なぜ「絶望先生」は絶望するのか
『さよなら絶望先生』は、絶望先生こと主人公の糸色望が、「絶望した!」という台詞を吐くのが物語の定型になっている。しかし、メインヒロインの風浦可符香のようにポジティブな考え方をする「希望先生」ではいけなかったのか。いや、そもそも可符香が、実は主人公である可能性はないか。可符香視点の話とは読めないのか。しかし結論から言うと、「絶望先生」の主人公は絶望先生*1だと言える。ではなぜそう言えるのだろうか。
ここでは、『ドラえもん』を考えてみて欲しい。読者は、出来杉が主人公だとは思わないだろうし、彼を主人公にしても面白くならないと思うだろう。「ドラえもん」でのび太が主人公*2なのは、彼が常にダメでプアな状況にあるため、ドラえもんの道具への欲望が成立するからだ。ジャイアンにいじめられたくないとか、スネ夫が持っているプラモが欲しい、といった欲望は居候のドラえもんではなく、のび太のものなのである。
だから、「さよなら絶望先生」における絶望先生は、のび太の位置にあると考えれば、分かりやすい。一方ヒロインたちは、ドラえもんの道具(を使って欲望を満たすこと)に相当する。ひきこもったり、ストーキングしたり、携帯のメールでのみ話したり、そういう特定の欲求に固執した状態(欲動)は、絶望先生の絶望を解決する魅力的な秘密道具になりえる。ただし、ドラえもんの道具がしばしば使い方を誤って暴走するように、ヒロインによる解決は失敗し(例えば携帯メールで話してみたら毒舌だったとか)、希望は毎回先送りされる*3。
ある意味では不気味なヒロインたちは、絶望先生のネガティブな視点から中継することで、ポジティブな価値を与えられる(例えば「消極的な娘は好きですよ!」だとか)。それはのび太の目を通して秘密道具を見るのと同じことだ。出来杉は秘密道具がなくても、実力によってテストで100点を取れる。しかし、ここで「ドラえもん」との決定的な違いがある。ドラえもんの秘密道具は主体ではないが、絶望先生のヒロインたちは主体である。だから、ヒロインたちがよく絶望先生に恋をするのは、もちろんそれはよくあるお約束ではあるものの、絶望先生に欲望を共有して欲しい、つまり欲しがって欲しい、というのがあるから、お約束が活きるのである*4。
しかし可符香だけは特殊な位置付けにある。彼女は欠如が欠如している*5ので、絶望先生と違い他のヒロインを必要としない。まず電波な性格であるという設定があるだろうが、彼女がクラスで浮いているのは、彼女が他のヒロインの欲望を必要としないためである。しかも彼女は、絶望先生にとっても、欲望の対象にならないどころか、むしろ不安の対象だ。例えば絶望先生が自殺しようとするとき、誤って本当に自殺することを助けてしまいそうになる。絶望先生は自殺したいのではなくて、自殺を止めて欲しい、構って欲しい、つまり欲しがって欲しいのだ。そのように、彼女だけは、他者の真の欲望を理解しないし共有できない*6。従って、ある意味で可符香は、絶望先生の立場を反転した、ライバルに相当するのである。
作品紹介
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*1:タイトルと主人公が同じなので、これだけ見るとナンセンスに見えるが、もちろん、「『涼宮ハルヒ』の主人公はキョン」のように、題と主人公は別になりえるので意味がある
*2:もちろんドラえもん主人公説も有力で、本線に関係ないので詳しい議論は省くが、ここでは『ドラえもん』の主人公はのび太だと考える。
*3:『こち亀』の両津が大金を手に入れても毎回最後は必ず失敗するだとか、更に秋本のオマージュ元の『男はつらいよ』の寅次郎が必ず失恋する、というように、失敗を反復するモチーフ自体は伝統的によくある
*4:ちなみに、「糸色望」は「絶望」に読めるだけではなく、「愛しき(を)望む」という風にも読め、その二重性が絶望先生の主人公としての特徴になる
*5:マイナスとマイナスを掛けてプラスになるようなもの。物語の中でも彼女が実は悲惨な境遇にあったという描写がされる
*6:彼女だけが「絶望先生」と呼ばず「桃色係長」と呼び、しかもわずかながら対価を払うのも、そうした事情によく対応している