アイデンティティ

2011年3月11日


東日本大震災及び大津波発生。


福島第一原発事故発生。


3・11以降、自分は価値観も意識も変わった。


あの東日本大震災原発事故をもって変わった。


戦後70年をむかえるにあたって。


自分の半生を振り返りつつ、現在における様々な問題をまとめたい。


これまでの人生、色んな人に出会った。


宮崎で産まれ、高卒で自衛官になり、沖縄に勤務し、自衛官を辞めてからも沖縄に残ってロックをやった。


基地の島、沖縄。


沖縄で、同世代のバンドメンバーとロックをやったのは一生も想い出だ。



沖縄のロッカーの人達は、わしの「ヤマトンチュ(大和の人)」としてのアイデンティティも認めてくれた上で色んな話や音楽を聴かせてくれた。


沖縄で色んな仕事もした。


警備員からパイナップルの街頭販売まで何でもやった。


しかし、ある日突然異変が起きた。


沖縄に滞在して10年はど経った頃、足が腫れて痛みと高熱を発する病気を発症してしまい何度も入退院を繰り返した。


その結果、足の治療する為に沖縄から大阪へ引っ越した。


両親も仕事で大阪に移転していたからだ。


そして、大阪府堺市労災病院で足の手術をした。


原因は「下肢静脈瘤」という疾病だった事が解った。


下肢の静脈の弁が壊れて、血流が滞り感染症を起こして腫れと高熱の症状が発症したのだった。


手術後は、圧迫ソックスを履いて生活しながら体調を改善した。


手術が成功して、社会復帰したわしが元気をもらったのは大阪のメタルバンド「キューティハニー」だった。


SHOW-YA」のカヴァを中心に、時には「アニメソング」や「メタリカ」のカヴァを演奏するエキサイティングなロックバンドだ。


ボーカルの「MEG」さんをはじめ、ハートが熱いロックバンドだった。


キューティハニー」のライブに触発されて、ロックドラマーとして復帰を目指した。


ある日、三国ヶ丘の「Dixie Chicken」というミュージックバーでリッキーさんに出会った。


気さくなマスターでロックバンド「D☆KEN」のギターボーカルである。


音楽の話から、雑談まで何でもあり。


魅力のあるマスターだ。


「Dixie Chicken」では周年イベントと年末にセッション大会も行われる。


そのセッションに自分も下手なドラムで参加したりしている。


リッキーさんが紹介してくれた堺市駅近くの「レッドハウス」というスタジオに通った。


小さなライブハウスのような箱でスタジオのスペースとしては広く快適な空間だ。


ドラムの個人練習も出来る。


「レッドハウス」は「サムズレコード」という中古レコード店の姉妹店で中古CDも売っている。


堺市の音楽シーンに欠かせない存在でもある。


やがて、バンドメンバーと出会い三国ヶ丘のライブハウス「FUZZ」で現役復帰を実現した。


ライブハウス「FUZZ」はロックバンドのライブは勿論、「ムッシュかまやつ」や「金子マリ」のライブも観ることが出来る。


音楽通は是非とも「三国ヶ丘FUZZ」で検索してほしい。


下手なドラムを叩くわしとセッションをしてくれる大阪のロッカー。


40歳を過ぎても、わしを必要してくれる大阪のV系ロックの若者たち。


今でも、連絡をくれる元バンドメンバー。


そして、泡盛を飲ませてくれる三国ヶ丘の「音酒場ワイルドハニー」。


大阪のそういった出会いのおかげで、沖縄の居た頃と変わらない感覚で生きてこれている。



一方で、自分にはロッカーと別の顔がある。


大阪でバンド活動をやる傍ら、沖縄に居た頃から気にかけて居た拉致被害者救出活動のお手伝いをはじめた。


拉致被害者救出活動をやりはじめて保守界隈にコミットした自分は、いつしか牙と爪を忘れていた。


そんな自分に3・11という転機が訪れた。


あの大津波原発事故を目の当たりにして、このままじゃ日本は駄目だと想った。


そして、間もなく「右から考える脱原発ネットワーク」が発足した。
(※通称、「右デモ」と呼ばれている。)


賛同した自分も、「右デモ」のお手伝いをすることになった。


そこでも、出会いがあった。


「右デモ」で知り合った人達は日米安保日米地位協定、日米原子力協定における色んな問題点を教えてくれた。


「右デモ」は右から〜と銘打っているが、右・左・思想・イデオロギーに関わらず色んな人が参加できるシングルイシューの運動体である。


「右デモ」の参加者の方は、保守界隈に毒されて煮え切らない自分に「爪を研げ!」「牙を剥け!」と叱咤激励してくれた。


「拳は権力者に向けろ!」「国民の為の日章旗を掲げろ!」


自分は徐々に本来の感覚を取り戻してきた。


原発事故を見て危険を察知した感覚・・・「民族の触覚」は自分にもあるはずだ。



最近の自分の近況としては、去年の9月頃に足の腫れと高熱を発する病気が再発し通院と抗生剤の投与の治療を今年の1月迄していた。


白内障も進行し左眼は殆んど視力を失った。


しかし、奮起して34キロ以上のダイエットを達成した。


わしも生きていくのに必死である。


自分にも、自分なりの人生経験で培ったアイデンティティがある。


それを否定されたら自分は自分で無くなる。


「民族の触覚」とは何か?


一人一人の人間が培ってきたアイデンティティではないのか。


それを、「右デモ」で出会った人達に教えてもらったと想う。



話を沖縄に戻す。


沖縄の人達は薩摩の時代、琉球藩廃止、廃藩置県沖縄戦、米軍統治、本土復帰という激動の時代の潮流で伝統文化を守ってきた。


琉球古典音楽、民謡、空手古武道、泡盛古酒、料理、建築に至るまで伝統を守り、受け継いでいる。


そして、伝統を受け継ぎながらも沖縄戦の惨禍から立ち上がって戦後復興を実現した。


わしら、「ヤマトンチュ」が戦後復興を果たしたように「ウチナンチュ(沖縄の人)」も成し得たのである。


しかし、歩みは決定的に違う。


米軍統治時代、「アメリカ世(あめりかゆ:1945〜1972)」と呼ばれる時代に何があったのか。


沖縄復帰運動。


アメリカ軍兵士による2件の交通事故によって起きたコザ暴動。(1970年12月20日)


その後、沖縄は1972年5月15日にアメリカ合衆国から日本へ返還された。


そのアメリカ世でオキナワンロックは生まれた。


紫(murasaki)、ConditionGreen(コンディション・グリーン)、JET、喜屋武マリー


沖縄を拠点に米軍から朝鮮戦争ベトナム戦争へと兵士が派兵される中、兵士たちの前でロックを演奏していたロックバンドが上記である。


彼らのロックは、本場欧米のロックと同じレベルのクオリティの高さを誇る。


生半可なレベルでは、米軍兵を楽しませることは出来ない。


パフォーマンスも4段肩車やエアプレーンスピン等、さしずめプロレスのようなロックショーを繰り広げたConditionGreen等は圧巻だ。


しかし、オキナワンロックシーンを育んた彼らはアメリカに追従、隷属する精神性をもっていない。


アメリカ兵士と喧嘩することもある。


故に、彼らはアメリカ兵士と公平な間柄であるのだ。


彼らをリスペクトするアメリカ兵士の子供が、平成の時代になって訪れている。


「沖縄に行ったら、ロックを観に行け。」


朝鮮戦争ベトナム戦争を戦った兵士の子供たちが成長して兵士になり、親と同じように沖縄でロックを聴いてイラクアフガニスタンへ派兵された。


その兵士が生きて帰って来ない場合もある・・・そういった悲しみもあるのだ。


アメリカ世」は終わったが「戦の世(いくさのゆ)」は終わらない。


青い海やデイゴの花が咲く、美しい沖縄の情景からは想像が出来ない悲しみというものもあるのだ。


自分は沖縄から大阪へと移る前、沖縄コザのライブハウスでバーテンダーのアルバイトを短期間させてもらったことがある。


ドル払いのライブハウスだ。


週末になると、米軍兵士の男女がやってくる。


戦地に向かう恐怖と絶望感と不安を抱えながら、街に出てライブハウスでロックを聴いて発散するのだ。


店の外に出ると、何故か暴れている者。


自暴自棄になって泣いている者。


必死にナンパをしている者。


嘔吐物を吐いて倒れて寝ているもの。


彼らは宵越しの銭は持たない。


paydayに彼らは生を謳歌する為に街へ繰り出す。


オキナワンロッカー達は、現在もロックを彼らに聴かせているのである。



最近、沖縄に関する件で政治家が不適切な発言をして話題になっている。


これらの問題の原因は「ヤマトンチュ」の政治家が「ウチナンチュ」のアイデンティティを知らないということに起因しているのではないだろうか。


「ウチナンチュ」と「ヤマトンチュ」は同じ日本国民だが、歴史・文化・伝統といった固有のアイデンティティは違うと考えるべきだろう。


互いのアイデンティティの違いを知るということが大事ではないだろうか。


沖縄県民が持っている固有のアイデンティティというものをしっかりと認知して肯定しながら、「ウチナンチュ」と「ヤマトンチュ」が共有するべきアイデンティティを構築する作業を全くやってこなかったのが、普天間基地移設問題や政治家による不適切発言の紛糾の原因であると憂いている。


文化芸術を勉強会で学ぶのならば、それこそ沖縄の文化人や芸術家を招くべきであったのではないかと想う。


沖縄県民はテレビやラジオを通じて、「ヤマトンチュ」を知ることが出来る。


そのテレビやラジオから「ヤマトンチュ」が、自己アイデンティティのフィルターだけを通して、沖縄を語る姿をどのような気持ちで「ウチナンチュ」は観ているのか。


正直、悲しいことだと想う。


色んな考えや意見があると思うが、先ずは相手を知ることが大切ではないかと想う。


結論を言えば「ウチナンチュ」と「ヤマトンチュ」の距離を縮める事が大切であって、それが善である。


「ウチナンチュ」と「ヤマトンチュ」の距離を拡げる事は愚かであり悪であろう。


個人と個人、個人と企業、個人と国、地方と国。


色んな繋がりがあって、お互いに支えあっているのである。


公平でフェアに繋がりを深め、議論を深めながら、未来を創っていく事が大切だと想う。


先ずは、お互いのアイデンティティを肯定することからはじめよう。


「ウチナンチュ」と「ヤマトンチュ」ならば出来るはずだ。


辛く、悲しい、あの戦争から70年。


それなりに育んできたものも、きっとあると想う。



ざっくりであるが、自分の人生を振り返ってみた。



「ウチナンチュ」と「ヤマトンチュ」は日本国民として共有すべきアイデンティティを構築できるか。


収束していない原発事故。


地震列島における巨大地震津波


米軍基地(国防)と原発(エネルギー)に依存している日本。


拉致問題も現在進行形のテロとして恐怖の秒針を刻んでいる。


拉致被害者と家族の再会には「タイムリミット」があるのだ。


それが、現在進行形のテロと呼ばれる理由である。


一刻も早く、拉致被害者・特定失踪者・帰国者日本人妻を奪還せねばならない。


これらの問題に対して、今後どのように取り組むべきか。


これから、何をやってゆかなければならないのか。


今後も皆さんと共に考えていきたい。





2015年7月2日
木島伸一拝


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