萌え理論Blog

「萌え理論 Blog」は、美少女アニメ・ゲームなど、萌え文化の情報・考察サイトです。

2006-04-23 誤解と課題

民主主義の限界と自動的ヒーロー

投票のパラドクス

abc
bca
cab

成員ABCの三人がいる社会を考えます。a・b・cという社会政策(りんごを安くするでも、公園を作るでもなんでもいい)に対する各人の選好が上図のような場合、どの政策になっても最初から誰かが独裁で決めるのと全く変わりありません。こういうじゃんけんみたいな関係にあるときは上手く一つに決められません。これは民主主義の限界を示すのでしょうか。それとも仕方ないことでしょうか。それとも、限界だけど仕方がないことでしょうか。もっと良い社会選択の方法はあるのでしょうか。


なんか難しそうな話

アローの不可能性定理その2


本文の方は難しくてよく分からないんですけど、コメント欄のやり取りが興味深いので、定理から離れてイメージだけで適当にこの問題を考えてみます。(独裁者)が何が問題かというと、こういうことでしょう。


K1 人間>犬

K2 人間>犬

Kn 人間>犬

Kn+1 犬>人間


もし、Kn+1が強権を持っている<独裁者>(=普通の意味での、多数決に対する、強権を持つ独裁者)だとすると、ひどい社会になります。しかし、証明の条件に従った(独裁者)がKn+1でも、同じように犬>人間が成立してしまう。つまり、(証明の条件に従うと)どういう風に決定ルールを決めても、誰か独裁者が決めるのと結果的には変わらないので、だから問題だということでしょう。完全に最適なルールというのはありえない。


これは直感的に証明の条件(IIAとかパレート最適とか)の方がうさんくさい感じがします。例えば(IIA)を認めるとどうなるか。過半数がaを一番bを二番に選び、残りがbを一番aを二番に選ぶとします。しかし例えばその後でaは残り勢力を皆殺しにする政策だと分かり

、残りグループにとっては、aは百億番目位の最悪の選好に下落します。でも条件より社会選好は変わらない。


しかし一方、例えばもし完全に多数決(あるいは人数で選択肢を重み付けする)にすれば、先の例のような犬>人間は防げますが、逆にKn+1をコロシアムで猛獣と戦わせることを、他の全員が望む場合(ポピュリズム)も防げません。文句なしの完璧なルールというのは難しいでしょう。


選挙とくじ引き

われわれは選挙によって意思決定しているように考えていますが、特定の条件の下では、結果は実は恣意的で、それを選挙が事後的に追認しているという風に転倒して見ることもできます。よく精神分析のトラウマが捏造だと批判されますが、実は民主主義だって同じような構造を抱えているのではないか。柄谷行人が「くじ引き」とか言い出すのも興味深いですね。


最初の図のような場合は例外的ではないかと思うかもしれませんが、一定以上の成員がいて、選択肢の数が多いと確率的にけっこう生じるようです。それで、なんとなく個人の価値観が多様化して、しかし社会全体から見れば均一化して、それに伴い(例えば政治的な)主体性が減退する現象と関係あるかもしれません。なんとなくですけど。例えばアンケート主義のジャンプの部数が落ちてきたみたいな。しかしメディアミックス全体の売上げは、黄金期のジャンプと変わらないという話も聞いたことがあります。選択肢の方も薄く広くして対応する戦略でしょうか。


ヒーローは自動的なんだよ

参加者1024人が十回戦う、勝ち抜きジャンケントーナメントがあるとしましょう。このとき二人組みのどちらかが勝つまでやるとします。すると優勝者は十連勝したことになります。この場合は奇跡とは誰も思いませんが、「トーナメント」という枠組みが意識されていない場合、構造的に必ず生み出される奇跡を信じてしまうことが多いようです。


例えば競馬やパチンコなどのギャンブルでも勝ちまくる人は必ずいるでしょうが、それは確率的ヒーローであって、彼らの必勝法によって勝ったわけではありません。そしてこれはデイトレの億万長者にも少なからず当てはまるでしょう。あとゲーム理論で働きアリの話があるんですが、これは別の機会にします。




物語・選択・確率

このブログは萌えがテーマなので、最後にノベルゲームの話をしましょう。ノベルゲームでは選択肢が出てきますね。これを十回繰り返すと先の構造と同じではないですか。つまり、「ヒーロー」とか「物語」を信じていない人でも、ゲームにおいては形式のレベルで、「物語」が構造的に生じてしまうわけです。内容のレベルでどんなに陳腐な展開でも。ゲーム独自の選択肢という要素が、ゲームにとっての現実・リアリティ(R)を生み出します。


消える主人公 −ビルドゥングスロマンの終わり−


本当に萌え系の作品は主人公の存在が希薄なんですけど、この選択肢を選んだからこうなった、他の選択肢もありえただろうな、という部分だけでRの感覚を支えているような気がします。だからもちろん攻略本やスキップ&総当りや無意味なブラフの選択肢があり、または違うルートでもちょっとした差分しかないことが分かり、このRへの信頼が薄れていくことはよくあります。


それに対してひぐらしが選択肢を設けず、シナリオが分岐する箇所を自分で推理する、すなわち選択肢を選択するというシステムにしたのは興味深いことです。「箱選び」ですね。これも別の機会にもっと深く考えます。


なんか全体的に支離滅裂ですが、言わんとしていることが伝わったでしょうか。「じゃあエロゲはリアリティがあるけど、ラノベにはないの?」という疑問が出てくるわけで、それに対して最後のひぐらしで、メビウスの輪みたいにグルッと一周してみたんですが、そうしたら逆に何でもかんでも選択肢は内在していることにもなりかねず、自壊してしまいます。そこら辺をどうしたらいいのか悩んでいるところです。


追記:アローの定理の解釈をかなり誤解していました。パッと見て思いついたことを書いたら恥を掻いたという例ですね。次から反射神経で書かないで、もっと自分で消化してから書きます。

同人で流行する要件とは

同人の流行年表

96 エヴァンゲリオン、サクラ大戦、雫/痕

97 To Heart、センチメンタルグラフティ、ナデシコ

98 CCさくら

99 Kanon、こみっくパーティー、どれみ、シスタープリンセス

00 Air

01 ガンパレードマーチ、月姫、偽春菜 (備考:あずまんが大王)

02 あずまんが大王、おねがい☆ティーチャー、ギルティギアXX(鰤)、ラグナロクオンライン

03 東方妖々夢(東方シリーズ)、マリア様がみてる、メルティブラッド

04 ひぐらしのなく頃に、Fate/stay night、プリキュア、(備考:舞-Hime、CLANNAD、ローゼンメイデン、OSたん)

05 ToHeart2(備考:ゾイドジェネシスのコトナ・レミィ、ガンダムSEEDディスティニーのルナマリア等特定キャラ


(最近十年間だけ抜粋)


このメンバーこそが流行したものだ、というつもりではなくて、でも自分でこれが流行ものだと並べると自分の論に有利でずるい気がするので、ちょうど第三者のリストを見つけたから引用したというわけです。


で、眺めてみると最近はゲームが多いですね。昔はファミコンもなかったから比較して多いのは当然ですけど。またヒロインがグループになっているものがほとんどです。それと、絵がシンプルな方が受けるようですね。あと非エロか、エロゲでもエロが控えめですね。


まあそこら辺が二次創作に有利なのは誰でも気付くわけで凡庸な指摘でしょうが、整理してみると、要するに原作の要素を組合せることによって、多様な作者・読者の注文にカスタマイズでき、前項で考察したような投票のパラドクスを避けることができるというわけです。


つまり、同人誌の「中身」は凄く卑俗で陳腐なことが多いけれども、それを入手する段階で、原作とは異なり多くの選択肢があるわけで、そのレベルでは「物語」が自動的に機能するのではないかと思うわけです。○○という作品の××というキャラの△△というサークルの〜という風に選抜・限定されることで、固有性のようなものが生まれるのではないかと思うわけです。


ガンパレのようにシステムでやっても、ひぐらしのようにシナリオでやってもいいんですが、流行した原作はどれもそういう組合せの妙を上手くやっています。偽春菜、RO、OS擬人化あたりはネットで流通しています。さくら、鰤、プリキュアあたりはちょっと違いますけど。


その理屈で言えばときメモOnlineとかが凄く流行ることになりますが、このキャラクターはこう、と確かに共有できる部分もないと、元ネタに採用する動機がなくなると思います。(あとコナミが版権にうるさいというのが実際上は大きいかも)そういう点ではまだアイマス的なものの方が向いてるでしょう。


ハルヒの一話やEDが話題になりましたが、あれは同人誌ではまず再現不可能なので、ハルヒの唯我独尊ぶりと合わせて、やはり爆発的に流行することはなさそうです。のいじ絵はシンプルな方ですが、完成度が高い(イメージが固定されている)と逆に不利になるでしょう。


こういう風にグダグダ言っていると、じゃあただ設定が羅列してあるような原作がいいのか、となるんですが、そうではないと思うんですよ。データは構造化していないと。なんというか、平仮名的にただ猫耳とかメイドが並べてあるんじゃなくて、漢字的なものがあるんですよ、ひぐらしには。ニンベンは人を表す、みたいに部分に意味がある。


で、最後に来年とか先の流行を考えてみるんですが、ツンデレとかくるかも?

エロゲにおける西洋思想・東洋思想

エロゲはなぜ神に近づくのか


歴史の知識がないんであまり大掛かりな話はできないですけど、それでも割りと大雑把に捉えられるんじゃないかと思っていて、エロゲの神学的というか形而上学的な構造というのは、西洋近代の恋愛観がコンシューマ化したものだと思うんですよ。


日本の前近代的な物語というのは勧善懲悪とかですけど、明治の近代化で「小説」とか「自然主義」とか「私」の「内面」「描写」とかいうものが輸入されました。それ以前のなかった状態が今ではうまく想像できないですけど。*1


で、その「個」と「個」の恋愛を極端に純粋化・記号化・デザイン化して展開したのが(恋愛系)エロゲだと思います。大昔に生きてたわけじゃないからよく知りませんけど、夜中に夜這いするとか、大きい家に嫁げてラッキーとか、そういう時代もあったでしょう。しかし、イケメン・金持ち・優等生の誘いを断るのがエロゲのジャスティス。


巫女とか日本的意匠が登場することも多いです。巫女は処女的な性格が重宝されていますが、処女性の尊重というのは仏教伝来以降の女人禁制の影響だと思います。古代の神話(「古事記」とか)でも性がそんなに強い禁忌になっているわけでもないみたいだし。ちなみに卑弥呼は日巫女とか日見子とか読めますが、巫女の元祖でしょうか。あと関係ないですけど、ツンデレ喫茶より(和風)巫女喫茶が欲しいですね。


でも、近代的恋愛観は交換可能な属性に惚れてはいけません。だから泣きゲでも萌え要素はあるでしょうが、それに露骨に惚れるとダメだと思うんですよ。なぜなら、おっぱいがでかいから萌えました、では泣けないです。つまり、泣きゲではまだモダンな恋愛をしているけど、萌えゲになると近代を超えたようで太古に逆戻りしたように見えてきます。


「エロゲーはおかずであるという原罪を抱えているけれど、作者のインスピレーション(神の恩寵)及び緻密な演出等(努力)で”ブンガク”になれる」


これは、日本的かつオタク的な事情ではないかと思われます。サブカルチャーをあえて語るところに実存を見出すのは(かつての)おたくの流儀でしょう。それは例えば特撮でもいいです。子供が見る番組なんだけど、そこに高度なものを見て取るという。同じようにエロゲはエロだから日が当たらないけど、あえて「エロゲー批評空間」みたいなもので語ると。にっかつロマンポルノでもいいですけど。DQとかFFだとメジャーだからあんまりオタクという感じがしない。


「ことのは」の件もありましたし、基本が日和見な私は、あんまり宗教的なところを深く掘り下げたくないんですけど、最後にちょっとだけ触れると、信仰の広がり方には風土的な部分もあるでしょうね。例えば砂漠の方は凄く厳しい土地でしょう。だから一神教も受け入れやすい。対して日本は四季の移り変わりがあって、台風やら地震やらもバンバン来るんで、多神教的な性格になるだろうと。これは和辻の受け売りです。


で、そういう風土の日本はアニミズムがあって、それは虚構に魂を感じるオタクの倒錯的な精神と関係があるでしょう。アニミズムはフェティシズムと近いですし。最近びんちょうタンとか擬人化が流行ってますが、あれも妖怪の系譜ではないですか。だから、大昔にはアニメもああいう絵柄もないけれど、どこか懐かしい感じがする。ここまで本当適当に語ってますので、突っ込みどうぞ。

*1:ここら辺は大塚英志とかが詳しそうです