BPDの危険因子 BPDとトラウマ その3

これまでに述べてきたように、虐待をBPDの原因であると考える研究者は今ではほとんどいない。
では少なくともBPD患者に対して虐待がなされたことの、指標となるような症状はあるのだろうか。
少なからざる論者が、そうした症状はまさしく存在するのだと主張してきた。
たとえばE.Sue Blumeが掲げた長いリストには、性的虐待がなされた指標となるような症状や病態として、以下のようなものが掲げられている(Blume, 1990)。
摂食障害、恐怖症、物質乱用、うつ病強迫性障害などの精神疾患
罪責感、恥辱感、そして慢性的な怒りなどの情動に関する問題。
さらに見捨てられることに対する不安、自傷行為などの自己破壊的行動、自殺念慮、解離症状、対人関係上の問題、乱交(あるいは性の回避)、危険を冒す(あるいはリスクを負うことが出来ない)傾向といったさまざまな症状である(Blume, 1990)。
なかでもBPD患者が示すことの多いさまざまな自己破壊的行動は、虐待の指標となる症状の代表として挙げられることが多かった(van der Kolk, Perry, そしてHerman, 1991;Cavanaugh, 2002;Nollほか, 2003;Yates, 2004)。
彼らの主張するところによれば、話はこうだ。
子供の頃に虐待を受けた患者は、ストレスに晒されると、それを小児期に受けたトラウマの再来として経験する。
そしてさまざまな自己破壊的行動を取ることにより、彼らはトラウマと関連した情動的苦痛を和らげようとしているのだという。
だが小児期の性的虐待と、自傷行為の間に因果関係がみられるかどうかはもとより、そもそも両者に有意な相関が認められるかどうかについて、近年疑問が投げかけられているのである(KlonskyとMoyer, 2008)。
この研究は性的虐待自傷行為の関連について調べることを目的として、2006年までになされた159の実証研究のうち、方法論的に厳密な43の研究から得られたデータを再解析したものである。
この研究で得られた、性的虐待自傷行為の間にみられるφ係数(連関係数)の値は、わずか0.23にすぎなかった(ちなみにφ係数が0.2以下というのは、2つの変数の間にほとんど相関がみられないことを意味する)。
また家庭環境、解離症状、無感情症、絶望感といった、さまざまな精神医学的リスク要因を考慮に入れて補正した場合、虐待と自傷行為の間の相関は最小限あるいは無視できる程度まで減少した(Zlotnickほか、1996;Cratzほか、2002;Martinほか、2004;Evren CとEvren B、2005; Parkerほか、2005)。
逆にBPD患者が自傷行為をおこなうかどうかは、虐待を受けた経験の有無とは関係がなかった(Zweig-Frankほか、1994a)。
すなわち両者の関係は因果的なものというよりも、それぞれが同一の精神医学的リスク要因に関連していることに由来する、見かけ上のものである可能性が明らかになったのである。
では同じく虐待と結びつけられて考えられることの多かった、解離症状―記憶、意識、自己同一性、そして知覚の機能停止などにより特徴付けられる病態―についてはどうだろうか。
たしかにBPD患者では、解離性体験評価尺度(Dissociative Experience Scale: DES)のスコアが、他のパーソナリティー障害に比べて高くなる傾向がみられる(Zweig-Frankほか、1994b, 1994c)。
しかし性的虐待を経験したBPD患者と、そうした経験のないBPD患者を比較した場合、DESのスコアと関連していたのはBPDという診断それ自体であって、虐待経験の有無ではなかった。
すなわちBPDで解離症状がみられるかどうかは、患者が虐待を受けたかどうかとは関係がなかったのである。
それでもひょっとすると、性的虐待の指標となるとされた、これらの病態すべてに通底するようなー性的虐待の経験者に固有のー防衛機制が存在しており、BPDの患者が示すさまざまな症状は、そのようなメカニズムに基づいて生じているという可能性はないのだろうか。
なされた研究の結果はここでも否定的なものであった。
虐待を経験していたBPD患者とそうでない患者との間で、用いる防衛機制に全く違いは認められなかったのである(Bondほか, 1994)。
すなわち投影性同一視、受動的攻撃性、分裂、行動化、打ち消しなどの防衛機制は全てBPDに特徴的なものであって、性的虐待などの特定の生活経験に根ざしたものではなかった。
以上をまとめてみよう。
最初のリストに挙げられていたような、さまざまな精神症状が成人後にみられたからといって、それを過去に性的虐待がなされていたことのマーカーとして用いることはできない。
(誤解の無いように言い添えておくなら、虐待がさまざまな精神疾患のリスク要因であることは事実だから、小児期に実際に性的虐待を受けていた子供が、後にこうした症状を発症する可能性なら当然あるだろう)。
なぜこのようなことをわざわざ強調するかと言えば、患者が訴えるさまざまな精神症状は、たとえ患者自身に虐待を受けた記憶があろうが無かろうが、虐待がなされたことの指標となる可能性があると考えるようなタイプの治療が、ごく最近まで盛んに行なわれていたためである。
患者自身には虐待を受けた覚えがないとしても、そのような出来事の記憶を抑圧している可能性があるというのが、そのような治療がなされた主な根拠の一つであった(Herman, 1992)。
しかしながら2つの例外的な研究(MouldsとBryant, 2002; MouldsとBryant, 2005)を除けば、トラウマを受けた被験者を対象としてこれまでになされた実験研究は、こうした人々ではむしろ「心を動揺させるような情報を忘れる」という能力が障害されているートラウマと関連するような情報を忘れることができないーことを一貫して示している(GeraertsとMcNally、2008)。
トラウマと関連する記憶が抑圧されるという理論に基づく治療の多くは、「抑圧された記憶を回復させる」という名目のもとに、患者が虐待をめぐるストーリーを作り上げるようにセラピストから促されるという、問題の多い手順に沿って行なわれた(McNally、2003)。
さらにまずいことに、こうした治療がもたらす破壊的な効果は、もともとの病理が重篤な患者であればあるほど著しかった。
そしてその治療の犠牲になったのは、多くがBPD患者―そしてその家族―だったのである(Paris, 2008)。