ハルヒのアニメ版を支持する理由

問題提起

星ぼしの荒野から - ハルヒのヒットにラノベオタがしょっぱい表情をする理由

そんだけ凄いなら何故今まで読まなかったんだ?

いや、凄いと言われているのはアニメ版では。京アニとセットで言及されていたし。

普通に小説として読んでたらそれほど気付かなかった、アニメにしてくれて始めて面白さがわかる、みたいな話もどっかで見たことある。それもどうなかぁと思う。わざわざ絵に書いてもらわないと面白さがわかないというのはどうなんだろう?

ラノベの時点で面白さが全て内包されていて、それを絵にするだけではなくて、アニメを作る時点でアニメ固有の面白さが発生するのでは。もちろん逆にラノベ固有の面白さもある。

話は変わるが、これまで読まなかった層が参入するだけでこれだけ売れるということは、やっぱり今までそれほどラノベが売れてなかったという風にも見える。

萌え理論Magazine - 数字で見るこの界隈:その1:ライトノベルのシリーズ合計

涼宮ハルヒの憂鬱は、7月初めに280万部という数字が触れられています。

市場規模はあるだろうが、少なくともハルヒに限って言えば、シリーズ累計で比較することになってしまうが、セカチューなみに売れているわけだし他のラノベに対しても見劣りはしていない。これだけ売れているわけだから、やはり単なる規模の話ではないだろう。もちろん、なんでもアニメ化すれば面白いというわけではないが、ハルヒの場合はアニメが面白かった。

ラノベとアニメの違い

「アニメが面白かった」と一言で終わってしまうのだが、ではなぜアニメの方が面白かったのか、もう少し考えてみる。「人員や予算が多いから」「設定を一から考える必要がない」というのはアニメの利点だが、他のラノベ原作アニメにも共通して言えることで、しかし皆が絶賛されているわけではない。もちろん京アニの作画などが、単に質が高かったとも言える。また声優は単純に付加される要素である。しかし、ここではラノベとアニメに共通する構成、それからラノベとアニメの固有の演出がどう違ったのか考える。


ラノベは『溜息』がつまらないのに対し、アニメ版のシャッフル構成が効いていた。もし原作の順番を忠実になぞっていたら、最初の『憂鬱』部分で一段落した後に、中だるみしていただろう。一話に映画、十二話にライブという円環型の構成が古典的な成長物語があるかのように見せ、かつそれが視聴者の観測効果に過ぎないことも同時に示していたのは優れていた。これは前にも述べたので、次に演出の話をしよう。


涼宮ハルヒの憂鬱 - 善良な市民×成馬01×キクチ

SF設定もメタフィクションの導入も、全部「萌えオタの自己正当化と現実逃避」のために機能しているんです。


ここではもっぱら読者の動機を取り上げていて、ラノベとアニメの違いがあまり効いてこない。「NHKへようこそ!」とも一緒になっている。しかし、もっと作品に沿って細かく読んでいくと、ラノベとアニメの場合では正当化や逃避が異なって表現されている。どういうことか。一つだけ具体的な例を挙げてみよう。


ラノベもアニメも概して主人公であるキョン*1の一人称で展開され、その独白がくどい。大抵はハルヒに対する愚痴が垂れ流される。それが言い訳がましいと感じるところまでは上記と同じ感想だ。しかしここで、ラノベの場合は自由間接話法を駆使して、会話が地の文に埋め込まれていることに注目しよう。


どこまでがキョンの内語で、どこまでがキョンが実際に発言したのかの境界は、ある程度は読者に委ねられている。この幅があるおかげで会話ばかりのラノベに綾がつき間が持っているのだが、副作用として主体性を回避しているような印象も受ける。ところがアニメの場合は、口が動いたり音響があって実際の発言と内語を区別できる。細かい指摘かもしれないが、このことが主人公に対する印象を微妙に変えている。そしてライブアライブの決定的な沈黙がある。

*1:本名が隠蔽されていることも、逃避に関係しているかもしれない