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2011-10-17

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                                        天瀬裕康

オキュルス三〇周年と渡辺温展

オキュルスと渡辺東

 ギャラリー・オキュルスの設立三〇周年記念事業の一つとして、渡辺温へのオマージュ展をする……という案内状が届いたのは、東日本大震災の年の、厳しい残暑が続いている頃だった。

 馴染の少ない方のために若干の説明を加えると、このギャラリー・オキュルス(ときにオキュルスと略す)は東京都港区高輪にあって、渡辺啓助の四女で渡辺温の姪にあたる東(あずま)さんが、一九八〇年に開設し経営しておられるものだ。単なる画廊としての機能だけでなく、いろんな芸術的イベントも行われ、サロン的なムードが漂っている。

 ちなみに東京生まれの東さんご自身も、武蔵野美術大学卒業の画家であり、イラストレーターとして、主としてミステリ―関係の挿画や装幀を手がけてこられた。渡辺啓助の晩年に関する東さんの記述は貴重だし、啓助も装幀をしているが、東さんも啓助本の装幀をした。最近は「丁」の字を使うことが多いが、ここでは一応、「幀」を使わせて頂く。

 さて画風だが、はじめはアブストラクト風だったようだし、一九九一年の『鴉白書』(東京創元社)の普及版や限定本(渡辺医院の所蔵は二〇〇部の内第七八番)の幾何学的に切った画面処理も美しい。

 しかし基調は、たとえば間羊太郎の『ミステリ博物館』(一九七一年、三崎書房)や日影丈吉の『ミステリ―食事学』(一九八一年、社会思想社)、さらには『創元推理 ?』(一九九二年、東京創元社)における装幀・挿絵に見られるような、幻想・迷宮的内宇宙の超レアリズムだ。

 主たる作品集には、一九九九年十一月に限定五〇〇部で出版された『アンドロギュノスの裔たち』があり、渡辺医院には五二番が所蔵されている。この作品集の題名は渡辺温の「アンドロギュノスの裔」によると思われるが、この「裔」は「ちすじ」と読む。それでは、いよいよ渡辺温の世界へ行こう。


案内状と展示物

 この渡辺温オマージュ展の会期は、九月二十二日から十月二日までだ。二十三日(秋分の日)のオープニング・パーティーに、私は渡辺玲子と少し早目に到着し、周囲を見回したのであった。

 案内状によれば参加作家として、十七名の画家・版画家・人形作家などの名前が並んでいる。そして内面には、末弟・渡辺濟や兄・啓助はじめ、浜田雄介、八本正幸、戸川安宣、権田萬治たち諸氏の言葉が印刷されている。

 最初にある《遠花火我にも幽き家系あり》という渡辺濟の句が、全体を引き締めている感じだ。

 中ほどには、権田萬治氏の《「可哀相な姉」が最も優れた作品だという私の評価は今も変わらない》という言葉が出てくる。最後に島崎博氏が薔薇十字社版『アンドロギュノスの裔』の再刊を喜んだあと、《今年ギャラリー・オキュルスは三十周年を迎えるという。併せて渡辺東さんにもお祝いを申し上げたい。おめでとうございます!》と締め括っている。

 さて今回の展示における眼目の一つは、この八月二十六日に刊行された創元推理文庫の渡辺温全集『アンドロギュノスの裔』(浜田雄介解説)である。これが会場に並んでいて、それがまず目につく。

 その横には渡辺温の作品集『アンドロギュノスの裔』(一九七〇年九月、薔薇十字社)があるが、この年譜を編んだのは島崎博だ。この本の帯は、句集『球体感覚』や詩集『終末領』を出した加藤郁乎が書いており、その言葉は異次元に誘う。それは黒地白ヌキで堀内誠一の装釘ともよく調和しているのだが、この挿画も渡辺東である。なお、今回の全集と比較すると、小説や脚本は、大部分が収録されているものの、掌篇や翻訳・翻案は今回の全集で初めてのものが、かなり認められた。

 また、会場には三〇センチくらいの「温」人形のほか、古い「ポー・ホフマン集」原稿の表紙部分、それから、これまでにも展示されたことのある温のシルクハットなどが目に入る。

 そうこうしている間に参列者が増え、挨拶に忙しくなってきた。

 文脈の都合次第で、一部では敬称を省略することもあるが、どうぞお許し願いたい。


参列者たち

 最初に挨拶したのは、八本正幸氏。渡辺医院蔵の野田昌宏「SFイラスト・ライブラリー」が褪色しかけて困ったとき、助けてもらったことがある。

 次いで横井司、小松史生子、末國善己といった、『新青年』研究会の人たち。このあたりは渡辺玲子も、たいてい知っている。少ししてから、浜田雄介教授にもお会いできた。

 この会に作品を出展している人は多い。この中で高山ケンタ氏は、渡辺玲子が『みんないっしょに』を上梓したとき、表紙を飾って下さった画家だ。天瀬は楢喜八氏とも、少しばかり雑談した。

 そうしているうちに、奥木幹男氏にお目にかかれた。渡辺啓助の蔵書では日本一で、啓助の年譜も多くは彼の仕事だ。奥木氏を群馬県吾妻郡中之条町四万温泉に訪ねたのは二〇〇六年、五月初めの連休を使った夫婦旅行の途中であった。今回の東日本大震災に際し、啓助関係の膨大な蔵書は無事だった由、「それはなにより」と喜んだものだ。

 ミステリ―文学資料館の権田萬治館長と初めてお会いしたのは、台湾へ帰られた島崎博氏の再来日があり、「島崎博さんをお迎えする会」が開かれたときだと思うが、その評論は素晴らしい。渡辺玲子は初対面だったが、よき思い出になったであろう。

 その後、彼女は児童文学関係の人と話し込んでいたようだ。村岡花子の孫の村岡恵理さん、横溝正史の次女・野本瑠美さんたちである。

 やがてベルナール・キリシ氏により、温の短篇の仏訳が朗読された。「兵隊の死」等だったと思う。それからボードレールやアルチュール・ランボーの詩の一節もあったようだ。そういえば温はランボーに似ているではないか。

 ワインやツマミも出て、会場は満員――こうして渡辺温オマージュのムードが拡がってゆく。

 U.C.C.(アンダー・クラウド・クロック)による温の詩の朗読(男性)とギター伴奏(女性)も、温の文学世界に相応しいものだったが、同時に、いつも香気ある雰囲気を醸し出す女主人・東さんを、優れて印象づけるものでもあった。

 

再び渡辺東の世界

 余談ながら帰途の車中、「『渡辺東の世界』展が開かれてもいいんじゃないかな」と、二人で話し合ったことである。

 薔薇十字社版の『アンドロギュノスの裔』(一九七〇年)には、啓助が「温という弟」という一文を寄稿しているが、その中で東の挿絵についても触れている。

 《装釘やイラストは僕の第四女である東が受け持った。彼女はとても楽しい仕事だと云っていたことを付記しておく》

 この本が出版されたのは一九七〇年だが、このときすでに後年の作品集に見られるような絵が描かれているから、画風の確立はかなり早い時期からだったのだろう。

 東さんの作品集『アンドロギュノスの裔たち』は大場啓之・企画、和泉昇・編集で、「鴉の会」の人たちが頑張ったようである。三四作品が収録されており、発行所はオキュルスであった。

 この限定出版に際し、東さんの原画をもとに、各一〇部のリトグラフが作製されたとの由だが、渡辺医院には「蝶発するミトコンドリア」がある。

 他方、文化人で実業家の浜田麻記子が発行していた月刊『ぺるそーな』誌の表紙デザインも、二十一世紀のファースト・ディケイドを飾った。

 それでは東さんを入れた、アナザーWWW展を想像することも、できるのではあるまいか……。

(なお、この「時空外彷徨」紙については、乱歩はじめ探偵作家一般についても窮めて造詣の深い秋田稔氏が、個人誌『探偵随想』第一一二号で触れて下さいました。付記して深謝します)


時空外彷徨 第二七号 二〇一一年一〇月八日



★「時空外彷徨」第26号は、こちらをご覧下さい。

http://d.hatena.ne.jp/sinseinen/20110415

2011-04-15

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                                                  天瀬裕康

天災人災災害と文化

  

想定外(?)の展開

 暫定的に東北関東大震災と呼ばれた異変は、四週間経っても、まだ収まりそうにありません。

 この間、『新青年』研究会及び関連諸団体の皆様の中には、被害に遭われた方も少なくないように聞き及んでおり、心よりお見舞い申し上げます。

 じっさい、地震と津波に関しては、それなりに復興の兆しが見えてきたものの、原発事故の影響はさらに拡がるかもしれないのです。

 すでに西日本でも、通常以上の放射性物質が検出されております。東電の説明では、すべてが「想定外」のように聞こえますが、それらを「想定内」のこととして、訓練されたグループを作っている国に比べると、なんたる差でしょうか。

 空中には、今回の事故で舞い上がった放射性物質が、地球上空を廻っていることでしょう。そこへ四月四日には、法律の五〇〇倍の汚染水を一万千五百トン海へ放出し始めたのです。これを一時的に止めることができても、さらなる危険状態の起こる可能性は少なくありません。

 だからといっても、多数の東電の社員を非難するつもりはないのです。現場の作業員は、それこそ命がけで頑張っているのですし、被曝した協力会社(下請け)の人たちのことを想うと、安全な場所にいて言い訳ばかりしている会社の幹部は、現場に行って責任ある指示を出してほしいのです。

 天瀬裕康は『闇よ、名乗れ』(二〇一〇、近代文芸社)の中で、科学文明の全面的否定を描きましたが、渡辺晋の本名で書いた『半世紀後の反核戦争』(一九九八、西日本文化出版)では、核戦争反対、原発容認の立場を採っています。今の時点ではどのように考えるべきでしょうか。それではしばらく、渡辺晋の足跡を辿ってみましょう。



放射線との関わり

 渡辺晋は、旧制中学2年の一九四五年八月六日から六日間、広島県安佐郡飯室村(現・広島市安佐北区)で救護・入市被爆で、第3号被爆者健康手帳(いわゆる原爆手帖)を取得しております。それを告白できたのは被爆してから半世紀後、天瀬裕康名義で書いた「異臭の六日間」(『広島文藝派』復刊第十一号、一九九六年九月)でした。

 次は間接的なものですが、一九五七年に岡山大学大学院に入ってすぐの頃、「日本における白血病の臨床統計(中四国地方)」という八二二例の調査に参加しました。白血病はどこにでも発生しますが、やはり広島は高率でした。原爆による被爆も他の被曝も、無害ではありえません。

 第三は大学院時代の後期、鳥取との県境に近い岡山県苫田郡上斉原村にあった、原子燃料公社人形峠事業所の診療所のことです.

 このウラン鉱山が開設されたのは、東海村で「原子の火」が灯った一九五七年八月二十七日でしたが、渡辺は前後三回、合計数ヵ月、アルバイトで診療所勤務をしたのです。国家試験は済ませ、医師免許も持っていましたから、臨床医の仕事をするのに問題はないのですが、その時は新婚早々だったので、多少気になりました。しかし、異常を起こすことはなく、若い社員たちの、未来のエネルギー問題を想う情熱には、胸をうたれたものです。

 ずっと後の一九八九年十月、渡辺はIPPNW(核戦争防止国際医師会議)に入会し、世界各地や国内の大会に参加しますが、原発との関わりを持ったのは、二〇〇〇年十月十四日に青森県医師会館で行なわれた日本支部の理事会でした。当時の金上幸夫青森県医師会長が、ことのほか熱心な反原発論者で、六ヶ所村の原子燃料再処理施設見学の便を図って下さり、たいへん勉強になりました。

 その他、作家詩人関係にも反核・反原発の思想を持つ人は多いので、目を転じてみましょう。



ある詩人、編集者への回想

 原爆詩人の峠三吉といえば、《ちちをかえせ ははをかえせ……》の詩で有名ですが、その研究者として詩人として、さらには年刊の『原爆と文学』誌の編集者でもあった増岡敏和氏が、昨年(二〇一〇年)七月二十八日に他界しました。

 縁あって、とでも言いましょうか、私が初めて同誌に寄稿したのは二〇〇〇年版、渡辺晋の本名で「核戦争防止国際医師会議(IPPNW)地域会議について」を書いたのです。

 この組織については、前項でちょっと触れておりますが、この小論では、一九八一年に米国バージニア州のエアリーにおいて行われた第一回世界大会から始め、八七年にニュージーランドのオークランドで開催された、最初のアジア太平洋地域会議に就き略記しています。その後の経過も簡単に述べたものですが、以後は創作を発表しております。

 すなわち二〇〇二年版には、「廃墟の残照」を載せてもらいました。これは、復興したエコノミック・アニマルの牙城のようなヒロシマを嫌う被爆患者と医者の話。二〇〇三年版にでた「ニューマン・カズンの紙碑」は、土曜評論の主筆で、原爆乙女や原爆孤児の救済に尽力したノーマン・カズンズ関連の物語。二〇〇四年版の「怪獣のいる寓話」は、日本のコイズミ首相、米大統領ブッシュ、英首相ブレアたちを揶揄したファンタジーです。

 編集者の増岡敏和氏は、いろいろアドバイスして下さいましたが、原発反対か容認かでは、少し意見の分かれる部分がありました。

 峠三吉の場合は、死亡が一九五三年三月十日で、日本の原発が始まるよりは以前ですから断定はできませんが、おそらく反原発の立場に立ったのではないでしょうか。

 統計をとったわけではありませんが、一般に、反原爆の芸術家・活動家の中には、反原発の立場をとる人が多いような気がします。そのほうが論旨もスッキリするのですが、実際問題としては、もはや核抜きの文明は考えにくいでしょう。

 一時的な節電には協力しても、すぐまた電気の無駄使いを始め、核のために人類が滅びるとしても、核エネルギーの利用を止めないでしょう。だとすれば、核による事故を防ぎ、起こっても被害を最小限に食い止められるよう、すぐ科学的対応がとれるような体制を作る必要があるに違いありません。

 いまは余計に、そのことが痛感されるのです。



日本ペンクラブとヒロシマ

 二〇〇八年二月二十二日から二十五日まで、新宿の全労済ホールで、「災害と文化」をテーマにしたPENフォーラムがありました。

 地震、津波、旱魃、台風、噴火などの災害を、文学、映画,アート、音楽、演劇などで表現したもので、呼び物の一つに、井上ひさし作の朗読劇「リトル・ボーイ、ビッグ・タイフーン」がありました。

 リトル・ボーイは広島に投下された原爆で、アメリカ俗語では、おチンチンのことです。ビッグ・タイフーンは同年九月十七日の枕崎台風のことで、枕崎よりも広島のほうが被害が大きかったのは、原爆で防備ゼロになっていたからです。

 このシナリオは、のちに「少年口伝隊一九四五」と改題されますが、井上氏は二〇一〇年四月九日に逝去。上演の許可はとってあったので、私たちは、七月三日と四日に広島で公演しました。天災人災複合の悲劇という点では、今回の福島の悲劇とイメージが重なります。

 その年の九月二十三日から三十日まで、国際ペン東京大会が、早稲田大学大隈講堂等で開催されました。このときの基調公演も井上ひさし作の群読劇「水の手紙」で、出演者たちが環境問題などについて、山形県で暮らす人たちに語りかけるスタイルになっています。これまた今回の大震災へと、想いが巡って行くのです。

 震災で被害を受けられた方々は、現在を生きることで精一杯だとは思いますが、苦難を乗り越え、かつての広島がそうであったように、災害から文化を創造して頂きたいのです。

 原発の功罪などについても考えながら、つい余計なことを書いてしまいました。


時空外彷徨 第二六号 二〇一一年四月一〇日




★「時空外彷徨」第25号は、こちらをご覧下さい。

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2009-10-12

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                                                  天瀬裕康

    乱歩における正常と異常――佐々木久子を巡って

 アンケートが宿題を

 だいぶん以前のことだが、『新青年』研究会の「『新青年』趣味」第三号(一九九三年一二月、発行者・湯浅篤志)が、アンケート「私と江戸川乱歩」の集計結果を載せたことがある。

 その問一は〈乱歩との初めての出会い〉で、月並みながら、「小学生のころ、『少年探偵団』のあたり」と答えた。小学校一年生のときだったと思う。

 問二は〈乱歩の好きなところ、嫌いなところ〉だ。好きなところとして「性格的には、(少々我儘)几帳面な部分」を挙げ、嫌いなところには、「自分を語り過ぎている。(探偵小説作家なら自分を語るな)」と答えている。括弧内の言葉の真意は、今では分かりかねるが、もしかしたら、伝統的な私小説に対する反発が混じっていたのかもしれない。

 問三は〈乱歩が生きていたら尋ねたいこと〉で、これには次のように答えている。

 《(昭和三十六年頃、乱歩六六歳のときのこと)片口安史がロールシャッハ・テストを行って、〈精神的には安定しており…(中略)いくらか同性愛的傾向が認められる(後略)〉とされていますが、乱歩先生は御自身はどのようにお感じですか?》

 そのとき私は、乱歩の同性愛調査趣味は認めるものの、彼自身の同性愛傾向に関しては否定的だったが、その後、どうにも自信がぐらついた。

 私が「『新青年』趣味」に登場させて頂いたのは第二号からで、このアンケートだけは渡辺晋の本名だが、日本ペンクラブはじめ文筆関係はすべて天瀬裕康の筆名を使ってきたので、ここでも天瀬裕康として話を続けさせて頂こう。


  佐々木久子の証言

 さて、特定の人に関する情報で、生前には話しにくいが、死後も時間が経ちすぎると記憶が定かでなくなってしまう、といった場合がある。

 佐々木久子(一九二七・二・ 一〇〜二〇〇八・六・二八)についても、死後一年あまり経ったから、ここらで書いておかねばなるまい、というわけだ。

 彼女は兄二人、妹一人の三番目に生まれ、三歳のときから酒を飲んだという、広島生まれの広島育ち。失恋して上京し、雑誌『酒』の編集長となり、同郷の作家・梶山季之や作詞家・石本美由起らと「広島カープを優勝させる会」を作ったことは有名だ。

 著書多数で柳女の俳号を持つ俳人でもあり、校歌作製では石本との関係が深いが、文壇での交遊録はあまり伝わっていない。

 一緒に飲み歩いたのは火野葦平、尾崎士郎、壇一雄、江戸川乱歩、角田喜久雄、丹羽文雄、川上徹太郎、吉田健一といったところだが、殊に葦平と乱歩の知遇を得た。『わたしの放浪記』(一九九五年三月、法藏館)では次のように記している。

 《江戸川乱歩先生に、生まれてはじめて新橋や赤坂、柳橋などの超一流の料亭に連れて行かれ、女将さん、芸者さんたちの洗練された話術に大いに触発された(後略)》  

 このあとには、床の間の書画・置物などで眼識を養ったことが述べられており、文壇の正史に出てきても支障のない話だが、じつのところ私が確かめたいのは、彼女の次のような言葉なのだ。

 「乱歩さんは(同性愛があるから)、どこへ一緒に行こうと(私・久子は)大丈夫でした」

 たしかに私は、この手の言葉を読んだ記憶があるのに、どう探しても記事が出てこないのだ。

 そうなると、どこかで私が聞いた話ということになるが、聞き間違い、記憶違い、悪くすれば捏造ということにもなりかねまい。

 いずれにしても、信憑性は著しく低下するわけだが、ホモの問題、もう少し調べておこう。


  『噂』と諸氏の分析 

 天瀬裕康の「乱歩 パトグラフィー」(「『新青年』趣味」第四号、一九九六年一月)は、乱歩文学を小児性と感応精神病的反応の二面から観たものだが、異常性愛からの掘り下げは不充分であった。

 ところで、梶山季之責任編集の月刊『噂』第一巻第二号(昭和四六年九月)の座談会「男色まで実験した常識人」で探偵作家たちは、乱歩を倒錯者ではなく、予想以上の常識人だ、と断じている。戦前の陰気な乱歩とは一転し、戦後は、一族郎党を連れて飲み歩く俗物になっていたのだ。

 第二巻第九号では、座談会「夜の男たちの生態」の司会をしているのだが、どうも衆道(男色)研究家といった感じで、ここでも変態性欲者という感じはしないのである。

 また春原千秋は、『精神医学からみた現代作家』(昭和五四年七月、毎日新聞社)に収録された「江戸川乱歩」において、乱歩を、《耽美派の系譜で評価しなおすべきであろう》としている。

 他方、中野久夫は「江戸川乱歩の心的世界}(「ユリイカ」第一一巻第五号、青土社、昭和五四年四月)において、乱歩は、

 《サディズム、マゾヒズム、同性愛、ピグマリオニズム、覗き趣味、ユートピア願望などの妖しい雰囲気で読者を魅了しつくした》

 と述べている。

 さらに古川誠は、『国文学 解釈と鑑賞』(平成六年一二月)に載った「江戸川乱歩のひそかなる情熱 ―同性愛研究家としての乱歩」において、岩田準一と浜尾四郎の二人を衆道研究の師匠とし、日本の衆道文化とともに、古代ギリシャや欧米の同性愛に就いても興味を示している、と記した。

 もちろん、同性愛研究者と同性愛者は別のものだし、なだ いなだ等のように小児性に比重を置いた論説もあるが、戦前の乱歩作品には、オナニストの夢のようなものも感じられるだろう。


  学会とシンポジウム

 立教大学江戸川乱歩記念大衆文化研究センターが設立されたのは、二〇〇六年六月である。

 また、国際乱歩カンファレンス「江戸川乱歩とグローバル文化としてのモダニズム」が、立命館大学衣笠キャンパスで開かれたのは、二〇〇七年の一二月七日から九日までの三日間だった。乱歩は手の届かぬ高みに上がってしまいそうだ。

 さらに昨年(二〇〇八年)一一月八日と九日に、広島安佐南区の広島修道大学において、クィア学会第一回大会が開催された。

 この学際的なクィア研究は、正常/異常、男/女、異性愛/同性愛、セックス/ジェンダーといった二項対立の問い直しを図るものだ。この学会では、黒岩裕市の《「一種異様の人種」とセクシュアリティの表象――江戸川乱歩『一寸法師』を中心に》など、興味ある発表があって、乱歩における衆道研究も少し別の面から取り組む必要を感じたのだった。

そこで佐々木久子に話を戻すと、

 「(久子が)ビジンでないから安全だった、というだけのことではないのか?」

 という陰口もあるが、これは彼女のために反論しておきたい。なるほど彼女はエラが張って、いわゆる美人画的なマスクではないが、スリムでボーイッシュだったころはヘップバーンに似ていないでもなかったし、和服を着こなす点は立派である。

 きやすく活字にすべきではないだろうが、乱歩は小児性や異常性欲を離れた熟年の感覚で、チャコ(久子)をコーチしたのではあるまいか?

 どうも私には、乱歩の男色は本物ではなく、知的遊戯だったように思えるのだが、なおも研究の余地が残っているようだ。

 (二〇〇九年一〇月一二日)






★「時空外彷徨」第24号は、こちらをご覧下さい。

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2008-07-01

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                                                  天瀬裕康

    野田昌宏残照

 六月七日(土)、大坂の「ワッハ上方」演芸資料館から帰り、少し遅い晩酌をしていると、家内が、

「野田昌宏さんが亡くなられたそうよ」

 と言って新聞を持ってくる。見ればたしかに、

 《野田昌宏(のだ・まさひろ)=元日本テレワー

ク社長、翻訳家、本名宏一郎(こういちろう)六

日、心不全のため大田区の病院で死去、74歳(中

略)一九五九年フジテレビ入社後、製作会社の日

本テレワーク設立に参加。「スター・ウォーズ」

や「キャプテン・フューチャー」シリーズを翻訳

し、SF作家としても活躍…》と書いてある。

 家内は、野田さんが手掛けた幼児教育番組「ひらけ!ポンキッキ」のことを盛んに喋っていたが、私は別のことを考えていた――。

 私が現在地で開業するまえ、東京で開業するよう幾度も誘ってくれたのだ。私の開業二年後の昭和五十九年には、日本テレワーク社長になっていた。

 失礼な追悼になるかもしれないが、もし私が東京で開業していたら、あの肥満体はまだ生きていたかもしれない。あるいは、もっと早く死んでいたかもしれないが……。



   宏一郎と昌宏

 昭和八年生まれ、福岡市出身、学習院大学政経学部卒の野田宏一郎は、私より二歳若かったが、あらゆる点で私の先を走っていた。

 社会人としても、「科学創作クラブ」や「おめがクラブ」との距離、「SFマガジン」への登場年など、すべてにおいて前方にいたのである。

 初期の「SFマガジン」では本名の宏一郎を使っていた。初登場は、〈三周年記念増大号 日本作家特集!〉と銘打った通巻三九号(一九六三年二月)の「銀河帝国盛衰史」だ。四頁ものだが読み応え充分で、末尾に(筆者は宇宙塵同人、フジ・テレビ勤務)と付記してある。

 シリーズものとしての最初は、通巻四七号(一九六三年九月)から始まった「SF英雄群像・バック・ロジャース」である。これは十五回続いたあと、六八号(一九六五年五月)の「現代の英雄たち」が最終回となった。年月数と通巻号数にズレがあるように感じられる部分がときに生じるが、あいだに増刊号が入っているからだ。

 次は一ヶ月間をおいて、七〇号(同年七月)から「SF実験室」が始まる。これは多種・多方面の話題が次々と出て、延々と続く。終わったのは「SF解剖学のすすめ その12 落穂拾い」一二四号(一九六九年九月)だった。

 この間に単発物が入るから、野田宏一郎の名前は、いつも見ているような感じだったが、すぐさま一〇月(通巻一二五号)から「SF美術館」が始まる。第一回は「アスタウンディング一九五〇年」だが、このときは野田昌宏名義になっている。ところが目次では野田宏一郎のままである。

 通巻一二六号(一九六九年一〇月)は「秋の小説カーニバル」だが、野田さんは野田昌宏名義で「OH! WHEN THE MARTIANS GO MARCHIN’IN」を載せているが、今度は本文のところが宏一郎だ。

 次の一二七号(十一月)の「SF美術館?ヴァン・ドンゲン登場」では、また目次が宏一郎で本文が昌宏、一二九号も同様である。ちなみに、一般の美術館などにある同名の画家と、このSF画家とは別人だから、ご注意いただきたい。

 通巻一三〇号(一九七〇年二月)は創刊一〇周年記念特大号で野田さんは特別読物「グッド・オールド・ルナ」を書いているが、ここでは目次も本文も昌宏になっていた。やれやれ!

 

   私事で恐縮ですが

 昭和三十五年(一九六〇)二月に創刊された「SFマガジン」は、翌年二月、通巻一三号で東宝?と共催で「空想科学小説コンテスト」をおこなった。

 結果は一九号(一九六一年八月)に発表されたが入選はなく、佳作に山田好夫、眉村卓、豊田有恒、努力賞に小松左京の名が見られる。

 第2回は一九六二年十二月号に発表。入選一・二席はなく、三席に小松左京と半村良、佳作は筒井康隆、朝九郎、山田好夫、豊田有恒だった。

 これまでは読んでおればご機嫌だったのだが、この頃から欲が出て、自分でも書いてみたくなる。丁度その頃、「SFマガジン」四一号(一九六三年四月)に、第3回空想科学小説コンテストの募集が出たので、本名で応募する。三十一歳だった。

 審査は予定より長引いたが、五〇号の中間報告には名前が出ている。入選発表は五五号になった。このときは空想科学小説がSFになっている。それはどちらでもよいことだが、入選はなく、佳作一席は吉原忠男、二席は松崎真治、三席は永田実で、私の「幻想肢」は、なんとか奨励賞に残った。

 次いで一一三号(一九六八年一〇月)に「SF映画ストーリィ・コンテスト」の募集規定が発表され、一二〇号(一九六九年五月)に入選発表があった。このときの入選第一席は浜光年、二席が北上雅能、佳作の最初に私の「星の果て」があった。

 私の「SFマガジン」デビューは、一三八号(一九七〇年一〇月)の「ホモ・モンストローズス万歳!」

だったが、一三一号以後の野田さんはすでに昌宏名義で、連載ものを執筆中だったのである。

 ついでながら家内の渡辺玲子は、季刊「あ・の・と」の平成十三(二〇〇一)年春号に「二〇〇一年・マイ宇宙への旅」なる一文を書いている。 A・C・クラークの名作の題名を捩ったに違いない。

 内容は一九七〇年代に入った「スペースシャトル友の会」のことなどだが、NHK教育テレビの「宇宙を空想してきた人々」(講師・野田昌宏)にも触れている。新聞の訃報記事がすぐ目に入ったのは、こうした背景があったからだろう。



   野田さんの遺産「SFは絵なノダ」

 話を「SFマガジン」に戻すと、二二一号(一九七七年四月)からは、昌宏名義の「私をSFに狂わせた絵描きたち」という連載が始まり、二五四号(一九七九年十一月)からは「野田昌宏のセンス・オブ・ワンダーランド」が続く。

 以後、益々のご健筆。「野田昌宏の本 二〇〇X年度 豪華ラインアップ」式の年賀状が、社宅時代も医院時代もやって来る。どれだけの単行本が出たか分からないが、主軸は宇宙物だろう。

 たとえば「宇宙科学実用化の時代」なる副題の付いた『NASAからのスペシャル・レポート』(昭和六十年五月、河出書房新社)は、NASA関係では五冊目だが、面白いのはスペオペ(宇宙活劇)だ。

 一九八八年一〇月に早川書房から出版された『スペース・オペラの書き方』を読めば、スペオペのファンになる人も出るに違いない。

 それに野田さんには、人間的な魅力がある。SF大会の合宿に参加してみると、彼の部屋には若い連中がワンサと押しかけていたものだ。

 かくして野田昌宏には、宇宙大元帥といったふうな称号が奉られるし、昌宏はショウコウ(将校)と読むんだ、という噂も聞いたものだが、業績の中で特筆すべきは、SF画の分野だろう。

 湯浅篤志氏の話では、河出書房新社が「野田SFコレクション」として図説の「ロボット」(二〇〇〇年一一月)、「ロケット」(二〇〇一年八月)、「異星人」(二〇〇二年五月)を出しているという。

 廿一世紀のことを知らなくて、御免なさい。だが古い話を続けると、かつて野田さんによる「SFイラスト・ライブラリー」なるものがあった。

 雑誌の表紙等をカラースライドにしたもので、小人数の会員制頒布組織だった、と記憶している。 

 なにしろ三十年もの昔の品物なので、退色・劣化が進行中で、早晩、塵となるのは必定。CDにでも入れようかと思ったが、私には出来そうもない。 

 アメリカの版権等法的な問題は野田さんがクリアーしていたはずだし、研究・鑑賞の目的で複製し観覧するのなら、特に問題はあるまい。一種の追善供養といったところだろう。

 どなたか、お助けいただけるなら、現物をお貸しするので、チャレンジして頂けないだろうか。


 (二〇〇八年七月一日)






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2008-06-10

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                                             天瀬裕康

今日泊亜蘭幻視

 五月十二日の訃報に接し、なんだかモドカシく、少しイライラした気持ちになった。

 あの人と文通した、いくらかの思い出がある。

 私が瀬戸内海SF同好会を作り、ファンジン「イマジニア」を創刊したのは昭和四十二(一九六七)年六月だったが、プロダムからの批評の御礼(第二号)や年賀状への御礼(第三号)の中に今日泊亜蘭の名前が見られたのだ。

 また、私が日本SFファングループ連合会議から「イマジニア」創設に対し表彰状とバッジ(いわゆるSFファンダム賞)を頂いたのは昭和四十四(一九六九)年八月二十四日だったから、その頃に違いないのだが、はっきりしない。

 もちろん、まだ渡辺晋の本名を使っていた頃で、広島市外府中町の東洋工業(現・マツダ)の付属病院に勤務していた時代のことである。

 その後、昭和五十七(一九八二)年七月に大竹市の現在地で開業したのだが、転居のさい発作的に、

過去に繋がりのある手紙に写真、ヴァイオリンから弓道の弓、その他諸々を処分してきたのである。

 それでも「SFマガジン」の二五五号(一九七九年十二月)までと「宇宙塵」の一部、『世界SF全集』(早川書房)あたりは難を逃れて大竹に移ったのだが、今日泊亜蘭先生からのお便りなど、残っていそうな気配もない。

 ところが、遠い昔のこと……と忘れかけていたら、二葉の葉書が出てきたのである。


  葉書と追想

 葉書を探し出したのは家内の渡辺玲子だった。

一葉は暑中見舞いの返事で、もう一葉は年賀状だから、応答用名簿資料にでも収めていたのだろう。

 どちらも「大竹市渡邊醫院」宛で「辺」も「医」も旧い難しい字が書いてある。

 一九八五年の暑中見舞は七月二〇日とスタンプもはっきり出ているし、アドレスも杉並区久我山三―九―三とはっきり読めるのだが、年賀状の方は、いささか明白さに欠けている。

 日付の中に「8」の字がなんとか読めるし、年賀状の絵柄が龍だから、一九八八年だろう。奇妙なのは、アドレスは小金井市前原町五丁目八番九号なのに、所沢局のスタンプが押してあり、「旧臘転居しました。御帳末ニお控下さい」と書いてあるのだ。

 この件はあとで検討するとして、最初に思っていたのよりは長い間、文通は続いていたらしい。

 そういえば、今日泊亜蘭の「刈り得ざる種」が「宇宙塵」の一九六一年一〇月から六回連載され、単行本の『光の塔』となったのが翌年の八月である。

 それを「イマジニア」の「SFマクロバイオティクス」(わたなべ・しん)が取り上げたのは、第5号(一九六九年五月)で、「SFマガジン」の「空想不死術入門」(渡辺晋)では第7章(一九七一年 月)だった。この頃、「イマジニア」は少し硬いな、といったふうな批評を頂いたような記憶がある。

 とはいえ文通だけだから、たいしたことはない。おめがクラブの渡辺啓助は別格としても、近くで育った渡辺東さんは今日泊亜蘭を知る人の中に入るだろうし、最晩年のインタビューに成功した『新青年』研究会の皆さんも、鼻を高くしてよいだろう。

 SF界で今日泊さんと親交のあったのは、故・矢野徹氏を除けば、柴野拓美さんや野田昌宏さんだったが、その野田さんも六月六日に亡くなられたから、最近の研究者の中に求めれば、日下三蔵氏といったところだろうか。


  純文学系とSFと

 そこで『塵も積もれば 宇宙塵40年史』(平成九年十一月、出版芸術社)における柴野さんの言葉を見ると、今日泊亜蘭は同人誌「文芸首都」に〈幻想的な作品を発表して、高い評価を得ていた〉との一文がある。

 SFやミステリーなら、勤務医時代にラジオ中国の「紀伊国屋ラジオ・ライブラリー」で解説をしていたことがあるので、ある程度の知識はあるのだが、純文学系の同人誌はそれほど詳しくない。

 そこで渡辺玲子に訊いてみると、「文芸首都」主宰・保高徳蔵夫人の保高みさ子さんが、その同人誌のことを小説にしている、と言う。

 さっそく『花実の森―小説文芸首都』(昭和四十六年六月、立風書房)を読んでみると、この同人誌三十八年の歴史の中には、今日泊亜蘭自身は出てこないが、茨城県の古河市に疎開中から同人になっており、別のペンネームで作品を出していたらしい。ここらは、あとでまた述べるが、仲のよくなかった福島正美氏を除けば、いろんな人の本に今日泊亜蘭を主体として、多くのペンネームで登場する。

 すなわち野田昌宏『スペース・オペラの書き方』(一九八八年十月、早川書房)、石川喬司『SFの時代』(一九七七年十一月、奇想天外社)、横田順弥『日本SFこてん古典』(昭和五十六年四月、早川書房)など、その数は少なくない。 

 日下三蔵は〈ふしぎ文学館〉の『まぼろし綺譚』(平成十五年七月、出版芸術社)を編んだ功績が大きい。「SFマガジン」(二〇〇一年六月)には、日下三蔵監修の「日本SF全集」第一期・普及版・第十巻「今日泊亜蘭」が載っている。(ちなみに、この号の一八一頁には、天瀬裕康の「海野十三」の講演予告、「問合先・小西昌幸」も出ている)

 日下の著述は、のちに『日本SF全集・總解説』(二〇〇七年十一月、早川書房)となって、より詳しく読むことができる。

   

  父親や経歴のこと

 要するに今日泊亜蘭(本名・水島行衞)は傑物で、中学時代には「啓」と名乗っていたが、その父親・水島爾保布も、並の人間ではなかった。長男の名「行衞」も普通の「衛」ではない。

 父・爾保布は画家にしてエッセイスト、武林無想庵・辻潤・長谷川如是閑・佐藤春夫などを友とする特異な文化人だが、祖父もまた変った人だった。

 八人の子供の名前が爾保布(長男)から始まり、佐久良(男)、雲松(女)、獅子吼(男)、香須美(男)、琴柱(女)、潮音(男)、百千(男)と続くのだから普通ではないか、爾保布に子供が生まれたときには「太郎と呼べ」と命じたという。

 これは峯島正行著『評伝・SFの先駆者 今日泊亜蘭』(平成十三年十月、青蛙房)からの引用なのだが、この話を聞いた渡辺玲子は、「爾保布さんなら『赤い鳥』へも沢山書いてらっしゃる」と呟く。

 その頃、彼女は企画展「『赤い鳥』からの贈りもの」での講演の準備で、大正中期以後の文人を調べまくっていたら目に入った、と言う。文と絵を併せて、三十六件ほどあるらしい。

 負けてはならじと雑誌「新青年」を調べると、大正十二年十月(大震災記念)号に漫文漫画を書いているが、ここらは私より詳しい人が多いだろう。

 爾保布はともかく亜蘭にしても、「読売新聞」の日曜版に連載した子供向けSFがあるそうだし、純文学系の同人誌とか詩誌にも、まだ発掘の余地があるのではあるまいか。

 詩誌「暦程」は草野心平を中心にした非定型・自由律詩のグループだが、宇良島多浪名義の叙事詩や、水島太郎の名での論説もあるようだ。

 戦後、復刊した「文芸日本」に佐藤春夫の紹介で入会し、同人の格となり、水島多楼のペンネームで執筆して直木賞候補になった「河太郎帰化」は、前述の『まぼろし綺譚』に収録された。

 同人誌「文芸首都」には璃昴のペンネームで「宝の山」を載せたそうだが、シラミツブシに調べれば、面白いネタが見付かるだろう。「宝石」の「夜走曲」は今日泊蘭二だが、園児、志摩滄浪、紀尾泊世央などの筆名にも気をつけて、掘り起こしを続けていただければ幸いである。

 さて、初めに出てきた渡邊醫院宛の葉書だが、住所が小金井なのに所沢局のスタンプが押してある点は、峯島の『評伝・今日泊亜蘭』(前掲書)の二一五頁あたりを読むと、なんとなく分かったような気がしてくる。

 なお峯島正行は、広島出身の梶山季之とも親交があったが、これは別の機会に譲ろう。

 (2008年6月10日)


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2008-06-01

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                                                  天瀬裕康

横溝正史ミニ展〜乾信一郎への書簡から〜

 平成二十年四月二十九日から六月末日まで、熊本近代文学館で開催中の「横溝正史ミニ展」のチラシを受け取ったのは、五月十二日。

これには「金田一耕助誕生の頃〜乾信一郎への書簡から〜」という副題が付いている。さっそく見に行ったのは五月二十八日だった。

 岡山時代の横溝正史については、本紙の第七号で僅かながら触れておいたが、熊本近代文学館から出ている「横溝正史ミニ展」のチラシを見たとき、この二つの市、或は県には、なにか共通した「おどろおどろ」したものがあるように思ったものだ。

 かつて、大宅壮一マスコミ熟の秀才・評論家の草柳大蔵は、「熊本には文化的地熱ともいうべき黒々とした熱っぽさがある」と言ったが、興味深い。

 一方では神道をバックボーンに持つ神風連があり、他方では隠れキリシタンがいる。

 乾信一郎が通った九州学院はルーテル系だが、カトリック系女子校としては、熊本信愛女学院高等学校や付属幼稚園がある。明治三十三年(一九〇〇)、幼きイエズス修道会による創立だ。戦後は、カトリック系のマリスト学園高等学校も設立された。地方都市としては多いほうだろう。

 最初から道草を食ってしまったが、戦後の社会はどのような状況だったのだろうか?


  ヨコセイ戦後を語る

 終戦の年の年末、乾信一郎はもう文筆生活に戻っていたが、東京の食糧事情はよくなかった。昭和二十年十二月五日付で横溝は、こう書いている。

 《及ばずながら大いに後援いたしますよ。

 今の東京の生活は実にオモシロイものらしいです

 ね。こんな時代に、大兄のやうな人が熊本へ帰る

 手なんて絶対にありませんよ。まあセイゼイ頑張

 って風刺小説の材料にでもしてください。扨、小生

 ですが、どうやらまだ一二年は当地に根が生え

 さうです。なにしろここにいるとなにも不自由が

 ないからいけません。主食は申すまでもなく、

 野菜、酒、・・この間まで、一番困っていた蛋白

 質にも?徹パイ以来、高いのをガマンすれば、毎

 日、口に入るやうになりました。只一つ困るのはタ

 バコです。いろいろな木の葉を吸ってガマンしてゐ 

 ましたが、これも来年から、高級タバコとやらが出

 るさうですから、解決がつくでせう。砂糖は、この

 村で盛んに栽培してゐますし。・・とまあ、都会の飢

 餓をよそにノンキなもんです。尤も、良心はサカン

 に痛みますが。 本を焼かれたのはお困りでせう。

 拙宅にはどういうわけか、昔の新青年が二冊づつあ

 ります。(病中上諏訪と、吉祥字の両方へ送ってもら

 っていたものらしい。)面倒だから、売ろう売ろうと

 》

(以下、欠。改行は原則として原文のママ)

 ちなみに乾もヘビースモーカーである。

 このあと欄外に、塩に困ること、その闇値のことなどが記されている。

 結局、乾は熊本に引き揚げることなく、東京で頑張り、地歩を築いてゆく。


 本陣殺人事件の頃

 金田一耕助が登場する「本陣殺人事件」(『宝石』昭和二十一年四〜十二月)連載のあと、横溝は乾に、こんなことを書き送っている。昭和二十二年六月二十三日付のものだ。(誤記・誤字かと思われる部分も、すべてママとした)

 《拝啓、お手紙ありがとうございました。ケンケン

 ガクガクの語論議まことに興味深く拝

 読、もう一度バクギケして進ぜようかと思ひ

 しも、一々、至極同感故、バクダンも投下

 させざるうちに不発弾と相成り申候。

 ことに、ああいふ探偵小説論では、これから出よう

 とする若い作家の士気ソソーさせると

 いふ御意見。これ殊に御同感にて、過日、

 拙作「本陣」の合評会の節、江戸川さん

 が予め、氏の評論をお送りくだすったうへ、

 言ふことあらバ、申せとの事故、小生も、今

 少し寛大でないと、若い作家は書き

 にくからうと申せし次第。しかし、つら

 つら翻って誰に(ソロソロバクゲキにかかり

 ますゾ)そんなことで士気ソソーするやうな人は、

 ことに士気ソソーせんでも、やっぱり駄》

(ちょっと中絶。このあたりは、江戸川乱歩『探偵小説四十年』(昭和三十六年七月、桃源社)の二二九、三五一、360頁等、参照されたし)

 

 《ちに紙の事情がよくなるまで、一時保留、よく

 なったら一時に出すとのとの事、まことに結構です

 が、さて、それはいつの事にや。と考へると、些が

 心細いしだい、三洋社の方でも、紙型とってあるさ

 うで、御尤ものしだいなれど、将来、とはいへ、こ

 っちもまるで版権とられちまった如く、自分で自分

 の小説が自由にならぬといふのは、ちと不憫な話

 と思ってゐます。問題は、火事泥的に出来

 た本屋さん、小説でも出してみようかというや

 うなでも、本屋さんで、三洋社があるかないかとい

 うことになります。将来も本屋をつづけ

 ていくつもりなら、三洋社もむろん出版して

 くれるだろう。しかし、軍需景気で儲けた

 金、出版でもして見ようかといふやうな本屋さんな

 ら、世の中がおさまって、したがって紙事情がよく

 なった頃には、出版なんて、をかあしく

 って、と、どこかへ消えてしまひさうな気が

 する。さうなると、小生はあの小説をいつまでも》

  (後略)

 

 第一回展のことなど 

 このあと、昭和六十三年一月五日から三月三十日まで開かれた「乾信一郎展」の資料、アルバムも見せていただいた。

 平成十七年夏の展示は、以前の本紙でも紹介してあるが、この昭和六十三年のものは、少なくとも私にとっては「第一回展」である。

 獅子文六(岩田豊雄)、伊馬春部(鵜平)、玉川一郎、海野十三らとの書簡もあったらしい。

 乾は彼自身のことを「自分を人に見せたがらない性格」と言う。文通の多かったのは伊馬で、海野は戦後早く死んだので数は少ないが、横溝・海野・乾で「三角通信」なるものを作っていた。

 岩田は雅号を牡丹亭(唐獅子より)と言い、乾はロシナンテをもじって、呂氏南亭とか露地南亭と称していた由である。

 他にも同館にて、平成十九年七月二十日から九月十七日まで開催された「神風連の乱・西南戦争と文学」の資料もいただいた。

 いろいろご厚誼を賜った河原畑 廣館長、鶴本市朗参事に心より御礼申し上げます。


 吉備・肥の国ミステリー

 ところで熊本県も岡山県も、明治新政府により、あるいは時の流れによって、地盤の下落が起こった地方ではなかっただろうか。

 もともと熊本(市)は九州の中心だった。それがいつの間にか町人の町、博多に取って代わられた。

 吉備の国、岡山も損をしたほうだ。廃藩置県の結果、途中で小田県というものが存在した時期もあったが、気付いてみると備前・備中・備後のうち、備後は広島県に入っていた。

 大藩の名残があることは、明治政府にとって好ましくなかった、と云うことだろうか。

 ともあれ熊本県立図書館所蔵の『新風連血涙史』を読むことができたのは、まことに幸いだった。日本は均質ではないのだ。

 どこもここも新幹線の駅のように、同じ容貌をしてきたのでは面白くない。東京への一極集中と地方の均一化がすすめば、日本文化は崩壊するだろう。

 金田一耕助の活躍する世界は、そうした面白くない世界へのアンチテーゼとして、成功したように思えたのである。

(2008年5月30日)





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