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萌え理論ブログ

2006-06-22 輝きと沈黙とライブアライブ

輝きと沈黙と「ライブアライブ」

萌え理論Blog - 祭りからライブへと進化するハルヒ

前島日記 - 「『涼宮ハルヒの憂鬱』12話」の憂鬱


乙女ちっくイデオロギー?

一言で言えば、こんなハルヒは見たくなかった。『ハルヒ』は、でなく、ハルヒは。

全校生徒(?)がハルヒの歌唱力に大注目とか(「サムデイインザレイン」の、あるいは下手な学生映画にすぎない「朝比奈みくるの冒険」の、しょせんハルヒも大勢の中の平凡な学生でしかないっていう、あの残酷な認識はどこにいったんだ?)、たかが学園祭での演奏程度程度で「何かをやっているって感じがした」なんてあっさり充足しちゃうハルヒとか(それでOKなら最初から適当な男とでもくっついて世界改変能力なんて放棄してるだろ)、「お前は感謝されてうれしいのさ」なんて、キョンに内面を代弁されてあっさり乙女ちっくイデオロギーに回収されちゃうハルヒとか(特にこれが許しがたい!)なんて、見たくなかった。


という評を見たのだけど、どう考えても逆だろう。


前にも述べたように、元々の時系列で言えば、放送1話と12話は前後編のような一体の関係になっている。もちろん構成上は12話の後に9話が来るから、「残酷な認識」もどこかに行ったわけではない。むしろこれからやって来るのである。だから全く逆に、その痛切な認識が引き立つ構成になっている。12話単体で見ればそういう感想が出てくるかもしれないが、1話と12話を同時に見ないといけない。それは言わば両目で見ることで立体感が出るようなことである。この立体視的構成を掘り下げてみよう。


ハルヒは充足してもないし、回収もされていない。騙し絵のようなアニメ放映の時系列によって、まるでハルヒが(教養小説の系譜に連なるような)古典的成長を成し遂げたように感じてしまう。あるいは「乙女ちっくイデオロギー」と呼んでも構わないが、そうした感覚は実は視聴者が読み込んで(内面を勝手に代弁して)成立しているものだ。1話から12話へと直線的・時間的に成長したわけではなくて、1話と12話はハルヒが同時に持つ、いわば多重人格的な側面である。


だいたい12話の次は11話が来るだろうから、コンピ研からPCを奪うというモチーフが回帰しており、しかもハルヒも突撃を繰り返すキャラになっている。それをサポートする長門という構図も含めて、直線的な成長ではなく、何度も回帰する構造になっている。そしてキョンは虚構内の時間で生きており、1話の映画との落差を実時間で体感していて、だから予想外の演奏に呆然とするし、ハルヒの内面の代弁も、「乙女ちっくイデオロギー」ではなく、もっと違う質のものなのだ。次で扱おう。


キョンが勝手に代弁している?

相手の女の子の内面を勝手に代弁することが、「女の子と出会う」ことだとは、僕にはどうしても思えません


まず一番重要なのは、キョンの饒舌な独白がライブでいったん沈黙することである。それはハルヒの原石としての輝きを発見したからで(直前に映画があるのでやはり原石、多様な側面の一つでしかないが)、ハルヒが単に望んだからそうなったかもしれないとか(この問題については孤島症候群がある)、長門が人間離れしたサポートをしているとか、そういう事情を考慮してもなお、沈黙して予想外の出来事を受け止めたのである。そうした評価のリセットの後で、今まで自分がしてこなかった、感謝されるのに慣れていないという風な解釈を提出してみたのであって、冒頭に述べたように「よしよしよく成長した」という嫌らしい代弁とは少し違う文脈なのだ。


12話は浮いている?

そういえば、今回の話について「マーケティングが上手い」という感想も目に付いた。でも、やっぱり12話は、『ハルヒ』という物語全体の中で、どうにも異質な印象をうけてしまうのだ。これまでのハルヒたちの活動、たとえばSOS団のホームページや、自主制作映画、そしてみくるちゃんの歌う「恋のミクル伝説」なんかにくらべて、今回のハルヒの唄はあまりに上手すぎるのである。だからそこで作品のトーンが、「才能はあるし適当に社会にアジャストして努力すれば、適当にうまくやって適当にそこそこの記録は残せるはずなのに、いつもセカイとか革命とか浪漫とかを求めてしまうせいでズレたことしかできない」はずだったハルヒが、変質してしまっている。


たとえ原作を知っていても、アニメのライブの臨場感までは味わえないので、上手い手法だったと言える。「異質な印象」というが、もともとSOS団が異質な集まりなのだ。たとえばSOS団のホームページはキョンが適当に作ったからひどいものになっているが、逆に「射手座の日」では眠れる獅子の長門が起動したために、人間離れした戦いになった。またハルヒとみくるの器用さがかけ離れていることは、空中のバトンを受け取るシーンなどで既に説明されている。学生なので投入できる資源は限られており、みくるの映画がひどいのは、そうした事情を考慮すればむしろリアルだ。映画の歌の伴奏はMIDI音源のような安っぽい印象だったが、それはハルヒがまだ演奏で自分の音楽性に気付いてないから安易に済ましたという側面も考えられるわけで、そういう遠近法が上手く描けている。


私的には異質どころか、ジグソーパズルのようなハルヒのピースが綺麗に揃った回だと思う。それは単に構成上の1話との対応(しかも、構成話数と放送話数、つまり予告のキョンとハルヒの話数が時計のように一致するのだけれど)だけではない。そもそも題名が『涼宮ハルヒの憂鬱』であり、ハルヒの憂鬱と彼女に対するキョンの憂鬱がほんの一瞬でも晴れた(ライブ後半の雨はまた前途多難であることを暗示しているが)のだから、テーマに合っていると思う。もちろん歌詞の内容も合っている。演奏に合っている作画はもちろん良かったが、吹奏楽部だかの教師の表情とか、体育館の後ろの方はしゃがんでいたりとか、そういう描写まで全部ひっくるめて、とても臨場感がある。ヒロインがアイドルや声優を目指すアニメでは、大抵絵に描いたようなライブシーンが出てくるが、そうしたものと比較して圧倒的に空気感の描き方が上手い。蛇足だが、ゲーム化したエヴァの「地球防衛バンド」のオマケ的ユルさとも対極的だ。


こんなハルヒが見たかった

「ライブアライブ」の、カクテルグラスのふちのように薄い、束の間の出来事。そんな瞬間の驚きのために人的資源を大量投入し、圧倒的な臨場感を描こうとする京アニはとても贅沢であり、出会いに立ち会えたわれわれは僥倖だ。今回の放送が絶賛されるのはよく分かる。生きたアニメを作るセンスの良さが光っていた。あの回が私の中では一番輝いていて、色々な不満もあるが今回は黙るしかなかった。やはり「ライブアライブ」は絶賛に値すると思う。

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