【新年寄稿】ヤルタポツダム幻想
教条的で、旧態然とした価値観に依存しつつ、言っていることは逆に、伝統や国家の枠組みを破壊して、過激な構造改革や新由主義政策に傾倒している保守に全く賛同できない。
左派はどうかというと、保守とは違う意味で、教条的で、旧態然とした価値観に依存している。
護憲だの、革命だの、闘争だのと言った、左派的な教条的、旧態然とした思想には当然ながら賛同できない。
伝統や文化を大切にしながら、時代の変化に緩やかに寄り添うような価値観ではいけないのだろうか?
勿論、それは戦後民主主義を全否定するような回帰的、教条的なものであってもならないし、多様性を否定する旧態然としたものではいけない。
既存の価値観に振り回させている左右保革そのものが教条的、旧態然としており、多様性を排除する傾向を強く感じる。
保守と左派は一見すれば仲が悪いように見えるが、お互いを補完しあう同志でろう。
対米従属的な保守と護憲左派は別個のようで一体である。
対米従属を捨てることが出来ない限り保守は改憲をやることができない。
安保法制というものは集団的自衛権行使(米国の外圧による要求)容認の憲法解釈によるもので改憲ではない。
皮肉にも9条と日米安保の延命措置のようなものになってしまったのだ。
9条というものは、実は日米安保体制維持のカードでもある。
対米自立、つまり、自主防衛体制を確立すれば米軍基地は日本に必要が無いのだ。
しかし、9条の縛りによって日本はいつまでも米国に従属し米軍基地を維持しなければいけなくなる。
9条があるから、辺野古に基地も出来てしまうし、高江にヘリパッドも建設されてしまうのだ。
沖縄から米軍基地を叩きだすには9条を破棄して対米自立と自主防衛体制を確立する以外にない。
米軍基地の必要性を無くせば良いのだ。
つまり自主憲法を制定して、国軍を創設せねばいけないということだ。
今のままでは、既存の左右保革は現状のパラドックスから逃れることが出来ない。
この蟻地獄がヤルタポツダム体制である。
ここで話を戻すが、現状のパラドックスから抜けられない左右保革の方々に言いたいのだ。
教条的で、旧態然した価値観から先ずは脱却してはどうか?
多様性を肯定してはどうか?
先ずは、そこからやってみては如何か?
もしかすると、今まで見えなかった事実が見えるやも知れない。
了