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萌え理論ブログ

2007-12-20 200万PV

作品は、作者のものか、読者のものか

作品の責任は誰のものか

 マンガは誰のものか? 作者のものなのか? それとも読者のものなのか? マンガ批評の根幹にかかわる問題である。

 あるマンガがひどい出来に思えたとしても、それは10割作者の責任ではないかもしれない。ある程度は、読者の「読み」に原因があるかもしれない。

ここでは、原因と責任を区別しよう。読者の読みが原因でつまらない場合は確かにある。しかしそれでも、責任は10割作者にあると考える。なぜなら、権利は10割作者に与えられるからだ。もし、読者にも印税の一部が入るなら、それはつまらなさの責任があるだろう。ただし、印税率は一割(以下)なので、更に細かく考える。

  • つまらない作品を書いたのは作者の責任
  • つまらない作品を売ったのは編集の責任
  • つまらない作品を買った・読んだのは読者の責任
  • その他、出版は出版、印刷は印刷、流通は流通の責任

こうすると分かりやすい。よく「つまらなかったから金返せ」という読者の感想がある。しかし、気持ちは分かるが、もちろん返金されない。それは理不尽ではない。自分で選択して買った責任がある。本屋で立ち読みしたり、ネットでレビューを読んだりできるだろう。もちろん、あまりにもつまらなければ、次に同じ作者・出版社の作品は買わない、という形で信用を失うので、市場の競争が働いていれば、読者が一方的に割りを喰うわけでもない。

このように、責任は権利と対で考えれば、わりと明確に線引きができる。作者・編集者が「読者が読めてないからいけない」と言い出すのは(飲食店が「客が味が分からない」とか、他の業種でも同じ)、たとえそれが本当だと感じられたとしても、職業倫理的に賛成することはできない。

評価の原因はどこにあるか

だが、責任はさておき、純粋に原因がどこで生じているかの線引きは、非常に難しい。それは、書くことと読むことは表裏一体で、全く別々に分けることはできないからだ。書かれていないものを読むことはできないし*1、書かれても誰も読まなければ無いも同然だ。つまり、どちらかを欠くのは片手で拍手するようなものである。

ここで、読者が価値を創造する構造は、大衆文化よりも芸術の分野で、劇的に現れる。ゴッホを考えてみればよい。生前全くと言っていいほど売れなかったが、死後何十億円という価値を絵に付けられている。このような極端な差が生じるのは、素人の読者(鑑賞者)が見ても価値が分からないからだ。そのように難解で価値が曖昧な場では、(画商も含めて)批評家のウェイトが大きくなる。

マンガの話に戻ろう。権威がないネットのレビューに価値があるとしたら、主にマッチングだと思う。すなわち、作品に対する評価自体よりも、その評価を通じて、作者と読者を上手く出会わせる、ということに意味がある。別の視点で見ると、星をいくつ付けるか、といった垂直的なことよりも、誰が書いたものは誰が読むのがふさわしいか、という水平的な役割が期待される。つまり、レビュアーは仲人だ。

この記事の題の問題はどうなったのか。結局、作品は作者のものか読者のものか。それはもちろん両方だ。どちらかだという発想は、子供は父親のものか母親のものか、という問いと同じではないか。そして、作品の評価は、書くことと読むことの両方を受け継いで産まれて来る。大きく育った評価は、やがて一人歩きするようになるかもしれない。社会現象になるような作品がそうだ。その場合、どんなに手放したくなくても、作品は作者や読者の所有物ではない。

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*1:作家が「先生」と呼ばれるのは、必ず読者より作者の存在が、先に生まれているからだと考える

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