何を読むための自由? くだらないもの

訳者改題

 文学と芸術への逃避、昔のブルジョワ的観点に従って定義されたこれらの活動の重要性の過大評価は、ヨーロッパの労働者国家[=東欧共産圏諸国]において非常に広まっている考え方のようである。それらの国においては、世界の現実的変化の企ての警察的転用に対する反動として、失望した知識人たちは、結局、解体された西洋文化の亜流ないし繰返しに対して、無邪気な寛容さを示すに至っている。それは、議会民主制に関して彼らが再び見いだしている幻想と同種の幻想である。若いポーランド人作家マレク・フワスコ*1は、『レクスプレス』*2誌(1958年4月17日付)にインタビューされた際、彼が発した確かな意見によれば、ポーランドでは、生活は耐え難く、いかなる改善も不可能であるにもかかわらず、彼がポーランドに戻るつもりであることを、次のような唖然とする動機を持ち出して、説明している。「ポーランドは作家にとって常軌を逸した国です。その国で生活しそれを観察するために、あらゆる重大事態に耐えてみるだけの価値はあるでしょう。」
 西洋文化の終焉の最もくだらない面、つまり、もはや形式に関する解体の極限にはなく、純粋な中立性にたどりついた表現──例えば、サガン=ドルーエや、『ファーズ』*3誌の芸術的動機──が、チェコスロヴァキアポーランドで遭遇している愚かな関心にもかかわらず、われわれは、ジダーノフ主義〔=社会主義リアリズム理論〕の後退を惜しんだりはしない。われわれは、いまなお強力な社会主義リアリズム論に反対して、情報と創造の全面的自由を要求する必要を理解する。しかしながら、その自由は、いかなる場合にも、いま西欧で見いだされる「現代」文化への追随と混同されてはならない。その文化は、歴史的に、創造の正反対であり、一連の改竄の繰返しである。創造の自由を求めることは、環境のより優れた構築の必要を認めることである。労働者国家においてもここ西欧においても、本当の自由は同じものであり、また自由の敵も同一だろう。

*1:マレク・フワスコ (1934-69年) ポーランドの作家。

*2:『レクスプレス』誌 フランスの有名な大衆週刊誌。

*3:『ファーズ』誌 1954年から1975年まで、エドゥアール・ジャゲの編集によって出された商業的前衛美術雑誌。シュルレアリスムコブラ、イマジニスモなどの動向をよく伝え、東側も含めて世界の各国で読まれた。