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萌え理論ブログ

2006-09-03 物語的弱者に転落する主人公たち

いま現在、累計アクセス一位の記事は…「GUN道まとめ」!

萌え理論Blog - MUSASHI -GUN道- 簡易まとめ(一位)

萌え理論Blog - キャラデザにおける髪の法則(二位)


さっき見たら遂に抜かされていました。GUN道恐るべし。しかしロングテールの効果なのか、ハルヒが一位じゃない(三位にハルヒの記事が入っている)のは意外ですね。やはりこういうのを見ると、ニュースサイト化・まとめサイト化したくなります。でも逆に考えれば、あの記事と同じ内容でGUN道のまとめサイトを立ち上げていたとしてもそんなに多くないですね。


ちなみに、一位と二位は約14500PVで、記事単体で、ブログ全体の累計アクセスのそれぞれ3%を占めています。検索からのアクセスの検索語二位が「musashi まとめ」(三位が「萌え理論」)、単語では「musashi」が二位で「gun道」が三位(四位が「ハルヒ」)なので、検索のロングテールが活きた形になります。ちゃんとしたGUN道の公式サイトがないことも大きいのだと思います。

アニメ雑感

アニメ三連星

萌えポの構築に手が離せないので手短にいきます。


  • となグラ

(やや弱いが)ライバル登場。要するに「ラブひな」における瀬田。まりえがフラメン子なだけで満足。あと全体的にキャラが垂れ眼なんだけど、それだけに今回の目つきの悪さが印象に残る。あと「やきもつ」とか細かいところが面白い。あれだけ前フリをしてあっさり小ネタで流してしまうところがとなグラクオリティ。


  • NHKにようこそ

オタクというかワナビネタで引っ張るのだが、物語がなかなか前に進んでいかないもどかしさを感じる。小説版の原作に忠実にやって1クールで終わらせた方がスッキリしたと思う。内容の方は、仮面ライダーの面が印象に残る演出。しかし結局のところ偽ヒキであり偽非モテでしかない。昔からある「青春のバカヤロー」を現代風にアレンジしたというところか。


  • ゼロの使い魔

ライバルが登場。ライバルの存在によって、色々ヒロインとの関係が引き立つ。NHKはライバルが不在で自意識だけが膨らむ(それが狙い)。特にツンデレの場合は、ふだん主人公に対して全面的にツンの態度で満たされているので、「彼のことをどう思っているか」客観視するために第三者の審級が要請される。

はてなキーワードのプレゼン機能を使い、自サイトのマニュアルを整備

萌え理論Index - 萌理マニュアル−アンテナ


マウスモードなのでクリックで進みますが、方向キーの左右でも操作可能。はてブばかりに気を取られていると、読者はみんなはてなユーザーな気がしてきます。しかし、それが閉鎖空間化の弊害をもたらしてしまう。というわけでこれを手始めに、萌理系のサイト全体をできる限り透明に利用してもらうために、時間を掛けて少しずつマニュアルを整備するつもりです。

物語のルールインフレ

作品名インフレの内容
ドラゴンボール強さのインフレ
エヴァンゲリオン語りのインフレ

いわゆる『ドラゴンボール』の「武闘会形式」とは、スカウターの数値的により強い敵が出現する、というRPGのような構造を指すだろう。次々に強い敵が出てくるので、常に読者の興味を惹きつけておくことができるが、同時にある種の表現の貧しさを感じさせる。


『エヴァンゲリオン』以降の「セカイ系」形式においては、敵が強くなる変わりに物語の興味が、実存的かつ抽象的なものに段々変形していき、最後には破綻してしまう。これを「語りのインフレ」と呼ぶ。そもそも敵が強いかどうかが、語り手の関心になくなっていく流れだ。


更に一般化すれば、「ルールインフレ」とでもいうべき現象が、セカイ系の作品群に見られる。具体的にはルールを上書き更新することで、例えば『ひぐらしのなく頃に』ではミステリのルールに上書きしたためにプレイヤーの間で議論が起きた。


しかしここで興味深いのは、『涼宮ハルヒの憂鬱』の存在である。言うなればセカイ系の刑事コロンボとでもいうか、最初(ラノベ一巻『涼宮ハルヒの憂鬱』)にエヴァの最終回のような展開があって、そこからあたかも学園エヴァのような日常に回帰していく。ルールのデフレである。


涼宮ハルヒは『ドラえもん』におけるのび太と対極的だ。既に自身が神のような存在であり、欲望の対象というよりも欲望それ自体を欲望している。つまり「ほしいものがほしい」ということだ。彼女が探している宇宙人たちはドラえもんの秘密道具とは違っている。秘密道具はあくまで日常の不満を解決するための道具だが、宇宙人などの他者たちを探す行為はそれとは異なり、欲望の座標軸自体を日常のものから変えてしまうためのものなのである。

下克上ヒロイン

メインのヒロインよりもサブキャラの方が萌える場合がある。例えば、コメットさんよりメテオさん、マジカルナースよりマジカルメイド、ジブリールよりミスティメイ、といった具合だ。最近ではハルヒより長門、も含まれる。これはまだ、主人公よりライバルの方が人気が出るのと同じ図だろう。しかし、ギャルゲの場合は攻略キャラとそうでないキャラとの差は画然としている。エロゲともなればなおさらである。


作品中でサブキャラに割かれているテキストやグラフィックの分量は決して多くないのにも関わらず、逆にそのことによってますますサブヒロインの価値が高まる。攻略できないキャラを攻略したいというのは、手に入らないものは欲しくなるというのと同じだし、あまり描かれていない分そのキャラを自由に妄想できるという側面もある。それが下克上の力になる。


そうしたサブヒロインへの需要はロングテールに相当するかもしれない。「脇役が主役を喰う」現象は昔からあったが、ネットやコミケのようなロングテールをすくい上げるシステムがあることで、サブがメインになるチャンスは以前より増した。ネットは検索が効くしコミケは商業の制約に縛られない。


しかし、サブをメインにしてしまうと魅力が失われることも多い。それは言わば、正妻より愛人の方に情がいきやすいのと同じことだろう。それはつまり、キャラが立っている立場・場所が前景化しているということだ。


実はこの力学は、物語において既に利用されている。それは典型的には変身系のストーリーだ。「スーパーマン」はとても分かりやすいが、魔法少女ものにもそういう一時的な活躍という面が含まれている。


ところで、サブヒロインの属性にはツンデレがよく合う。一度に複数攻略できないというギャルゲエロゲの性質とよくマッチしている。あるキャラの攻略ルートに入るということは、そのキャラがサブ→メインに変換されるわけだが、それにツンデレを重ね合わせると効果的で大変理に適っている。

物語的弱者に転落する主人公たち

月初めということで、基本に戻って考察しよう。ふつう「主人公」は、「主」人公なのだから物語の中心にいるはずだ。ところが最近、ある種の物語ではドーナツ化現象が起こっている。そこではむしろ、主人公は活躍する機会を奪われているし、読者の感情移入もしづらい。


例えば、最近のアニメを見てみよう。『涼宮ハルヒの憂鬱』の主人公キョンは、やたら語りがくどい。『Fate/stay night』の主人公衛宮士郎はやたら死にまくる。『ひぐらしのなく頃に』の主人公前原圭一も最初の鬼隠し編ですぐ死ぬし、物語と読者にとっては「存在自体がイカサマみたい」だろう。他にも『NHKへようこそ!』はひきこもりだし、『ゼロの使い魔』は「犬」だ。


ここで特徴なのは、主人公の弱体化に反比例してヒロインが強力になっていることだ。いわゆる「ツンデレ」型ヒロインが対置されていることが多い。涼宮ハルヒ、遠坂凛、北条沙都子、ルイズなどは非常に典型的なツンデレの振る舞いをする。そこにセイバーも含めてしまって構わないだろう。また、ヒーロー(英霊)がヒロイン=セイバーの方で主人公は補助という構図は、『ガンパレードマーチ』を思い出す。


パッとしない主人公とツンデレヒロインの組み合わせは(最近の萌え系コンテンツでは特に)よく見かける。しかしここで、「現実の社会で女が強くなったことを反映している」などという見方をするのはいかにも新聞的な発想である。確かにそれもあるだろう。が、その意見に新たな驚きはない。更に理由を考えてみよう。


もう一つ、ラブコメの主人公がパッとしないことが関係しているだろう。何も取り柄がなくてもモテモテでハーレムなのがラブコメだ。とすれば、美少女が売りの萌え系コンテンツでは、多かれ少なかれその血を受け継いでいるのではないか。しかしこれも平凡な主張に過ぎない。もっと核心に踏み込もう。


ここまで見てきたように、特定のジャンルでは、主人公が背景化している。それには、ストーリーの興味がテーマからモチーフに移っているという構造的原因があるのではないか。どういうことだろう。例えば『ドラえもん』におけるのび太はダメ主人公の典型だが、その「ダメ」は、ドラえもんのひみつ道具を見せるための「小道具」なのではないだろうか。


Fateは英霊の召喚、ひぐらしは雛見沢の現象に、作品の面白さがある。もちろん登場人物の過去が語られたりするのも楽しみではあるが、どちらかといえば作品の重心は人物よりも設定の方に掛かっている。もう少し細かく補足すると、人物より人物「間」のコミュニケーション、およびその方法(例えば「令呪」まで含めて)に重点が置かれているとも言える。


Fateもひぐらしも途中までの展開を見ると、圧倒的に「システムの一人勝ち」という印象がある。誰が誰に勝ったとか負けたというのは偶然的な事象に過ぎず、真の勝利者は登場人物たちの運命を翻弄する、聖杯戦争や雛見沢という「場所」なのだ。言い換えると、舞台で主役を演じるのは今や舞台そのものなのである。