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中西理の下北沢通信(旧・大阪日記) このページをアンテナに追加 RSSフィード

2011-06-26 GEKKEN ALTERANA ART SELECTION2011 「どこか、いつか、だれか」

[]GEKKEN ALTERANA ART SELECTION2011 「どこか、いつか、だれか」@京都アトリエ劇研

脚本・演出=市川タロ

Cast

岩崎小枝子(France_pan) 稲葉俊(西一風) 延命聡子 佐々木峻一(努力クラブ) 玉木青(愉快犯) 豊島勇士(ヘルベチカスタンダード) にへぇでびる(西一風) ふくだまさと(Lowo=tar=voga) 前田愛美(tabula=rasa)

Staff

企画 高田

演出 市川タロ

制作 築地静香

舞台監督 七井悠

舞台美術 西山

照明 川島玲子(GEKKEN stafroom)

音響 佐々木峻一

映像 鈴木トオル(Flat box)

広報 沢大洋

監修 田辺

共催 アトリエ劇研

協力 劇団西一風

 この舞台にはチェルフィッチュしかも「三月の5日間」ではなくて「わたしたちは無傷な別人である」との類似を思わせるところがある。さらに言えば一軒家の間取りが木組みだけで組み立てられた舞台装置がチェルフィッチュ金沢21世紀美術館で上演した「記憶の部屋について」を思い出させた。チェルフィッチュの影響かなりを受けてるんじゃないかと思いながら、冒頭部分を見ていた。

 だが、舞台は正直言って見ていてつらかった。どこをどんな風に見ればいいのかが分かりにくいのだ。散漫な気がして退屈してしまう。実は横浜で最初に「わたしたちは無傷な別人であるのか?」を見た時*1に超口語体演劇を放棄した新たなスタイルに「ひょっとしたらものすごく退屈では」と心配したのだが、案に相違して舞台は面白く、「この形式でどうして面白いんだろう」と考えた。

 だが、今回はその時とはまったく逆であった。明らかにテェルフィッチュの強い影響があり、似たような方向性のことをやろうとしているのに、今回の舞台は「なんでここまで退屈してしまうのだろう、その違いはなんなのだろう」と思わず考え込んでしまった。

 大きな、そして決定的な違いは演出家俳優それぞれの微細な動きをどのくらい見ていて演出しているのか、そしてそれに対して出演している俳優が自分の舞台上での状態についてどこまで意識的であるのかということにあるのだろうと思う。そういう地道でかつ緻密な作業の積み重ねこそが、チェルフィッチュの作る舞台の魅力を支えているのだということが、この舞台を見ていると逆説的に浮かび上がってくる。

  「どこか、いつか、だれか」にはこれが90分も続くとしたらどうしたらいいのだろうと困惑させられたが、舞台の雰囲気は袋に入った大量のレシートが舞台上に散乱し、それを読み上げることでその買い物をした主を浮かび上がらせるという場面で変わった。このあたりから退屈だった舞台ががぜん面白くなった。そう言えば(チェルフィッチュのような語り口調や演技が気になったが)最初の部分のセリフは「私は椅子です」と椅子の一人称描写だった。

 今度は羅列されたレシートの数字だが、どちらもモノを語りながら間接的にそこにかかわる人間のことを連想させていくという手法でちょっとアラン・ロブ=グリエなどヌーボーロマンを思わせるところがある。小説ではよくやられる手だが、これを演劇でやるというのはちょっとしたアイデアだ。残念なのは断片的なエピソードのうち、猫の死骸の話のように重要な話のようでいて唐突に出てくるため意味がよく分からないものもあって(スケッチ的な描写をコラージュのように積み重ねていこうとしたのかもしれないが)そのせいで全体の設計がゆるく見える。これが散漫な印象がぬぐいきれないという印象を生み出している。演技・演出の幅も後半になるにしたがい、いろいろなパターンが出てくるが、これも内容とスタイルの関係があまりに恣意的に感じられた。もう少しテキストの構造と演技・演出の必然性について厳密に考える必要があるのではないだろうか。

 関西では珍しいタッチの作品であるし、面白い部分も随所にあり興味は惹かれた。まだ、どういう方向に行くのか分からないということはいろんな可能性をはらんでいるということでもある。前述した課題は大きく、ただちに評価する気にはなれないが、今後どうなるかが要注目なことは確かだ。まるで方向性は異なるが月面クロワッサンといい、今回の市川タロといい京都の若手では今またポストゼロ年代の新しい風が吹き始めているのかもしれない。

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2011-06-25 SPAC( 宮城聰演出)「天守物語」@静岡県立舞台芸術公園・野外

[]SPAC( 宮城聰演出)「天守物語」@静岡県立舞台芸術公園・野外劇場「有度」

SPAC「野田版 真夏の夜の夢」「天守物語」wonderlandレビュー(http://t.co/7sSVbOm)執筆。少し長文ですが宮城聰の小論にもなっています。興味のある人はぜひ覗いてみてください。感想などもいただけると嬉しいです。

SPAC「天守物語PRのための市街地パフォーマンス

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演出: 宮城聰

作: 泉鏡花

演奏構成: 棚川寛子

出演: 阿部一徳、石井萠水、大高浩一、片岡佐知子、榊原有美、桜内結う、鈴木陽代、舘野百代、寺内亜矢子、永井健二、仲谷智邦、本多麻紀、美加理、三島景太、吉植荘一郎

ク・ナウカ時代に宮城聰は数多くの作品を上演しているが、なかでも代表作といえるのが「天守物語」「エレクトラ」「王女メディア」の3作品であろう。なかでも「天守物語」は野外劇として上演されることが多かったこともあり、海外も含めいろんな場所でその場所、場所の「場の持つ力」を借景として取り入れながら上演されており、私自身の観劇歴においても小倉城の前での上演、お台場の海を背景にした上演、雨の利賀野外劇場、こちらも激しい雨の中での湯島聖堂……と忘れがたい印象を残した舞台を目撃してきたという意味では宮城のワン・アンド・オンリーの作品と言っていいかもしれない。

 宮城はSPACの芸術総監督に就任して以来ク・ナウカ時代のレパートリーは封印してきたのだが、今回<ふじのくに⇄せかい演劇祭2011>の演目に自らの演出作品2本を用意した、しかもそのうち1本は野田秀樹の「野田版 夏の夜の夢」と野田戯曲への初挑戦、そしてもう1本がク・ナウカ時代のオリジナル演出復刻版での満を持しての「天守物語」だった。ク・ナウカ版演出ではすでに昨年「王女メディア」を上演してはいるが、引き続き代表作である「天守物語」もレパートリーに加えたということに2007年に鈴木忠志からSPACを引き継いでSPAC芸術総監督に就任して以来5年。自らの手で若い役者たちを育て上げて、ようやくク・ナウカ時代に負けないような陣容が揃ったとの自信のほどを感じたのである。

 「天守物語」は主演の富姫役を演じる美加理をはじめ 阿部一徳、大高浩一、榊原有美、寺内亜矢子、吉植荘一郎らク・ナウカ時代からのオリジナルキャストに三島景太、仲谷智邦、舘野百代らSPAC創生期からの俳優陣が加わる合同公演のようなキャスティングとなった。もちろん、現在のSPACのシステムから言えば全員がSPAC契約俳優ということにはなるのだが、それでも昔からのファンにとっては美加理、阿部一徳、大高浩一とそろい踏みすればこれはもうク・ナウカ復活といっていいだろう。

 ク・ナウカの2人1役システムについてこれはなにより美加理という特別な存在をいかに魅力的に見せるのかという仕掛けだから実は「美加理システム」といってもいいものだと言って、演出家である宮城に嫌な顔をされたことがあるのだが、なかでも舞台上で日常とはかけ離れた美しさ、神々しさを体現できるという美加理の魅力が存分に発揮されるのが「天守物語」だ。

 美加理(ムーバー)、阿部一徳(スピーカー)のク・ナウカを支えた黄金コンビが富姫を演じるほか、大高浩一の図書之助

今回短い期間にSPACに来てからの最近の演出法に基づいた「野田版 夏の夜の夢」とク・ナウカ版の「天守物語」を続けて見ることができたことで、宮城の方法論がク・ナウカ時代と現在ではかなり異なることがはっきりと分かりそこが興味深かった。もちろん、もっとも大きな違いはSPACでの上演は言動一致体で「天守物語」のようにムーバ―(動き)とスピーカー(語り)が分かれてはいないことではあるが、どうやらそれだけではない。

  

 

ク・ナウカ王女メディア(2000年11月3日観劇)の感想を書くことにしよう。この作品は昨年の10月30日に浅草アサヒスクエアで上演されている作品の再演である。念のため参考にしてみようと昨年の日記を見てみるとちょうどリージョナルシアターと時期がかぶっていたこともあり、今年のベストプレイになるかもしれないと美加理と阿部一徳の演技に簡単に触れて絶賛はしているのだが、細かく内容にまで触れてないのでほとんど今回書こうと考えていたことの参考にはならなかった。(笑い)。そうした俳優を主体とした舞台の評価については「王女メディア」の上演としてきわめて優れた舞台であるということは変わりはしないのだが、改めて再演を見て気になったことがあった。それは宮城聰がこの「王女メディア」の上演に際しエウリピデスの原作に新たに付け加えた解釈についてである。

 「王女メディア」といえば日本では蜷川幸雄の演出による上演があまりに有名だが、同じギリシア悲劇でも「エレクトラ」「オイディプス王」といった作品と比較すると上演される頻度は少ないのではないだろうか。海外では日本でも以前ギリシア劇団の上演を見た記憶があるし、今年アビニョンに行った時には残念ながらソールドアウトで見ることはできなかったが法王庁宮殿中庭で上演されたオン公演のメインの作品がそうだったし、このページでもレポートした2年前のアビニョンでは一人芝居も見た(これはフランス語上演でスペクタクル性も皆無だったのでほとんど内容は分からなかった)。日本のこれまで上演例ではロマンチカがシードホールで上演したものが印象的だった。

 もっとも「エレクトラ」などが復讐劇としてまだそれなりの理解ができる内容なのに対して「メディア」は同じギリシア悲劇といってもちょっとそのまま上演するには躊躇するところがあるのではないだろうか。というのは夫の裏切りにより、自分を追放しようとしている夫とその愛人、さらにはその父親に復讐するというのはいいにしても夫との間に生まれた子供までも殺してしまうというのはただの激情として済ませるにはらちが開かない感じがするわけで、そのことを現代の観客に納得させるにはなんらかの仕掛けが必要となりそうだからである。

 ここまで書いてきたところで実はもう少しまとまったことを昨年の年末回顧に書いていることに気が付いた。以下、ク・ナウカ関連の部分だけを引用する。

 さて、最後に残ったク・ナウカ王女メディア」であるが、宮城聰がこの作品を演じるにあたって持ちだしてきた解釈「男性原理と女性原理との対立」や作品の枠組として使った趣向「明治時代の日本に来た朝鮮人の花嫁」とこの作品のテキストそのものから立ち上げたメディアの情念を表出する美加理のミスマッチがどうも気になった舞台であった。そのため、それぞれの要素は面白いのに舞台を見ていてどうも違和感があったのである。これは宮城の解釈あるいは趣向の面白さというのが知的な面白さであり、美加理のがどうもそうじゃないところに違和感の原因はあるんじゃないかと思ったのである。ただ、美加理の演技そのものについていえばこれは素晴らしいのひとことであって、「エレクトラ」「天守物語」に続いてク・ナウカという装置においての美加理の到達点の高さを証明してみせたといえよう。ただ、問題は美加理の凄さは方法論的に言えばスピーカーとムーバーを分離するというク・ナウカの枠組みから生まれてくるものではありながら、事後的にはその枠組みなり、さらには戯曲の枠組みまでを超克していくということがあって、その場合、戯曲の枠組みから分析的に導きだされた解釈というようなものが逆に夾雑物に見えてしまいという困った現象があるわけだ。

 もちろん、古典劇のようなものを演出するには大抵の演出家にはよりどころとなる解釈の枠組みのようなものは必要なわけで、それは宮城に限らず、蜷川幸雄にしても鈴木忠志にしても同じだと思うのだが、SCOT時代の白石加代子の演技などを考えても俳優(パフォーマー)が素晴らしければ、素晴らしいほどある意味で演出家が用意した土俵をはみだしていくようなところがある。それはダンスにおいてより顕著であり、H・アール・カオスのダンスなどを見ると白河直子のダンスが素晴らしければ素晴らしいほど例えばその作品が「ロミオとジュリエット」だとして、その作品の枠組みに対して行った振付家の解釈が夾雑物に見えてきてしまうというパラドックスがある。もちろん、ダンスにおいては抽象化という道が残されており、物語というような要素を一切排除してしまっても作品は成立するわけで、演劇と同様に論じることはできないのだが。

 いささか横道にそれてしまったようだが、ここで言いたかったのはそれほど「王女メディア」における美加理の演技は素晴らしかったということである。ここで感じられた演技と解釈のベクトルのずれというのが偶然この芝居でだけそうだったということにすぎないのか、あるいはパフォーマーのいわば等身大を超えた超越的な表出力というのを暗黙の前提に置く、「身体性の演劇」が本質的に孕んでいるパラドックスであるのかはもう少し考えてみなければならないと思っている。その意味でも美加理のク・ナウカでの次回作が「オイディプス」だということはおおいに興味をそそられるのである。(以上引用)



 全体としての大きな枠組みではこの時の印象は今回と変わらないのだが、今回感じたのはこの作品の宮城による解釈の枠組の中での齟齬である。というのはここに引用した前回の感想では『この作品を演じるにあたって持ちだしてきた解釈「男性原理と女性原理との対立」や作品の枠組として使った趣向「明治時代の日本に来た朝鮮人の花嫁」』と書いたのだが、今回の上演を見るかぎりこの「男性原理と女性原理の対立」と「明治時代の日本に来た朝鮮人の花嫁」との間にも違和感が引き起こされる感があったからだ。後者の趣向は冒頭に登場してくる黒いフロックコートを着た男たちによる邦楽の会という外枠と劇中劇として上演される「王女メディア」の中で美加理が着ている衣装朝鮮の民族衣装を思わせる)に象徴される道具立てによって表現されている。

 メディアはもともとイアソンがアルゴ船に乗って黄金羊毛を求めて遠征した時にその国で出会ってギリシアの地に連れてきた女性であり、ギリシア人の伝統的な感覚から言えば外国人(バルバロイ)である。もともとイアソンのために親、兄弟を裏切り、故国を捨て身ひとつで遠く離れたギリシアの地までやってきたのであり、いまさら故郷の地にも帰ることはできない身である。それゆえ夫の裏切りはメディアに取っては許すことのできないものであるわけだ。その意味では孤立無縁で故郷の地から離れ日本に連れてこられた「明治時代の日本に来た朝鮮人の花嫁」をこれになぞらえた宮城の解釈は幾分無理がある感じはあってもまだ「メディア」の解釈としては認めることができなくはない。

 しかし、ク・ナウカの「王女メディア」では最後のシーンでそれぞれ衣装をつけて芝居をしていた女性が扮そうを取り去り、シンプルな白の衣になって(つまり、女性そのものとなって)、フロックコートの男たちを皆殺しにする。ここにおいて、「王女メディア」であるとか「朝鮮人の花嫁」とかいった個別の事象を完全に超えて、「女性原理の男性原理に対する勝利」というテーマが直裁的に立ち現れてくる。これはおそらく、原作のエウリピデス戯曲では最後に神の車が唐突に現れ、メディアがこれに乗って大空へと去っていくといういわゆるデウスエクスマキナ(機会仕掛けの神)という大団円があり、それをそのまま演じるのは無理と判断した宮城が原作とは関係のないモチーフとしてあえて付け加えたものではないかと思う。ところが、ここでの正面を向いて舞台に立つ女性たちと壁や空から落ちてくる本(おそらく、これも男性原理を象徴したもの)というあまりに分かりやすい図式に収まることで、それまで美加理が演じていた「一回性としてもメディア悲劇」が抑圧された女性とその解放という分かりやすい構図に吸収されてしまう。それがどうも気にかかるのである。



2011-06-24 Chim↑Pom〈REAL TIMES〉展

[]Chim↑Pom〈REAL TIMES〉展@スタンダードブックストア心斎橋B1F カフェ

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 Chim↑Pomについては桜井圭介氏の主催する吾妻橋ダンスクロッシングでその神経を逆なでするようなパフォーマンスを見せられて以来、どうもいい悪いを評価する以前に生理的に嫌悪感が合って、とりあえず積極的な評価をしないことに決めていた。ただ、今回の岡本太郎の「明日の神話」の絵の右下に原発の絵をゲリラ的に掲示するというパフォーマンスに関しては彼らの仕事だということが発覚する以前からこれは周到に準備して、アート的な行為としているものだと考えていたし、これに使われた絵画の巧妙に岡本太郎の画風に似せながらも、これも巧みに村上隆の「タイムボカン」のことなども連想させる原発の絵は素人の域は凌駕していて、単独で絵画作品として評価できる水準かどうかについては保留するとしても、一連のパフォーマンスに向けて用意された素材として抜群のものだと考えてもいたので、Chim↑Pomの仕業と分かった後もその評価は変えないし、素直に評価したいと考えている。

[]「マイ・バックページ」(山下敦弘監督)

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青春の蹉跌の物語として、映画はなかなか面白かったのだが、この内容だと主人公の沢田川本三郎)がなんでこんな詐欺まがいの事件に引っかかってしまったんだろうという疑問がふつふつと湧いてくる。原作にどのくらい忠実で、どのくらいが山下監督の創意なんだろうというのが見ていて知りたくなった。原作を読んでみたいと思う。

2011-06-21 アビニョン演劇祭

[]アビニョン演劇祭 

アビニョン演劇*1パリに出掛けてくる予定。日程は7月17日出発〜23日日本着。

目的のひとつはケースマイケルローザス)によるこれ*2だったのだが、先週もう一度開演時間を確認してみてビックリ。なんと朝の4時半開演だって! てっきり、夕方4時の開演だと思い込んでいて、アビニョン入りのスケジュールを組んでいたのがすっかりめちゃくちゃに。

Avignon, Cour d'honneur, 4.30 in the morning. This promises to be an uncommon experience: the city still sleeping, the day dawning, so favourable to a face-to-face encounter, frank and direct, between singers and dancers, between 14th-century music and today's public. The choreographer Anne Teresa De Keersmaeker and the artistic director of the Graindelavoix vocal ensemble, Björn Schmelzer, joined forces in their quest to interpret a complex medieval music through which much older roots resonate, and to build dance based on the essential movements of the human body. Ars subtilior, that extremely refined, late 14th-century polyphonic music born in the Cour des papes in Avignon, which was already at the heart of Rosas' previous show En Atendant, is unfolded in space and is embodied by expressing its most dance-like qualities. The maestria of De Keersmaeker and that of Schmelzer are mutually strengthened in this exercise: making audible what runs the risk of disappearing in multiple superimpositions of notes, making visible the way that a body can express this music by a natural fluidity. What is presented is a daring angle of approach, going straight to the essence of sound and movement, of the dynamic and intensity. Today's voices and bodies resuscitate these long-ago times in a here and now bathed in the light of dawn, which inevitably intensifies, becomes increasingly limpid and orients perception as it pleases while the sun rises.

Dominike van Besien

http://www.hivernales-avignon.com/Ressources/Files/brochure_web.pdf

2011-06-19 ピーター・ブルックと「タカセの夢」

[]ピーター・ブルック演出「WHY WHY」@静岡芸術劇場

作 ピーター・ブルック

マリー=エレーヌ・エティエンヌ

演出 ピーター・ブルック

出演 ミリアム・ゴールドシュミット

音楽演奏 フランチェスコ・アニェッロ

製作 チューリッヒ市立劇場

共同製作 パレルモガリバルディ劇場

    バール・プロダクション

ピーター・ブルック オフィシャル・ウェブサイト

http://www.au126.com/peterbrook/index.html

会場:静岡芸術劇場

ドイツ語上演/日本語字幕

初演 2008年4月17日 

チューリッヒ市立劇場

上演時間 60分

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Warum Warum

Texte de : Peter Brook et Marie-Hélène Estienne

D'après les écrits de : Artaud, Gordon Craig, Dullin , Meyerhold, Motokiyo, William Shakespeare

Traduit en allemand par : Miriam Goldschmidt

Mise en scène : Peter Brook

Lumière : Philippe Vialatte

Collaboration artistique : Lilo Baur

Musique : Francesco Agnello

Avec : Miriam Goldschmidt, Francesco Agnello musicien

ピーター・ブルック演出、ミリアム・ゴールドシュミットによる一人芝居。ピーター・ブルックの著書「なにもない空間」ではないけれど、舞台装置もほとんどなく、素舞台のような空間にミリアムは演劇空間を作り上げていく。

なにもない空間 (晶文選書)

なにもない空間 (晶文選書)

ピーター・ブルック演出「WHY WHY

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 この舞台は典型的な「演劇についての演劇」つまりメタシアターであり、テクストの中には世界演劇史に残る演劇人(アントナンアルトー、ゴードン・クレイグ シャルル・デュランシャルル・デュラン、 メイエルホリド、世阿弥シェイクスピアの言葉がちりばめられていて、全体として「演劇とは何か」を思考するような内容になっている。

メイエルホリド

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 ピーター・ブルックの作品が日本で上演されるのは2001年6月の「ハムレット悲劇」@世田谷パブリックシアター以来のことで、ちょうど10年ぶりのことだ。ずいぶんひさしぶりである。しかも今回は当初上演されるはずだった演目が震災や出演者の急病などで2度にわたって差し替えられたうえで、急きょ上演されることになった。

 こういうメタシアター的な演劇は60年代〜70年代には流行して上演されたようだが、最近は珍しいかもしれない。ただ、ピーター・ブルックの場合、 

2001年6月23日日記風雑記帳(下北沢通信)

 6月23日 新国立劇場バレエ「トリプル・ビル」(3時〜)、ピーター・ブルックハムレット悲劇」(6時〜)を観劇。

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7月24日 ピーター・ブルックハムレット悲劇」(6月23日、世田谷パブリックシアター)についての感想をレクエストを相当昔のことながらもらっていたので書いておこうと思う。今年はどういうわけだか、「ハムレット」のあたり年で、この後は関西でも劇団四季ハムレット」が上演されるし、扉座が「フォーティンブラス」と「ハムレット」を連続上演する。さらにここ数年演出を少しずつ変えながら「ハムレット」の上演を続けてきた蜷川幸雄も新演出版での上演が予定されている。このうち、劇団四季(9月6日)、扉座(9月15日)はチケットをすでに確保して観劇予定があるため、これらの上演を見たうえでまとめて感想を書くつもりだったのだが、上記の理由もあり、ブルック版については簡単に感想だけは書いておくことにしたい。

 ピーター・ブルックの上演は黒人俳優であるエイドリアン・レスターハムレットに起用したり、オフィーリアにインド人のシャンタラ・シヴァリンガッパを持ってきたということに特徴はあっても演出自体はオーソドックスなものであった。その意味ではざん新な演出を期待していた私には肩透かしを食わされた感が強かった。これでも欧米の演出としてはある種の前衛の基準にあてはまるのかもしれないが、日本でのなんでもありのシェイクスピア演出に慣らされた目にはどうしたんだろうという感じなのである。もっとも、以前に見た「しあわせな日々」(1997年10月)も主演にナターシャ・パリーを配したオーソドックスな舞台でそれほど演出面での新奇性は感じられなかったので、もはやブルック=前衛と考えるのは的がはずれているのかもしれない。

 「ハムレット」はシェイクスピア作品のなかでも長大な作品であり、劇中劇道化ハムレットのやりとりなどその内部に様々なメタシアター的な要素を取り込んでいることもあってそのまま全てを上演すると4時間近い上演時間が必要になる。そのため日本の上演においてはどこかしらに焦点を置いて戯曲の一部をカットすることも多いのだが、ブルックの上演ではそのカットがかなり大幅なもので、芝居の一部の順序を入れかえるなどして、2時間20分に短縮されている。これは方形の赤い絨毯だけを敷いた舞台装置や土取利行のパーカッションなどの生演奏によるシンプルな音楽などとも合わせ舞台にある種のスピード感を与えていることは認めなくてはいけないが、その結果、登場人物ではハムレットに焦点が通常にも増して集まることで、宮廷劇としてのこの芝居が持っていた政治劇的な側面やハムレット道化ヒーローの2重性といったこの芝居にシェイクスピアが仕掛けたメタシアター的な要素は背後に退き、ハムレットを中心とする家庭劇の色彩が強くでていた。

 そのことがもっともよく感じられるのはブルックがフォーティンブラスのくだりをまるまるカットしてしまったことであろう。それだけではなく、レイアティーズを王にとの声のもとにレイアティーズが支持者らに後押しされる形で王城に迫ってくるシーンもなくなり、ホレーショの出番も減ってしまっているため、役柄における印象の上でハムレットへの比重が一層高まってしまい、それぞれの人物がそれぞれのドラマを持っているというシェイクスピアシェイクスピアらしさはあまりなくて、主人公ハムレットの等身大の造型も合わせて、現代劇の枠組みに近いものになってしまっているのである。

 ハムレットの造型は私の個人的な解釈ではあるがある時は演技をする人間であり、ある時は観察者(道化)、ある時はヒーロー(行動者)という多重性がハムレットをそれまでのギリシア悲劇的な主人公とは異なる現代的な属性を与えているところであって、エイドリアン・レスターの演じるハムレットにはそうした複雑さは感じられない。それは現代人としてのハムレットを描くという意味においてはピーター・ブルックの狙いでもあるのだとは思うが、そこのところがよくできた舞台であることはに認めながらもこの芝居をどこか物足りなく思ったところでもあった。

   

2011-06-18 ベトナムからの笑い声「パックマンズショー」@スペースイサン

[]ベトナムからの笑い声パックマンズショー」@スペースイサン

今回はなんと、もう二度とやらないといっていたまさかの長編とある人形劇団の春夏秋冬が舞台となる。

学生時代シェイクスピアの四大悲劇を下敷きにした人形劇を上演していたサークルのメンバーが12年ぶりに顔を合わせた。

驚愕の再会は春。波乱の予兆を感じさせる夏。悲劇の秋。そして、怒涛の幕引きの冬。

人生、いや、人間のわからなさを、不条理と下ネタと狂気で描く、第29回公演。

人間と人形の境目は、そんなにはっきりしてはいない。

 脚本黒川猛 制作:丸井重樹 秘書:山本佳世 音楽:Nov.16

 舞台監督:浜村修司+磯村玲子 照明:真田貴吉 照明操作:イシゲタカヒサ

 音響:小早川保隆 音響操作:児玉菜摘 映像:竹崎博人

 チラシデザイン:仲川あい http://twitter.com/#!/shigeki_marui #v29pack

 出演:

 黒川猛 :鳥男(鳥井)

 堀江洋一:兄丸(浜口)

 荒木千恵:蝶々・ナレーション(神田

 松村康右:魚マン(八村)

 西河ヤスノリ:家畜(梶)

 ?   :両生類・解説(吉田美紀)

 

 山方由美(映像):ネズ美(仲田)

 徳永勝則(映像):虫男爵(金文・オカマ!?)

 丸井重樹:正体不明の人

       1999円        2011年

 第1場 春 新歓公演「オセロー」 四月吉日大安

 第2場 夏 新人公演マクベス」 浜口さんの誕生日

 第3場 秋 本公演「ハムレット」 本番当日

 第4場 冬 卒業公演「リア王」  燃えないゴミの日

 

 短編オムニバスではなく今回こそ長編だったのだろうか?。シェイクスピア四大悲劇を下敷きにした人形劇を上演していた学生サークルの後日談。青年団よりこちらを選んでしまった私だが後悔はない。

2011-06-17 「偉大なる、しゅららぼん」読了

[]万城目学「偉大なる、しゅららぼん」

偉大なる、しゅららぼん

偉大なる、しゅららぼん

万城目学「偉大なる、しゅららぼん」を読了。「鴨川ホルモー」(京都)、「鹿男あおによし」(奈良)、「プリンセス・トヨトミ」(大阪)に続き、今回の舞台滋賀琵琶湖)。相変わらずのリーダビリティーの高さは素晴らしい。けど、今回は舞台の魅力の生かし方という意味ではちょっと物足りないかもしれない。次はどこだろうか? 神戸西宮?意表をついて和歌山かも。

2011-06-16 「わが星」のループ構造について

[]「わが星」のループ構造について(twitterから)

わが星「OUR PLANET [DVD]

わが星「OUR PLANET [DVD]

土曜日のセミネール「演劇新潮流2 ポストゼロ年代へ向けて 第3回 ままごと=柴幸男」予想以上の参加者があり盛況。参加していただいた皆さん有難うございました。ただ、内容については見せたい映像がありすぎて十分に参加者との議論ができずにやや消化不良になってしまい反省も。

ままごと「わが星」はポストゼロ年代のいろんな事象の結節点のようなところにある作品。レクチャーでは「わが星」のアイデアリソースとして口ロロ少年王者舘、「わが町」を取り上げたのだが、実はそのそれぞれがラップ演劇、セカイ系、「世界写像としての演劇」という大きな主題につながる。

例えばラップ演劇ではレクチャー中で口ロロ以外のラップについて柴さんが書いていることをほんのさわりだけ紹介したためにラップのこと分かってないのに生半可なことを言わない方がいいというようなお叱りを受けてしまった。

ただラップ演劇というテーマは奥が深く、それだけに興味深いのだが、私の手には余るのでおそらくこれだけでも音楽に本当に詳しいゲストを招いて1回以上(おそらく数回分)のレクチャーが必要になるような主題であろう。

今回のセミネールではいろんな問題群が登場したのだが、なかでも興味深いのは参加者から出た「ループ構造にはどういう意味があるのか?」という質問。実際の現場では私はこの質問の重要性が分かっていなかった。

実はこの質問にはいろんな「意味」が含まれていたのかもしれないのだが、「意味」というのを「機能」というふうにとって、本来だったら豊かな議論になるかのしれない問題を見逃したのかもしれない。

「わが星」がループ構造をその内部に多く含む意味にはいろんなレベルの答えがあるだろう。ひとつDJにおけるサンプリング音源ループプレイのようにある種の音楽の持つ構造を作品構造として借りてきているから。これはひとつの答えになるかもしれない。

あるいは太陽系における惑星の運行(自転や公転)が円環的な軌道を持つ周期的な構造を持ち、そうした系の誕生終焉を主題とした「わが星」はそうした構造を作品自体の構造のモデルとしているから(世界写像としての演劇)。これもひとつの答え。

劇中の時間の流れが時系列に忠実に流れることで物語を語るとベタになる。それを避けるために物語の流れを切断、コピー、シャフルし、それをつなぎかえることで、物語と観客との間に簡単に感情移入できないような距離を置く(異化効果)。

繰り返し(ループ構造)が、観客のそれぞれが持つ個人的な記憶に働きかけてそれを刺激して記憶を喚起するトリガーの役割を果たす。

ループ構造を好む性向=ゲーム的リアリズム。つまり、リセットすることで無限に反復可能なゲームのようなリアリティーが作品のモデルとなっている(これはポストゼロ年代演劇に顕著な特徴になっている)。

ループがある、あるいは時系列で記述がつながっていないということは情報に欠落があるということ。この欠落は全体としての意味を解釈するために推論ないし想像力で補ってやってはじめて完成するものであり、つまり、ここで誤読の自由が生まれ、解釈は多様性に向けて開かれるということ。

少年王者舘も「夢+夜」を映像で一部紹介した後、その影響について「ループ構造」と「言葉遊び」については簡単に説明したが、セカイ系についてはそこに入り込むといくら時間があっても足らず次の「わが町」の解説をするひまがなくなると判断して触れずじまい。

「わが町」についても日本での上演例の映像はなかったので英語での紹介を使ったが終わった後、いまひとつ伝わってないことが分かったのでもう少し丁寧に紹介するべきだったかもしれない。


2011-06-12 KIKIKIKIKIKI「ぼく」と月面クロワッサン「バイバイ、セブンワンダー

[]KIKIKIKIKIKI「ぼく」@アイホール

関西を拠点とするパフォーミングアーティストとの共同製作事業 “Taka a chance project026”

KIKIKIKIKIKI『ぼく』

演出・振付=きたまり

出演=池浦さだ夢(男肉du Soleil)、竹ち代毬也、筒井潤(dracom)、土佐和成(ヨーロッパ企画)、平林之英(Sunday)、二口大学山崎彬(悪い芝居)

会場

アイホール伊丹市演劇ホール)

〒664-0846 兵庫県伊丹市伊丹2-4-1

Tel.072-782-2000 Fax.072-782-8880

地域を結ぶ「みんなの劇場創造事業

平成23年度 優れた劇場音楽堂からの創造発信事業

助成:財団法人アサヒビール芸術文化財団

主催:公益財団法人伊丹市文化振興財団・伊丹市

ままごと「わが星」は円形の舞台の周囲を客席が取り囲むような舞台構造だったのだが、KIKIKIKIKIKI「ぼく」は白い正方形リングのような舞台を客席が4方に囲むような舞台設定。ここに7人の男たちが入れ替わり立ち代わり登場して、それぞれが個人技を繰り広げる遊び場、あるいは闘技場のような空間設定を演出・振付を手掛けるきたまりは用意した。

 途中でいくつかセリフに呼応した動き(振付)を設定している場面もあるが、最初のそれぞれの役者「あいさつ」からはじまって、「自己紹介」「子供の時になりたかったもの」など登場する役者たちはだれかの役を演じるというのではなく、「ぼく=自分」のままで舞台に上がり、自分の言葉を発していく。

 ただ、注目すべきことはここに登場しているのはいずれも俳優ダンサーであり、そのうち何人かは自ら集団を率いたり、作・演出、振付も担当するなど舞台に対する計算がきく出演者でもあって、これは一見自分として舞台に上がり「素」の自分を出すようなドキュメンタリー演劇の体裁は装っていても実態はまったく違うのだということだ。

 出演者は皆「ぼく」として自分として登場し、自分のことを話すが、そこには明らかに自分をどのように演出して演技しようかという計算が感じられて、しかもそれぞれ別々の劇団カンパニー、個人も)から選ばれた7人だけにそこには対抗意識もあり、それゆえそこでは演技というフィールドを通じてのバトルが展開させ、その「場」におけるそれぞれの個人技が最大の見せ場なのである。

 実はヒップホップ(ストリート系)のダンスにおけるバトルなどがその代表的な例だが、コンテンポラリーダンスでもヒップホップほどはっきりと勝ち負けを争うものではないにしても、複数のダンサー即興で次々と登場して、魅力を争うような形式の公演は珍しくないが、演劇においてはその手の即興というのは珍しい。というのはダンスの動きや楽器演奏ほどセリフの演技には自由度がないからで、インプロビゼーション的な舞台南河内万歳一座の「青木さん家の奥さん」などいくつかの例がないわけではないが、それほど多くないという実情がある。

 「ぼく」が面白いのは即興的な要素を含むといっても完全に何でもやっていいというわけではなくて、それがバトルになりえるようなルールがおそらく場面ごとに設定されていると考えられるところだ。最初に説明したように冒頭の「あいさつ」の場面でいえばそれぞれが四方の客席に向けて、お辞儀をしてまわるという約束事があり、その仕方はおそらく稽古場で出してきたもののなかで、演出家によって選ばれた(あるいは本人が選んだ)ものを順番にやっていくということをした後、次の「自己紹介」ではそれぞれが自分が「何年生まれでどこの出身である」などということを述べていくのだが、ここの場面においては2日間の公演を続けて見たところ、ここは最初の場面よりはそれぞれの裁量に任された部分が多いようで、大体の内容や順番は決まっていても細かいところでは登場の順は交代するし、話す内容もセリフのように同じではない。(続く)

 

[]月面クロワッサン「バイバイ、セブンワンダー」@京大吉田寮食堂

「月面クロワッサンvol.1/バイバイ、セブンワンダー」 作・演/作道雄

〜あらすじ〜

舞台はある高校。その卒業式、前日。春。 校舎にまことしやかに流れる七不思議の噂を、高校生活最後のその日に、謎解こうとする者たちと解きたくない者たちとその他もろもろと。 やがて明らかになるのは、校舎を徘徊する一人の少女の霊と、隠されていた一人の少年の死。 過去と現在が音を立てながら交錯し始め、七番目の不思議が解けたとき…。

月面クロワッサン初の単独本公演はノスタルジックな雰囲気漂う新感覚の群像劇。 彼らに、謎は解けるのか―


月面クロワッサンvol.1

「バイバイ、セブンワンダー」

―春が来るまえに、謎を解け―

作・演出/ 作道 雄

出演/ 浅田麻衣(京都ロマンポップ) 太田了輔 北川啓太劇団愉快犯)

    北川大佑  清水航平  中島 翔  西村花織

    松本大地  横山清正(劇団立命芸術劇場

美術栗山万葉(悪巧み企画) 舞台/ 薮内隼

照明/ 木村成美 ぷっちヨ(劇団愉快犯) 音響/ 神谷千沙(劇団ケッペキ)

小道具/ 光村恵子(十中連合) 衣装/ 湖瀬マリア(悪巧み企画)

演出助手/ 大西美倭子  舞台監督/ 池山菜花(劇団愉快犯)

制作/ 西村花織 太田了輔  宣伝美術/ 森 慧祐(砂丘ユニットマルコレベル)

撮影/ 橋ヶ谷典生  ウェブ/ 中谷和代(劇団ソノノチ)

協力/ 京都ロマンポップ 劇団愉快犯


http://getsukuro.halfmoon.jp/

 京都大学在学中の学生らによる劇団の旗揚げ公演である。京大出身の劇団といえば遡れば私の同世代のそとばこまち*1をはじめ、その1、劇団衛星などもあるが最近では学生サークルとしての劇団はあるようだが、立命館大学、同社社大学そして新興勢力である京都造形芸術大学などと比べて、話題を聞かない。

 卒業して30年近くたつものの自分の母校はやはり気になるもので、劇団からちょうど招待状が送付されてきたこともあり、これまた懐かしい京大吉田寮食堂まで出かけてみた。好感を持ったのは役者がキャリアが浅いと考えられるのに意外としっかり演技をしていて、場面の演出処理などもきっちりとされていて、旗揚げ公演にしてはなかなかレベルが高いなということだ。役者では浅田麻衣は客演ながら印象的なヒロイン役、特筆すべきなのは櫻井爽太を演じた松本大地で役者としての実力は今回の舞台だけでは未知数のところがあるが、小劇場では珍しい爽やかな好青年が似合いそうなタイプなので、今後この集団の看板役者に育っていくかもしれないとの将来性を感じた。

 内容は軽快なタッチの学園もののミステリ仕立てにホラー的な趣向がからむ。学校内で起こる七不思議の噂を探るうちに過去に起こった事件の隠された真相が浮かび上がってくるという筋立てだが、正直言ってミステリとしてはあまりにプロットが単純で弱い。最初に以前この高校にいた学生(櫻井)が連続通り魔の犯人に虐殺されて見つかり、同時にクラスメートだった女生徒が失踪したということが明かされるのでこちらは勝手に舞城王太郎風のスプラッタホラーのようなものを期待してしまったのだが、そういうことは一切なくて、青春の回想劇と事件の謎解きの展開に終始するために真相があれだと拍子抜けしてしまうのだ。ただ、普通ならミステリ劇でミステリ部分にひねりがないと退屈してしまうのだが、それでも最後まで楽しく見ることができるのに加えて、ミステリの解決以外のところでそれなりのカタルシスをもって舞台を終わらせることができているのはこの舞台の不思議なところで、変なほめ方になってしまうのだがそこが作・演出(作道 雄)の才能なのかもしれない。

 三つ子の魂百までの諺ではないけれども、私自身は京大時代に京都大学推理小説研究会に所属していたこともあり、ミステリ劇は好きではあるがどうしてもその分点数が辛くなってしまう。それゆえ、今回の内容ではどうしてもその部分で減点が大きく、積極的にほめる気にならないのだが、気になるのはミステリとしての真相が明かされるまでは面白く見られたということ。この劇団の演出、俳優の質感は実は例えば森博嗣西尾維新のようなライトタッチミステリあるいはホラーを上演するのには向いているのではないかとも思った。

 ミステリに対する執着はあまりないようなので余計なお世話といったところかもしれないが、ミステリ劇の場合はオリジナル作品ではなくて綾辻行人Another」、法月綸太郎「密閉教室」といった京都在住の作家の作品の舞台化というのを正式に許可を得たうえでするというのはどうだろうか? 

まだ、人間座スタジオでの公演あり

【開演時間・会場の詳細】

 6月11日(土)14時/19時、京都大学吉田寮食堂

 6月12日(日)14時/19時、京都大学吉田寮食堂

 6月13日(月)19時、京都大学吉田寮食堂

 6月18日(土)14時/19時、人間座スタジオ

 6月19日(日)14時/19時、人間座スタジオ

 ※各回とも30分前開場

.

 一般1200円(前売り1000円)、学生1000円(前売り800円)。

 チケット取り扱い・問い合わせgetsukuro@yahoo.co.jp(月面クロワッサン)。

 問い合わせTEL090・5726・1572(制作・西村)、TEL080・5349・4679(制作太田)。

 

*1:辰巳琢郎、生瀬勝久上海太郎らを輩出

2011-06-11 演劇の新潮流2 ポストゼロ年代へ向けて 第3回 ままごと 

[]KIKIKIKIKIKI「ぼく」@アイホール

関西を拠点とするパフォーミングアーティストとの共同製作事業 “Taka a chance project026”

KIKIKIKIKIKI『ぼく』

演出・振付=きたまり

出演=池浦さだ夢(男肉du Soleil)、竹ち代毬也、筒井潤(dracom)、土佐和成(ヨーロッパ企画)、平林之英(Sunday)、二口大学山崎彬(悪い芝居) ほか

日時:2011年6月10日(金)19:30、11日(土)15:00、12日(日)15:00

※開演1時間前より受付開始。入場整理券を発行します。

※開場は開演の30分前。

料金(全席自由)

一般 前売2,500円、当日2,800円  

学生&ユース(25歳以下)&60歳以上 前売2,000円、当日2,300円

※学生&ユース&60歳以上のお客様は、当日受付にて、学生証か年齢の分かる書類をご提示ください。

※未就学児童の入場はご遠慮ください。

チケット発売日

2011年4月8日(金)10:00am


お問い合わせ・会場

アイホール伊丹市演劇ホール)

〒664-0846 兵庫県伊丹市伊丹2-4-1

Tel.072-782-2000 Fax.072-782-8880

地域を結ぶ「みんなの劇場創造事業

平成23年度 優れた劇場音楽堂からの創造発信事業

助成:財団法人アサヒビール芸術文化財団

主催:公益財団法人伊丹市文化振興財団・伊丹市

[]「演劇新潮流2 ポストゼロ年代へ向けて 第3回 ままごと=柴幸男」レクチャー&舞台映像上映

f:id:simokitazawa:20110529033846j:image                               

主宰・中西理(演劇舞踊評論)=演目選定

 東心斎橋のBAR&ギャラリーを会場に作品・作家への独断も交えたレクチャー(解説)とミニシアター級の大画面のDVD映像で演劇を楽しんでもらおうという企画がセミネール「演劇新潮流」です。今年は好評だった「ゼロ年代からテン年代へ」を引き継ぎ「ポストゼロ年代へ向けて」と題して現代の注目劇団劇作家をレクチャーし舞台映像上映も楽しんでいただきたいと思います。

 新シリーズでは引き続きポストゼロ年代演劇劇作家らを紹介していき、この世代に起きている新たな潮流の最新の動きを紹介していくとともに90年代半ば以降は平田オリザに代表される「群像会話劇」「現代口語演劇」中心の現代演劇の流れの非主流となってきた「身体性の演劇」の系譜の流れも紹介していきたいと考えています。第1回の講義では先駆的事例としてクロムモリブデン、特別編の快快トークショーをはさんで、第2回の講義ではロロを取り上げましたが、今回は満を持して岸田戯曲賞を受賞しこの世代の旗手的な存在となっている柴幸男を取り上げます。

 柴幸男をはじめ、快快(篠田千明)、柿喰う客(中屋敷法仁)、悪い芝居(山崎彬)らポストゼロ年代の作家の台頭により、明らかに新しい傾向が現れるのが2010年以降のことですが、彼らには先行する世代にない共通する傾向がありました。

ポストゼロ年代演劇の特徴

1)その劇団に固有の決まった演技・演出様式がなく作品ごとに変わる

2)作品に物語のほかにメタレベルで提供される遊戯的なルール(のようなもの)が課され、その遂行と作品の進行が同時進行する

3)感動させることを厭わない

 そのことに最初に気づかせたのが代表作である「わが星」をはじめとする柴の作品群で、その意味でも単に最初に認められたということだけはなく、それ以前の世代の平田オリザ岡田利規がそれぞれの世代においてそうだったように演劇における新たな方向性の最前線を示し続けています。

 今回のレクチャーではアイホールでの関西公演の興奮がまだ冷めやらぬ「わが星」をはじめとした柴の作品はどういうものであるのかを映像を使いながら徹底解剖していく予定。 

【日時】6月11日(土) 7時半〜

【演目】レクチャー担当 中西理

 「わが星」「あゆみ」ほか柴幸男作品

岸田戯曲賞授賞式 2010-04-12 ままごと×口ロロ

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【場所】〔FINNEGANS WAKE〕1+1 にて 【料金】¥1500[1ドリンク付]  

※[予約優先]  定員20人ほどのスペースなので、予約をお願い致します。当日は+300円となりますが、満席の場合お断りすることもあります。

【予約・お問い合わせ】 ●メール fw1212+110611@gmail.com  あるいは BXL02200@nifty.ne.jp(中西) 希望日時 お名前 人数 お客様のE-MAIL お客様のTEL お客様の住所をご記入のうえ、 上記アドレスまでお申し込み下さい。 06-6251-9988 PM8:00〜 〔FINNEGANS WAKE]1+1 まで。 web:fw1plus1.info  Bridge Gallery & Bar 〔FINNEGANS WAKE〕1+1 大阪市中央区東心斎端1-6-31 リードプラザ心斎橋5F (東心斎橋清水通り。南警察署2軒西へ)


演劇新潮流 ゼロ年代からテン年代へ」舞台映像これまでの上映作品

第1回

指値(快快)「霊感少女ヒドミ」  

五反田団「長く吐息」

快快「ジンジャーに乗って」 

ミクニヤナイハラプロジェクト「五人姉妹」 

第2回 

渡辺源四郎商店「俺の屍をこえてゆけ」「河童」ほか

第3回

ポツドール「顔よ」

第4回

柿喰う客「真説・多い日も安心」

http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/10001018

2011-06-05 SPAC(宮城聰演出)「野田版 真夏の夜の夢」@静岡芸術劇場

[]SPAC「野田版 真夏の夜の夢」@静岡芸術劇場

 SPAC「野田版 真夏の夜の夢」@静岡芸術劇場野田秀樹によるシェイクスピア作品の脚色を宮城聰が演出。意外と野田秀樹の印象は強くなく宮城版夏夢という感触である。ただやはりメフィストの意味合いは3・11後の上演としては大きいかとも思う。これまで見た「真夏の夜の夢」のなかでも上質の舞台であった。



twitterつぶやき

宮城聰インタビューhttp://www.stageweb.com/2011/04/spac_grimm/08.html

ただ、宮城自身はミヤギサトシショーのころから「世話」的要素を持っていて、ク・ナウカの後期ではしきりに試行錯誤を繰り返していたとも思います。@keihibino

posted at 11:52:16

「世話」的な部分は確かにオペラあるいはギリシャ悲劇のような形式をモデルに直線的な構造で至高の高揚に向かおうとしたク・ナウカシステムには馴染みにくいものだったかも。@keihibino

posted at 11:51:56

これはもともとギリシャ悲劇ですから物語の中心線では等身大を超えた人物が登場しそれが全体を支配するわけですが、宮城の場合、物語のなかにはこの侍女たちのような日常的な層がたち現れそれを「世話」と考えていました。

posted at 09:48:22

エレクトラ」の場合、宮城出版ではホフマンシュタールのテキストからとったかと思われますが、冒頭が少しコミカルなタッチでの侍女たちの噂話からはじまりました。@keihibino

posted at 09:47:41

私は鈴木忠志と比べるとむしろ「世話」的な要素も強いのが宮城の特徴と考えていました。ともに美加理が主演した「エレクトラ」がどうちがうのかなどを考えるとそう思えたのです。@keihibino

posted at 03:15:19

しかし、それは一般的に「詩」と言ったときに感じる語感とはかなりかけ離れているので早とちりかもしれません。今月はまだ何回か静岡に行くので確かめたい。

posted at 02:48:40

@keihibino 今日は終演後に宮城さんは忙しそうで詳しくは聞けなかったのですが、「詩」とは何かという私の質問に旧約聖書のようなと言っていたので時間がなく問い返す時間がなく真意が計りかねたのですが、私は「音楽」の表出性に対し、他者ないし外部ということかと勝手に解釈しました。

posted at 02:42:27

私はむしろ「世話」がレチタティーボアリアにあたる部分が2つに分かれたのではないかと考えたのですが。 RT @keihibino: @simokitazawa 当時「世話」は眼中になかったかと。「音楽」がアリアで、「詩」レチタティーボという認識でしょう。

posted at 02:28:53

宮城聡による台詞の三分法。音楽と詩と世話というのはク・ナウカ時代には確かオペラモデルアリアのように開放されて歌うセリフと抑制された描写するようなセリフの2つに分けていたはずだが、これはどんな風に対応しているのだろう?

posted at 02:13:48

SPAC「野田版 真夏の夜の夢」@静岡芸術劇場 野田秀樹によるシェイクスピア作品の脚色を宮城聰が演出。意外と野田秀樹の印象は強くなく宮城版夏夢という感触。ただやはりメフィストの意味合いは3・11後の上演としては大きいか。これまで見た「真夏の夜の夢」のなかでも上質の舞台

posted at 02:00:27

SPAC「野田版 真夏の夜の夢」@静岡芸術劇場 野田秀樹によるシェイクスピア作品の脚色を宮城聰が演出。意外と野田秀樹の印象は強くなく宮城版夏夢という感触。ただやはりメフィストの意味合いは3・11後の上演としては大きいか。これまで見た「真夏の夜の夢」のなかでも上質の舞台

posted at 17:02:52

2011-06-04 イキウメ「散歩する侵略者」@ABCホール

[]イキウメ「散歩する侵略者」@ABCホール

イキウメ「散歩する侵略者」

作・演出

前川知大

出演

浜田信也、盛 隆二、岩本幸子、伊勢佳世、森下 創、窪田道聡、大窪人衛、加茂杏子 / 安井順平

 今年の岸田戯曲賞は結局、サンプルの松井周が受賞して受賞を逃したが、イキウメ前川知大も最終候補にはノミネートされ有力候補だったことなど以前から名前は知っていて気になる劇団ではあったが、実際に生の舞台を見たのはこれが初めてである。ポストゼロ年代や群像会話劇系のゼロ年代の作家たちとも明らかに異なる作風で、その方法論にさほどの新味は感じられないが、役者の演技、脚本の完成度などはいずれも高水準で劇団としての総合力を感じさせる舞台であった。

 ○○と似ているなどというと大概悪口にしかならないことが多いから、書こうかどうか迷ったのだが、まず思い出したのが鴻上尚史の「トランス」である。主人公を演じた浜田信也の迫真の演技が「トランス」における小須田康人の演技を彷彿とさせたからだ。

2011-06-02 東京ELECTROCK STAIRS「届けて、かいぶつくん」@シアタートラム

[]東京ELECTROCK STAIRS「届けて、かいぶつくん」@シアタートラム

スタッフ 振付・演出=KENTARO!!

キャスト (50音順) 伊藤知奈美 川口真知 高橋幸平 高橋萌登 服部未来 山本しんじ 横山彰乃 aokid KENTARO!!

お問い合わせ CAN

03-5457-3163

http://cancancan.shop-pro.jp/

 演劇に押されぎみのポストゼロ年代のコンテンポラリーダンスだが、そのなかで気を吐いているのが東京のKENTARO!! と関西京都)のきたまりであろう。ともにソロダンサーとして卓越した魅力を持っているが、それだけに拘らずにメンバーを集めて、KENTARO!!は東京ELECTROCK STAIRS、きたまりはKIKIKIKIKIKIとカンパニーの活動にも力を入れている。この6月にともにカンパニーの新作を発表することになったことにもどこかでシンクロニシティ―を感じるが、作品はどうやら対照的な内容となりそうだ。

 「届けて、かいぶつくん」は東京ELECTROCK STAIRSの公演としては1月の「水平線サイコ*1