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中西理の下北沢通信(旧・大阪日記) このページをアンテナに追加 RSSフィード

2011-10-24 マームとジプシー「Kと真夜中のほとりで」

[]マームジプシー「Kと真夜中のほとりで」@こまばアゴラ劇場


マームジプシー10月公演

「Kと真夜中のほとりで」

作・演出 藤田貴大

<出演>

伊野香織 大石将弘(ままごと) 大島怜也(PLUSTIC PLASTICS)

荻原綾 尾野島慎太朗 川崎ゆり子

斎藤章子 坂口真由美 高橋ゆうこ

高山玲子 成田亜佑美 波佐谷聡

萬洲通擴 召田実子 吉田聡

f:id:simokitazawa:20111021150505j:image:medium

マームジプシーを見るのは「ハロースクールバイバイ」「コドモもももも、森んなか」「あ、ストレンジャー」と続きこれが4本目。残念ながら前回公演の「塩ふる世界。」が劇場横浜STスポット)まで行ってキャンセル待ちまでしながら直前で「きょうはここまでです」となり、見られなかったからずいぶんひさびさの観劇となった気がしたが、考えてみればせいぜい半年から、この集団がいかに頻繁に公演してきたのかがうかがえる。

表題を聞いて最初にまず連想したのは「トムは真夜中の庭で」だったのだが、ファンタジー児童文学とは違いおそらく作者の藤田貴大の出身地である北海道伊達町モデルにした湖のある田舎町についての物語だった。その意味でこれは藤田版「わが町」と考えることもできるかもしれない。ワイルダーの「わが町」でも1人の女性の死が描かれるが、ここで描かれるのも「K」と呼ばれる一人の女性の「死」ないし「消失である。その意味でこの舞台は「わが町」を下敷きにしたとも考えられはするが、実際には「死」ないし「消失」による「喪失感」というのは藤田のこれまでの作品に共通するモチーフであって、それがこの新作でも変奏されていると考えた方がしっくりくるような気がする。

 この湖のほとりに靴を残して「K」がどこかに消えた。その日からちょうど3年目となった日の真夜中、眠れない「K」の兄(尾野島慎太朗)そして「K」のことを忘れられないかつての友人らがシャッター商店街、駅と人けのないこの町を彷徨い、いつのまにか湖のほとりに集まってくる。おおざっぱにあらすじを説明するとそんな風になってしまうのだが、それだけでは行きつ戻りつ何度も何度も際限がないほどに反復されることで観客と舞台の間に生じてくる「幻のこの町とそこから消えたK」の豊饒イメージは伝わるべくもない。

 マームジプシーの作劇の特徴は同じ場面が何度も何度もリフレインされながら反復されていく構成にある。そして、小さなパッセージのようなセリフが少しずつずれながら繰り返されることで、その隙間に生まれる空白が観客のそれぞれの記憶に働きかける。

 その結果、舞台上で実際に提示されている以上のイメージテクストのいわば行間から浮かび上がってくるのだ。これはチェルフィッチュ岡田利規が「三月の5日間」などで試みた方法論の変形であり、さらに言えば「あゆみ」で柴幸男も類似の手法を試みている。この反復の多用による想像力の喚起というのがこれまでのマームジプシーの最大の武器だった。

 この舞台もそれは同じだが、これまでに見た舞台と「Kと真夜中のほとりで」では様式において大きな違いがあった。

 ひとつは全編でセリフが音楽に乗せて展開されていくことで、ままごと「わが星」で柴幸男がとったスタイルをさっそく見事なまでに手の内にして取り入れている。尾野島慎太朗のセリフなどは途中で完全にラップ調になっている部分もあり、そのまわりをほかの俳優がセリフを唱和しながらぐるぐると時計まわりに回っていくというのはまさに「わが星」だろう。

 実はそれだけではなくて、この舞台には東京デスロックミクニヤナイハラプロジェクトといった身体的な負荷を俳優にかけ続けることで身体が消耗していくさまを見せていこうという演劇との共通点も強く感じられる。コンテンポラリーダンス風の身体所作(しかも群舞)とか、セリフを音楽リズムに合わせて高速度で発話するスタイルとかはいずれも先に挙げた2劇団などを彷彿とさせるものだが、こうしたこれまではあまり目立たなかった演技スタイルがこの舞台にはふんだんに取り入れられている。

 チェルフィッチュの後に次々と登場してきたポストゼロ年代演劇の多彩なスタイルを自在に引用してのデータベース消費あるいは総集編を思わせるところがあった。

 

  

2011-10-23 デ・1 「ルーペ/私のための小さな…」@カオスの

[]デ・1(市川タロ作・演出) 「ルーペ/私のための小さな…」@カオスの間

 デ・1 カオスの間企画「ルーペ/私のための小さな…」観劇

はいえ、タクシー時代祭渋滞に巻き込まれ15分間しか見られず、展覧会のように出入り自由の指定とはい観劇したと言いきるにはもどかしい。もう少し見ていたかったが、仕事に向かうため、会場を後にした。

 市川タロという人の作品は以前に見た時*1にはこれではまるでチェルフィッチュの模倣ではないかとあまり好印象を受けなかったのだが、作品後半のアプローチは少し面白くて、なぜかというとそれが登場人物ではなくて「もの*2に残された登場人物の痕跡をめぐる物語(の痕跡)だったからで、その部分はチェルフィッチュとは明らかに異なる面白さがあった。

 なにぶん、15分しか見てないので本当のところはなんとも断定しずらくはあるのだが、今回の公演(?)はその後半部分の延長線上にある試みと思われた。つまり、会場となったギャラリー空間はところ狭しといろんなものが置かれているのであるが、2人の俳優はそこに置かれた「もの」についての記憶痕跡のようなものモノローグ調で語っていくのだった。

*1http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20110626

*2:この場合椅子とかレシートとか

2011-10-18 「演劇×アート 現代口語演劇を越えて マレビトの会=松田正隆編」

[]「演劇×アート 現代口語演劇を越えて マレビトの会=松田正隆編」セミネールin東心斎橋

 セミネール新シリーズ演劇×アート」第1弾として「マレビトの会=松田正隆編」を開催します。大型プロジェクターによる舞台映像を見ながら松田正隆が自ら語る作品の舞台裏。どうぞ参加ください。  

コーディネーター・中西理(演劇舞踊評論

ゲスト松田正隆

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「声紋都市―父への手紙」左写真

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【日時】2011年10月18日(火)p.m.7:30〜 

【場所】〔FINNEGANS WAKE〕1+1 にて

心斎橋のBAR&ギャラリーを会場に作品・作家への独断も交えたレクチャー(解説)とミニシアター級の大画面のDVD映像演劇ダンスを楽しんでもらおうというレクチャー映像上映会セミネール。今年はすでに「ポストゼロ年代演劇に向けて」と題して、最新の若手劇団やこうした動きの先駆となった劇団の紹介、別シリーズダンス×アート」を実施してきましたが、今回はその姉妹編として「演劇×アート」をスタートすることにしました。セミネールではこれまで私が講師を務めてきましたがこの新シリーズでは、私自身も生徒の1人として毎回、テーマを決めたうえでゲストを呼び、話を聞いたりレクチャーしてもらうことを通じて「演劇とは何か」について一緒に考えていくことにしたいと思います。

 第1回は1994年には「海と日傘」で岸田國士戯曲賞を受賞するなど90年代には平田オリザと並ぶ現代口語演劇の旗手として知られた松田正隆がその後、マレビトの会を旗揚げして以降、作風を一変し演劇という芸術存在理由(レーゾン・デーテル)そのものを問い直すような実験的な演劇に傾斜していったのか? そしてそうした実験を通じてこれからどこに向かおうとしているのか? 「王女A」*1「アウトダフェ」*2クリプトグラフ」「血の婚礼」*3「声紋都市―父への手紙」 「PARK CITY」などを映像で紹介。 

【料金】¥1500[1ドリンク付] (※学生¥1200・1ドリンク付) ※[予約優先]  定員20人ほどのスペースなので、出来るだけ予約をお願い致します。当日飛び込みも満席でなければ可能ですが、+300円となります。なお、満席場合お断りすることもあります。

【予約・お問い合わせ】 ●メール fw1212+yoyaku.111018@gmail.com あるいはBXL02200@nifty.ne.jp中西)まで お名前 人数 お客様E-MAIL お客様のTEL お客様の住所をご記入のうえ、 上記アドレスまでお申し込み下さい。ツイッター(@simokitazawa)での予約も受け付けます。

●(電話での予約・問い合わせ) 06-6251-9988 PM8:00〜 〔FINNEGANS WAKE]1+1 まで。 ▼webhttp://fw2010.blog117.fc2.com/  Bridge Gallery & Bar 〔FINNEGANS WAKE〕1+1 大阪市中央区心斎橋1-6-31 リードプラザ心斎橋5F (東心斎橋清水通り。南警察署2軒西へ)

映画「美しい夏キリシマ」の感想 http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20040302

映画紙屋悦子の青春http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20060911/p1

青年団プロデュース「月の岬」のレビューhttp://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/00000023

マレビトの会「島式振動器官」http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/00000218

トム・プロジェクト帰郷http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20041110

松田正隆×松本雄吉「イキシマ」http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20100227/p1

マレビトの会「血の婚礼」http://www.wonderlands.jp/archives/12418/

マレビトスタディーズ http://www.ustream.tv/channel/marebito-studies

2011-10-16 石橋義正(キュピキュピ)/京都創生座 番外編『「伝統芸能バリアブ

[]石橋義正キュピキュピ)/京都創生座 番外編 「伝統芸能バリアブル」@京都造形芸術大学春秋

構成・演出:石橋義正キュピキュピ

出演:ダンス高原伸子、高橋千佳皆川まゆむ、パフォーマンス映像)−青木涼子能楽−鷲尾世志子、立花香寿子、鵜澤光、高橋王子日本舞踊尾上京、花柳双子長唄三味線−杵屋勝欣次、杵屋勝浩菜、杵屋浩扇、上七軒さと幸、浪曲春野恵子、一風亭初月、和太鼓田原由紀大谷加奈子、依田美津穂、小林杏里井上朋美(打打打団 天鼓)

ビジュアルデザイン:江村耕市(キュピキュピ)/美術木村真束(キュピキュピ)/映像キュピキュピ

3D映像ギャラクシーオブテラー/振付:高原伸子/ヘアメイク:針尾清光/特殊メイクJIRO(自由廊)/衣裳デザイン・タイトルデザイン:舩引亜樹/照明:川崎渉(RYU)/サウンドデザイン:丸山正浩(創影コーディネーション)/特殊効果:伊井麻登、薬師寺三津秀/長唄監修:杵屋勝七郎/テクニカルディレクター:關秀哉(RYU)/舞台監督串本和也(RYU)/衣裳製作岩崎晶子、チャコット制作:須知聡子(フィッシュヘッズ)、山本麻友美京都芸術センター)、勝冶真美(京都芸術センター)/宣伝写真田中マサアキ

企画:京都芸術センター制作京都芸術センターフィッシュヘッズ/共同製作・共催:KYOTO EXPERIMENT/主催京都市

2011-10-15 バナナ学園純情乙女組と地点「かもめ」

[][]バナナ学園純情乙女組「バナ学バトル★☆熱血スポ魂秋の大運動会!!!!!」@元・立誠小学校

 約40分強休むことない怒涛のライブアニメアイドルなど日本特有のカルチャーごった煮のように詰め込まれたカオス。その奔流に身を委ねるのが心地よい。必見。特にオタクカルチャー好きは見逃すな!

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[]ヤニス・マンダフニス/ファブリス・マズリア「P.A.D.」@京都芸術センター

 ヤニス・マンダフニスとファブリス・マズリア*1はともにフォーサイスカンパニーダンサーカンパニーの作品と並行して、2人による作品を制作、各地で公演してきている。

P.A.D.」映像 http://mamaza.net/p-a-d/p-a-d-video/

[]地点「かもめ」@アートコンプレックス1928

原作アントンチェーホフ

翻訳神西清

演出:三浦

出演

安部聡子 石田大 窪田史恵 河野早紀 小林洋平

スタッフ

美術杉山至+鴉屋 特殊装置石黒猛 照明=宮島靖和(RYU)

音響=堂岡俊弘 衣裳=堂本教子

舞台監督=大鹿展明 テクニカル・コーディネーター=關秀哉(RYU)

宣伝美術相模友士郎 制作=田嶋結菜

地点「かもめ」@びわ湖ホール

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地点「かもめ」@アートコンプレックス1928観劇。地点「かもめ」では以前、桟橋の舞台装置をつかったのを見た*2がそれとは全く異なる演出。ただ、興味深いのは三浦基の演出はこの作品にチェーホフがこめ観客に投げ掛けた数多くの謎をこの戯曲解釈するのでなく、そのまま舞台に上げていることだ。このため観劇後の観客、少なくとも私の脳裏にはいくつもの???渦巻くことになった。トレープレフの自殺の動機は?ニーナ独白はどこまで本音を語っているのか?……。

2011-10-14 映画「インシテミル」

[]映画インシテミル」@中田秀雄監督

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 映画はほとんど犯人あて的な興味はなくて、サバイバルものの色彩が強いのだけれど、原作小説はどうなのだろうか。逆にちょっと原作が読んでみたくなった。映画版でも投げ捨てのような形になっているけれど、一応いくつかミステリ的な趣向が入っているから、もう少し原作ミステリよりなんだろうなと想像するが、果たしてあたっているのかどうか。

2011-10-12 範宙遊泳と悪い芝居

[]範宙遊泳 郷土物語宣言第三弾「ガニメデから刺客」@元・立誠小学校

KYOTO EXPERIMENTO 2011 フリンジ “GroundP★”

郷土物語宣言第三弾 「ガニメデから刺客

作・演出 山本卓卓

2011年10月11日(火)〜13日(木)

元・立誠小学校(職員室)

●出演

大橋一輝 埜本幸良 山本卓卓 (以上、範宙遊泳)

浅川千絵 川口聡 福原

スタッフ

美術たかくらかずき

音響高橋真衣

演出助手菅原和恵

制作坂本もも

共催:立誠・文化のまち運営委員会

主催:範宙遊泳

範宙遊泳@元・立誠小学校観劇ロール・プレイング・ゲームRPG)仕立ての舞台というのは昔からあって、いま始まったことではないけど昔はもっと3D的というかリアルだった。この芝居はICU進化呼応リアルに向けて突き進む実際のゲームの流れに逆らうようにゲーム的リアリズムを追い求めた演出。ロロの三浦直之が「アニメ漫画リアリズム」の演劇への応用を意識的に考えているのに対し、こちらは「ゲーム的リアリズム」だろうか。

 意図的に懐かしめのRPG仕立てだが、おそらくやりたいのはチープなSF的な趣向の話を舞台のなかでどう演じようかという時に出てきた形式というかアイデアであって、ゲーム自体に興味があるのではないのかもしれない。

 ただ、ゲーム仕立ての作品というのはいつもそれをやるというわけではなく、今回がたまたまそうだったということのようで、この劇団もほかのポストゼロ年代劇団と同様に

ポストゼロ年代演劇の特徴

1)その劇団に固有の決まった演技・演出様式がなく作品ごとに変わる

2)作品に物語のほかにメタレベルで提供される遊戯的なルール(のようなもの)が課され、その遂行と作品の進行が同時進行する

3)感動させることを厭わない

 1)2)の特徴は当てはまるようだ。そのため、最近特に若手劇団に対してはある舞台について見出された特徴がその作品に限ってのものであるのか、それとも劇団なり、作演出者にとって本質的スタイルであるのかを確かめるために過去の作品との比較も必要になっており、販売しているDVDなどの映像資料があればできるだけ購入するようにしているのだが、この劇団はそういうものをいっさいに販売しておらず、さらに「劇団の方針としてそういうものはいっさい外部には出していません」ということだった。youtubeなどを検索しても映像がいっさいひっかからないのはそういう理由であったようだ。

 それは劇団の方針なので仕方がないことではあるのだけれど、今回興味を持ったのでぜひ次回公演もと思うけれども、この劇団がどういう方向性を持つのかが判明するまでにはしばらく時間がかかりそうだ。 

[]悪い芝居「猿に恋」@アトリエ劇研

悪い芝居『猿に恋』

作・演出 山崎彬出演 大川原瑞穂植田順平・池川貴清・宮下絵馬・呉城久美・畑中華香

猿が人間になっていく進化過程を寓話的に演劇化。無言劇としていたが、ところどころ言葉らしきものも入るし、リアルに展開したわけではない。そこに若干不満がないではないけれど、原始人?の仲間の2人が寒さによって死んでしまった場面以降の後半からフィナーレまでの十数分は迫力があってなかなか見せた。中断の言葉を使ってのギャグ的なシーンなどはいくつかなくてもいいんじゃないかと思ったのも確かだが、セリフ劇の合間の実験としてはなかなか面白かったと思う。

2011-10-10 柿喰う客とKIKIKIKIKIKI

[]柿喰う客「悩殺ハムレット」@ABCホール

女体シェイクスピア001≪東京三重大阪愛知

出演:七味まゆ味 コロ 深谷由梨香 右手愛美 葉丸あすか 大杉亜依里 岡田あがさ 荻野友里 葛西幸菜 葛木英 熊川ふみ 障沒∠諱@新良エツ子 兵頭祐香 渡邊安理

原作:W.シェイクスピア 脚色・演出:中屋敷法仁 【美術原田愛【照明】富山貴之【音楽佐藤こうじ【音響上野雅【衣裳】高木阿友子【ヘアメイク田中順子舞台監督】棚瀬巧

 小劇場系の演劇シェイクスピア翻案・改作を行うのは珍しいことではないが、面白くやるということは簡単なことではない。ましてそれが「ハムレット」となるとなおさらだ。少し思い出して見るだけでもトム・ストッパードによる「ローゼンクランツとギルデンスターン」、横内謙介「フォーティンブラス」など「ハムレット」を下敷きにした2次創作作品やピーター・ブルックハムレット悲劇」までさまざまな趣向での新演出など挙げていけば枚挙にいとまがないほどで、そういう前例を踏まえて新しいことをやらなければ意味がなくしかもそれを面白くというならなおさらハードルが高いからだ。

 柿喰う客(中屋敷法仁脚色・演出)版の「ハムレット」にはいくつかの特徴があった。最大のそれはすべて女優だけのキャストによる上演だということだ。シェイクスピア女優というと「女たちの十二夜」が有名である。だが、これは主要なキャスト男装した女優が演じはするけれど、例えば道化役には生瀬勝久が出演するなど実は男優陣も出演していて、女優だけのシェイクスピアではない。青い鳥も「ハムレット」を上演したことがあり、これもハムレット女優が演じているが、実は男の役を女優が演じ、女の役を男優が演じるという逆転バージョンキャスティングなのだった。

 だから女優だけの上演は珍しい。と書きかけて重要な公演を失念していたのを思い出した。いるかHotelによるシェイクスピア連続上演「The Comedy of Errors 〜間違いの☆新喜劇?〜」*1からッ騒ぎ!」「十二夜!ヤァ!yah!」*2である。こちらは正真正銘、女優だけ(オールフィメール)によるシェイクスピア上演だった。もっとも同じ女優だけの上演と言っても、いるかHotelのはいずれも喜劇コメディ)で、登場人物がすべて関西弁を話すことから上方喜劇の風味がミックスされていたのに対して、柿喰う客が挑戦するのが四大悲劇ひとつであるハムレット」であり、次も「マクベス」らしいから悲劇が当面続くことになりそうなのは志向の違いもはっきり出ていて興味深い。

 ただ今回の場合、本当の特徴はむしろ登場人物のすべてが渋谷にたむろしている若者のような口語体をさらにデフォルメされたような若者言葉を使っていることかもしれない。そのため、舞台の印象としてはデンマークの王家の人々の間に起こる争いというような側面は薄れて、下手したら不良グループの頭目同志の争いの程度にしか見えず軽薄との批判もまぬがれず出てくるとは思うのだが、その分、今の若者たちを中心とする観客には腑に落ちるようなイメージの読み替えだと思う。

深谷由梨香ハムレット右手愛美のガートルードとも魅力的だが、なんといっても異形の存在感を見せていたのはフォーティンブラス(七味まゆ味)。スキンヘッドに頭頂の髪のみを残したヘアスタイルにも吃驚させられた。当たり役だったと思う。

 もうひとつシェイクスピアテキストを最低限度必要だと思う部分を抜粋してつなぐような形で通常は3時間程度、すべてカットせずに上演すれば4時間以上がかかるともいわれている「ハムレット」を、スピード感あふれる演出ともからめて、コンパクトで見やすく仕上げていることだ。

 作品を短くするとカットされることも多い、フォーティンブラス、ローゼンクランツとギルデンスターンのくだりや劇中劇原作通りにちゃんと流れを抑えて入れ込んでおり、ほぼ原作に忠実な物語に仕上げているところに中屋敷のセンスのよさを感じた。

  

[]KIKIKIKIKIKI 「ちっさいのん、おっきいのん、ふっといのん」@京都芸術センター

作・脚本・演出・振付:きたまり

出演:きたまり、野渕杏子、花本ゆか

舞台監督浜村修司

音響小早川保隆

照明:魚森理恵

助成アサヒビール芸術文化財団

製作:KIKIKIKIKIKI#

共同製作KYOTO#EXPERIMENT#

主催:KIKIKIKIKIKI 、KYOTO#EXPERIMEN

2011-10-08 KENTARO!!とモモンガ・コンプレックスと劇団野の上

[]KENTARO!! 「雨が降ると晴れる/小学校バージョン」@元・立誠小学校

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構成・演出・振付・出演 KENTARO!!

会場:元・立誠小学校

[]モモンガコンプレックス 「とりあえず、あなたまかせ。」@元・立誠小学校〈自彊室〉

構成・演出・振付  白神ももこ

出演  北川 結 夕田智恵 眞嶋木綿 東山佳永 白神ももこ

音楽  やぶくみこ

[]劇団野の上「 臭う女〜におうひと〜」@アトリエ劇研

■出演

 乗田夏子

 藤本一喜

 鳴海まり

 山田百次

 青海衣央里(東京タンバリン

 工藤佳子渡辺源四郎商店

 三上晴佳(渡辺源四郎商店

 葛西大志(夢遊病社 )

 田中耕一劇団雪の会)

出演を予定していた、高坂明生(渡辺源四郎商店 )はヘルパンギーナにより出演できなくなり、代わって葛西大志(夢遊病社 )が出演いたします。


音響・照明・字幕オペ

 高野実華(弘前大学劇研マップレス

相談役

 赤刎千久子

主催・企画制作

 劇団野の上

■共催

 アトリエ劇研

■協力

 渡辺源四郎商店弘前大学劇研マップレス・櫻庭由佳子

2011-10-05 岡崎藝術座「街はない」とロロ「夏も」

[]岡崎藝術座「街はない」@元立誠小学校

[作・演出・美術] 神里雄大 [出演] 上田遥(ハイバイ) 坂倉奈津子 斎藤淳子(中野茂樹+フランケンズ) 石澤彩美 [音響] 高橋真衣 [舞台監督] 佐藤泰紀 [衣裳] 天神綾子

 岡崎藝術座はだいぶ以前にチェルフィッチュ「三月の5日間」を上演する若手劇団があると知った時から気にはなっていたのだが、その時に見ることができず、その後は東京での評判を徐々に聞くことが多くなったのにもかかわらずすれ違いが続き、今回groundP★の企画による京都公演で初めてその舞台を見ることができた。

[]ロロ「夏も」@京都アトリエ劇研

脚本・演出】 三浦直之

【出演】 板橋駿谷、亀島一徳、篠崎大悟望月綾乃、呉城久美(悪い芝居)、小橋れな、島田桃子

【衣裳】 森本

宣伝美術】 玉利樹貴

制作助手】 幡野萌

制作坂本もも

【協力】悪い芝居、こりっち舞台芸術、Knocks、範宙遊泳

【企画製作ロロ

 ロロ「夏も」は東京公演で一度見ている作品なのだが、舞台の終盤部分を手直しししたのと、今回のgroundP★のためにアトリエ劇研にしつらえられた砂場舞台装置がうまく嵌ったことなどもあって、面白いところもあったけれど、全体としてはどうなのかとの印象が否めなかった東京公演とはイメージが一変、東京公演と比べると数段完成度の高い舞台に仕上がった。

 「夏も」の主題映画転校生」のように男の子女の子人格が入れ替わってしまうということにあるのだと、東京公演の感想*1では書いたのだけれど、今回のロロの挑戦はチェルフィッチュの影響を受けたポストゼロ年代演劇において、顕著な特徴である役者」と「役」の分離が物語上のモチーフである人格転移」の表現へとパラフレーズされるという演劇実験にあるといってもいいかもしれない。

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 昨年上演された「グレート、ワンダフルファンタスティック」では主人公ヒロイン出会世界無限ループする世界(円環的構造)として設定されていて、さらに興味深いのはこのループには主人公けが繰り返しの生の記憶をすべて持って生き続けており、ヒロインとの出会い世界更新されるたびに繰り返されるが、ループが繰り返される時には前の出来事はすべてリセットされる、という設定を持っていたことだ。この種の円環的構造は「涼宮ハルヒシリーズ」や「けいおん!!」などゼロ年代アニメ漫画小説も出てくるもので、以前に次回作の構想を聞いた時には「涼宮ハルヒ」の「エンドレスエイト」のような話をやりたいと三浦は語っていた。

 ところで今回の「夏も」では無限ループ構造物語というのは放擲されていて、本人にそれを確かめてみると「そういうのはもう飽きましたから」ということだった。そして、三浦方法論が興味深いのは無限ループ構造にこだわるのはそれが少しずつディティールは変化しながらも同じことを繰り返すという演劇の上演とループ構造が相似形の構造を持つことに意味を持たせようと考えていたことだ。

 実はそういう演劇への基本的な構えは「夏も」でも変わりはなくて、代わりに出てきた「転校生」というモチーフも「人格転移」まで範囲を広げるとアニメライトノベル無限ループ構造と同じ程度に頻繁に登場するようだ。

 特に人格転移」の物語のなかでも異性への性転換を扱う物語のことをTSF*2っていうらしいけれども、「転校生」もこれに含まれるのだが、ウィキペディアなどからするとアニメ漫画ライトノベルに数多くあるようなのだ

かしまし〜ガール・ミーツ・ガール〜

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先輩とぼく (電撃文庫)

先輩とぼく (電撃文庫)

人格転移」といえばなにも最近ライトノベルばかりじゃなくて、「転校生」をはじめ以前からあったものだし、TSFに幅を広げればこれは脳移植ものだが、私が大昔に愛読していた弓月光「ボクの初体験」などもこれに入ってしまう。

ボクの初体験 1 (集英社文庫(コミック版))

ボクの初体験 1 (集英社文庫(コミック版))

 

 もっとも「人格転移」をネット検索するとほとんどがエロ関係サイトが出てくることでも分かるようにこの手の物語では性的なことも含めて男と女の身体の違いなどに関心が向いていることが多いが、ロロ「夏も」はそういうところがほとんどなくて、ある人物の精神が別の人物に宿る(つまり転移してしまう)状態を演劇としてどのように表現するのかに作者・演出家三浦直之の関心は特化している。ポストゼロ年代演劇における演技のひとつの特徴として、1人の人物を何人もの俳優で演じ継いでいく(ままごとあゆみ」)や複数の人物が複数の俳優によって演じられ、それが次々と移動していく(柿喰う客「恋人としては無理」、東京デスロック「3人いる」)など「役」と「俳優」との関係が1対1ではないものが数多く存在するのだが、「夏も」も最初にボーイ(亀島一徳)と少女望月綾乃)が崖に見立てられた梯子から転げ落ちて、中身(人格)と身体が分離して入れ替わってしまう。この部分が「転校生なのだが、「夏を」の肝はもう一度転げ落ちた時にもとに戻るのではなくて、今度は少女精神が分裂してしまい、それがボーイと少女の両方にに宿ることでボーイが一度は消滅するが、今度はまるで輪廻転生かのように次々と登場人物全員にボーイの精神が宿ることになり、これは舞台上で次々と「役」を受け渡していくかのように演じられる。

 それは従来のリアリズム演劇であれば相当以上の演技力要求されるところだが、ロロ舞台でそうはならないのはここでは「役」自体が着脱可能、受け渡し可能な「キャラ」としてきわめて記号的に演じられているからで、このような演技における方法論と芝居の内容が呼応していくところにロロという集団の最大の特徴があるのだ。

2011-10-03 「演劇の新潮流2 ポストゼロ年代へ向けて 第2回 ロロ=三浦直之

[]「演劇新潮流2 ポストゼロ年代へ向けて 第2回 ロロ=三浦直之」WEB講義  

                         

主宰・中西理(演劇舞踊評論)=演目選定

 東心斎橋のBAR&ギャラリーを会場に作品・作家への独断も交えたレクチャー(解説)とミニシアター級の大画面のDVD映像で演劇を楽しんでもらおうという企画がセミネール「演劇新潮流」です。今年は好評だった「ゼロ年代からテン年代へ」を引き継ぎポストゼロ年代へ向けて」と題して現代の注目劇団劇作家レクチャーし舞台映像上映も楽しんでいただきたいと思います。

 新シリーズでは引き続きポストゼロ年代演劇劇作家らを紹介していき、この世代に起きている新たな潮流の最新の動きを紹介していくとともに90年代半ば以降は平田オリザに代表される「群像会話劇」「現代口語演劇」中心の現代演劇の流れの非主流となってきた「身体性の演劇」の系譜の流れを紹介していきたいと考えています。

【開催日時】2011年5月15日 7時半〜

【演目】レクチャー担当 中西

【場所】〔FINNEGANS WAKE〕1+1 にて

 ライトノベル世代の演劇

演劇新潮流2 ポストゼロ年代へ向けて」でクロムモリブデンに続き、今回取り上げるのはロロ=三浦直之です。ままごとの柴幸男、柿喰う客の中屋敷法仁ら昨年あたりからポストゼロ年代劇作家たちが本格的に台頭してきました。そのなかでも漫画アニメ小説ライトノベル)といった他ジャンルのからの影響を強く感じさせるのがロロです。ゼロ年代における(小説現代美術映画などの)表現傾向は簡単に言えば「漫画アニメゲームみたいだ」ということなのですが、ロロの三浦直之にはどうやらそうしたほかのジャンルの表現の要素を演劇積極的に取り入れ展開していこうという明確な意識があり、確信犯としてそれを目指しています。

 ロロは2009年5月に三浦直之の処女作「家族のこと、その他のたくさんのこと」が王子小劇場の「筆に覚えあり戯曲募集」に入選したのをきっかけに三浦が在籍していた日本大学芸術学部の仲間らとともに旗揚げしました。同作が2009年王子小劇場佐藤佐吉演劇最優秀脚本賞のほか、4 部門を受賞。2009年は「毎月芝居します! 」と宣言し、現在までに12 本の作品を発表するなど結成後、精力的に活動したこともあり、公演数はかなりの数になるのですが、結成してまだ3年目。メンバーのほとんどが20代前半であり、これまでこのレクチャーで取り上げてきた劇団のなかでももっとも若い劇団ということができます。 

三浦直之インタビュー

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演劇の世界では平田オリザの現代口語演劇の影響力からか小説などのほかのジャンルにおけるアニメ漫画的なキャラクター設定ゲーム的な仕掛けなどのいわゆるゼロ年代的な要素の導入が目立ちにくい傾向がありました。そのため、ゼロ年代的傾向が先行するほかのジャンルとは明らかにタイムラグがあり、ようやくそれが演劇においても顕在化してきたのが2010年以降になってからのことでした。

ロロの作品は参照項として数多くアニメライトノベル漫画からの引用見立てが仕込まれていて、そうした分野に慣れ親しんだ人にはそれがトリガー(引き金)となって、アニメ的なイメージが立体化されて再現させるような仕掛けとなっています。ところが参照元ジャンルへのリテラシーがないとこれは本当に「なにがなんだか分からない世界」なのです。そういう意味でこれはよくも悪くも極めてポストゼロ年代的といえるでしょう。

 「セカイ系」的な物語構造をデス電所五反田団などのゼロ年代演劇が持っていることをこれまでのレクチャーで指摘してきましたが、ロロの場合、その物語の多くは「僕と彼女の物語」の形式をとっています。さらに例えば谷川流の「涼宮ハルヒシリーズがそうであるように非日常系というか唐突にほとんどなんの説明もなく一見、日常的な物語世界に宇宙人のような非日常的なものが登場したりもします。次に見てもらいたいと考えている『いつだって可笑しいほど誰もが誰か愛し愛されて第三小学校』(2010)は表題どおりに卒業式を間近に控えた小学校を舞台に多少なりともデフォルメされた形ではありますけれど、小学生たちの恋愛模様が描かれるのですが、突然やってきた転校生がどうも地球人ではなく宇宙人でしかもなにものかと戦闘を行っている戦闘美少女であるというようなことがなんの説明もなく起こるわけです。この設定はひょっとすると作者の三浦がものすごく好きだというライトノベル、「イリアの空、UFOの夏」(秋山瑞人)とか、あるいは非日常系という意味では「涼宮ハルヒシリーズを思い起こさせるところもありますが、いずれにせよより本格的にいわゆる「セカイ系」と呼ばれる物語の特徴をよく受け継いでいます。ライトノベルゲームアニメ的な世界のガジェットが数多くちりばめられているのもその特徴。そのため、その評価にもライトノベルなどに慣れ親しんだ熱烈な支持層がいる一方で、激しい拒否反応もあり、そういう意味ではポストゼロ年代において出るべくして登場してきた集団といえるでしょう。

イリアの空、UFOの夏

イリヤの空、UFOの夏 その1 (電撃文庫)

イリヤの空、UFOの夏 その1 (電撃文庫)

涼宮ハルヒの消失予告編

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まず、それがどんな作品世界であるのか、てっとりばやく説明するためにも、さっそく作品の映像を見てもらいたいと思います。

『いつだって可笑しいほど誰もが誰か愛し愛されて第三小学校』(2010)

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出演:亀島一徳(六) 篠崎大悟(八) 望月綾乃(トビ) 北川麗(露島空) 小橋れな(先生) 崎浜純(蜻蛉) 多賀麻美(クリーム) 三浦直之(みうらこぞう)

脚本・演出/三浦直之 照明/板谷悠希子 音響/池田野歩 衣裳/藤谷香子(快快) 舞台監督/鳥養友美 宣伝美術/玉利樹貴 制作助手/幡野萌 制作/坂本もも

 この映像の最初の方に出てくるのが宇宙人らしい霧島空と主人公の六なわけですが、ギターをさして「その、君が背負っているそれは何? 世界?」などというセリフなどは意味ははっきりとはわからないのだけれど、どこかぐっとくるところがあります。もうひとつは一見子供たちの会話劇風の展開からはじまったりはしますが、この舞台全体が三浦が考えるアニメ的なリアリズム演劇への導入であること。これはつまり、青年団などと比べてみればはっきり分かりますが、大人が小学生を演じるということからして目指しているのが「演劇リアリズム」じゃないことは明らかです。興味深いのはロロの場合は(小劇場演劇の場合は大人が小学生を演じる際の約束事としてこれまで蓄積されてきたノウハウのようなものもあるのだけれど)そういうものをなんらかの技術によって提示しようともしていない。そこに特徴があるかもしれません。

テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ

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キャラクター小説の作り方

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東浩紀

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 (講談社現代新書)

ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 (講談社現代新書)

 以上に挙げた4冊はゼロ年代ポストゼロ年代批評メルクマールとなった評論です。三浦は単に漫画アニメ好きというだけではなく、ゼロ年代批評などが分析しているこの世代の表現の特徴を演劇というジャンルに落とし込むための方法論を意識して模索しています。意図的にこういうことを行っている例は現代演劇において(皆無ではないにしても)きわめて珍しいと思われます。

 特に最後の1冊「ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 」は先に挙げた3冊の論旨を内包して現代表現における「マンガアニメリアリズム」「ゲーム的リアリズム」とは何かを考察したもので、ロロの方法論にもかかわるところがあるため、その論旨を要約して復習してみたいと思います。



ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 」

1. 宗教イデオロギー(マルクス主義天皇制など)の力が衰え、求心力を失う

2. 一人一人の価値観が尊重された結果、小さな共同体(=島宇宙)が数多く出現する

1は「大きな物語」の衰退。

1つの大きな物語に誰も支配されなくなった。伝統・規範の力も弱くなった。

2は「小さな物語」の拡大

1人1人が別々の物語を生き、たまたま同じ傾向の物語の人と密につながる。その外側は見えなくなり、世界の「タコツボ化」「島宇宙化」をもたらす。

ポストモダン化した現在において、物語の地位は相対的に弱くなっていく。なぜなら物語は分散し、交換可能になってくるからだ。物語の交換可能性は、それを部品とみなすような考え方を助長する。物語の構成要素は無数にあり、読者はその中から適当にいくつかを選択して消費する。東浩紀は、それを「データベース消費」と呼んでいる。ここまでは東の「動物化するポストモダン」の反復である。引き続き東は「ゲーム的リアリズムの誕生」でリアルのあり方の変化について論じていく。


リアリズムとは何か

リアリズムとは、現実的、という意味ではなく、ある時点の社会が何を現実的だと思うことにしているか、という約束事のようなもの。それは個々の問題というよりは、社会環境の問である

いかなる表現も市場で流通する限り、発信者と受信者のコミュニケーションを抜きには考えられない。ある作品を「リアルに感じる」とは、その作品がその時点の社会環境において、発信者と受信者のコミュニケーションを最も効率的なものとしているということだ。

リアルとは何か」という哲学的な問いにはここでは深くは踏み込まない。市場で支配的なコミュニケーション様式が、その時の「リアルであるとし、その「リアル」はどう変遷していったか考える。



自然主義リアリズム

まず伝統的な近代文学純文学)を考える。純文学の「想像力の環境」は「現実」である。あるいは「社会」と言ってもよい。各作品が実際にそうかどうかは置いておいて、社会の期待は、純文学は「現実」や「社会」を描くものだ、というものだ。

現実をありのままに描く。その時、言葉は「透明」になる。現実があり、言葉という透明な窓を通して、それを写生する。そういったことにリアルを見出すのが「自然主義リアリズムである。ここにはもちろん欺瞞がある。柄谷行人は『近代日本文学の起源』の中で、外界あるいは現実というものは発明されたもので、その時、言葉が事物に先立って透明化する必要があった、としている。現実を描写する=写生という行為は、言文一致によって生み出された歴史の浅い制度にしかすぎない。

近代以前、言葉は不透明なものとして主体と世界の間の障害となっていた。言文一致によって、言葉は透明になり、主体と世界を直接つなげることが可能となった、と人々に思わせた。近代文学、現実描写は言葉を透明にするという操作で可能になったわけです。



マンガアニメリアリズム

さて、ポストモダン化する社会ではさまざまな地盤がばらばらになっていく。近代文学が描いてきた「現実」も、その影響を免れえません。「現実」というデータベースは、消費者との間に効率的コミュニケーションを作り出せなくなっていきます。

そうして登場するのが「キャラクター」や「物語」のデータベースです。近代文学の「現実」に対し、このデータベースは「虚構」です(もちろん近代文学の「現実」も実際には「虚構」の一種ではある)。「現実」を描くのではなく、「虚構」を描く(=虚構を写生する)。この典型がライトノベルであり、そこに発生するリアルが「マンガアニメリアリズム」です。

ここにはさまざまなねじれがあります。マンガ編集者大塚英志マンガに「記号性と、それと反するような身体性」を見て、そこに近代文学が抑圧してきた可能性の回帰を見ます。ライトノベル(キャラクター小説)は、そのマンガ表現のそのまた模写であり、同じ両義性、そして同じ可能性を抱えています。その両義性に立脚してこそ、なにものかを描きうるのではないか、ということでしょうね。キャラクター小説の言葉は近代以前の「不透明」でも、近代文学の「透明」でもなく、いわば「半透明」である



ゲーム的リアリズム

さて、データベースは物語やキャラクターの構成要素の集合ですが、その見方は「物語を作り出すシステムがある」というメタ物語的視点をもたらします。可能な物語が無数にあり、その中から一つを選択する。これは要するにゲーム的な視点なわけですね。

ゲームがもたらすようなメタ物語的な想像力が、キャラクター小説という始まりと終わりが一つしかない形式に侵入してきたときにおこるのが「ゲーム的リアリズムである

美少女ゲームを考えてみます。美少女ゲームプレーヤーに、「1人だけを愛せ」という純愛を勧めながら、もう一方で「他の女の子も攻略できるよ」と浮気をそそのかします。そこでプレーヤーは分裂せざるを得ない。ここにはおそらく、物語の複数性と、1回性のせめぎ合いがある。

東は「ゲーム的リアリズム」の説明を、そういった想像力によって生み出された作品を分析することで示していく。たとえば桜坂洋の「All you need is kill」であり、竜騎士07の「ひぐらしの鳴くころに」、舞城王太郎の「九十九十九」であり、「ONE」「Ever17」といったノベルゲームである

ここで示されているものを概観(特にノベルゲーム分析を見ると)すると、さしあたり「ゲーム的リアリズム」の特徴は、

物語のメタ視点者であるプレーヤーを、物語内に入り込ませ、複数性の中の一回性(=奇跡)を捏造する

たとえば「Ever17」では、物語にプレーヤーを必要とする。プレーヤーというのはゲーム内でのプレーヤーの視点人物ではなく、ゲームをしているプレーヤー本人である。「ひぐらし〜」でも同じようなことが言える。「All you〜」などはちょっと違うが、メタ物語的視点の自覚を、物語内に入り込ませる、という点では同様かと思います。



おわりに

3つのリアリズムについて見てきました。

自然主義リアリズム

想像力の環境は「現実」。言葉は透明。ありのままを写生する。

マンガアニメリアリズム

想像力の環境は「虚構」。言葉は半透明。「虚構」を写生する。

乱暴にはライトノベルとはアニメを写生した小説と言える。

ゲーム的リアリズム

想像力の環境は「虚構」ではあるが、プレーヤーという「現実」も侵入している。

ゲームにおけるメタ物語性(物語の複数性)と、小説の持つ一回性(はじめと終わりが一つずつしかない)が衝突した際におこる。

 「漫画アニメのような小説」というのがライトノベルの特徴で大塚英治はこれを「漫画アニメリアリズム」と呼んだわけですが、東浩紀はこの大塚の論点を受けながら、「自然主義リアリズム」と対比されるもうひとつのあり方として「ゲーム的リアリズム」を提唱しました。ここまでが東の「ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 」の論旨の要約ですが、ここから少し私(中西)のポストゼロ年代演劇論に入っていきます。

ポストゼロ年代演劇 

 冒頭で実はこういうことを言いました。演劇の世界では小説などのほかのジャンルにおけるアニメ漫画的なキャラクター設定ゲーム的な仕掛けなどのいわゆるゼロ年代的な要素の導入が目立ちにくいきらいがあった。これはやはり90年代後半に支配的になってきた平田オリザ現代口語演劇の影響力が大きかったからと言わざるをえないと考えています。これは以前のセミネールでも論じてきたようになにも平田ひとりの功績というわけではなく、宮沢章夫松田正隆長谷川孝治、はせひろいち、長谷基弘ら90年代を代表する劇作家が共通して持つ時代の空気というようなものをその根拠として挙げる方がより適切なのかもしれませんが、いずれにせよリアルに対するこういう傾向は少し姿を変えながらもゼロ年代には前田司郎*1三浦大輔*2岡田利規*3ゼロ年代作家たちに受け継がれていきました。

 「わが星」で岸田戯曲賞を受賞し話題の柴幸男をはじめ、快快(篠田千明)、柿喰う客(中屋敷法仁)、悪い芝居(山崎彬)らポストゼロ年代作家の台頭により、明らかに新しい傾向が現れるのが2010年以降のことですが、彼らには先行する世代にない共通する傾向がありました。

ポストゼロ年代演劇の特徴

1)その劇団に固有の決まった演技・演出様式がなく作品ごとに変わる

2)作品に物語のほかにメタレベルで提供される遊戯的なルール(のようなもの)が課され、その遂行と作品の進行が同時進行する

3)感動させることを厭わない

東の著書を前提にゼロ年代以降の演劇のことを考えてみるとまず「自然主義リアリズム」が平田オリザの現代口語演劇と重なることが分かるでしょうか。実は平田オリザ自身もスタニスラフスキーシステムに代表されるような旧ソ連で体系化された近代劇(リアリズム演劇)はその有効性を批判しており、彼の演劇論も大きな物語の否定のようなところからスタートしているわけですが、「言文一致体運動」と平田から岡田にいたる「現代口語演劇」の変遷を考えるときにそして自然主義リアリズムマンガアニメリアリズムゲーム的リアリズムの3分法でいえば平田の現代口語演劇ポストゼロ年代演劇の関係は自然主義リアリズムマンガアニメリアリズムゲーム的リアリズムの対立構造に置き換えることが可能でしょう。

 実はこの世代のほかの作家時代の空気のようなものから自分にとってのリアルを感じ取り、それがこの変化の要因になっているように考えられるのに対して、ロロはマンガアニメリアリズムゲーム的リアリズムを明確に志向しているところに差はあるかもしれません。それが成功しているのかどうかというのはまだ未知数といわざるをえないのですが。

 伊藤剛は「テズカ・イズ・デッド」のなかで物語のなかにおける「キャラクター」「キャラ」の区別を論じます。「キャラ」とはひとつの物語に回収されることなく、物語の枠を超えて流通する人物造形の要素を言うわけですが、これが東の言う「データベース消費」につながっていくわけです。

 三浦は「記号性」を媒介にしてこれを演劇の世界の人物造形にも導入しようと試みています。ただ、問題はアニメ絵が記号的な要素への還元が比較的容易なのに対して、身体性を持つ人間によって演じられる演劇がどこまでそういう記号性を獲得でくるのかという問題なのですが、そこで生み出されたのが「参照項として数多くアニメライトノベル漫画からの引用見立てが仕込まれていて、そうした分野に慣れ親しんだ人にはそれがトリガー(引き金)となって、アニメ的なイメージが立体化されて再現させるような仕掛け」といえます。

 そうした特徴は今見ていただいた「いつだって可笑しいほど誰もが誰か愛し愛されて第三小学校」でも見てとることができるのですが、こまばアゴラ劇場で上演された「グレート、ワンダフルファンタスティック*4では一層顕著なものとなっているといえるかもしれません。  

 

「グレート、ワンダフルファンタスティックこの芝居では大きく分けて2つの物語が同時進行する。ひとつがある日突然空から降ってきた男(金田ミラクル男=亀島一徳)の持っていた誕生日ケーキ女の子(桐野真琴=多賀麻美)の顔に激突してしまうことから起こる2人の物語。もうひとつは言葉を集めているアンドロイド「秋冬」と彼が好きになった女の子との出会い。この2つを巡って芝居は進行していく。

 ここで興味深いのはこの2つのうちの1つであるミラクル男と真琴の出会う世界が無限ループする世界(円環的構造)として設定されていることである。この種の円環的構造は「涼宮ハルヒシリーズ」や「けいおん!!」などゼロ年代アニメ漫画小説によく出てくるもので、さらに興味深いのはこのループにはミラクル男だけが繰り返しの生の記憶をすべて持って生き続けており、真琴との出会いも世界が更新されるたびに繰り返されるが、ループが繰り返される時には前の出来事はすべてリセットされる、ということだ。

 舞台の床にはいくつか六角形の板の形をしたものが沢山置かれていて、出演している役者たちが舞台の間中これをあちらこちらに移動し続けていた。観劇の際には気づかなかったことだが、twitterフォロワーの指摘によればこれは「HEX」というゲーム*1ではないかということなのだが、無限ループの循環構造とゲームについての見立てメタファー(隠喩)として作品内にちりばめながらも主人公である男に「プレイヤー視点」(のようなもの)が導入されているのがこの作品の特徴だ。そうした形で芝居の全体を一種のゲームのようなものと擬えていく「ゲーム的リアリズム」により、舞台は展開する。

 実際、この舞台に対する是非のうちかなり多くの評価がこういう種類の「ゲーム的リアリズム」をリアルなものとして感受できるか、それとも荒唐無稽絵空事にしか感じられないかが、作品評価の臨界点となり、それゆえ、単に世代的なものだけではなく、こういうリアルに触れた経験の有無が作品の評価において決定的な要因をなすことになってしまう。

ロロ「夏も」@京都アトリエ劇研

http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20111005/p2








2009 年5 月、三浦直之の処女作『家族のこと、その他のたくさんのこと』の王子小劇場「筆に覚えあり戯曲募集」史上初入選をきっかけに旗揚げ。同作が2009 年度王子小劇場佐藤佐吉演劇最優秀脚本賞ほか、4 部門を受賞。同年は「毎月芝居します! 」と宣言し、現在までに12 本の作品を発表している。自身が触れてきた演劇小説映画アニメ漫画などへの純粋なリスペクトから創作欲求を生み出し、同時多発的に交錯する情報過多なストーリーを、さらに猥雑でハイスピードな演出で、まったく新しい爽やかな物語へと昇華させる。《誰かを好きになるって素敵なことだよね》っていうことを様々な方法で表現し続けてきたが、まだまだ未開発未開拓。これからなにを物語るかは誰にもわからない。素晴らしいのはバラエティィィ!!!

セミネールで使用した主な映像

チェルフィッチュ

「三月の5日間」「フリータイム」「目的地」

 ニブロール

ニブロール 初期秀作集」「3年2組」「青ノ鳥」初演版「青ノ鳥」NHK放映版

ROMEO OR JULIET」「no direction」

青年団

冒険王」「バルカン動物園」「S高原から」「東京ノート」(南河内万歳一座「S高原

から」)

イデビアン・クルー

排気口」「くるみ割り人形

弘前劇場

「家には高い木があった」「職員室の午後」「冬の入り口」「あの川に遠い窓」(山田

辰夫・村田雄浩出演)

レニ・バッソ

「Finks」「ゴーストリー・ラウンド」「Slowly,slow for Drive」「パラダイスローグ

 Paradiselogue」

五反田団

「ながく吐息」「さようなら僕の小さな名声」「いやむしろわすれな草」

ポツドール

「恋の渦」「顔よ」「激情」など

珍しいキノコ舞踊団

フリル(ミニ)ワイルド」「作品集抜粋」

ダムタイプ

「pH」「OR」「メモランダム

藤本隆行

「true」「Refined colors」「lost」など

上海太郎舞踏公司

ダーウィンの見た悪夢」「マックスウェルの悪魔」「RITHZM」など

ヤザキタケシ

ブルータイム」「GUYS2」(トリイホール)「ヤザキタケシVS伊藤キム」など

2011-10-01 白井剛「静物画」と平田オリザ+大阪大学石黒浩研究室・アンドロイド

[]平田オリザ大阪大学石黒研究室アンドロイド演劇さようなら」@京都芸術センター

脚本・演出/平田オリザ/演出助手:谷賢一/出演:ブライアリー・ロング(青年団)/ アンドロイドの動き・声:井上三奈子(青年団)/舞台監督尾崎聡/テクニカルアドバイザー石黒浩(大阪大学&ATR石黒浩特別研究室)/美術杉山至/照明:岩城保/衣装:正金彩/制作野村政之/ロボットディレクター:力石武信(大阪大学石黒研究室)、小川浩平(ATR石黒浩特別研究室)/製作大阪大学石黒研究室、ATR石黒浩特別研究室、(有)アゴラ企画、青年団/音響協力:富士通テン(株)/主催KYOTO EXPERIMENT

 大阪大学石黒研究室ロボット学研究)と劇作家演出家平田オリザの共同プロジェクトアンドロイド演劇さようならである。昨年夏のあいちトレンナーレで初演され、その後、各地を巡演しているが、私は昨年11月フェスティバルトーキョー10初見、今回のKYOTO EXPERIMENTでの上演は2回目(フェスティバルトーキョーでは2度見たのでステージ数としては3回目)の観劇となった。

 アンドロイド演劇と銘打っている通りに「さようなら」は石黒教授が開発した人間そっくりのアンドロイド、ジェミノイドFが出演し、これが人間俳優を共演する2人芝居である

 上演時間は15分程度と短い。それもあって、これを単なる演劇作品という風に考えると物足りない。見終わった後の感想最初アンドロイドが照明のに浮かび上がって見えた時には「これがそうか」と少しの驚きはあったものの、芝居自体はあっけなくて「もうこれで終わってしまうの」という感じであった。

 ただ、この公演では2回あった上演のいずれもアフタートークがついていて、ここで作り手側のアンドロイドについての話が聞ける。これはどうやら最近の上演ではトークと上演を組み合わせる方式がかならず組になっている。実はこれが決定的に重要なのだ。短いため、単独で演劇公演としてお金をとって見せるのは難しい事情もあるだろう。実はフェスティバルトーキョーでは公演をはしごせねばならずにトークの部分を聞くことができずに今回初めてトーク(私が見た回は石黒浩氏が登場した)まで合わせて聞いた。その結果、分かってきたのはアンドロイド演劇というのは単に「アンドロイドが登場する演劇」という見世物的なものというのではなく、一種の思考実験アンドロイド人間俳優が同じ舞台に乗って共演することで、私たちが通常無意識である他者に対する認識のあり方について考えさせるものだということだ。さらにこれは平田が考える演劇という仕掛けの見事なプレゼンテーションにもなっていた。

 もう少し具体的に説明しよう。詩を読むアンドロイド死に至る病に侵された少女物語。「死すべきもの人間とそうでないものアンドロイド交流を通じて短い上演時間の間に私たちが生きてそして死んでいくことを考えさせる」。といえば通りはいいが、物語自体は正直言ってステレオタイプだ。SFにはありがちな設定でしかない。石黒製作したアンドロイド(ジェミノイドF)は一見驚くほど人間によく似ていて、やりかたによっては短い時間であれば人間と錯誤させることはできそうではあるが、平田はそうはしない。ちょうど、ロボット演劇「働く私」がそうであったようにアンドロイドアンドロイドを、人間人間を演じる。

 どういうことかというと「さようなら」に出ているアンドロイド人間として出てくるのではなく、アンドロイドとして登場する。それは病気少女の父親が娘のさみしさをなぐさめるために買い与えた高価な玩具で、プログラムに従い人となめらかに会話ができ、自分データベースから状況に適応するような詩句を自由に選び出して、それを朗読するいう機能が付与されている。

 最初、「どのくらいに人間にそっくりなのだろう」と彼女凝視するが、舞台上のジェミノイドFは実際には人間と区別がつかないというほどではないことに気が付き少しがっかりする。だが、しばらくするとそれは技術的なあるいは演出的な限界というわけではない。必要があればもう少し人間と誤認させるように登場させることも可能なのだろうが、意識的にそうしてないんだろうということが了解されてくる。 

 例えばアンドロイドの声は本体からではなくて少し離れた位置にあるスピーカーから発せられる。また、人間の声質とは少し違う声に設定されている。人間のように見えることが目的であるならば、そう見えるように演出することも十分に可能だろうと思われるが平田はそうしない。ロボット演劇「働く人」においては「ロボットはよりロボットらしく」という演出をしてみせたが、それはここでも同じなのだ

 ところがわずか15分ほどの芝居ではあるのだが、見ているうちに不思議なことが起こる。機械仕掛け人形のようであったこのアンドロイド少女との会話を通じて、まるで実際に意識内面を持ち人間同様に生きているように見えてくるのだ。ここでアンドロイドが生きて意識があるように見えるのは何もそれが人間に似ているからではない。それはここに登場した少女アンドロイドをあたかも生きていて自分同様に意識のあるように見なして会話を交わしているからだ。 

 平田オリザ演劇を私が以前に「関係性の演劇」と名付けたのは平田演劇が現代口語の会話を通じて、登場人物相互の関係性を浮かび上がらせるからで、そこで実際に生きた人間リアル存在するように見えるのはその関係性が現実生活において私たちが経験している関係性を反映しているためで、実際には不可視である登場人物の内面のためではない。

 逆に内面などは見えないのだからあってもなくてもいいのだ。これをもって挑発的な表現として俳優ロボットや駒のようなものと例えたのが平田演劇論だが、このアンドロイド演劇ではもちろんアンドロイドは一種の操り人形のようなもので、内面などないことは明確だから平田が以前語っていたことの証拠としては十分であろう。つまり、私たちはいわば幻というか幽霊のようなものといっていいが、関係性の中に実際には目に見えない意識内面を見て取るのだ。

 ところでよく考えてみるとこれは実はアンドロイドだけに該当するわけではない。この舞台に登場している俳優にも該当する。俳優についても演じている俳優は役柄の少女内面が実際にあるわけではなく、脚本平田の演出というプログラムに従って動いており、そこに差はない。もっとも、アフタートークで説明されたようにこのロボットは実際には舞台の裏側の俳優遠隔操作しているので、いわばその俳優の「アバター」のようなものと考えることもでき、ますますその間には差がない。

 平田現在すぐには無理だが、いずれは俳優アンドロイドに置き換えることも可能だとしているのはそのためだ。 

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