CROSS†CHANNEL

CROSS†CHANNELって、始めからほぼ終わりまで、比喩的な意味で太一の自意識を表した世界を描いていると思うんですよね。自分の思い通りにならないの人のことを他者と呼ぶのだとすると、そういう意味での他者が存在しにくいようになってる世界だと思います。霧ちんとか曜子ちゃんとかに太一の切り札が完全に効くのって、そういうことなのだと思うのです。終盤、一人一人元の世界に送り返してくのですが、その決断も太一が勝手に決めたことです。ちょうどギアスについて書いた後なのですが、どっちも相手の意思を尊重しようというよりは、こちらがいいと思うようにしてあげようであって、そのときに相手の意思は奪われることになります。
こういう他人を省みない強烈な自意識って、僕自身としては好きになれなくて*1、同じロミオ作品でも他人と接するのにものすごく慎重な最果てのイマの方が好き嫌いでいうならずっと好きです。


ただ、CROSS†CHANNELは、作品の価値観としてこれを肯定しているかっていうと、また少し違うんじゃないかと思うんですよね。
のりさんのレビューで、

東氏が『動物化するポストモダン』で書いているのは他者を必要としない社会になりつつあるという事であり、そして『CROSS†CHANNEL』は、まさにそういう他者を必要としない社会を描きつつ、強烈にその社会を批判しているという事です。

と言われているんですが、太一は、自分は他人を傷つけてしまうからとか、好き勝手なこと言って皆を送り返して、自殺しかけてようやく、そこでようやく思い出だけで生きていけるなんて考えが甘いものに過ぎない事に気づきます。自分の思い通りにいくことを徹底的に突き詰めていった結果として、思い通りにならないことに辿りつくわけです。それで、元の世界にもう戻ることが出来ないというSF的設定の上で*2、太一は見返りを求めない発信と言う形で「生きている人いますか」と呼びかけます。最果てのイマもそうなんですが、このへんの他人に対して絶望的な距離を感じた上での悲痛さとでも言うべきものは、なんて言ったら適切かというか、ほんとに上手く言い表せないのですが、本当に強く響くものだと思います。


とりあえず書いてみた感じだと、一筋縄ではいかないという感じが強まった気がしますねえ。やっぱりもう一度やる必要ありというか。

*1:もちろんルルと太一の場合は違います。ルルの場合にはこういうのは不適切ですかね

*2:この設定を受け入れられないと、評価が全然変わってくると思います。太一は元の世界に戻ってみんなとちゃんと接するべきだっていう太一に向けてとか、試しに考えてみるなら感動のためのものに見えるとか。