第二十六話「ピリオド」

蝶がんばった最終回でした。ブラボー、ああブラボー(いやここは、愛を込めてパピ!ヨン!というべきか?)

あいかわらず、もったり感があるというか、いまいち垢抜けきらない演出やシナリオ構成なのだけど、原作の気分を忠実に再現しようという心意気は良かったし、かなりの部分でそれに成功してもいた(相変わらずヴィクターの台詞の聞こえかたで微妙、いっている内容も耳で聞くには意味がのみこみにくくていまいちだが……。とくに宇宙でカズキと斗貴子が再会する場面は、原作者がためらった裸演出をやり遂げたり、原作の大きな特徴である「基本的な視点が、保護者視点」(*)というのも、きちんと表現されていたのはよかった。おかげで限りなく原作を再読しているに近い気分で見ることができたのでした。

しかも、おまけ的な位置づけとはいえ「アフター」も一部やってくれたのもいい。こういってはなんだが、このスタッフらしからぬ、気の利いた構成でございました(念のために書いておくが、これは褒めているのである)。
 正直、和月作品のアニメ化というとどうしてもるろうに剣心の京都編や追憶編を思い出してしまうし、あの原作をはるかに超える映像と演出に比べると見劣りするのは確かだけど、言い方をかえれば、原作のテイストに忠実なある意味「正しいアニメ化」であったということは出来るだろう。

(*)作中キャラで言うと、ブラボーや照星、場合によっては、斗貴子の視点ということ。カズキは主人公でありながら、基本的にその内面の変化や思索の過程は省かれて描写される。難題に対する、とっぴなようでいて、カズキらしい回答に、ある日突然「辿り着いていて」、そのことだけが示されるのだ。第三者斗貴子さんとかブラボーとか)がその変化に気づくことによって「成長」が表現されることが多い。それこそ、子の成長の過程をを親が全てを知りえないように。
そのため、必然的に視聴者(読者)は、カズキの視点よりも、カズキの志向を推察する側の視点に立たざるを得なくなり、少年漫画としては、あるいはふさわしくない読書姿勢を迫られるものであったかもしれず、それが人気低迷により打ち切りという結果を呼び込んだ可能性すらある。もっとも、それ以外に、単純に作品としてうまくいってないところもあったので、ただ主人公の問題だけではないとは思うけど。

第二十三話「無敵の二人」、第二十四話「護くんに女神さまの祝福を!」

いつからかずっとここにいた。退屈? 倦怠? それとも嫌悪?

 ようするに、おそろしくつまらない、ということでは折り紙つきだった、銀のマリア編の掉尾を飾るにふさわしい、ものすごくつまらないクライマックス編なのだった。
何度も書いているように、ビアトリスというものがこの世界においてどういった位置づけで、どういうものとされているのか、ということが、きちんと説明されてないものだから、ここでいきなり「破壊されたがっている」だのなんだのを言われても、知ったことではないのである。そもそもビアトリスが物語の焦点に無かったのだし(メインはどう見てもラブコメだ)、それに絡めて「女神様」の心のありようを語られても、やっぱり知ったことではないのであった。絢子の内面劇自体も掘り下げが浅いし、その観点でいうと彼女を変化させるべく存在しているはずの護くんがキャラとして弱すぎるのもきびしい。フルーツバスケットのアニメ化されているところぐらいまでの透君とか、ホスト部ハルヒみたいな強烈なものが無いのだ(*)。
そんな風に重みがないせいもあるのか、マリアがロケットにたちむかう二人へと絶叫するシーンでは思わず噴き出してしまった。なぜにそこで、青年の主張みたいなことを言いますか、精神年齢は老人のはずなのに。まあ、結界を壊すと、国連(みたいなもの)に探知されて「アレ」が打たれることが予想できないぐらいなので、海千山千の策士、というのではなく、 原初への帰還を引っ張り出して何がしたかったのか、なにを期待していたのかわからん、男二人組とたいして変わらないどころか、よりひどい何十年生きても直情径行のうっかりさんがなおらない、というキャラなのかもしれない。

エピローグのいつもどおりの生徒会が絢子たちをいじる展開は悪くなかった。これだけやってればよかったのになあ。結局ちゃんと紹介されなかったひともいるしねえ。なんかもったいない。

(*)そういえば、川原泉の漫画に、剣豪のヒロインをそのものずばり「護り刀」と称したものがありましたが、それはともかく、護くんのキャラ立てはどっちかというと少女マンガというよりは、ギャルゲーの主人公的だ。