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俳句の作りようを読んで思ったこと

 青空文庫で「俳句」で検索して出てきた作品を、片っ端から読んでいきました。
 特に読んで良かったと感じたのは寺田寅彦『俳句の精神』と高浜虚子『俳句の作りよう』です。特に後者は、非常に優れています。
 本エントリでは、高浜虚子『俳句の作りよう』の良かったところを紹介したいと思います。尚、引用は、すべて青空文庫からです。

冒頭

 かつてある人の言葉に「虚子の俳話は俗談平話のうちに俳諧(はいかい)の大乗を説くものなり」とあったことは我が意を得た言である。近時は平易にいってすむことを高遠めかしく説くことが流行である。私はそれに与(くみ)しない。
 大徳智識の法話に「仮名法語」なるものがある。婦女老幼にも判るようにと仏の大道を仮名交じりの俗談平話に説くのである。読者この書をもって俳諧の仮名法語として見られよ。
ホトトギス大正二年十一月号以下掲載・虚子講述)

http://www.aozora.gr.jp/cards/001310/files/55510_51028.html

『俳句の作りよう』は『ホトトギス』に連載された、コラム……? エッセイ……? を、まとめたもので、そのタイトル通り、俳句の作りようについて綴られています。

一 まず十七字を並べること

 俳句を作ってみたいという考えがありながら、さてどういうふうにして手をつけ始めたらいいのか判らぬためについにその機会無しに過ぎる人がよほどあるようであります。私はそういうことを話す人にはいつも、
  何でもいいから十七字を並べてごらんなさい。
とお答えするのであります。
 中にはまた、俳句を作るがために参考書も二、三冊読んでみたし、句集も一、二冊読んでみたが、どうもまだどうして作ったらいいのか判らぬという人があります。そういう人には私は、
  どうでもいいからとにかく十七字を並べてごらんなさい。
とおすすめするのであります。何でもかまわん十七字を二、三句並べてみて、その添削を他に請うということが、俳句を作る第一歩であります。

 読みだして、いきなり、このぶっちゃけ感に、思わず吹き出しそうになりました。
 いやはや、まったくもって仰るとおりで異論も何もないのですが、もう少し格式張った感じで来るのかなと思っていました。冒頭に記してあった俗談平話は伊達じゃないですね。
 まあ、しかし、さすがに十七字を並べるだけではいかんと思ったのでしょう。引用部分の直後に、このようなくだりがあります。

「や」「かな」「けり」のうち一つを使ってごらんなさい、そうして左に一例として列記する四季のもののうち、どれか一つを詠んでごらんなさい。

 この後に、季語がずらずらと列記されているのですが、それを見てなるほどなあ、と。
 ものすごいハードルの下げようです。
「大丈夫、俺が許してやっから、ちょっとやってみ?」
 みたいな寛容さを感じますね。
 そう言えば、秋山は仏教に詳しくないのですが、少し前に「仏教の教えを現代ラップにしてみた」というのを見たことがあります。細かい内容は忘れましたが「大丈夫、たいしたことない、また、やってみればいいさ」みたいな文句が繰り返されていて「仏教とは、そういうものなのか」と思いましたが、虚子の雰囲気は、まさに、そこに通じるものがありますね。

二 題を箱でふせてその箱の上に上って天地乾坤を睨めまわすということ

 たとえばここに「年玉」という一つの題を得て句を作るという時分に、どうしたら年玉の句ができるでしょうか。「年玉や」とか「年玉かな」と言ったところでどうもそれだけでは句にならん、何とか方法はないか、という時に、そこに大体二つの方法があると言ってさしつかえないと思います。
 その方法をお話しする前に、とにかく年玉というものを考えてみることをおすすめいたします。というのは主として年玉についての過去の経験を考えてみるのであります。記憶を辿(たど)ってみるのであります。まず幼い時お年玉としてある人に貰(もら)った美しいカルタのことを思い出してみます。そのカルタは子供心に金の札のように見えたこと、そのカルタを初めて取った時の灯火の明るかったこと、その年玉をくれた若い叔母(おば)もその一座にあったこと、その時姉の貰ったお年玉は大きな手毬(てまり)であったこと、その手毬が縁に転がって行った時に拭(ふ)き込んである縁にその大きな丸い影法師の映ったこと、さてこのごろは貰うお年玉にもやるお年玉にも他の意味がつきまとって子供の時のような純粋な楽しい心持のないこと、ことに去年お年玉と言って何某(なにがし)のくれたものをつきかえした時の自分の心持、先方の態度、それらを回想してみるとおかしいような、さもしいような、腹立たしいようないろんな感情がこんがらがって起ってくること……そんなふうに年玉についてのさまざまな出来事なり感興なりをいろいろと思い出してみているうちに、ぼつぼつと俳句ができないこともないのであります。

 続いてはお題について。
 虚子は、この引用部分の後に、平凡で、あまり面白くない句を、いくつか紹介しています。
 挙げられた句を見て「面白くないなあ」と思っていたら、

 が、しかし私のお話ししようと思う二つの方法というのは、いずれもこんな句よりはせめて一歩先に歩を進める方法なのであります。その方法は二つあるから、どちらか一つを取ってごらんなさいとおすすめしようというのであります。他の一つは次章にゆずり、その一つの方をお話ししようと思います。
 昔芭蕉の弟子に許六(きょりく)という人がありました。その人が句作法としてこういうことを言っています。
  ある題を得たならば、その題を箱でふせて自分はその箱の上に上り、天地乾坤(けんこん)を睨(ね)めまわすがよい。
(太字引用者)

 と来ます。
 この「題を箱でふせて自分はその箱の上に上り、天地乾坤を睨めまわす」が、ひとつ上の句を詠むためのテクニックなのですが、これが、なかなか面白いのです。
 この技法が、どういう意味を持っていて、どのようにすれば使えるのかは原文を読んでいただくとして、実際に、そのテクニックを用いながら、虚子が、さらに幾つかの句を詠むのですが、明らかに面白くなっているのが分かるのですよね。
 ここで、明らかにしておきたいのは二点です。
 ひとつ上の句を詠む技法を教えて貰えること。
 その技法を教えて貰う経緯の中で、良い句とそうでない句を、自然に見極められるようになること。
 もちろん、俳句の道は奥深いので「分かった」などと言っては「お前は、いったい何を分かったと言うのかね」と目をつけられそうなので、あまり大きいことは言わないようにしておきますが、それでも「分かったつもりになる」これは、大事なことのように思います。少なくとも、自分が分かっていないことさえ、分かっていないほどではないので。

三 じっと眺め入ること、四 じっと案じ入ること

 芭蕉の弟子のうちでも許六(きょりく)という人は配合に重きを置いた人で、題に執着しないで、何でも配合物を見出してきて、それをその題にくっつける、という説を主張していることは前章に述べた通りでありますが、それと全然反対なのは去来(きょらい)であります。去来は配合などには重きを置かず、ある題の趣に深く深く考え入って、執着に執着を重ねて、その題の意味の中核を捕えてこねばやまぬという句作法を取ったようであります。
 この後者の句作法の方をさらに二つに分けてみることができます。その一は目で見る方で、
  じっと眺め入ること
であります。その二は、心で考える方で、
  じっと案じ入ること
であります。

 許六の教えと対となる去来の教えが説明されます。
 去来の教えは、実際には「眺め入ること」と「案じ入ること」に細分化できる様子で、それぞれについて章を分け、丁寧に説明されています。ここはテクニックさえ異なれど、やっていることは前章と同じで、そのテクニックを用いた句を、いくつか紹介している感じです。
 挙げられている句には、虚子なりの解釈も添えられていて、それを読むと、なるほど、どのような意図が、句に込められているかが分かり、また、その意図を、どのようなテクニックで込められたかが分かってきます。

五 埋字(一)、六 埋字(二)

 私はここに左の問題を出しておきますから、志のある人はこれに応じてめいめいの作を寄せてごらんになったらよかろうと思います。
  大蟻の○○○○○○○暑さかな

『俳句の作りよう』において、最も素晴らしい章が、ここでしょう。
 俳句には埋字と呼ばれる練習方法……と言えば良いのでしょうか? 上記引用のように、句の一部を埋めるように詠むものがあるそうです。上記の他にも、いくつかお題が提示されて、その後、実際に応募された句を、列記するように紹介されているのですが、虚子の斬りっぷりが中々にすごいです。
 応募された句が、ずらずらと紹介されているのですが、なるほど確かに志しているひとが応募しているだけあって、直裁的と言うか、稚拙と言うか、何だかなあ……と思いながら読んでいると、だんだん上手い句が紹介され、最後に原句が紹介されます。
 そう、ここまで読んで、秋山は思わず「あっ」と叫んだのですが、埋字というのは、優れた句の一部を空きにしておいて、どれだけ原句に近づくことができるか、どれだけ原句から離れることができるかというゲーム的な要素もあるのですね。
 虚子の取り上げ方は、さすがに堂に入っていて、前述の通り、稚拙なものから紹介していって、原句に近いものを挙げたかと思いきや、原句とは異なるアプローチを仕掛けたものへと目を移すような、紹介の仕方、順番にもストーリィがあって読ませます。

七 古い句を読むこと 新しい句を作ること

 今の若い人たちの頭に一つの大きな迷いがあります。あらゆる芸術を通じてそれがあるのであります。それは何かと申しますと「新」ということであります。それらの若い人たちは何でも新しければいいと思っています。新しいことを私も悪いとは申しませぬが、果たして「何が新しいか」ということも十分に研究せずにただ新しければいいと思っている人が十中八九であります。
 新しいと申すことは古いことを十分に研究した上で申すべきことであります。「新」ということは相対のことであります。十分に古いことを研究せねば何が新しいのだか古いのだか判ろうはずがありません。初めて俳句を作るものが俳句の約束をも了解せずにただ文字を羅列して新しがったところで、一般の俳句界には通用しないことであります。伝統文芸としての従来の俳句の真価を了解せずにおいて、「ただ自然より直接に新しいものを採り来たれ」と言ったところで、世間に通用しないことであります。新しいということは古いものを熟知した上で初めて意味ある言葉となるのであります。「古人の句を見ることなかれ」ということはとりもなおさず、いずれが新、いずれが陳かの研究をすることなかれ、ということであります。これほど無意味な言葉はないのであります。

 これは名文でしょう。
 温故知新とシンプルにまとめてしまっても良いのですが、虚子の、こう「若い人」を気遣う言葉の選び方が、とても好ましいです。書かれている内容についても、仰るとおり、まったく異論が介在する余地がありません。引用部にもある通り「あらゆる芸術」について、普遍的に言えることでしょう。
 大学のとき、ある講義で「ある心理テストがあります。対象者が保守的か革新的かを判断するテストです。このテストを受けた二十代の方が、どちらが多かったと思いますか?」という質問が教授よりされました。反射的なイメージで言えば、老人の方が保守的なイメージがあります。反対に、若者、二十代の方が革新的と言えるでしょう。
 答えは保守的でした。
 回答を聞いて納得しました。細部は記憶が曖昧ですが、大意として「若者は、親の言うことを聞いて育つので、規則を守ることを大事と考え、保守的になりがち。反対に大人は、保守的であり続けることに危険性を覚え、革新的であろうとするので、革新的となる」だったと思います。

終わりに

 俳句は面白いですね。
 とても奥深いです。
 触れれば触れるほど、遠ざかっていくのを感じますね。
 プレゼンテーションに関する逸話として「一時間のプレゼンは五分で準備できるが、五分のプレゼンには一時間かける必要がある」みたいのがありますが、同じようなものを感じますね。一時間で原稿用紙十枚に相当する小説を書けるからと言って、俳句を同じスピードで詠むことは不可能です。
 一時間ほど唸り続けて詠み上げた句だって、次の日には、色褪せて見えるかもしれませんし、時間を掛けることで、足し算して、引き算して、自分の奥底から湧き上がってきたものを入れたり、他人の句の良いところを拝借したり、そうやって詠むものかもしれません。俳句とは。
 そして……辞世の句について思いを馳せます。
 辞世の句は、言ってみれば、自分の一生の経験を、死の間際の、限界まで高められた集中力で以って句にまとめる、究極の創作ではないでしょうか。
 うーん。
 奥深いですね。

俳句の作りよう (角川ソフィア文庫)

俳句の作りよう (角川ソフィア文庫)