2012年と夢の続き

読みかけの本を本棚に片づけるのが面倒になって、部屋の床に放置するようになった。図書館で借りてきた本も数学の教科書も、読むのをやめたその場所に配置し、やがて足の踏み場もなくなってしまう。積み上げた中に埋もれてしまった本のほとんどは、読みかけのまま記憶の隅に追いやられてしまい、後に思い立って捜し出すのに苦労する。慎重に歩いていても爪先で本を蹴飛ばしてしまい、蹴飛ばした本を拾い上げ、適当なページを開いて読み上げる。大概の言葉は文脈から切り離されてただの言葉になるけれど、ときどきそういった場面で本領を発揮する言葉があって、たとえば短い詩がそれにあたる。そもそも数ページで終わる作品に文脈はあまり絡まっていない。詩の言葉はたった一行でも感情に作用するから楽しくなって、かけ離れた詩を横に並べて、感情の上下動を面白がっていた。一瞬に生まれた感情は一瞬で消えてしまうけれど、そのリスクのなさが安心だった。感情に作用する言葉を風船に詰めこんで生活空間のあちこちに結びつけておけば、体に触れたときぱちんとはじけ、脈絡のない感情となって人を襲い、それからすぐに忘れられる。感情は生活と無関係に起こり、日々はちぐはぐなものになる。そんなふうに言葉をつかえたら、と考えて春が終わる。

生まれてすぐに寝て、二十年経ってやっと目が覚める。二十歳になるというのはそういうことだと十代のあいだは思っていて、だから周囲の人が二十歳になる前の自分に対して怒っていても、それはずっと眠って夢を見ていたことに対して怒っているのであって、その夢の内容に対してではないのだと信じていた。十代の終わりに何をしようかと悩み、結局雨の房総半島の真ん中で散歩してみたけれど、それも去年の夏にやったことの焼き直しにすぎない。がらんとした人のいない風景に自分の望む風景を重ね合わせようと、何度も何度も上書きしていく作業だった。色を塗りつける隙間から現実の断片が溢れてきて、やがて飽きてしまって電車に乗る。車両には他に人が乗っていなくて、向かいの窓ガラスには自分の姿がぼんやりと映っている。ノスタルジーを喚起する夕方の田舎の電車で、記憶を総動員して数年前の自分を再構成しようと試みるけれど、今朝見た夢を思い出そうとするように手応えがない。記憶をすり抜ける目の前の自分は過去のどの自分でもあり得るし、他人のように遠くに感じる。自分が鏡になって世界が過去方向に反転しているとすれば、視界には過去の自分が縦一列にずらっと並んでいて、手をかざせば一瞬前の自分と掌が合わさる。記憶から消えてしまっても、この列をたどった先に十代の自分もいるのだ、と考えて夏が終わる。

バートルビーは労働を拒絶し、生活を拒絶し、そして食べることを拒絶して死んでいくけれど、拒絶に至る前の彼はそれとは逆に、語り手である上司の命じるがまま黙々と筆写する人だった。語り手はバートルビーを最後まで見捨てず、不可解な言動をやめない彼と対話しようとする。非人間的なまでにすべての可能性を保留しようとするバートルビーは、実はときおり平凡な青年らしい顔を見せる。語り手が諦めきれなかったのは、そういった瞬間を知ってしまったからだろう。バートルビーの真似をして勤勉な労働者を演じてみたものの、重要なのは演技がほころぶ局面なのだと気づいてしまう。困ったのは辞めようと思ってもそう簡単には辞めさせてくれないことだった。ずるずると引きずって季節がまたたく間に過ぎ去り、大晦日にやっと「しないほうがいいのですが」と口に出す。心の中でバートルビーに謝りながら。同じ言葉でも意味合いはまったくちがっている。秋がほんとうに終わった自信がない。

目が覚めて見知らぬ人たちに囲まれていたらたぶん、もう一度眠ってしまうのが手っ取り早い。まだ夢を見ているのかもしれないと疑いだしたら切りがないし、そんな恐ろしい状況には向き合いたくない。Qのシンジくんは夢の階層を入ったり出たりするみたいに世界のモードを切り替えながら、貧しい風景を彷徨い歩く。でもどこへ行っても悪夢ばかりで、一向に目が覚める気配はない。EoEのときは夢があり、夢の外側の現実があり、どうやって夢をあきらめるか悩んでいたのだった。Qの世界はもっと曖昧で、殺風景で、人が少ない。人間関係に傷つくための街や学校がなく、他者に怯えるための不安もない。この悪夢を乗り切るためにはもっと別な手段が必要なのだと、映画のあちこちに散らばった希望を拾いながら、新しい言葉を模索する。でもそれも悪夢の一部に取りこまれていく。かつて夢の終わり、現実の続きといったとき、夢と現実のあいだにある区切れ目を神経質になぞって怖がっていたのだった。でもほんとうは夢と現実は地続きなのだと夢を見ている最中は確かに知っているのだ。だからせめて、シンジくんが初号機で眠っているあいだに見た夢が幸福なものだったら嬉しいと思う。

『木曜日だった男』G・K・チェスタトン(南條竹則訳)

木曜日だった男 一つの悪夢 (光文社古典新訳文庫)

木曜日だった男 一つの悪夢 (光文社古典新訳文庫)

「誰が狂っていようと、誰が正気だろうと、どうでもいいことじゃないか? もうじき、みんな死ぬんだ」(252頁)

 グレゴリーはステッキで街灯柱を叩き、それから木を叩いて言った。「こいつとこいつの話だ、秩序と無秩序に関する話だ。あの痩せっぽちな鉄の街灯、醜くて不毛なあれが、君の大切な秩序だ。そして、こちらには無秩序がある。豊かで、生きていて、自己を再生産する――これが無秩序だ。緑と金色に輝いているこいつが」
「しかしね」サイムは忍耐強くこたえた。「今、君は街灯の光で木を見ているにすぎない。果たして、いつか木の光で街灯を見ることができるかね?」(27-28頁)

創世記によれば、神は第四日目に太陽と月をつくったという。おそらくその神は、太陽は昼に輝き、月は夜を照らすから、きっとこの恒星と衛星が対をなすと考えていたのだろう。夜空に発見する月の光が、地球の反対側で燃焼する太陽の光が反射したものだと、自然科学に慣れ親しんだ人々は知っている。
詩人ガブリエル・サイムは、無政府主義者たちが世界の秩序を乱すことを知っていた。彼は詩人であると同時に、警官でもある。ある夕方、彼は暗室に姿を隠した謎の男に無政府主義者を取り締まる警官に任命され、そのしるしに青いカードを渡されたのだった。やがて彼は無政府主義集団の最高評議会に、新しい評議員として潜入することとなるのだが、七人の評議員にそれぞれ曜日の名が与えられるそこで彼に与えられたのが木曜日の称号だった。
このあと彼は悪夢めいた体験をすることになる。まずはじめに誰が敵で誰が味方かわからなくなり、次に誰が正気で誰が狂気かわからなくなる。サイムはずっと自分の側に正義があると信じていたが、気がつけば少数派になって追いつめられている。そうしてロンドンからフランスに渡って繰り広げられた彼の冒険も、思想もなければ闘争もない、蛇が自分のしっぽを追いかけていつまでも回り続けるようなものだったと知らされる。
そもそも彼が最高評議会に招待された因果の根には、無政府主義を標榜する赤毛の青年グレゴリーとの出会いがあった。サイムとグレゴリーは秩序の思想と無秩序の思想をぶつけ合い、グレゴリーは自分の無政府主義が机上の空論でないことを示すために、所属する無政府主義集団の支部の存在をサイムに見せつけるのだった。しかし、そこで行われた最高評議会に派遣する代表を決める会議で、サイムは舌鋒鋭くグレゴリーをだしぬき、自分が支部の代表となってみせた。支持者たちが瞬く間にグレゴリーを裏切ってサイムに鞍替えしていく光景は、このあとサイムの身に降りかかる、敵も味方もわからなくなる恐怖によく似ている。
もしほんとうにこれらの不安が一つの悪夢でしかないとして、チェスタトンが冒頭の詩で述べるように、「安心して読むことができる」だろうか。若さゆえの苦悩として、忘れることができるだろうか。決してそんなことはないだろうし、この詩もまた回りくどいアイロニーなのかもしれない。サイムはグレゴリーの妹に向かってこのように言う。「ところで、あなたのお兄さんのような方は、時々自分の言いたいことを本当に見つけるんです。それは真実の半分か、四分の一か、十分の一であるかもしれません。でも、その時、彼は言わんとする以上のことを言うんです――言いたいというひたすらな思いから」(24頁)。すなわち、ときとして言葉は話す人の意図を超えていく。グレゴリーとサイムという二人の若い詩人の議論が、その後に来る悪夢をすべて含んでしまうこの場所で、「安心して書く」ことも「安心して読む」ことも、悪夢が真実になる不安につきまとわれる。

『地下鉄のザジ』レーモン・クノー(久保昭博訳)

地下鉄のザジ (レーモン・クノー・コレクション)

地下鉄のザジ (レーモン・クノー・コレクション)

ザジが行ったり来たりしているその都市がパリでなかったとして、何が変わるだろう。田舎の少女ザジは母に連れられ、電車に乗ってパリにやってくる、地下鉄に乗るために。「地下鉄、この優れてパリらしい交通手段」。都市の地下を縦横にすれ違いながら走る地下鉄はこの日ストのため動いていない。ザジたちは塔の展望台からパリを一望しているがエッフェル塔だとはどこにも書かれていないし、展望台から見下ろす建物はパンテオンなのか廃兵院なのかはっきりしない。ザジは観光に明け暮れているはずだし、ザジの伯父ガブリエルに心酔する謎の観光客たちも登場するし、このパリは観光都市としてのパリのはずなのにぜんぜんパリじゃない。
そもそも風景や都市ではなく人物と会話だった。オウムのラヴェルデュールがオウムらしい脈絡のなさで「おしゃべり、おしゃべり、おまえにできるのはそれだけ」と言う、まさにそのように。だいたいみんなおしゃべりばかりしている。ザジは絵に描いたようにものわかりの悪いませた子供だし、ガブリエルは急に古めかしい言葉遣いで超然とした独白を始めるし、気まぐれな演劇みたいな側面もある。会話文の中に(身振り)とか(沈黙)とか挿入されていてそういう点ではまさに演劇。でも(身振り)と書かれていてもどういう身振りかわからないから、会話文の内容から一瞬だけ意識を逸らされるしるしとして読めばいいのだろうか。過剰なキャラクターたち、まるで幻のパリで役者たちが演技をしているみたいだ。
さまざまな名前で登場するあの人、ほんとうの名前はわからないけれども、彼は警察官のかっこうをして警察官のふりをする、別のときは警官のふりをした痴漢のふりをした私服警察のふりをする。演技をする層をまちがえたのかもしれない、演技をしようとして演技をする人を演じている。複雑なことをしているようでただ勘違いしているだけのような安心感がある。彼に惚れこむムアック未亡人は頭のねじがはずれている、瞬時に惚れこんで盲目的に彼を追いかけるけれど移り気も激しい。彼女もまたおしゃべりのテンポをつかむのが下手であさっての方向に言葉を投げている。彼女に降りかかる残酷な運命がどことなく示唆的でも、きっと劇の外側の何かの犠牲になったのだと思う。
思わずページを戻して読みなおしてしまうような行き当たりばったりの展開は、たぶん地下鉄の揺れだとか、アナウンスとか、乗客の話し声とか、そういう些末な刺激が拡大されて現れている。すべての出来事は地下鉄で夢に見られているし、だから彼らは地下鉄に乗れない。地下鉄に揺られているあいだは地上の彩りは楽しめない。ザジの見る夢が軽やかなリズムを保ったまま書物が閉じられ、役者勢揃いの閉幕は忘れ去られる。

『プライマー』

プライマー [DVD]

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タイムトラベルや並行世界は生活が積み上げ引き延ばした時間を一瞬のなかに縮減する。そんな瞬間を前にして涙は自然に湧きあがるしノスタルジアという言葉を思い出してしまう。もしあのとき別の行動をとっていたら世界はどうんなふうだったろうという想像は止むことを知らない。そもそもそれはフィクションの欲望それ自体だという人もいる。
『プライマー』は疑いなくタイムトラベルもので、並行世界が扱われている。過去を書き換えたいという意志が物語を駆動している。だけれど、涙を流させるための演出は驚くほど足りない。一度目に見終わったとき驚いて呆然とする以外に何もできない。終盤加速して矢継ぎ早に明かされてゆく情報の複雑さへの驚きと、タイムトラベルに伴ったはずの感情が欠如していることへの驚き。
演出の不親切さは低予算のためだ、ということは容易だ。『プライマー』はシェーン・カルースという人物が監督、主演、音楽その他ひとつの映画に対してひとりの人間が可能なすべてを尽くしたみたいにスタッフロールに同じ名前が並ぶ。タイムパラドクスが生み出す分身の存在が明示的に表現されないのは、映像を合成するだけの予算がなかったからかもしれない。重要なはずのパーティーの場面が詳しく描かれないのも、低予算のせいかもしれない。でも、低予算の貧しさが『ほしのこえ』のセカイ系としての表現に繋がったのだとしたら、『プライマー』に感じた新鮮な無感動も切り捨てたくない。
偶然タイムマシンを開発した二人のエンジニアは、貸倉庫に設置したタイムマシンを使って少しずつ儲ける。未来の株価を知って過去に戻り、株を買う。きわめて小市民的なタイムマシンの使い方。タイムマシンは過去に戻るときだけ使うから、ある時間に彼らは二人ずつ、存在することになる。何らかの要因によって二人ともタイムマシンに入らなかったら、同じ人物が二人存在する世界ができあがる。そうして増殖した彼らの思惑が絡み合い、複雑になった時系列は何度見ても完全には理解できない。この謎だけでもじゅうぶんに魅力的で、見終わると同時に再生ボタンに手が伸びる。
そのパズルを解いたところで描かれなかった感情には辿り着けないと考えるから、この放心はいつまでも続く。優秀な脚本家の手によるハリウッド映画にも、頭脳明晰なミステリ作家の小説にもないものが確かに『プライマー』にはある。現実にやすりをかけたようにハレーションを起こす画面の狭さ。新たな地平をこじあけるにはこの映画だけでは不足だろうし、永遠に開かれないかもしれないし、開けても何もないかもしれない。

ダニロ・キシュ『庭、灰』における父の死の瞬間

*1
 第二次世界大戦末期、モーリス・ブランショはドイツ軍に捕らえられ銃殺されかかる。彼は壁の前に立たされ銃を向けられるが、逃げることによってではなく、偶然によって生きながらえる。それから約50年が経った1994年、彼はこの体験をもとに『私の死の瞬間』というきわめて短い物語を書いた。
 『私の死の瞬間』は「私は思い出す」という回想の宣言から始まる。ブランショ自身と思わしい青年は、〈城〉と呼ばれる大きな家に住んでいたが、唐突に「全員外へ」という怒号によって追い出され、家族とともに銃を構えた兵士たちの前に並ばされる。しかし兵士たちは実はドイツ人ではなくロシア人だと知らされたとき、彼は自分がいつのまにか「ヒースの森」という遠くの森の中にいることに気がつく。やがて現実感覚を取り戻した彼は、農民の息子たちがただ若いというだけの理由で射殺されたことを知る。すべての農家が焼かれているにもかかわらず、彼の住む〈城〉だけは焼かれていなかった。

すべてが燃えていた。〈城〉をのぞいては。[1]

そうして彼は自分が助かったことを知る。助かったのは〈城〉の表玄関に刻まれた1807年という文字を見たロシア人たちがナポレオンを連想し、青年の高貴な階級に気づいたことが原因であるようだった。
 ダニロ・キシュ『庭、灰』もまた、作者の実体験をもとに第二次世界大戦の時代を回想する小説である。語り手である少年アンディの父エドワルド・サムは、アンディが九歳のとき、ゲットーに送られて消えてしまう。消えるという表現を用いるのは、まだ幼いアンディにとって父の死がはっきりしたものとして記憶されていないからだ。それは『庭、灰』のある章で、戦争が終わったあと父が定期的に姿を変えてアンディの前に現れるという妄言なのか歪んだユーモアなのか判然としない話が述べられていることからもわかる[2]。『庭、灰』は章番号のつかない12の章からなっており、家族とともに迫害から逃げ回るがやがてユダヤ人ゲットーに入りそのまま消息を絶ってしまうエドワルドの姿がアンディの視点から描かれる。
 大量虐殺「寒い日々」を目の当たりにしたサム一家は、ノヴィサドが危険だと判断してエドワルドの故郷に移り住む。そこには伯爵の森という名の森が広がっている。この伯爵の森がエドワルドに果たす役割は『私の死の瞬間』においてヒースの森が青年に果たす役割とよく似ている。道化師のように饗宴を繰り返す父は伯爵の森に迷い込んでそこで暮らし始めるが、やがて疑り深い村人たちに捕らえられる。「腰のあたりに二連銃を感じ、腎臓に8の字の跡が押しつけられた」[3]が、父は落ち着きを失わないまま懐から新聞紙を取り出し、洟をかむ。このあとすぐに父はゲットーに行くことになるが、それから二年後、アンディは伯爵の森の奥で色あせた新聞紙を見つける。「見てよ、父さんたら、これだけを僕たちに残していったよ」[4]。
 西谷修は『不死のワンダーランド』の第二章で二重の死について説明している。『金枝篇』のテーマとなったネミの森の祭司のエピソードを引用したあと、その森をバタイユブランショが導き出そうとした「死の空間」を象徴するものとして扱っている。前の王を殺して森の王となった人物は次の王に殺される可能性につねに脅かされており、その可能性によって彼は王たりうるという。この「『私』が死ぬ権能を失い、『私が死ぬ』が不可能となって、『ひとが死ぬ』の非人称性が支配する領域」[5]が「死の空間」と呼ばれるものだ。ここでは死は二重になっていて、ひとは「私」として死ぬことはできず、「死の空間」で「私」を剥奪されたあと、非人称のひととして死ぬことが可能になるのだった。また、第一章ではレヴィナスについて述べられている。レヴィナスはキシュと同じユダヤ人であり、強制収容所の記憶から思索をはじめた。強制収容所においては生は極限までむきだしになっており、明確な「私」は存続することができず、非人称の存在が溢れている。ブランショレヴィナスの思想には明確な接点が存在し、レヴィナスの体験した強制収容所を「死の空間」とみなすことができる。
 森に入ることはエドワルドにとって、やがて訪れる死の瞬間の準備をすることだったと考えられる。森の中で彼は「私」の死すなわち死の第一段階を経験し、非人称の空間へと移行した。まさしくそれはレヴィナスが「あたりいちめんに広がる避けようもない無名の実存のざわめき」[6]と呼んだものだ。洟という原始的なもの、非人称的なものが残されたことは森という空間の性質を象徴している。もとの生活に戻ったエドワルドは一転して理性的に死を覚悟した行動をとり始める。長いあいだ忘れていた友人や親戚に手紙を書き、村を発つときには仲たがいしていた親戚とさえ接吻を交わして、驚いたアンディの叔父オットーは「あいつは、ブダペストからダイナマイトとか時限爆弾とかを持ってくるぞ」[7]とさえ言う。伯爵の森の中で生活するエドワルドと死を覚悟して親戚や友人と誠実に交流するエドワルドのあいだには断絶があるように見えるが、伯爵の森での生活を死の準備とみなすならば、狂気を装っているようなエドワルドの振る舞いも統制のとれた死の覚悟だったとわかるだろう。エドワルドは二重の死を意識したうえでそれに対処したのだった[8]。
 同様に、銃口を突きつけられていた『私の死の瞬間』の青年がいつのまにか森にいるのも、この「死の空間」としての森のイメージが作用しているのだと考えられる。死が真に迫ったとき青年は「私」として死ぬことができず、非人称の空間としての森にさらされるのである。しかし彼は死ぬことはなく、半ば「死の空間」に置き去りにされるようなかたちになってしまった。
 以上で見てきたようにこれら二つの小説には共通した論理が見てとれるが[9]、いくつかの決定的な相違点がある。青年が生きながらえたのは、彼の高貴な身分、そしてそれを示す〈城〉が原因だった。〈城〉こそが青年を「不正ゆえの責苦」に追いやったのだった。一方で『庭、灰』の冒頭にはかつて貴族が住んでいて今は誰も住んでいない城に母とともに訪れたというエピソードが記されている。彼らは夏のあいだ何度も城を訪ね、やがて不法侵入するようになる。

僕たちは、ただ、ここは母にまったく賛成だが、好奇の目に荒廃の美しさを示す無人の城は、自分の富の一部とみなしてもいい、自分のものとしてもいいと考えただけなのだ。その太陽がいっぱいの夏の黄金を自分のものとしたように。[10]

ここには『私の死の瞬間』の青年が自分の住む〈城〉に抱いていた重苦しい感情はない。ここにあるのは、シンガー・ミシンを操る母と美しいものをこっそりと共有する楽しい時間である。父がいなくなったあとの家族は、家庭的な人物である母を中心に落ち着いた生活を取り戻したのだった。
 一方、死んだ父はアンディにとって偉大で不可思議な存在のままで、アンディは成長していく。『庭、灰』全体にはアンディの死についての哲学的な思索が重層低音として流れているが、11歳の彼は夜と死と夢についての思索の果てに「ひとつ詩を書いたよ」[11]と宣言する。それはかつて『バス・汽船・鉄道・飛行機交通時刻表』に世界のすべてを書き込もうとした父の方へと一歩踏み出すことなのだろう。そのとき伯爵の森も、父がかつて生活した場所として肯定的に捉えなおされるのだ。

森には父の魂が漂っていた。少し前に聞こえたじゃないか、新聞紙で洟をかむのが、そして森が三度、谺を返したのが。[12]



[1]モーリス・ブランショ『私の死の瞬間』(ジャック・デリダ『滞留』(湯浅博雄監訳、郷原佳以・坂本浩也・西山達也・安原伸一朗共訳、未來社)に収録)。
[2]ダニロ・キシュ「庭、灰」山崎佳代子訳、120頁(『池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 II-06 庭、灰/見えない都市』河出書房新社に収録)。山崎佳代子による『庭、灰』解説の344頁を参考にした。
[3]同上、92頁。
[4]同上、98頁。
[5]西谷修『不死のワンダーランド』講談社学術文庫、92頁。
[6]エマニュエル・レヴィナス『実存から実存者へ』西谷修訳、ちくま学芸文庫、141頁。
[7]ダニロ・キシュ「庭、灰」山崎佳代子訳、105頁。
[8]父が死んだあとアンディは古い写真に写った父について「エドワルド・サム、二重の死者」と語っている(同上、157頁)。
[9]『私の死の瞬間』は現在の「私」が当時の「彼」を語るという複雑な証言の形式がとられていて、それについてはジャック・デリダが『滞留』という書物を著しているが、山崎佳代子が解説で記しているように『庭、灰』もまた曖昧な記憶に基づいて語られているためところどころ矛盾しており、その点でもこれらの小説は共通している。
[10]ダニロ・キシュ「庭、灰」山崎佳代子訳、11頁。
[11]同上、171頁。
[12]同上、173頁。

*1:一般教養の文学の授業で課題レポートとして提出した文章です。全体的に粗いですがご容赦ください。

2011年の大晦日に

JR山手線に乗っていたら見慣れた写真が視界の隅をかすめた。三人の若者が写ったモノクロ写真。みな揃って頭にはシルクハット、右手には杖。スーツを着てぬかるんだ道を歩いている。三人の顔は似ているとは言い難く、いったいどんな状況で撮られた写真なのか、まったく想像できない。アウグスト・ザンダー「若い農夫たち」。リチャード・パワーズの『舞踏会へ向かう三人の農夫』*1の表紙になっている写真だ。山手線で見たそのドイツの風景は写真展の広告だった。今年の一月に読んだアメリカの小説のことを思いながら、帰省するまえに美術館を訪れておこう、と決めた。
定期券圏内の渋谷から恵比寿まで歩き、年中クリスマスの空気を漂わせていそうな(そのときは実際にクリスマスシーズンだったのだけれど)恵比寿ガーデンプレイスを横目に、東京都写真美術館に辿り着いた。七人のヨーロッパ写真家を取り上げるという写真展だった。時代は19世紀の後半から戦間期くらいまで。現像の手法が試行錯誤を繰り返しながら進歩していくさまを体感することができた。
建築物を中心に撮った写真もよかったけれど、遠い時代を生きる市民を写した写真が面白かった。その写真展の中ではジョン・トムソンというイギリス人の写真が最も古く、19世紀のイギリス市民たちはむずがゆそうな笑顔を彼のカメラに向けている。まだ写真という技術が世間に知れ渡っていなかったのかもしれない。だからロンドンの街で生活する彼らは写真をとってあげると言われても、どんな表情をすればいいかわからなかったのだろう。なんだかよくわからないけど黒い箱を持った青年がおれたちの姿を未来に残してくれるらしいぜ。そうやってレンズにむかって、やがて写真を見る未来の人々にむかって精一杯微笑んでみせる。
順路に沿って歩いてゆくとアウグスト・ザンダーは最後だった。いままで彼の写真は「若い農夫たち」しか見たことがなくて、他の写真を見ることでやっと、彼の試みの一端を理解できた。彼の目的は当時の市民のさまざまな身分・職業を網羅することだった。家族を撮った写真もあれば、一人の人物を撮った写真もある。ふと思いついて、題名を見ずに写真だけを見て写った人の職業・身分を当てる、というゲームをひとりでこっそりやってみた。教師だと思ったら神父だったとか、官僚だと思ったら社長だったとか、かんたんそうに見えて意外と難しく、正答率は二割くらいだった。
軽い気持ちで見てまわるなか、「若い農夫たち」だけはなめまわすように観察した。かつて『舞踏会へ向かう三人の農夫』の語り手がしたように。そしておそらくリチャード・パワーズもしたように。さらには『舞踏会へ向かう三人の農夫』の読者たちがしたように。三人の農夫が奇妙な写真家の背後に幻視した人種も年齢もさまざまな人々、そのなかに自分も交ざっているのだと思うと不思議な感慨があった。実物の写真は本の表紙よりも小さく、美術館で見たからといって何か新しい発見があるわけではない。儀式のようなものだ。過去と未来がひとまとめの束になって視線の交錯する点に現れる。そういう現象を信じるための儀式。

舞踏会へ向かう三人の農夫

舞踏会へ向かう三人の農夫


一駅分の電車賃を節約しようと、帰りも恵比寿から渋谷まで歩くことにした。そして迷ってしまう。行きに通ったのと同じ道を歩いているつもりでまったく違う方向に進んでしまっていた。冬至まであと数日という頃で、日が沈むのも早かった。夜の東京はよそよそしく感じられた。自暴自棄になってそのまま歩き続けた。やがて進行方向に見た建物に恐怖を覚えて足を止めた。六本木ヒルズ。ぎらぎらと光るネオンをまとい、傲然とそびえ立っていた。知ってはいけないものを知ったような気分だった。毎日のように地下鉄で真下をくぐっていながら、自分の行動範囲の近くに存在することが信じられなかった。無闇に歩くのを止め、買ってから四年が過ぎた携帯電話で地図を見ながら、渋谷へ向けて引き返し始める。
首都高の下をせっせと歩きながら、夏の終わりに同じように道に迷ったときのことを思い出していた。青春18きっぷの季節にJRの在来線を乗り継いでゆき、辿り着いた田舎の村でふらふらと歩いていたら迷ってしまったのだった。まだ空は明るかったけれど、電車は一日に数本しかないから、その時間までに駅を見つけられなかったらこの地域で一泊しなければならない。そう考えると心配になって、ここが古い因習に縛られた恐ろしい村だったらどうしようと不安が募った。もともとは新海誠の映画のような美しい風景を求めてやってきたはずなのに、現実にあった(と妄想していた)のはフォークナーの小説のような都会的な洗練から離れて熟成された偏狂な世界だった。このときも古い携帯電話に助けられて駅に辿り着くのだけれど、覆された世界観はもう戻らない。高校生が騒ぐ地方の電車で、自分が遠く離れてゆくような感じがした。自分の体験を一人称で語ることを不自然に思い始めたのもこのときだったかもしれない。
二人称小説として有名なミシェル・ビュトールの『心変わり』は、ある中年男性がパリからローマへと鉄道で移動する二十四時間を描いた小説だ。そのあいだに甦ってくる過去の出来事やローマに着いてから起こるだろう未来の出来事が挿入されながら鉄道はローマに近づいていく。ビュトールは「きみ(vous)」という二人称を用いることで、「ある事態をしだいに意識してゆく過程」*2を描いた。語り手と主人公の距離は徐々に縮まり、心変わりという一点に結実する。この距離感は、パリとローマという二つの都市のあいだの主人公の位置と複雑に絡み合う。
おそらく『心変わり』から影響を受けている、多和田葉子の『容疑者の夜行列車』*3においても夜行列車で移動する人物が二人称で語られるが、語り手と主人公の距離は少し異なる。ここでは主人公は永遠の乗車券を持った容疑者であり、「あなた」と呼ばれているのは取り引きが原因だった。ともあれ、都市と都市のあいだの距離が、語る自分と行動する自分の距離に重ね合わされるという点では一致している。都市を移動しているうちに、確固とした語り手がどこかへ発散してしまうのだ。
思えば、ちょうど一年前の大晦日シオドア・スタージョン「海を失った男」*4を読んだときからこの呪縛は始まったのかもしれない。イタロ・カルヴィーノ『冬の夜ひとりの旅人が』*5は、理想の物語の求めて世界中を駆け回る人物を描くために二人称を必要とした。大学入試の合格発表の日に読んだクレア・キーガン「別れの贈りもの」*6は、長いあいだ住んだ家を出て都市へと発つ日のことを、張り裂けそうな感情が膜一枚で保たれているような二人称で語る小説だった。これらの小説はそれぞれ別の目的のもとに二人称を用いているけれど、語り手と主人公のあいだに開いた溝は、どれも似たような形をしている。
一人称の語り手に放り出された人たちは、ふたたび一人称で語るために、彷徨を終わらせる必要がある。残念ながら、列車が終点に着いてもやがてまた別の列車に乗らなければならず、いつになっても終わりは見えない。これはいわば逆方向への自分探しで、自分探し以上に不毛だし、語り手があきらめてくれるのを気長に待つしかないのかもしれない。
でも、気まぐれな語り手が戻ってきたそのときには、過去と未来が交わる点のことを、知らないものに出会ったときのわくわくした気分のことを、虚構と現実を分ける壁を押し流すくらいの勢いで雄弁に語ってみたいと思う。気まぐれな語り手と友達になれば、紙の裏側から、境界線上に浮遊する場所から、物事を語ることができるかもしれない。とはいっても今できるのは、来るべき予定調和に溢れた未来を、語り手と同じくらい気まぐれに振る舞ってみることくらいだけれど。


2010年の終わりに - my beds on fire

空白期間を埋めるために

4月

上京。生活必需品すら揃っていない空っぽの部屋でしばらく生活していた。所有しなければならないものは意外に少ない。やがて何かが置かれるという期待だけが白い空間を支配していた。部屋における一挙手一投足に刹那的な快楽が伴った。抽象的なかたちのイメージが現れては消えていった。

殊能将之鏡の中は日曜日

本格ミステリにでてくる建築物には構造しかない。トリックのための道具だからだ。間取りで過不足ない。過剰な装飾があるとそこには書かれているが、過剰と描写される限りにおいてそれは過剰ではない、ことが多い。法螺貝を象った梵貝荘という建築物。やはりここにも装飾はないけれど、美しさが構造に宿る。構図がきらびやかに反転する美しさ、それが新本格の本質だったはずだから、梵貝荘の美しさにはトリックの美しさが映し出されている。

フランツ・カフカ『城』

カフカを読み始める。

シェイクスピア『オセロー』『テンペスト』『リア王

重い本を読む体力も持ち運ぶ体力も不足していたから戯曲を読むことにした。朝の東京メトロに詰め込まれて毎日少しずつシェイクスピアを読んでいった。『テンペスト』の軽やかさが楽しかった。すべて小田島雄志訳。

梅雨

記憶にない。

佐藤友哉「星の海にむけての夜想曲

明日も五時半に起きなければならない。夏の夜を散歩していると強迫される。何と戦っているのか、ふとわからなくなる。東京の道は曲がりくねっていて見通しが悪い。高い建物ばかりで空が狭い。関東の空は超越に繋がっていると言った人がいたけれど、その超越はあまりに狭い出口だ。何のための戦いか。それは勝利するためだし、かつて幻視した風景にたどりつくためだ。探し求めた風景は一瞬だけ現れすぐに消える。だからこの戦いは終わらないし、死ぬまで動き続けることを義務づけられている。『フリッカー式』から10年が経ち30歳になったいまでも変わらないものがある。青春の終わりを告げることで終止符を逃れるもう一つの青春がある。

フランツ・カフカ『審判』

カフカを読み続ける。

ジョルジョ・アガンベンバートルビー 偶然性について』高桑和巳訳

しないほうがいいのですが。メルヴィルバートルビー」が収録されている。授業が始まる前の教室で微睡みながらページをめくった。何ひとつ覚えていないはずなのに言葉が沈潜している。しないほうがいいのですがと口から漏れ出す。漏れ出す口を戒めるためにアガンベンを読む。

夏休み

寒かったような気がする。

それ以外のカフカ

『失踪者』、『変身』、短篇や断章。カフカが終わる気がしない。『失踪者』は登場人物がコミカルで好きだ。「家父の気がかり」のとりとめなさと編み目の緻密さ。

ナボコフを読むために

『書きなおすナボコフ、読みなおすナボコフ』『ディフェンス』『ナボコフ 訳すのは「私」』『ナボコフ万華鏡』『カメラ・オブスクーラ』。拘束の少ない生活を得て始めにしたのがナボコフを読むことなのだからわかりやすい。ナボコフは触れられない幼少期の記憶に、芸術を介して接近しようとする。繰り返し登場する美しい少女のモチーフも芸術を覗くためのスコープに過ぎない。初期短篇の「ナターシャ」は、たぶん技術的には未熟なのだけれど、そこには作家としての初期衝動のようなものが見え隠れしている。老人を介護する少女と嘘吐きの青年。夜の街の灯り。ナボコフは最期まで旺盛さを失わなかったが、作家の誕生に決定的な喪失が絡んでいたのだと考えればそれも頷ける。

フィリップ・K・ディック『流れよわが涙、と警官は言った』友枝康子訳

ぼくはいつでも逃げ出せる場所にいたから、と友人に言うと、でもきみは努力していた、と言われた。窓のない地下の密室で過ごした記憶は瞬く間に薄れ消えてしまった。靄が立ちこめた暗い記憶を、いまなら自嘲気味に語ることができる。骨が少し磨り減っただけで、すべては元の状態に戻ったのだと口にすることができる。密室から逃げ出してきたここもまたもうひとつの密室にすぎないのだから出口はないとありふれた絶望を振り翳すこともできる。そうやって浮かべた冷笑がひきつり唇のはしが痙攣する。そんなときに涙が流れたら。そういう小説。