『パタフィジック、形成途上の宗教 』訳者解題

 後の付記にあるように、この論文はアスガー・ヨルンがSIを脱退する直前に書いたもので、ここへの掲載の時点では、彼はもはやSIのメンバーではない。にもかかわらず、ここにヨルンの論文が掲載されたのは、ヨルンという人物とSIとの特別なとも言える関係があったからである。ヨルンの脱退は、SIの多くの除名・脱退者のどの例とも異なり、意見の不一致やSIの理念を逸脱した活動が原因ではない。『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌第6号の「シチュアシオニスト情報」には、その原因は「SIの組織的な活動への参加を今後きわめて困難にしている個人的事情」であり、ヨルンは「彼とSIの完全な意見の一致」を見ていると書かれている。この「個人的事情」が何であるかは不明である。しかし、いくつか考えられることとして次のようなものがある。まず、ヨルンが画家としてすでに有名であり、その行動にジャーナリスティックな注目が集まることがSIの活動に障害となったこと、次に、ヨルンがこの時期、その絵画製作活動を活発化させ、従来の「修正絵画」の他に、「ラグジュアリー・ペインティング」、「ヌーヴェル・デフィギュラシオン」など自らが編み出したさまざまな新しい方式の絵画製作を開始したこと、そして、故郷のシルケボアに私財をはたいて開設した美術館のための絵画・彫刻の収集を本格化させたこと、最後に、コブラの時代から抱いていた古代北欧文化への関心を発展させ、古代スカンディナヴィア文化に開する総合的な資料センター〈比較ヴァンダリズムのためのスカンディナヴィア研究所〉の設立に奔走し始めたことである。特に〈比較ヴァンダリズムのためのスカンディナヴィア研究所〉の活動のために、ヨルンは自費でフランスの著名な写真家ジェラール・フランセッシを雇ってスカンディナヴィア各地で総計2万5千枚の写真を撮らせ、この研究所の名前で何冊かの書物を出版し、何本かの映画製作に資金を提供するなど、精力的に活動している。
 これらのヨルンの個人的な関心に基づく活動とSIの組織内での活動とは敵対しないまでも相容れないものであったがゆえに、ヨルンはSIを脱退することに決めたのだと思われる。そのため、SIの脱退以降もヨルンは他の除名・脱退者のようにシチュアシオニストからの批判を受けることはなかった。ヨルンはSIを脱退後も、『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌発行のためにSIに対して資金援助を続けるほか、ドゥボールの映画シナリオ集『映画に反して』に序文を寄せて〈比較ヅヴァンダリズムのためのスカンディナヴィア研究所〉から出版するなど、むしろSIと良好な関係を保っている。
 ヨルンは、その後、美術界とは距離を置きつつ(例えば、64年には美術界最高の賞の1つであるグッゲンハイム賞を拒否したり、68年5月には革命下のパリで異議申し立てのポスターを製作したりしている)、パリやアルビソラで陶芸や建築レリーフ、絵画などさまざまなジャンルでの芸術活動を行うとと
もに、ミュンヒェン、ミラノ、コペンハーゲン、ロンドン、ニューヨーク、ハバナブリュッセル、ベルリンなど世界各地の都市で個展や回顧展を開催するが、1973年に肺癌のため故国デンマークのオールフスの病院で59歳で死去する。ドゥボールは、ヨルンが生前イタリアのアルビソラに建設していた館──内装から外壁、庭園にいたるまですべてヨルンの絵画や陶芸、タイルで装飾された一種の理想宮──の写真集『アルビソラ庭園』(ヨルンの死後、1974年にトリノのエディツィオーニ・ダルテ・フラテッリ・ポッツォから出版)のために、「野生の建築について」という文章を寄せ、その中で「ヨルンは成功によっていささかも変わらず、成功をたえず別の掛け金に変え続ける者たちの1人だ」とヨルンを賞賛している。