アニメータの個性はいらないが、MADはハメを外すほど面白い、という二極化

萌えゲーと鬼畜ゲーの表裏 −パッシブとアクティブ− - ロリコンファル

萌えは相手を変えようとする積極的な意志というよりは、相手が変わらないことを
望んでいるように思えます。ゆえに、パッシブな、美的鑑賞性が大きいかな、と…。

萌えの夢中性・気まぐれ性というのは、ヒロインの変化を求めるものなのでしょうか?

id:kagamiさんが仰る疑問はもっともだと思います。ツンデレヤンデレブーム以降は揺り戻しがありますが、萌え系の作品はキャラクターが変化しないことが好まれます。だから、キャラのイメージが崩れると、作画崩壊といって大騒ぎするわけです。ある意味で凄く保守的です。しかし、変化がないのであれば、夢中で気まぐれな萌えの性質は満足しないのではないか、という疑問が生じます。

この問題には、ある種のダブルスタンダードで対応していると思います。最初の記事にあるようにヒロインの話で言うと、原作は処女的なイメージを崩さないことを求めるのだけれど、二次創作は性的だったり、病的だったり、破壊的だったり、変化を求めていく。それは、ゲームがリセットできるように、一次創作のイメージにキャラをリセットできるから、二次創作でキャラが崩れていてもある程度寛容なわけです。

一次創作のレベルでは、キャラクターの徹底した一貫性が求められて、逆に二次創作では変化や多様性を求めるという二層構造があります。ニコ動でMADが流行するような現在では、この二極の乖離はより極端な形で進行しているように思えます。つまり、アニメータの個性はいらないが、MADはハメを外すほど面白い、という二極化です。

よくコンピュータの環境が進歩して創作が手軽になったといいますが、その多くが二次創作に流れていて、一次創作は(ひぐらしや東方のような、同人でありながら二次創作が流通するような超有名作を除けば)あまり元気がない。二次創作は、設定などベースが既にできており、一定のユーザが最初からついていて、承認供給も得られやすいので、自然とそうなるでしょう。

そして、アニメータが工業製品的に無個性を徹底的に要求され、その割りに(末端は)別に高給でないのなら、MADを作って遊ぶ方が楽しいよね、ということになっていきそうです。今はともかく、十年単位で世代交代したときに、変化が現れるかもしれません。変化自体の賛否とは別に、流れは把握しておきたいわけです。

レポートを書くときに、まずGoogleの検索で探して……、という生徒が増えているのと同じで、創作するならまず先行する創作を見つけて、という感じになっている。ただ、そこでもやはり何らかの個性はあるだろうと思います。つまり、一次創作の高速道路を利用しても、降りた先では、二次創作同士で差異化するための大渋滞が起きている、というイメージです。