言葉はベンガルトラにのって

今年も師走になりました。寒波が厳しゅうございます。
背骨がみしみし軋みっぱなしですが、何処かしらで誰かしらに何かしら養ってもらえるおかげで、どうにもくたばりきれません。

寒気にぞくりふるえ目覚めては痺れや攣れを知覚してまた浅くねむる、そんな睡眠パターンがはじまったようです。
そもそも睡眠がすこぶる不規則になりがちだったので、パターン化したリズムがなかったように思えるのですが。

いまの主治医の先生に「x年かかってここまで良くなってきたのだから」とほんわり言われて、落ち着きどころを見いだしたことがありましたっけ。
それなりの日常生活動作をもって生活を暮らしつづけて、人前で食事をするには問題なくいける悪いときでも乗り切れると思えるようになりましたが、変動しては食器を落としたり、正確に口まで運べない状態におちいるときもあります。食器が使えなくなったら手で食べればいいやと思っていたのですが、それは見通しがあますぎて、手と口との距離を食器でおぎなっていたことに気付いたりもしました。

ロランバルトが『表徴の帝国』で日本の箸をろんじていますが、悪化から回復してきたときの、お箸で食事をする感覚。
すこし重みのある、きれいに先細りになって重心がとれる塗のお箸だとわかりやすい。触れる、裂く、摘まむ、載せる。
そうっとご飯をひとすくいするときの重力。すくった米粒のうつくしさ。胡麻豆腐のもっちりとした感触、さっくり包丁をいれた漬物をつまんだときのみずみずしさ。それに割り箸でお好み焼きなどいただく感覚というのもおもしろいのです。割り箸の存在が消える。腕がぶるぶる震えるのを気をつけながら、観察と注意をもっていただくのです。
いちど忘れてしまってあらたな経験となったからこそ感じることのできる感覚、筋力が落ちているからこそ感じることのできる重力。
記号論者のロラン君にはわかるまい。ふふん。

ずいぶん以前のことですが、外科の先生に「経過を診させてもらって来たけれど、低空飛行ながらもどうにかやって来られてきている」と必死に言っていただいて、ごっそり落ちそうなところを持ちこたえていただいたことがありました。その先どうなるかわからなくても、それまで過ごしてくることができた事実。
この時期はね、現状維持ができるだけでも。この季節はね、痛むと思うよ。今は使っていってください。今は休んでおいてください。
そうだね、そうだろうね、それはどうかな、それはちがうと思うよ、僕はこう思うよ。
今は何ができない何ができる、どうすればできる、何がこまる、どうすればいい、どうしておくのがよい。観察と意見。
このとき、この1ヶ月、この季節、そして次の季節につながるように、そのときその季節のぶんだけ、時間軸が伸びる。
見通しのない飛行を支えられていたのでした。

いくつもの季節を経てもなお、いただいた言葉はぐるぐると黄金色にめぐります。
そうして別れてきたひとたちを想うと、そうはくたばりきれませんや。