありのシェイクスピア演出に慣らされた目にはどうしたんだろうという感じなのである。もっとも、以前に見た「しあわせな日々」(1997年10月)も主演にナターシャ・パリーを配したオーソドックスな舞台でそれほど演出面での新奇性は感じられなかったので、もはやブルック=前衛と考えるのは的がはずれているのかもしれない。

 「ハムレット」はシェイクスピア作品のなかでも長大な作品であり、劇中劇や道化とハムレットのやりとりなどその内部に様々なメタシアター的な要素を取り込んでいることもあってそのまま全てを上演すると4時間近い上演時間が必要になる。そのため日本の上演においてはどこかしらに焦点を置いて戯曲の一部をカットすることも多いのだが、ブルックの上演ではそのカットがかなり大幅なもので、芝居の一部の順序を入れかえるなどして、2時間20分に短縮されている。これは方形の赤い絨毯だけを敷いた舞台装置や土取利行のパーカッションなどの生演奏によるシンプルな音楽などとも合わせ舞台にある種のスピード感を与えていることは認めなくてはいけないが、その結果、登場人物ではハムレットに焦点が通常にも増して集まることで、宮廷劇としてのこの芝居が持っていた政治劇的な側面やハムレットの道化=ヒーローの2重性といったこの芝居にシェイクスピアが仕掛けたメタシアター的な要素は背後に退き、ハムレットを中心とする家庭劇の色彩が強くでていた。

 そのことがもっともよく感じられるのはブルックがフォーティンブラスのくだりをまるまるカットしてしまったことであろう。それだけではなく、レイアティーズを王にとの声のもとにレイアティーズが支持者らに後押しされる形で王城に迫ってくるシーンもなくなり、ホレーショの出番も減ってしまっているため、役柄における印象の上でハムレットへの比重が一層高まってしまい、それぞれの人物がそれぞれのドラマを持っているというシェイクスピアシェイクスピアらしさはあまりなくて、主人公ハムレットの等身大の造型も合わせて、現代劇の枠組みに近いものになってしまっているのである。

 ハムレットの造型は私の個人的な解釈ではあるがある時は演技をする人間であり、ある時は観察者(道化)、ある時はヒーロー(行動者)という多重性がハムレットをそれまでのギリシア悲劇的な主人公とは異なる現代的な属性を与えているところであって、エイドリアン・レスターの演じるハムレットにはそうした複雑さは感じられない。それは現代人としてのハムレットを描くという意味においてはピーター・ブルックの狙いでもあるのだとは思うが、そこのところがよくできた舞台であることはに認めながらもこの芝居をどこか物足りなく思ったところでもあった。    

 7月23日 7月11日の山田うんの作品「7月7日」についての感想について、作曲家の足立智美さんからメールを戴いた。メール自体は転載する許可をもらっていないのでここに掲載することはできないが、私なりの理解で内容を要約してみる。それは感想の「生活音を使うアイデアは一定の効果が出ていて面白いのだが、昨年のアビニョンで見たMichele Anne de Meyの作品がやはり同じようなコンセプト(彼女の場合は音だけでなくカメラアイでのビデオ映像も使っていたが)だったので、偶然かも知れないが、フランスに留学していたということでちょっと気になってしまった。」のくだりについて反論したもので「音及び音のコンセプトは足立さんのもの」「Michele Anne de Meyの作品の存在は知らない」「したがって、似ていたとしてもそれは偶然である」「あの音は生活音ではなくてダンス作品のために作曲された音楽である」の4点にまとめられる内容だった。

 本来ならばこの種の対応としては個人宛てのメールなので、メールで返事をするのが筋なのだろうが足立さんがメールによって提示した事実関係については了解し、そうであるということをこのページの読者に提示した方がいいだろうという判断に加え、私の方でも感想について補足しておきたいことがあったので迷った結果、異例ながらあえてここに書くことにした。

 ここで問題となっているMichele Anne de Meyの作品「35metres carres」がどんな作品であったかということについては詳しいことはアビニョンカミカゼ観劇ツアー2000(7月16日)を参照してほしい。この作品は今年3月ぐらいのこの日記コーナーで紹介した「2000年ダンスベストアクト」にも取り上げたのだが、ビデオに映ったカメラアイの映像と生活音が舞台上で展開される抽象的なダンスとかかわりあっていく関係の在り方が面白かったのである。足立氏はメールで「あの音は生活音ではなくダンス作品のために作曲された音楽であるし、現代音楽の分野では奏者の生活音をバックに演奏する作品が60年代にあり、Anne de Meyの作品がどのようなものであれ、このようなアイデアはすでにオリジナリティ云々するようなものではない、それゆえに作品の善し悪しには関係ない」という趣旨のことを主張しておられた。私が「風呂に入っている(あるいは風呂を洗っている?)人の生活音をB.G.M.にそれに合わせて手先とかをぐるぐる回したりする。生活音を使うアイデアは一定の効果が出ていて面白いのだが」と書いたことにひっかかったうえでの主張だと思われるが、私がここで言いたかったのはB.G.M.に生活音を使ったということだけではなくて、そういうものを音源として使い、それを抽象的なダンスムーブメントと組み合わせた時のダンスとB.G.M.の関係の在り方が面白かったということで、それが「生活音」そのものであるか、「意図的に作られた音楽作品」であるかには私にとっては重要な違いはなかったのだ。

 足立さんはその違いについて作曲家として随分こだわっていられるようなので、礼を失した言い方になるかもしれないがそれを承知であえて言えば、山田うんの作品に使用された音楽は「生活音」を連想させる要素を持っていて、それが私が(それが誤読にすぎないにしても)この作品におけるダンスとB.G.M.の関係のあり方にMichele Anne de Meyの作品と共通するような面白さを感じさせた原因となっていたことも事実なのだ。

 さらに言えば、足立さんの音楽が「生活音」でないというのと同じようにMichele Anne de Meyで使われていたビデオ映像・音源も作品であるということであって、ダンス作品のB.G.M.として使われる類の音源はそれが楽器演奏であっても、生活音のサンプリングであったとしてもどちらも特定の作者が意図を持って、使用したという意味においては作品以外のなにものでもないということは自明だという意味でである。

 ダンス作品においてどのような音源を使うか、また使わないかは重要なことだと考えているので「作品の善し悪しと関係がない」どころかおおいに関係があるというのが私の見解で、だからこそ「7月7日」が面白く、またMichele Anne de Meyの「35metres carres」が面白かったわけだ。ここのところはかなり言葉足らずのところがあって、誤解をまねきかねなかったのは反省しているが、もちろん、この2作品は音楽とダンスの関係の在り方に類似性を感じてそこが気になったということであって、ダンスのオリジナリティーという意味ではどちらも具象的というよりは身体の運動性を強調した抽象性の高い動きという以外ではムーブメントも全然異なるし、作品の印象は大きく異なる。だから、例えばこの振付はフォーサイスの真似じゃないかというような意味での真似だと思ったことは一度もないということはいくら強調してもしすぎることはない。また、生活音を素材として使った音源を使ったダンス作品というだけの意味であればそれもいくつかは見たこともあるし、それが面白いというわけでもない。

 ただ、この作品についてはダンサーのムーブメントが同じであってもしここで使われたのがモーツァルトの音楽だったとしたらそれは仮定の話なのでなんともいえないものの少なくともここで感じたような面白さを感じなかっただろうということは断言できると思う。ダンサー・振付家山田うんと作曲家足立智美の作品におけるかかわり方については足立さんのメールをもらってはじめて分かったこともあり、非常に興味深かった。  

 7月22日 この日は夕方から仕事。大阪に昼前に帰りつき、芝居屋坂道ストアを観劇するつもりだったのだが、連日の睡眠不足がたたり、このまま見に行っても寝てしまいだけだと判断。家で仮眠を取ったら、すでに夕方近くなのであった。

 

 7月21日 維新派「さかしま」(7時〜、奈良・室生村)を観劇。

 維新派「さかしま」は最近の維新派の舞台としては出色の出来栄えだったのではないかと思う。舞台美術などの面ではホームグラウンドだった大阪・南港で上演された「南風」「水街」などと比べると細部のディティールの魅力に欠ける物足りなさはある。さらにグラウンドの広い空間をフルに使うという無謀な企てでもあり、最初のうちはやや散漫な印象もなくもないが、室生という土地の持つ場の力を利用したという意味ではいかにも野外劇の興趣に満ちた舞台であった。中盤以降のいつも以上に照明を駆使した空間の構成力に凄さには松本雄吉という演出家の底力を感じさせられた。広い空間ゆえに最初のうちはあちらこちらに同時多発的に展開される群舞やパフォーマンスに目線が定まらなかったのだが、舞台の進行にしたがってしだいに喘息により闘病生活を送っている少女、なずなを中心に展開していく幻想の世界に引き込まれていき、ラストシーン近くでは滅多にないことだが背筋がぞくっとしてくるような凄みを感じさせられた。

 南港での舞台の魅力にも捨てがたいものはあったのだが、維新派の場合はその舞台を見ること自体がひとつの非日常的な体験であるという性格からして、今回のようにその公演場所が都会の喧騒を離れていて、都市生活者にとっては異世界であるという場所に設定された場合は格別である。というのは公演を見るという目的で普段は行ったことのない土地に出掛けていくという行為はすでに「維新派体験」という広義の観劇行為のなかに含まれている通過儀礼(イニシエーション)を一部をなしているからだ。

 私の場合は今回、フィネガンズウェイクという松本雄吉氏の行き付けの店でもあるバーの仲間が企画したツアーに参加して、自動車4台を連ねて会場に向かった。一行はなんども途中で道に迷ったり、珍道中を繰り広げるのだが、それもまたひとつの維新派体験といえるかもしれない。極め付けは室生に着き維新派の写真展が開催されていたギャラリー夢雲で松本氏に会い、そこで「私は行ったことはないが凄い沼があるのでぜひ一度見るべきだ」という松本氏の口車に乗せられ「凄い沼」に出掛けたこと。やはり何度も迷いかけたり、反対側からやってくるトラックに出会って車がやっと通れる山道でバックで戻らなければならないハメに陥ったり様々な苦難の末にたどり着いたのだが、その「凄い沼」がどう考えてもただの用水溜め池にしか見えない(笑い)。こうした当事者に取っては笑うに笑えない悪夢的体験(笑い)も含め、そこにはおそらく会場への到着の仕方の分だけの通過儀礼があり、そのそれぞれがその人にとっても維新派観劇の魅力につながっていくのだ。

 維新派は今後、国内でも公演は大阪に本拠を置きながらも、場所との新たな出会いを求めて、日本国中を漂流していく構想を持っているらしいが、それはもし実現すればこの日本において維新派だけがなしうる公演形態となるのかもしれない。 

 7月20日 東京から戻ってきて伊藤キム+輝く未来「激しい庭」(3時〜、びわ湖ホール)、ダンスピクニック(千日前ダンス倶楽部、北村成美、op eklect)4時半〜びわ湖ホールロビーなど)を観劇。

    時間通りに帰りつければこの後、芝居屋坂道ストア「ジェット猿人」(7時半〜、HEP HALL)のはずだったのだが、当初予定していなかったオーストラリアパフォーマンスグループ、ストレンジフルーツの野外パフォーマンスがけっこう面白かったため、途中で帰るに忍びなく、伊藤キムの公演とダンスピクニックも予想を超えて面白かったので、関係者に話が聞きたくて、びわ湖ホールで行なわれた打ち上げの方に参加してしまったのであった。

 7月19日 東京に新幹線で行きボツドール「メイクラブ〜それぞれの愛のかたち〜」(2時半〜、王子小劇場)を見る予定だったのだが、起きてみたらすでに昼過ぎ。急きょ飛行機に切り替えることにして、伊丹空港タクシーを飛ばしたのだが、羽田への到着が遅れたこともあり、浜松町駅ですでに開演時刻を過ぎ、力尽きてしまったのであった。観劇しますとメールを出しておきながら見られなかったのは痛恨にきわみであった。どんな内容だったんだろうか。せめて、ビデオでも見て確認したいところなのだが……。予定は予定に過ぎないとはいえ、この連休はこの後も予定が狂いまくり。1日に何本もの公演をはしごする予定を連日立てたことにも体力、気力の限界を感じてしまったのであった。

 ポかリン記憶舎茶室白桃庵「雫まで」(7時半〜、コア石響)を観劇(予定)。

 7月18日 勅使川原三郎+KARAS「Luminous」(びわ湖ホール)をダンスレビューに追加。

  パルコプロデュース「VAMP SHOW」(2時〜、シアタードラマシティ)を観劇。

 丹野賢一+山田うん「SWW Short Solo Works」の感想(7月11日)を加筆。

 7月17日 仕事を終えて行ったバー「フィネガンズウェイク」で元・遊気舎のイシダトウショウ氏と偶然会う。彼が出演するサカイヒロトの脚本(W'IRE「ミューーージカル」=8月18、19日OMS)すでに全部上がっているということで「遊気舎では絶対になかったこと」。これは期待してもいいかもしれない。

 トリイホールのダンス企画「ダンスサーカス16」(7月5、6日)の感想を追加。

 今週は東京〜びわ湖〜奈良・室生村の超ハードスケジュール。しかも、日曜日は仕事である。19日の昼にボツドールの公演があるということに気が付き、急きょこの日休みを取り東京に行くことにしたためだが、体力の限界を感じる今日このごろ。はたして大丈夫なんだろうか(笑い)。 

 7月16日 映画「白鳥の湖」(マイヤ・プリセツカヤ出演、キネマ大森、11時〜)を観劇。

  下北沢通信レビュー弘前劇場「月と牛の耳」を掲載。

 7月15日 青山円形劇場プロデュース「室温 〜夜の音楽〜」(2時〜)、劇弁猫ニャー「猫型物語」(7時〜)を観劇。

 青山円形劇場プロデュース「室温 〜夜の音楽〜」はナイロン100℃のKERAによるサイコホラーという触れ込みだが、どちらかというと「たま」の音楽を中心に据えた奇妙な味の音楽劇とでもいった性格が強いかもしれない。というのは「人間風車」(遊気舎版)などと比べホラーとしての怖さというのはあまり感じられないからだ。怖くないといったら語弊があるのだが、この芝居にはストーリー設定上、ちょっと誤算があったのじゃないかと思った。

 第1幕でちょっと変だけれどそれぞれ普通の人を装っているこの芝居の登場人物はそれぞれが恐ろしい秘密を持っているということが第2幕で明かされるという構造をこの物語は持っているのだが、ホラーの場合は通常、観客(ないし小説なら読者)が感情移入できる「普通の人」(たいていの場合ヒロインであることが望ましい)が登場してその人が怖い目に遭うのを追体験することで、サスペンスないし恐怖というものが生まれてくることが多い。ところがこの芝居ではそういう人がいないところで最後には異常者同士が食いあい(勿論、これは比喩としていっているので実際にそういう場面があるわけではない)をするような形になるのでそこにある種のカタルシスは生まれるのだけれどそれは「ああ、このままじゃやられちゃう」という種のドラマティックアイロニー(観客だけが知っていて、登場人物は知らないことから生まれる緊張感)も生まれず次々と続くどんでん返しによる面白さはあってもそれがホラー的な恐怖にはつながっていかないじれったさがあるのだ。

 それではこの芝居が面白くないのかというとそんなことはなくて面白いのだ。その面白さがどこにあるのかというとこの芝居でKERAは人間の持つ狂気が決して異世界(彼岸)のものではなく、私たちの住んでいる日常と背中合わせであることを提示していくところにある。通常のホラーというのはジェイソンにしろ貞子にしろ基本的には人間にとって理解不可能な彼岸のものとして描かれる。その了解不可能性というのは根源的恐怖とつながっていくのだが、ここではそれはもっと微妙なのだ。

 ホラー映画の世界と異なり私たちが住む現代社会では被害者/加害者の区別さえも絶対的なものとはいえない。例えば以前、宮崎勤の事件が起きた時、マスコミや世間は「おたく=変質者の事件」としてこれを異常者と決め付け、感情的にこれを糾弾したが、宮崎の犯罪行為自体は許されるものではないにしても「絶対的正義」の立場に自らを置いてこれを糾弾する側のヒステリックな態度に私などは逆に恐怖を覚え、思わず心情的には宮崎の側に身を置きたくなった。

 この芝居はもちろんそうした社会派的な問題劇というわけではなく、寓話的にそうした問題意識を取り入れながらもエンターテインメントの枠組みでそれをやっているのがいいところなのだが、KERAの問題意識がその背後に垣間見えるところに私は共感を覚えた。

 劇団弁当猫ニャーに変わっても相変わらず猫ニャーでしかなかった。変わったのは退団した小村裕次郎が出演してないことと入り口で箸を配っていたことぐらいであろうか。ただ、そこここに猫ニャーらしさは出ていたものの「猫型物語」はコントオムニバスだっただけに既存の約束事を解体していうというこの集団の本来持っている特徴はちょっと出にくく、その分、物足りない感じは否めないかもしれない。

 猫ニャーの場合、解体すべき大きな構造がある方が面白いし、物語はどんどん無意味な方向に解体されていくのに恰好の対象となるのだが、今回の公演はショートコントオムニバスという形態で1つの流れとしてのストーリーがあるわけではないので物語の連続的な解体やずらしといった手法が使いにくいからだ。

 それぞれのひとつながりの短いストーリー(というか設定)の中では猫ニャーらしい方法論は使われてはいる。物語とは直接の関係がない状況で突然、感動的な音楽が流れ、劇的な照明が舞台上の俳優に当たるだけ無意味に感動的なシーンが作りだされたり、ジャングルで遭難しそうになっているカップルの眼前になぜか突然、披露宴が出現する、などはいかにもブルースカイならではといった感覚のシーンだし、そこここに挿入されただらしないコントも落ちがなく笑えないという意味で脱構築的コントということもできるかもしれない。

 しかし、ひとつの作品全体がそこには直接は提示されていないあるタイプの演劇表現への揶揄となっていて、そこには明確に悪意が存在するのだが、それは説明されないので、その揶揄を感じ取れない人にはその存在自体が分からない。「猫演劇フェス」「将来への不安X-2000/ファーブル・ミニ」といった最近の猫ニャーの舞台はそういう構造が壮大に仕掛けられていて、そこが大きな魅力になっていた。「猫型物語」においても普通に笑いたくて芝居にやってきた観客をはぐらかすためにわざと笑いにくい落ちのない気持ちの悪いショートコントを随所に挟み込むなどの工夫はなされているのだが、オムニバスという形式のもとではいまひとつ意図しているような効果を呼んでないような印象が強かった。     

 7月14日 Monochrome circus「5solo*5impro」(7時〜、アトリエ劇研)を観劇。

 表題からソロと即興(コンタクト・インプロビゼーション)の小品を並べたプログラムかと見る前は勘違いしていたのだが、実際に上演された舞台は5つのソロ作品を同時多発的な即興でつないで1本の作品として上演した舞台であった。しかも、ソロと即興部分は渾然一体としていて、即興ではないソロのダンスに他のダンサーがからんでいって見かけ上はデュオの振付に見えるものや、ソロの即興ダンスもあって、一度だけ見ただけではどの部分がどちらなのかは判然としない。もっともおそらく完全に即興というわけではない5つのソロダンスが1時間あまりの作品に挿入されたことで、完全にフリーハンドの即興作品にはないまとまりがこの作品には見られたような気がする。作品としてもこれまで見たMonochrome circusの作品では静岡SPAC振付コンクールで上演された「うたかた」のような精緻に練り込まれたコンサートピースとラフなダンス小品や音楽の生演奏を用いて観客とのインタラクティブな触れあいを重視する出前ダンス作品「収穫祭」の中間的な形態で、新たなスタイルのダンスの実験としても興味深いものであった。   

 7月13日 Ugly duckling「さっちゃん」(7時〜、HEP HALL)を観劇。

   

 7月12日 この日も平日休みだったのだが、夕方近くまでたっぷりと睡眠をとってしまった。

 第2劇場「ボンボドス」(8時〜、カラビンカ)を観劇。

 第2劇場(本当は第は略字)を最初に見たのはいまから8〜9年前のことである。「小山内俊頼」シリーズの最初の奴で、確か公演場所はオレンジルームだったと思う。その後、東京に転勤になった後もたびたび大阪に戻ってきて見たり、断続的に見続けてはいたのだが、このところちょっと御無沙汰していた。最後に見たのはアゴラ劇場の「騙された」でそれもこのページを立ち上げるより前だから相当ひさびさの観劇となる。この劇団のことは昔からけっこう好きだった。旗揚げ以来23年らしいから関西を代表する老舗といってもいいのだが、今回も相変わらず最初に見た時とほぼ同じようなスタイルシリアスなテーマを交えながらも表現が成熟したり、その間の新たな演劇の流れに左右されることもなく、相変わらず主題はけっこうシリアスなのにそれをとことん馬鹿馬鹿しいコメディーに仕立て上げていく、潔さに思わず嬉しい気分になってしまった。

 それくらい長くやっていれば普通は俳優入れ替わるものなのだが、新しい俳優もキャストはされているものの、今回は新求仁子、横山秀信、中山邦彦、阿部茂と昔の顔が健在で舞台に見られたのも懐かしかった。

 2劇が面白いのは8年前に見た時からそんなに新しい感覚の芝居をやっていたわけではなく、演劇として最先端のスタイルではなかった割に80年代小劇場を代表してきた劇団の表現スタイルが古めかしくて、見てて恥ずかしくなってくることが多いのにここだけは今見てもそのスタイルはそんなに古い感じがしないことである。もっとも、当然新しくもないのだが(笑い)。今回は妙に凝ったチラシを作っていて、それは岩波文庫の装丁そっくりに弐劇文庫と銘打たれた文庫の表紙のようなチラシで、そこには表紙に「ボンボドス」(シャー・ハ・ラシゲール作、阿部茂訳)と表題が書かれている。これを見た時、ひょっとして翻訳劇を。2劇も変わったなあと一瞬騙されそうになったのだが、よくよく読んでみればなんでもない。シャー・ハ・ラシゲールとは四夜原茂(しよはら・しげる)つまり、主宰で演出の阿部茂のペンネームのただのモジリなのだった(笑い)。

 会場に着くとこれを本当の文庫本のように製本された小説「ボンボドス」が入り口で配られ、表紙もめくるとそこには「ボンボドス〜或る記憶障害者に関する記憶〜」と書いてあり、中身を読んでみると一晩寝てしまうと前の日以前の記憶を失ってしまう「たくみ」という男の一人称で綴られた手記のようなものが書かれている。これは最初は比較的まともな手記の形態を取っているのだが、記述は進むにつれて怪しげな登場人物が次々と登場して混乱してくる。これを客席で2度ほど読み返していると舞台で芝居がはじまっている。記憶障害という設定で弘前劇場の「月と牛の耳」を思いだしたのだが、もちろん、芝居の中でのアプローチは全然違う。

 舞台上にも「たくみ」という青年(正木喜勝)が登場するのだが、最初は小説と舞台の関係もよく分からない。だが、舞台が進むにつれてしだいに舞台上の「たくみ」が肩からひもで吊るしている「小説」ないし「日記」と呼ばれているものの中身が芝居の前に配られた小説「ボンボトス」だということが分かってくる。舞台で起こることは必ずしも小説の通りではなくそこには微妙な違いがある。例えば舞台上でたくみの日記には横山が姉ちゃん(新求仁子)の恋人であるという描写があるのに舞台ではどうも横山の片思いっぽいとかである。

 舞台も小説同様にやはり日常的な描写からスタートするが、ここに人間型ロボットであるITペット、田中ゲンタ(、コスプレ系(つまり女装の)ハウスキーパー、まりちゃん2号(大東広志)、狐目の男、横山(横山秀信)、セールスマン石原(中山邦彦)といったエキセントリックキャラクターが次から次へと登場して、次第にドタバタ劇の様相を呈しはじめる。このドタバタさ加減がなんとも2劇の魅力で時としてべたすぎて困ってしまうこともあるのだが、その情けなさが憎めないのだ。

 この芝居では「小説」として提示された文章は舞台上であった過去の出来事の記述であるという一種のメタシアターの構造があるのだが、舞台が進行するにつれて登場人物がそれぞれ自分の都合のいいように「たくみの日記」=小説「ボンボドス」を書き換えてしまう。ここにおいて「小説」と「舞台」はメビウスの帯のような複雑な関係の入れ子構造になっていることが分かり、それを可能にしたのが、主人公「たくみ」の記憶障害という作者が用意した仕掛けであることが分かってくるのだ。

 こういう現実と虚構の2重性という劇構造は四夜原茂が「小山内俊頼」シリーズでも多用した手法ではあるが、それがここではより複雑さを増しながらまるでフィリップ・K・ディックボルヘスの小説が筒井康隆の初期のタッチで描かれるように軽薄に展開されるのだ。

 だから、この芝居はほとんどなにも考えずに笑ってみられるのだが、主題そのものはきわめて人間の実存に迫るようなシリアスな哲学的問題に切り込んでいるといえなくもない。それは人間の記憶というのがアイデンティティーにおいて本質的な要素だからで、これは「記憶障害者のアイデンティティークライシス」という悪夢をドタバタコメディーという形に変形(デフォルメ)して提示したものと受け取ることもできるからである。 

 7月11日 丹野賢一+山田うん「SWW Short Solo Works」を観劇。

 丹野賢一と山田うんのそれぞれの短いソロ作品を3本づつ交互に上演していくというプログラムである。私の目から見るとダンスというよりは身体的パフォーマンスという色彩が強い丹野とダンサーとして固有のムーブメントが感じられる山田の2人の作品にほとんど共通点はないが、今回のプログラムでは丹野が松本じろ(鋼鉄児童舎)、山田が足立智美とそれぞれが舞台音響の専門家というよりは独立して音楽活動をしているミュージシャンと組みコラボレーション的な作品づくりしたものを並べたというのが共通コンセンプトといえるだろうか。

 山田うんは名前は以前から耳にしていたのだが、実際にその作品を見るのは初めて。最初の作品「11月11日」は黒い肩掛け鞄とトレー状の箱のようなものを持った山田うんがいつのまにか登場すると観客席の間とかに次々とカセットテープレコーダーを20〜30ぐらい置いていく。観客席の左右にかなりの数を置いてから、舞台上にもそれをいくつか置いて、なんなんだろうと思っているとそれぞれのレコーダーがその数だけ別々に録音されていた音(話し声だったり、音楽のようなものだったり中身はいろいろ)をだしはじめて、それが全体としてボイスパフォーマンスのような効果を出している音響をBGMに山田が踊りはじめる。最初に山田が登場した時に遅れてきた客なのかと勘違いしてしまったほど地味にしかも突然はじまり、テープレコーダーの音が会場に鳴りはじめるとこういう音響コンセプトというのはコロンブスの卵というかだれかが思い付きそうなことだが、これまでに見たことはなかったという意味でやられたと思わされた。

 2番目の「7月7日」は風呂に入っている(あるいは風呂を洗っている?)人の生活音をB.G.M.にそれに合わせて手先とかをぐるぐる回したりする。生活音を使うアイデアは一定の効果が出ていて面白いのだが、昨年のアビニョンで見たMichele Anne de Meyの作品がやはり同じようなコンセプト(彼女の場合は音だけでなくカメラアイでのビデオ映像も使っていたが)だったので、偶然かも知れないが、フランスに留学していたということでちょっと気になってしまった。もちろん、ダンス作品としてはムーブはMeyの振付と全く違うので印象は違うのだが。

 最後の「8月15日」は上半身裸体で登場、黒いパンツにお尻のところにワンポイントでうさぎのアップリケがあしらってある。この人の場合、この作品でも腕や手先が見えないほど凄い速さで回したり腕の動きを中心に上半身の独特な動きに特徴がある。腕を風車のようにぐるぐる回すというのはこれとは別のやり方でヤザキタケシがやっていたのをJCDNの巡回公演で見た記憶があるが、一度対抗合戦をやらせてみたい(笑い)。上半身裸体ではあるのだけれど、この人の場合、体型が細身のせいかセクシャリティーやエロスというものをそこから感じるというのではなく、もっとユニセックスな鍛えられた身体による運動性というものをそこから感じさせれる。要するによくも悪くも目の遣り場に困るという感じが全然しないのだ。それはダンスをやる前に器械体操や新体操をやっていたということも関係しているのかもしれない。

 一方、丹野賢一はだいぶ以前に法政大学学館大ホールで4トンのピンクの粉を使った「POWDER」という作品を見たことがあるのだが、舞台を見るのはそれ以来のことで、最近はじめたという小空間での舞台を見るのはこれが初めてである。印象が違うかと思って注目したのだが、暴力的な音楽とか身体を痙攣させるような動きとかは以前のままでこの作品での印象はそんなに変化はなかった。3本の中ではイグアナを思わせるような奇妙な衣装をつけて床を這い回った2番目の「015-FIN」が面白かった。これは身体表現でもあるが、拡声器を使って、音楽に合わせて息遣いを音としてからませていく部分などボイスパフォーマンスとしての魅力もあったからだ。

 ただ、難をいえば身体の動きそのものに魅力を感じさせるようなパフォーマンスではないので、小品とはいえ最初は暴力的な動きとかに驚かされたりするということはあっても、しばらく見続けているとしだいに単調な感じがしてきて飽きてきてしまうのだ。3本のうち、「015-FIN」がまだ面白く見られたのは拡声器のボイスパフォーマンスの部分に代表されるようにただ身体を痙攣させたり、暴力的な動きをするだけでなくこういう他の要素を取り入れることで目先を変えることに成功していたためだ。他の2作品ではそれがちょっと希薄な印象が残った。いろんな刺激を継続することで、観客の興味をつなごうとしているという狙いは分かるのだが登場するキャラクターなどコンセプトの部分でよほど工夫を凝らさないと狙っているのが身体ムーブメントの純運動性でも、物語性でもないだけにそこにエンターテンメント性を持たせていくのはそう簡単なことじゃないと思ってしまったのである。でもないのだから、   

 7月10日 朝から仕事をした後、高槻市市民総合交流センターでとある雑誌の編集会議に参加。まだ、正式決定というわけではないし、発行されるのも来年だがその雑誌に猫ニャー(ブルースカイ)論を書くことになるかもしれない。まだ先のこととはいえこれから少しずつ書くだけの材料を集めなくちゃいけない。    

 7月9日 山田正紀「神曲法廷」を読了。この日は休日休みだったのだが、前日、桃唄の打ち上げに参加してうちについ話に熱中して、せっかくすでにチェックインして宿泊料も払っていたホテルの門限に遅れてしまい結局、明け方までカラオケに付きあい徹夜となり、始発の新幹線で大阪に帰ったものの一日中寝ていて終わってしまったのだった。

 弘前劇場「月と牛の耳」の下北沢通信レビューを途中まで書いたのだが、どうも構想がうまくまとまらず書き終わることができず掲載にまだちょっと時間がかかりそう。早くしないと次の公演がはじまってしまうのでちょっと焦りはじめているのだが。今週は平日夜に見なければならない公演が多くて、仕事を朝からにしてもらっている日が多いのでできるだけホームページ更新頻繁にしたいとは思っているのだが、遅れ気味になるかも。特に下北沢通信レビューのように書くのにある程度まとまった時間が必要となるものは難しいかもしれない。ちなみに観劇予定は11日丹野賢一+山田うん「SWW Short Solo Works」、12日第2劇場「ポンポドス」か辰巳琢郎ひとり芝居、13日Ugly duckling「さっちゃん」、14日Monochrome circus「5solo※5impro」、15日青山円形劇場プロデュース「室温 〜夜の音楽〜」(2時〜)、劇弁猫ニャー「猫型物語」(7時〜)。

 7月8日 桃唄309プロデュース「超特急アガルタ」(5時半〜、中野ザ・ポケット)を観劇。

 「超特急アガルタ」は桃唄309の俳優である橋本健の作演出による舞台である。橋本作による桃唄309公演は「ユカラ・アイヌ英雄伝」「貝殻を拾う子供」に続き3本目となる。短いシーンを暗転なしにつなぎながら転換していくという桃唄独特の作劇法は踏襲しながらも、同劇団主宰の長谷基弘と橋本では取り上げる対象に違いがあるのが興味深い。「超特急アガルタ」で描かれるのは若き芸術家の群像である。この物語はもともと1960年代ニューヨークを舞台に当時ポップアーティスト界のカリスマとして知られたアンディ・ウォーホールを中心とした芸術家コミューンファクトリー」に出入りしていた芸術家ら、そこで起こった出来事をモデルにした物語だが、登場人物はすべて日本人の名前に置き換えられ、場所も「60年代のニューヨークのようであってしかも日本のようにも思われるどこでもないどこか」に設定されている。

 これは橋本が単純にウォーホールの伝記的事実に基づいた評伝劇を書くつもりがなく、ウォーホールをモデルとした天才画家カオル(成清正紀)とその親友でやはり画家であるアキオ(バビィ)を中心にカオルに強い憧憬の念を抱きながらもそれが高じてカオルから拒絶されると最後にはそれに銃を向けてしまうコナツ(針谷理繪子)の関係を通じて、「人が芸術をするとはいかなることなのか」を描き出すことにほぼ焦点(フォーカス)を絞り込んでるためであろう。この芝居は橋本健による「芸術論」なのである。

 橋本の人物造形には長谷などと比べるとかなり観念的なところがある。この芝居でもそれぞれの登場人物にはほとんど生活感というものは感じられない。主題と直接関係のない部分を舞台から捨象してしまうことで、「芸術」という主題をより明確に浮かび上がらせようという意図に基づいたものではあるが、人間が様々な社会的関係の結節点であるという「関係性の演劇」が前提としている現代の人間観からするとステレオタイプに図式化された人間像になりかねないという危険性も含んでいる。しかし、そうでいて実際の舞台を見た印象にかならずしもそうした感じが強くないのは生身の人間のよって演じられる演劇というメディアの特性が演じる俳優の身体を通じて、ここでは直接には描かれていない登場人物それぞれの思いを沈黙の背後に想起させるからであろう。特にコナツを演じた針谷の演技はどことなく危なっかしいところもないではないのだが、この芝居ではそれも含めて、コナツという偏執狂的なアンバランスな人格とうまく合致していた。

 「超特急アガルタ」という表題の「アガルタ」というのはアルカディアとかシャングリラのような古代インドの理想郷のことである。

 カオルの才能に対して、同じ芸術家として太陽に対する月のような関係になってしまうのを覚悟しながら、恋人、親友として「僕と君の間には子供が生まれない。だから絵を描く」と言いきるアキオ。カオルと袂を分かち離れることで自分たちの表現の独立性を保とうとするキイチ。表現者としてカオルやキイチら様々な才能との出会いを逞しく刺激として利用していくセツコ。カオルの才能に呑み込まれてそれと同化する願望を捨てきれず破滅していくコナツ……。

 芸術家のコミューン(=アガルタ)の理想とその崩壊を描き出したこの芝居は「芸術についてのひとつの寓話」の色彩があり、寓意というものがあるものがそのままある別のものを想起させる構造を持つと定義できるとするならば、そのとおりに観客である我々はこの芝居における登場人物それぞれの様々な関係の変奏のなかに我々の周囲にも起きている様々な人間関係の雛形を再発見することで考えさせられることになる。

 例えば卑近なレベルではここで描かれる芸術家村の姿は例えばそれを上演している劇団の姿になぞなえられることができるかもしれない。桃唄309という集団が主宰者、長谷基弘の才能を信奉する俳優、スタッフらによって結成された表現者集団として成立しているのだとすれば長谷(=カオル)に対して橋本は自分をどのようになぞらえているのか。ここで長谷(=カオル)と書いたのはあながち単なる思い付きというだけではなく、「私のエンジン」をはじめとする戦争3部作で自分の演劇スタイルにおける一応の完成とその舞台成果において一定の評価をえたのにそこに背を向けて、「よく言えば嘘ツキ」「K病院の引っ越し」のような新たな主題とスタイルに挑戦し続けている長谷の姿とこの芝居の最後の映画の大ヒットにより、次の映画を撮れと迫るパトロンのカンジに対して、それを振り切るように油絵を書き続けるカオルの姿には勘繰れば重なってくる部分がないとはいえない感があるからだ。

 もちろん、こうしたことは橋本が意図したことではないことも承知のうえで芝居を見ているとそういうことをいろいろ考えてしまわざるえないような仕掛けがこの芝居には仕組まれているのである。   

 7月7日 桃園会「かえるでんち」(3時〜、伊丹アイホール)を観劇。

 今回の公演、分かりやすい明るい桃園会というのがキャッチフレーズだったらしいのだが、「うちやまつり」のように難解ではないにしてもやはり深津ワールド。明るくも分かりやすくもない(笑い)。深津の戯曲に分かりにくい印象があるのはこの芝居に関していえば回想、妄想、現実と階梯の異なる描写がないまぜになって複雑な入れ子になっているのだが、普通の入れ子構造の芝居のように地と図の区別がないことにあるのではないかと思う。

 深津の芝居の場合、もう少し考えてみないとうかつなことは言えないのだけれど、冒頭近くの渡辺(荒木千童)と柴田(江口恵美)の会話からしてすでに奇妙である。「今日、仕事じゃなかったっけ、私達」「はなまるチェーン」「っていうか、私達って死んでるの?」「あ、だから。」。というのだが、そうだとするとこの芝居の全体が「死者たちから見た回想」とも思われてくる。台本を買ってきているのでこのあたりはもう少し、舞台の印象を反芻しながら考えてみないとと思っているのだが、すごく分かりにくい形だけれどもこの芝居も過去のいくつかの深津戯曲同様に世界が滅びさってしまった後に亡霊たちが集う真夜中の集会のように思われてくるのだ。この世界は犬カゼによって滅びてしまったのだろうか……。  

 7月6日 7月のお薦め芝居を掲載。

 お薦め芝居にも書いたのだが、ナイロン100℃のKERAが作演出している青山円形劇場プロデュース「室温 〜夜の音楽〜」の当日パンフレットに「笑い以外のKERA演劇について」という表題で文章を書いた。先日の弘前劇場の「月と牛の耳」の公演ではこのページに書いた感想を劇団がレビューとして転載してくれたのだが、演劇情報誌じゃむちがなくなって以来、紙媒体にまとまった文章を定期的に書ける機会がそれほどないので、こうした依頼があるとホームページを続けていくのにもいいモチベーションとなり、嬉しいことなのである。青山プロデュースに書いた文章は一応、書き下しなのだが、私の場合には外部のパンフや雑誌に文章を寄稿することはあっても、それを生業としているわけではないので、このホームページに書いた文章を転載してパンフや情報宣伝用の資料に使いたいという劇団ないしカンパニーがいればそれは無断掲載ということでなければ大歓迎であり、このページを立ち上げた趣旨にもかなうことなので、メールでじゃんじゃん依頼をしてもらいたい。場合によってはフォーマットに従って書き直しも厭いませんから。

 それからもう一つ。このページの表紙はこのところ月替わりで私が評価している劇団(ダンスカンパニー)の舞台写真を張り付けていたのだが(先月からの表紙は上海太郎舞踏公司)、このところ観劇スケジュールが忙しくて、レビュー、感想も滞っていたこともあり、これまでピンチになるとやっていた1本釣りもままならずついに力尽きてしまった。

 まだ表紙に使いたい劇団はたくさんあるのだけれど、もうこれが限界だろうか。ここに書いてもここを頻繁に覗いてくれている劇団関係者はもう載ってしまったところが多いという気もしないではない。表紙写真の提供を協力してもいいという劇団があればメールか掲示板で名乗りでてほしいのだが……。

 7月5日 トロカデロ・デ・モンテカルロバレエ団公演(7時〜、フェスティバルホール)を観劇。

 この日は朝から仕事で夕方以降、自由時間が出来たので劇団四季の「キャッツ」でもひさびさに見てやろうと思って街に出たのだが、うかつなことに会場の MBS劇場が今は大阪ビジネスパークにあるということを知らなかったため歩いているうちにフェスティバルホールに着いてしまったのであった。そうしたら、偶然、この日はトロカデロ・デ・モンテカルロバレエ団の公演があって、特別にどうしても「キャッツ」を見たいというわけじゃないので、そのままついふらふらと当日券を買って入ってしまったのだった。このカンパニーはこれまでビデオなどで公演の一部は見たことがあったのでどういうカンパニーなのかは知ってはいたものの実際に見たのは初めて。それでどうだったかというとバレエのパロディという意識が強すぎたためか単純に楽しむべきだったところをちょっといろんなことを考えすぎてしまって素直に楽しむことが出来なかった。アメリカ風のエンターテインメントというものがどういうものかを分かりやすい形で了解できたという意味では貴重な体験ではあったのだけれど、その大衆性への志向というのがどうも鼻についてしまったのだ。

 バレエということに別にこだわる必要はないのにどうもこだわっている自分に気が付いて唖然とさせられたということがある。男性ダンサーが女性パートも踊るという以外ではほとんど原振付通りに踊っていた「海賊」がつい上海太郎が「BAD TRIP」でやっていた「パ・ド・ドゥ」というネタがこれであったためにそれを思いだしてしまったということはあったにしてもバレエとして楽しめたのに対して、「ゲテ・パリジェンヌ」などは以前、ABTの公演で見たことがあるのだが、もともとかなり露骨に笑いも取りに行くようなベタな作品なだけにそれのまたパロディをやられるとどうにも屋上屋を重ねたような印象があって、素直には楽しめなかったのだ。面白いことは面白いんだけど。

 7月4日 しばらくページの更新が全くできず申し訳ない。今週は平日見たい公演があったためいくつか希望を出したために早朝からの勤務が多く、夜ページを更新する時間がほとんど取れなかったからである。お薦め芝居7月の方も執筆が遅れているが、えんぺの方が締め切りである今週末には掲載する予定。

 7月3日 トリイホールの企画ダンスサーカス16(後半)(6時〜、8時〜)で千日前青空ダンス倶楽部など5本のダンスを観劇。プログラムを紹介すると。

作 品:「僕の中に君」

振 付:藤田清香

出 演: 西野あいこ、藤田清香

作 品:DANCE UNIT TORSO「THE WALL」

振 付/出 演:栗棟一恵子

作 品:Ca Ballet「トウ トウ トウ」

振 付:北村成美

出 演: 水野宏子、木戸麻子、安那瑞穂

作 品:呆然リセット「とめないで さわやか」振 付:垣尾優

出 演:垣尾優、蘇枋蓮志郎

作 品:千日前青空ダンス倶楽部「夏の器」

振 付:紅玉

出 演:稲吉、てるてる、ポン太、クララ

 こういうことを書くと語弊があるのを分かった上であえて書いてしまうと前日と違ってこの日上演された5本は好き嫌いの別はあっても作品としての個性を感じさせる好舞台ぞろいで特にCa Ballet「トウ トウ トウ」、呆然リセット「とめないで さわやか」、千日前青空ダンス倶楽部「夏の器」はいずれもこれ1本で終わってしまうのが残念なほど面白かった。こういうことがあるからダンスを見るのがやめられないのだ。

 藤田清香「僕の中に君」はバレエや体操の動きを強く感じさせる感のある作品でダンサー2人は可愛らしくて素材としては引かれるところがあるのだが、作品として考えるとまだそれぞれの動きを単につなげて試行錯誤で構成しているという感が強く、習作の域を出ていないように思われる。自分たちでしかない動きとかムーブメントについて深く考えたすえの動きという感じがしないのである。もっとも、彼女らには楽しそうに踊っている様子はこちらに伝わってきて、それでこちらも楽しくなるという感覚はあって、それはダンサー・パフォーマーとしてすごく大きな武器だと思うから、ムーブメントを突き詰めるといってもただ内向的になっていったり、思弁的になっていくのはだめでここのところが難しいのだけれど、自分の作品作りと並行して他の人の作品を踊ってみたりすることで、作品を作るという作業はどういうことなのかを学ぶことも役にたつかもしれない。

 DANCE UNIT TORSO「THE WALL」は栗棟一恵子のソロダンスで最初の作品とは対照的にこうした類のダンスとしてはきわめて完成度が高い。だからこの作品をこの日の作品でベストとする人がでてきてもけっして驚きはしないのだが、こういう主題(テーマ)性を前面に打ちだした表出的なダンスというのは私は苦手なのだ。同じダンスが好きといってもよって立つ立場が違うとしかいいようがないのだが、ムーブメントにとてつもなく新奇性があるとかコンセプトが面白いとかいうことがないと……。

 一方、Ca Ballet「トウ トウ トウ」は最近はソロで踊ることの多い北村成美がバレエダンサーに振り付けた新作で、ポワントでのタップダンスなど楽しい作品に仕上がった。動き自体はバレエの「パ」を基本としたもので、それも個別の部材としてはクラシックバレエの技法を多用しながら、全体としてけっしてバレエ的には見えない(クラシックというだけでなくモダンバレエとも違う)のが面白かった。関西では東京と比較するとバレエダンサーがコンテンポラリーを踊る機会は少ないようだし、踊るとしてもほとんどはバレエ団関係者の振付で、若手のコンテンポラリー系の振付家が振り付けることはほとんどないのが現状なのでこうした試みは貴重なものといえよう。ただ、北村自身が踊るソロ作品と比較するとけっこう超絶技巧のテクニックを駆使させているのにそれが完全にはうまく効果として生かされていない不満はないではない。この日はこの子たちのバレエ関係者と思われる観客がかなり来ていて、トリイホールの狭い空間で「ブラボー」の声を上げたのには思わず苦笑してしまったが(発表会ののりなんだろうなあ)、関西のダンスの風穴を開けていくにはこういう試みはもっと必要なんじゃないだろうか。

 この日の最大の収穫といっていいのが垣尾優が振付・出演した呆然リセット「とめないで、さわやか」であった。垣尾と冬樹ダンスビジョン時代の僚友でもある蘇枋蓮志郎(今回は本名で出演していたかもしれない)との男性2人のユニットで、2枚目の蘇枋、個性派でコミカルな味も出せる垣尾の対照が面白い。作品はコンテンポラリーダンスにマイムやストリートダンスの要素を取り入れたものだが、フランスでイポップ(ヒップホップのことだけどHを発音しないのでこうなるのね)と呼ばれるストリート系のダンスを導入した振付作品でこれまでそれほど面白いと思える作品に出会うことがなかったのに対して、これはヒップホップ的な動きを導入しながらもストリートダンスの持つグルーブ感をうまく作品に取り入れバタくさくなくカッコ良く、エンターテインメント性も高く、「次の予定がない」というのが本当に残念なほど面白かったのである。

 垣尾は上海太郎舞踏公司に入団する以前の冬樹ダンスビジョンの時代からダンサーとしては知ってはいたのだけれど大人しい印象が強かったので、上海太郎舞踏公司を退団した後、突然こんな作品を作ったということに失礼ながら吃驚させられたのであった。この作品自体は短いものだが、振付家としてのセンスがよく、ひさしぶりにこれはひょっとするとブレークするかものとの予感を感じた。またひとり楽しみな存在を発見したというところである。

 舞踏は苦手だと以前に書いたのだけれど千日前青空ダンス倶楽部「夏の器」はなぜか面白かったのである。もう少し他の作品を見てみないとはっきりそれがどこまで狙いなのかが分からないところがあるのだが、ここに出演していた4人の女性ダンサーはいずれも可愛らしくて、愛嬌がありどこか少女性あるいは童子性を感じさせるところがある。それが例えば舌を出したり、白目を出したりするようないかにも舞踏的な身振りをしてもグロテスクや異界性という表現には解消されないで比喩的な言い回しになってしまうが表現におけるエクボに見えてくるのだ。特に最初に4人並んで逆立ちしていた時に右から2番目にいたクララというダンサーにはなぜか目が引き寄せられてしまった。

 この無邪気さが偶然ではなくて、演出・振付の狙ったコンセプトだとすると内向的な表現が多く見られる舞踏においては特異な存在にもなるんじゃないかとそこがすごく面白かった。若い女性を使っての童子、少女性の表現を生かしたコンセプトを作品に多用する作家としては少年王者館や維新派が思いだされるのだが、千日前青空ダンス倶楽部のダンスにはどこかそういうものとの近親性を感じさせられた。これは枯尾花に幽霊を見ているのだろうか。        

 7月2日 トリイホールの企画ダンスサーカス16(前半)(6時〜)で花嵐など5本のダンスを観劇。

作 品:「Pygmalion+s」

振 付/出 演:前田愛実

作 品:浜田さえこ&ナーチェナーチェ「祈輪 KIRIN」

振 付/出 演:浜田さえこ&ナーチェナーチェ

作 品:「ポウズ」

振 付/ 出 演:有田美香子

作 品:ノ・ビータ(仮)「素敵じゃないか」振 付:ノ・ビータ(仮)

出 演:ちよ、二川晃

作 品:花嵐「臍リアル」

振 付:On

出 演:伴戸チカコ、むしちゃん、古川遠

 トリイホールのDANCE CIRCUS(ダンスサーカス)は10分程度の短いダンス作品を公募し、ダンスショーケース風に連続上演する企画で、若手のダンサー・振付家の登竜門的役割を果たしてきている。ダンスサーカス16というから、これが16回目で2日間にわたり、10グループ(個人)10作品が上演された。

 この日は前半5作品が上演された。しかし、この日は正直言って私の琴線に触れてくるような作品が見当たらず、ちょっとがっかりさせられた。前田愛美の「Pygmalion+s」は最近、東京でよく見られる踊らないダンスの典型のような作品。床にビニールのシートが敷かれていて、それを身体に巻き付けたり、顔のアップの映像が途中でダンサーの後方の壁に映写されたりするが、ダンスに一義的にはムーブメントオリジナリティー、面白さを期待してしまうとそういうものがないので見ていてちょっと退屈してしまう。有田美香子の「ポウズ」はこれと比べれば右手を振り下ろすような動きが繰り返され、仕草性を取り入れながら、こわばったような身体を見せていくなどもう少し動きのある作品だが、やはりミニマルなダンスで、もう少し動きの連鎖の中にはっとさせるようなところがないとどちらもソロダンスなだけにちょっとしんどいところだ。ソロとグループ作品の違いはあるのだが、先月、静岡のSPAC振付コンクールで見た山田珠美の作品にも同じような匂いを感じた。やはり、ダンサーのムーブメントミニマルなものであまり踊らないのだ。

 もちろん、私はダンサー、だから踊ります、私の踊り凄いでしょっていう作品にはげっそりさせられるから、それではだめなのだが、踊らないダンスが増えているという傾向はどうなんだろうか。これは私の好みの問題でもあるがそれが現代芸術であるコンテンポラリーダンスだとしてももう少し娯楽性というのは必要なのじゃないかと思ってしまうのだ。

 一方、浜田さえこ&ナーチェナーチェはインド舞踊の先生とお弟子さんによるダンスという感じで、いろんな種類のダンスが一度に見られるのがこのダンスサーカスの魅力なのではあるのだけれどインド舞踊にそんなに詳しくない私にはこういうダンスもあるんだなあという以上の感想はなかなか出てきにくい作品だった。

 娯楽性がほしいとはいってもノ・ビータ(仮)の「素敵じゃないか」にもちょっと困ってしまう。Monochrome circusにも参加している荻野ちよが出演していたのでちょっと期待してみたのだが、これはダンスというよりはダンス風のコントなんじゃないかと思った。

 花嵐「臍リアル」もちょっとピンとこなかった。これもカンパニーとしてすごく面白いことをやっているとの評判を聞いていたのでちょっと肩透かし。いわゆる舞踏というのが苦手であるというせいもあるのだが、グループとしての方向性がいまいち見えてこない気がしていらいらしてしまった。アートコンプレック 1928での本公演を見てみないとこれだけではちょっと判断しずらいというのが正直な印象であった。       

 7月1日 デス電所「ジャパン」(2時〜、ウイングフィールド)、スクエア「泊」(5時〜、アイホール)を観劇。

 デス電所は3月に大阪に引っ越してきて以来面白いという評判を聞いてぜひ一度どんな芝居を作るのか見てみたいと期待していた劇団であった。評判によればその芝居はそれまでの通常の演劇の文法を踏み外して激しく破たんしていて、演技はうまくないがオオバケしそうな予感を感じるということで、東京でここ数年見てみた有望な若手劇団(オハヨウのムスメ、猫ニャー、げんこつ団、ロリータ男爵、むっちりみえっぱり、ゴキブリコンビナート)といってところと肩を並べるような可能性を感じるかということにおおきな期待を持っていたからである。

 ところが実際に今回上演された「ジャパン」を見てみるとちょっと肩透かしを食わされた印象が強い。今回の公演はいくつかの毛色の違う短編をつないだオムニバス作品だということもあってか、予想していたほど下手ではないのだけれど(最初に見たオハヨウのムスメやロリータ男爵の下手さの衝撃と比べれば、ウェルメードといってもいいほどだ)そんなに既存の芝居のスタイルをはみ出しているという感じもなく大人しい印象で、それぞれの短編での方向性の違いも含め、集団としてなにがやりたいのかが、ちょっと見えにくい舞台だったからだ。それでも、以前からこの集団を見ている人に何人かに聞いてみるとそれほど否定的な評価でもないようで、そのことにちょっと戸惑ってしまった。というのはそのスタイル自体は私にはこの芝居を見た限りではそんなにざん新な印象は持てなかったからだ。

 シーンとしては大きく分けてコント的なやりとりの芝居のパターン(一番最初のどこかの村から出ていこうという女とそれを引き留めようとしている男の会話