Fate/stay night

Fateのゲーム性、というよりゲームであることの意義というか、ゲームでしか表現できない特性というのは、ゲームは似たような状況の話を複数回読むことが当たり前とされているというあたりから考えられるのでは?とか個人的には思ってます。
この似たような話を複数回読むっていうのは、その話が最終的に一つの話に還元される一要素としてではなくて、あくまでそれぞれ独立した話ままであるってあたりがポイントです。東さんなんかはFateは小説を三つ用意しただけだというような趣旨のことを言っていたように思うんですが、そもそも、小説や漫画で、リメイクだったり、別の作者が書くということではなく、同じ作者によって類似する複数の独立した物語を描くっていうこと自体があまりない、というかほとんどないように思います。
でも、ギャルゲーだと共通パートなんてものが当たり前にあって、同じテキストを読むことすら受け入れられてるくらいで、そういう土壌の上でFateは作られているんじゃないかなとか思っていたり。


例えば、 のりさん Fateレビューは非常に面白いです。ちょっと長いですが引用。

このゲームが上手いのは、「主人公は知らないけどプレイヤーだけは知ってる情報」というのを最大限に利用してる事だ。たとえばアーチャーの腕は士郎にとって“罪の具現”でしかないんだけど、『unlimited blade works』をクリアしてるプレイヤーだけは、それが純粋にアーチャーの肩入れだという事を知っている。「お前に未来はない」と忠告しながら、アーチャーはその困難な道を目指そうとしてる士郎を信じたい。それは自分ではとうとう一度も叶える事のできなかった「苦しんでいる人を救う」という奇蹟だからだ。アーチャーは、「苦しんでいる人をなかった事にする」掃除屋としてしか生きられなかった自分を後悔してるのである(もちろんそれはそれで誇りにして良い生き方なんだよ、ってのが『unlimited blade works』編だ)。

でも士郎自身はアーチャーの後悔なんて知らないから、自分の選んだ道は他者への裏切りだという罪悪感が生じてしまう。だからアーチャーの腕も士郎自身を責める罰になってしまうわけだ。自分の選んだ道が正しいのか間違ってるのか判らないままに、その罪悪感を背負いながら、自分の決めた道を信じて歩かなければならない。

これはセイバーを殺す殺さないの選択などでも一緒で、例えば殺さなかった場合、セイバーは「初めて貴方を恨んだ」とか言ってくれるわけだけど、セイバーを殺してしまった場合の士郎は、もちろんそんな台詞を聞く事はできない。だからこそセイバーを殺した罪と罰を生涯背負わされていく。罪も罰も、生み出すのはあくまで自分自身なのだ。


こういうことをやるのに、ゲームというメディアはすごく適していると思うんですよね。
複数のシナリオ(選択肢なんかも含め)をプレイヤーが読むという行為自体が、パラレルワールドのような他の世界、可能性を想起させることになります。
それに対し、こういったものを小説で表現しようとすると、キャラクターがパラレルワールドを実際に経験するという構造になると思うんですよね。小説は基本的に始めから終わりの方へと進んでいくことが決まっていて、ゲームのような、同じようなものを読むことに対する許容度は高くないですから。


ので、こういうのも ゲーム性とか呼んでみたら面白いのでは、とかそんなことを思ったりした今日この頃です。