リアルな勉強の価値

分裂勘違い君劇場 - 子供の「どうして勉強しなきゃいけないの?」→ 勉強することの具体的で直接的で切実なメリットを説明

「勉強することの具体的で直接的で切実なメリット」は、つまらないところにある。それが勉強の最も重要な効用になる。なぜそう言えるのか。

まず先に「どうして仕事しなきゃいけないの?」という相似形の問いを見ておこう。こちらの問いなら「生きていくには金が必要だから」という明確な回答がある。あまりに殺伐とした回答なので少しフォローすると、勉強には相手がいないのに対して、仕事はそれに対価が発生している限り、誰かの需要があるはずだ。合法な労働は誰かしらの役には立っているので、全く無意味で不毛な行為ではない。

それならば、勉強しないで仕事だけすればいいのではないか。しかしそうはいかない。習慣の力が大きいからだ。習慣を覆すには大変な労力がいる。だから、未成年の内は勉強しないで、成人になった途端に八時間労働に切り替える、というのは難しい。大方の仕事は単純労働であり、勉強のつまらなさと大して変わらない上に、失敗などのプレッシャーが大きい分苦労も多い。労働という選択肢は避けられないので、その前段階として慣れておかねばならない。

そうして突き詰めると、実は何もせず机に座っているだけとか、穴を掘って埋めるだけでもよいのではないか。本質的にはその通りだ。ただどうせなら、ついでに各種の知識を得ておいて損はないだろう。ところで、今まで述べてきたようなことは、単に建前に対して本音を言ってみた、というような世間知ではなくて、マクロに見るともっと原理的な話になる。

近代教育の原型は、軍隊や監獄のような組織なのである。そして、戦争では全体の規律が取れていることが重要になる。明治時代に新政府軍に対する農民の反乱軍が、例えば行進ができないとか規律が取れていないために負けたという話もあるらしい。いま学校でやる運動会の行進は、軍隊の行進の練習の、尾てい骨のような名残であろう。

整理すると、学習の内容もある程度大事だろうが、真に大事なのは学習することそれ自体なのである。近代社会の権力装置の一部であるところの、教育の最大の機能とは、内容のレベルではなく形式のレベルに存在する。ちなみにこれは、英語を用いることが英語圏の力になっていることだとか、ゲームハードを赤字覚悟で必死に普及させようとするような、デファクトスタンダードの問題として解釈することもできるだろう。一日何時間かつまらないことに耐えるというハードを形成しておかないと、ソフトが走らないのである。