お客様の「基礎体温」

昨夜、私の歌の師匠の山口悠紀子先生とお電話でお話。悠紀子先生はずっと、指導者及びプロデューサとして活躍されてきましたけど、今回、還暦を過ぎて生まれて初めてのソロ・リサイタルを開催されました。私は別の本番と重なっていて、残念ながら行けなかったのだけど、とても素晴らしい演奏会だったようです。

色々とお話をしている中で、「体調が悪くて、ああしよう、こうしよう、なんていう色気を出さずに、とにかく声をきちんと最後まで保とう、と無欲でやったのがよかったみたい」とのこと。そうなんだよねぇ。ヘンに舞台慣れしてしまった私みたいなハンパな舞台人は、すぐ客席に媚びようとして力が入って、ろくな結果にならない。結局は、音楽や、声ときちんと向き合うことが全てなんだ。

面白いなぁ、と思ったのは、「会場に来てくださったお客様が、みんな、『山口悠紀子がんばれー』って思ってくれている、その拍手の温かさが、感動的だった、って言われたの」という先生の言葉。悠紀子先生のお人柄や、これまでの音楽活動の中で積み上げてきた人の輪が、そんな温かな拍手を生み出したんだと思います。でもそれを聞きながら、「そういうのも、ライブの醍醐味だよなぁ」と思ってしまった。

ライブの楽しみ、というのは、一期一会の空気の共有感なんだ、ということは、この日記で何度も書いていることなんですけど、その「空気」を生み出すのは、舞台上の表現者だけではありません。会場のお客様が、どんな思いで舞台を見つめているか、そのお客様の気持ちが生み出す一体感や高揚感という「空気」も、確実にある。

多分その一つの極端なケースが、阪神ファンの甲子園での応援だったりするんでしょうね。選手がどんなパフォーマンスをしようが関係なく(と言い切ってしまうが)、一つの「熱狂的な空気」を作り上げる観客たち。それに選手のパフォーマンスが応じていくと、そこは興奮のるつぼと化す。

お客様が、舞台のパフォーマンスに対して非常にクールに相対していると、表現者としては会場の空気を温めるのにものすごく苦労する。ガレリア座の公演ではよく経験することなんですが、開幕後しばらくは、会場があまり乗ってこないんですね。「こいつら、どんなことをやりだすのかな?」というような手探りの感覚がある。そんな冷めた観客をどう乗せていくか、というのも表現者としての力量だったりする。

もう一つの極端な事例として、以前この日記にも書きましたけど、辻正行先生がお亡くなりになった直後の、「その心の響き」演奏会、というのも挙げられると思います。客席に集ったお客様の全員が、正行先生への哀悼の思いで一つになった会場。その思いの熱さが、演奏者にも乗り移ったかのような、あの濃密なライブ空間。

大船渡での「蔵しっくこんさぁと」が、我々にとって本当に大事な舞台なのは、ライブという経験に飢えた大船渡の人たちの渇望が、客席から波のように伝わってくるから。その思いに応えたい、と思うから。応えることで、会場から湧き上がってくる満足の拍手に、表現する我々自身も、ものすごく満たされた気分を味わえる。あの場所の熱気を作っている一つの大きな要因は、我々のパフォーマンスじゃなくて、大船渡のお客様自身の「期待感」という体温だったりするんです。

「どこで表現してもいい、なんてものじゃないと思うのよ。会場、ホール、という場所で、きちんとお客様を呼んで表現することに意味があると思うの。お金持ちのサロンで、その方一人だけが座っているガラガラの客席に向かって歌う、なんてこともありうるかもしれないけど、それは虚しいよねぇ」

悠紀子先生のそんな言葉に大きく頷きながら、ライブという表現を支えている、表現者と観客、という二つの主体について、少し考えてしまいました。主客、とは言いますけど、一つの「席」=「場」を作り上げているのは、「主」だけじゃない。「客」の存在が生み出す熱い空気、あるいは逆に、冷ややかな空気。そういう空気を生み出し、コントロールするのが「表現者」の力量であったとしても、そもそもの「客」自体が持っている「基礎体温」が、ものすごく大事だったりするんですよね。