過剰

高度に政治的な行為

この展開はグロ過ぎるという。私も正直、見ちゃおれんなとは思った。思いつつ目を離せないので読んでいたのだが。

「グロテスク」が妥当な表現かどうかはさておき、id:ohnosakiko氏の感想は、最大公約数的ではあるけれど、興味本位で見ている観衆の感覚を的確に述べているとは思う。もちろん、私も共感する部分と、できない部分がある。しかしそれは、「三流ポルノか出会い系のスパムメールかとも思われるような性描写」ではなくて、相手が誰でもいいからと公開で募集する部分に引いている。

また、上記エントリでは「『誰か結婚してくれ』と言っているわけではないのだから。」と書いているが、「セックスしてくれ」と言っているわけではなかったのに、id:Masao_hate氏だけさんざん叩かれたのだから、当然次の段階も同様の事態は起こりうると皆想像するだろう。id:hashigotan氏がなるべくブロガーを募集したことも合わせて考えると、誠実な人ほど慎重になるという、事態の悪化を招くのが予想できる。

fromdusktildawn
(…)簡単に言うと、手強そうだがなんとかなると思っていた相手が、とつぜん全身にぞわぞわと毛が生え、山のように巨大化し、鋭く大きな牙と真っ赤な口を開いた得体の知れないモンスターに変身して突進してきたので、びびって失禁して敵前逃亡してしまった。

http://d.hatena.ne.jp/Masao_hate/20071128/1196130745#c

(上は最初のエントリとは全く別の場所)だからこのように責めるのはよくないと思うし、モンスターの比喩もグロくてデリカシーがないと思う。「セックスというのは高度に政治的な行為」というのは、確かにその通りだと思う。しかしだからこそ、私はそれを考慮してid:Masao_hateさんを擁護するのだ。id:fromdusktildawn氏は頭が切れてパワーゲームに強そうだと感じるが、個人の繊細な感情を理解したり配慮するのには向いていないと思う。

リアルなものとは

はしごたんは性的にグロテスクな体験をしたその記憶を梃子に、グロテスクなテキストを書き、己のグロテスクな欲望を露にしてきた人である。それに応えるには、そのグロテスクさに見合った方法しかないということなのだろうか。そしてそれを言うならば、この騒ぎから目が離せない私も含めて何らかのコメントをしたすべての人が、ある意味グロテスクということになろうか。

でも、いったい何がグロテスクで、何がそうでないのだろうか。そこが私にはわからなくなっている。

グロテスクというキーワードで全てを説明していながら、グロテスクなものとそうでないものの境界が不明になっている。私は「グロテスクなもの」の代わりに、「リアルなもの」という言葉を使うが、それは後で明確化するように、単に語弊があるから言い換えただけではない。「奇怪」「異様」「醜悪」ではなくて(それでは本当にモンスターだ)、享楽の対象になり魅惑的で眼を惹くが、心穏やかではいられない過剰な生々しさ、といったところだ。そして、人間にとって性はリアルなものの一つである。

生々しいのは生命感があるからで、生命感があるのは身体性があるからだ。ブログという単なる文字の集合に生々しさを感じるのは、記号が身体性を帯びているからである。もっと具体的な例で言うと、無味無臭の綺麗な幾何学的CGなどとは違い、傷口の写真を見れば痛々しいだろう。そして、写真でなく文章で怪我をした話を書いても、書く方も読む方も痛い。精神的外傷であっても同様である。だから、hashigotanさんのブログを読むと「痛さ」を感じる。

イメージを超えてリアルが溢れ出すのは、表現だけではなくて、表現している物自体をそこに感じているからだ。傷の写真や文章を見ると痛いのは、同じ身体の痛みの記憶を投影する想像力があるからだ。無自覚に痛さを伝えれば読者は苦痛だろうから、私のブログでは普段なるべくあえてリアルを殺すように書いているが、苦痛の経験であっても共有したいと思わせるまでになれば、文学的想像力の域だと思う。私自身はブロガーにおいて、まだその域に達していないと思うけれど、そういうブログが他にあるかもしれない。

傷つけた槍だけが、その傷を癒すことができる

文章の一部が強いマゾヒズムを感じさせる点については、(…)「剣によって受けた傷は剣でしか癒せないのかもね」と書いたのも、そのことを指している。

「リアルなもの」は、上の引用部にも関係している。この論理を理解するためにはワーグナーの最後のオペラ「パルジファル」を参照するとよいだろう。

パルジファル」のあらすじを簡単に述べておこう。聖杯城の王アムフォルタスは、悪の魔術師クリングゾルの奴隷クンドリの誘惑を受け入れ、聖杯の神聖性を汚してしまう。そして、クリングゾルは聖槍ロンギヌスを奪い、アムフォルタスを傷つける。絶えず血が流れ出す脇腹の傷は自然に癒えることがなく、贖罪の意識と共に永遠の苦しみを与える。彼を救うのは愚かとされる若者パルジファルで、隠者グルネマンツの協力も得て、ロンギヌスの槍をクリングゾルから奪還する。そして、傷つけた槍によってその傷を癒すのである。

ワーグナー自らが「舞台神聖祝祭劇」というように、この展開は単なるマゾヒズムではなく、傷つけることと癒すことの両義性を示している。「毒にも薬にもならぬ」ありふれたものと逆の、毒にも薬にもなるものとは、まさに先に述べたリアルなもののことにほかならない。そして物語中、「共苦して知に至る、汚れなき愚者を待て」という神託があるが、救済を可能にするには、単に純潔を守るだけではなく、受苦を共有する必要がある、という寓話性を持っている。

リアルなものとグロテスクなもの

ここまできて、私の言うリアルなものと、ohnosakiko氏の言うグロテスクなものの、差異が明確になる。リアルなものがグロテスクなものに堕してしまうのは、感覚の共有がないときである。最近でも「モンスター弱者」という言葉があるが、異民族であるとか共感がない相手をモンスターとして描くのは昔からの常だ。そして、同じ出来事が毒にも薬にもなることがある。好奇・嘲笑・嫌悪といった視線によってグロテスクになることもあるし、共感と友愛につながるリアルなものを感じることもある。

だから、他者の言動をグロテスクに感じているとき、どこか他人事だと感じているところがあるのではないか。もちろん、そういう面は私にも少なからずあるし、完全な一致などそもそも不可能だ。それに、第三者的な視線だけではなくて、前のエントリ「彼女に何か言えることがあるとしたら」には――それがセピア色の過去を振り返るノスタルジックな視線によって、自己と他者を二重写しに重ね合わせているのだとしても――共感があるだろう。もっとも、それが今現在においてもがき苦しんでいる者に通じるとは限らないのだが。

最後に、私もリアルなら何でもいいとは思わない。留保のない性の肯定をするわけではない。件のオフ会に興味本位のグロテスクな視線を感じている。だから、オフ会に対して「参加はもちろん寄付する気にもなれない」という点では、ohnosakiko氏と完全に意見が一致している。