東浩紀×宇野常寛「決断主義トークラジオAlive2」の言及に関して2

前回を振り返る

東浩紀×宇野常寛「決断主義トークラジオAlive2」の言及に関して - 萌え理論Blog

前回の記事に幾つか反応があって、「憤怒」しているとか書かれてましたが…「キレてないっすよ(小力)」。少なくとも東さんに対して、文句の一言も書いてないじゃないですか。放送では思いっきりネタにされてましたが、私も笑わせてもらったので、また何か機会があったら、私に言及して欲しいです。他の方は配慮して欲しいですが、ともかく私に関しては誤配万歳ですね。

また、スルーできなければ負けだとか書かれていたのも、むしろ、「俺に絡めよ宇野常寛」くらいに思ってますよ。だいたい、宇野さんは東さんに終始圧倒されていて、既に勝敗は決しているのではないでしょうか。そして、立場や場数など、どうしても色々差があると思うから、掌で転がされたのは同情する部分もありますが、明らかに自業自得な部分もあります。今回はそこを書きます。

善良な小市民は掘った穴に自ら落ちる

今まで宇野(市民)は、彼を批判すれば、これこそ酸っぱい葡萄だ、後ろめたいから反応する、その否認の身振り(ラジオでも使った言い回し)こそが証明しているのだ、惑星・市民に怒り狂うようなレベルの奴はいじけていればいい、そして批判しなければそれはそれで黙認しているのだという、両刀論法で煽動していたわけです。

しかしですね、今回の放送で、逆に東から「(「レイプ・ファンタジー」や「酸っぱい葡萄」の奴は)どこにいる」と直接聞かれると、とても答えに困ってしまったわけです。「有象無象」「個体認識していない」などと強がっていましたが、一方で自分は大塚・宮台より東に近い立ち位置だとしていたのだから、それって小市民的な、上にへつらい下をいびろうとする身振りではないですか。

今まで「惑星開発委員会に怒り狂っちゃうような人間は、そのレベルまで行けないんですよ」というようなことを言っていたのなら、今回は「萌え理論くらいしか仮想敵に挙げられないのでは、その域に達してないんですよ」と同じロジックで返されてしまう。というかそれが東の「日本で萌え理論くらいだよ」という発言になる。

しかしそもそも、このブログは2006年から始まって今年で三年目ですが、『Air』の「美鈴」に言及したことはないですね。葉鍵にはありますが、型月とひぐらしに言及した方が多いでしょう。だから、どこら辺がレイプ・ファンタジーを強化しているのか分からない。要するに、ラジオでも半ば投げやりな態度で、よく知らないけど決め付けていたわけですが、でもそうすると今までの批判は何だったのか。

性的な妄言に現れていたけど、「レイプ・ファンタジー」って宇野のファンタジーではないですか。あるいは、「酸っぱい葡萄のオタクがいたら自分が出ていってやっつける(見せしめにする)」みたいな、妄想的なヒロイズムではないか。そして、もしこう言われてそんなことはないと怒り狂うようなら、「その否認の身振りこそが〜」と返されるので、ラジオではなるべくウヤムヤにして逃げるしかなかったのではないか。

宇野は今まで、色々なところに落とし穴を掘ってきて、落ちた奴を見せしめにしようとしてきたわけですが、あちこち掘りすぎたために、穴を避けてフラフラして、結局、自分で掘った落とし穴に自分が落ちた、つまり語るに落ちた、というところではないでしょうか。

誤配的公共圏

ここからは蛇足ですが、ラジオの放送内容からやや離れて、公共性の議論について考えておきます。公共性とか別になくてもいいや、とは思わないからです。といって、単純に「大きな物語」の復活というのも難しいでしょう。

例えば、今のライトなオタクは「酸っぱい葡萄」というより、全く逆に、豊かなコンテンツ環境に充足した「甘い葡萄」なのではないか。ニコ動とかを見ると、別に他の文化圏にルサンチマンを持っているわけではない感じがする。でも、それが小さな成熟だと全肯定できるのかどうか。

棲み分けが完全になされると、小さな成熟は小さな退行にもつながると思う。ローティがアイロニー的連帯ということを言っていて、それは別に、酸っぱい葡萄でいじけろというわけではなく、価値観が多様化した現代では特定の価値観を共有できないから、むしろ価値観の不在を共有するという発想です。アイロニストは、生活形式の細部に、他者から笑われてしまうような幻想を発見します。

小さな共同体を移動できる誤配可能性が必要で、むしろそこに公共性があると考えています。共同体のどれかが公共圏なのではなくて、共同体間に公共圏がある。しかし、「間」は公認されていないし、支持団体を持たないため、ゾーニング・フィルタリングで管理されてしまう。

誤配的公共圏の成立は難しい。それは、「誤配の価値を認めろ」というのは、「無駄の価値を認めろ」と似たところがあって、価値がないから無駄なのです。同様に、公認されたら誤配ではないのではないか。では、どうしたらいいのか? 分かりません。ただ少なくとも、決断主義が見落とした裏面ではあると思います。誤配の経路は決断で決まらないからです。