開かれた創造とその敵3

訳者改題

 「足りない設備を作るためには、たいして時間はかからない。しかし人員を育成するには、はるかに多くの時間がかかる。それに、もし設備の製造の際にミスがあっても、それは改められる。必要なら、役立たずの機械を壊して、あきらめることもできる。しかし人間は、いったん育成されたら、壊されない。人間は自分がなすすべを心得ている活動を、40年の間、いつでも実行できるのである……」

ルフレッド・ソーヴィー*1マルサスから毛沢東へ』


 中国的なパースペクティヴは、中国の文化ではない。しかしそれは、有効で重要な見方である。実際の生きている人間というものは、最長老が約百歳で、新生児の何人かは将来同じくらい長生きするはずであるから、いつでもほぼ2世紀をカバーするわけである。人類のこれら一時的な両極の間には、永遠の緊張がある。人生のこの車輪のサイクル、この永劫回帰は、永続革命であり、それについては、シュメール人仏教徒プラトン、ショーペンハウァー、二ーチェ以来、幾千もの考察がなされ、今後も続くであろう。思想のこの道が、歴史の展開が唯一の始まりから必定の終へと一方向にのみ回り、不可逆であるという考えに到達したのは、ゾロアスター教である。それは、その二元論的な見方と一方向的な方向づけを、ユダヤ教キリスト教イスラームに伝えた。同時に、その見方は、ミトラ教マニ教グノーシス主義に伝えられた。ルメートルグノーシス主義的な告白を聞けば、彼が仏教の弁証法的ダイナミズムを理解できないということ、彼が二元論に従うであろうということ、そしてまた、彼の若者へのアピールは、ただ単に、古典的で伝統的に西洋的な、未成年者誘拐行為にすぎないということは、明らかである。そういうわけで、私は、全く新しいシステムの可能性を発見したと思い込んだことを後晦している。それは、中国的なパースペクティヴを時間の次元と西洋に応用することで、いくつかの予測できない結果がもたらされるという意味で、相対的に創造的なシステムであるかと思ったのだが。このことから、ルメートルのシステムはいっそう単純になる。彼は、ネオ−ソレル以外の何者でもない。私はさらに探求したのだ。しばしば自論の証人としてレーニンを挙げているという事実、および、これらのパースペクティヴの起源をフィヒテとしていて、ソレル*2──彼はそもそもソレルを読んだことを認めている──がその発明者であるとは白状していないという事実から分かることは、彼がその源泉から、公に白状する気になれないほど多くのものを汲み取っているということである。ルメートルの中国的なパースペクティヴは、ソレルのイデオロギーにまで衰えた。その後裔のことは周知の通りだ。
 ソレルの巧妙さは、キリスト教の心理学的影響力の方式を研究し、未来のゼロ点(世界の終わりと未知の天国の始まり)に対する信仰を純粋に技術的なシステムに移し替えたことである。そうすれば、キリスト教的な世界の終わりを何にでも置き換えることができるようになる。例えば、ゼネラル・ストライキとか、社会主義革命とか、あるいはより現代的に、核ミサイルのボタンを押す人とかに置き換えられる。また、そのパースペクティヴから見て正しい行動をとらないすべての人々に対する制裁を、今世紀のあらゆる歴史的事件のキー・ワードを用いて、確実に執行できる。そのキー・ワードとは、裏切り(何に対する? システムに対する)という非難である。私が(『運命の輪』*3の中で)バンジャマン・ペレ*4──彼は現在ルメートルから非常に高く評価されている──の神話体系的(ミトロジーク)要請に反対したとき、それはなぜかといえば、私にとって、あらゆる芸術は、限りなく多様な、神話的(ミチーク)創造であるからであり、また、私は、押しつけられたただ1つの神話や神話システムの信仰への回帰を、自由な創造性に反するものと考えるからである。ここで私は、多様な天国という観念を立てて、ルメートルのお気に入りの観念、すなわち、唯一の天国という、今一度掘り返された腐乱死体のようなイデオロギーに反対する。この件に関するペレの態度が1度でもルメートルのような愚かさに近づきえたとは思わないが、しかしその当時、その危険はあった。そして、1952年に愚かにもペレを「創造の欠如」ゆえに侮辱したルメートルが今となってペレを当てにするようになっても、ペレはもはや抗議できないでいる。
 いずれにせよ、ルメートルの次のような確言ほどシチュアシオニスト運動を褒めそやすことは、誰にもできまい。「私は『シチュアシオニスト・グループ』の存在を信じている人々を1人として知らない。シチュアシオニストたち自身がシチュアシオニストでないことは、彼らが何度も書いている通りだ。存在しない集団について語ることは、それをでっち上げたという非難を招くことになる」。けれども、われわれの唯一の目的はまさに、それを発明(アンヴァンテ)することなのだ。われわれはこれまですべてを発明してきた。そしてわれわれはほとんどすべてをまだこれから発明しなければならない。われわれの土地は非常に豊穣だから、それはまだほとんど存在していないのである。
 われわれが発明しようとしているのは、シチュアシオニスト的な活動そのものであり、またその定義でもある。ルメートルは、間抜けにも攻撃文書の中に数多くの全く無駄な提案や申し出や言い寄りをすべり込ませていて、次のように主張する。「シチュアシオニストと私のグループは、たぶん、『状況』の分野について精神的に相互に理解し合うことができるかもしれない。また同様に、私を批判する人々も、諸要素の創造主──生の諸々の瞬間を生み出す構築者よりも上位にある──についての私の倫理的な見解や、全面的な文化的状況──創造術(クレアティック)の成果であり、単に遊戯的なものではない──のヴィジョンに、賛同してくれるだろう」。われわれが彼の目的とは正反対の目的を持っていることは、すでに示した。ルメートルの提案するオプションはすべて拒否すべきである。
 ルメートルは、アインシュタインの重要性を教示している注(80ぺージ)の中で、大胆にも、「時間とは、状況に内在しない観念である」と付け加えている。しかしながら、われわれは、シチュアシオニスト的データの研究を進めるにつれて、問題は、現在のトポロジーの知識を越えて、シチュロジー*5、シチュグラフィー*6、そしておそらく、シチュメトリー*7さえをも発明することだと思うようになっている。
 ルメートルは、古典的西洋とは異なるスカンジナヴィア文化があるということに驚嘆している。スカンジナヴィア文化とは、何よりもまず、忘却の文化、忘れられた、歴史のない文化であり、それは、石器時代から途切れることなく続き、中国文化よりも古くて不変である。私は、かくも重々しい忘却の遺産に加えて、私の祖先の何に言及することができようか。
 私は何の取り柄もない男である。しかし同時に私は相当に抜け目がない。ジャーナリストや、現存する秩序に奉仕する他の職業的撲殺業者たちは、われわれを「打ちのめされた世代」と呼ぶ。そして、彼らがわれわれを攻撃し、蔑視し、われわれに失業中の未熟練工と同じくらい粗末な食事をする機会を残しておくことさえ完全に拒否したところ、われわれがあまりに強固になり、彼らがわれわれを面白いと思い始めたときにも、われわれが彼ら酷評家たちに大げさな抱擁をよこすのを拒んでいることに、彼らは驚いている。私はコブラ運動の時期を思い出す。ドイツのわれわれの同志たちはドイツ連邦共和国の囚人にかかる費用の10分の1で生活しなければならないと、C・O・ゲーツ*8が認めたときのことである。レトリスト運動がその創造的な時期に注目に値する仕事を実現していた際に強いられた生活条件がとてつもなくひどいものであったことを、私は知っている。そしてそれは今も続いている。あるドイツの芸術家──彼はやがて必ずや祖国の最大の誇りとなるであろう──は、2年前に相変わらず、ミュンヒェン駅の空の客車以外の住居を持っていなかった。私もまたそうであって、私がシチュアシオニスト派においてシステマティックな構造を発見したとき、そこにあるのは、われわれがそれを密かに利用すれば、われわれに直接的な社会的な力をもたらし、幾多の侮辱に復讐する暇を与えてくれそうな方法だということが、私には分かった。私はためらわずにこの見通しをギー・ドゥボールに説明した。彼はそれを考慮に値しないときっぱり拒んだので、私は私の意見を公にせざるをえなかった。そのとき彼は私に、そのような方法は、ポーウェル*9とベルジエのような連中とか、隠された豆知識に夢中になる神秘主義的な老嬢たちに任せておけばよいのだと言った。これらの人々は皆、グルジェフ*10がしたように、その写しを裕福な弟子たちに転売することを夢見ているのである。考えてみると、私も〔ドゥボールと〕同じ態度に至ったであろうと、今では分かる。その態度は、まさしく、今日まで私の行動全体の論理のうちにあり、しかも、SIにおけるわれわれの共同作業の論拠のうちにもあるのである。
 さて、「まとまりのない群衆に、秘中の秘、創造の創造法をあかすという考えに私がためらっていることは、理解していただけよう」とルメートルは書いている(7ぺージ)。彼は、ことが彼の無内容な「創造術(クレアティック)」の編成の秘密にかかわるだけにいっそう、秘密を守る権利を擁護している。彼は原爆の秘密などの例を挙げて自分を正当化している。だが実は、その方法の秘密は芸術を職人仕事に変えるものであり、芸術を、よそから来た企画を再生産する独占的技術に変えるものである。ルメートルは、職人の同業者組合の残存物にすぎないものの自覚的な支持者である。記念すべき傑作を認めてもらうことによって、そこに入ることができるのである。たとえばルメートルは、ドゥボールの最初の映画*11に甘かったが、それはただ彼がその映画を理解できなかったからである。彼は平然としてその映画を「映画史の10大傑作のリストに」含めている。傍点で強調したのは彼である(25ぺージ)。
 ルメートルはまた、私が彼はおしまいだと公言したことを非難する。彼は、自分は生きていると主張する。それはその通りだ。だが私は、彼が死んだと言ったのではない。私は、彼が(彼のシステムの中で)昏睡状態にあると言ったのである。それはおそらく彼が生きている限り続くであろう。名人芸の秘密を根気よく占有することは──特にそれが1個人によって独断で決められた名人芸の場合には──、もちろん、その規格に当てはまる非常に独特の商品を生産することが可能であることを保証する。しかしながら、誰であれ、その生産の価値を高めてやろうという気になるということは、全く保証しないのである。
 私は、ルメートルと同様に、「抽象美術を生み、定義した」人はワシリー・カンディンスキーである(111ぺージ)と思う。しかし私はルメートルとは違って、カンディンスキーが「芸術の指導者」であったとは思わないし、また、私が抽象画家であるとも思わない。私はこれまで、まずハンス・アルプマックス・エルンストの流れ、ついでモンドリアンマルセル・デュシャンの流れに従って、反抽象的な絵画だけを作ってきた。カンディンスキーは、『点と線から面へ』*12において、現代芸術をユークリッド幾何学のパースペクティヴ〔=遠近法〕に同調させた。それに対して、ここに名を挙げた刷新者たちは、逆の幾何学のほうへ進んだ。すなわち、多次元的宇宙から表面へ、線から点へと進んだのである。ドリッピング画法*13の技術は、カンディンスキーの立場のばかばかしさを暴露している。カンバスの間近で作業をすれば、絵の具の流れは表面、色斑を作る。しかし、カンバスと流れの源の間に距離をとれば、絵の具は線を作り始める。さらにもっと距離をとれば、絵の具は幾多の小さな滴に分かれ、それらは点にしかならない。それはまさしく遠近法におマッスける構成要素のようである。それら構成要素は、色塊として始まり、地平線で点となって消える。カンディンスキーは、地平線において、抽象美術において、始めたが、それはどこに到達するためにであろうか。私はといえば、私は目の前の現在において始めたが、それはどこに到達するためにであろうか。

*1:ルフレッド・ソーヴィー(1898−) フランスの杜会学者、人口統計学者。国立人口統計学研究所長(1954−62年)、国連の人口問題委員会のフランス代表。

*2:ソレル ジョルジュ・ソレル(1847−1911年)は、アナルコ・サンジカリスムを唱えて革命的組合運動に影響を与えたが、後にその思想が反動運動、特にイタリアのファシズムに利用された。著書に『暴力論』(1908年)など。

*3:運命の輪 ヨルンが1948年に書いた著書。正式な題は『金の角あるいは運命の輪』で、1957年、コペンハーゲンのセランディア書店から出版された。

*4:バンジャマン・ペレ(1899−1959年) フランスの詩人。1920年代からのシュルレアリストとして、一貫してブルトンの陣営に付いて活動。ブルトンは1952年にペレのことを「わたしの最も親しい最も昔からの闘争の伴侶」と呼んだ。1925年に 『シュルレアリスム革命』の編集者などを務めた後、26年に共産党に入党、一時は『ユマニテ』に協力。31年、ブルトンの使者としてブラジルに渡り、投獄される経験を持つ。36年、スペイン市民戦争に共和国防衛の国際義勇軍として参加し、アナキストのドゥルッティ旅団で戦う。第二次大戦中はフランス軍に動員され、軍隊のなかにトロツキスト細胞を創設しようとしたとの嫌疑で投獄される。41年脱獄を果たし、メキシコに亡命。戦後、45年に亡命先のメキシコで書いたパンフレット『詩人の不名誉』をパリで発表し、アラゴンらのレジスタンス派の愛国主義を糾弾する。48年にパリに戻り、第4インターナショナルと決裂、シュルレアリスムの再建に励む一方で、「革命的シュルレアリスト」やコブラ、レトリストなど新しい潮流を批判する。逆にレトリストらも、戦前と同じオートマティスムを唱えるペレらの「創造の欠如」を批判した。

*5:シチュロジー( situlogie ) ヨルンの造語。トポロジー(日本語では「位相幾何学」ともいうが、語源的には、topos(「場所」の意味のギリシャ語)と logie〈−学〉の合成語で、直訳すれば「場所学」となる)に満足しないヨルンが、それに代わるものとして提起する概念。situs(「場所」の意味のラテン語) + -logie (−学)の合成語で、これも直訳すれば「場所学」となる。トポロジーユークリッド幾何学に対するヨルンの批判と、シチュロジーの提起については、本記事 第4節を参照。

*6:シチュグラフィー( situgraphie )ヨルンの造語。situs(「場所」の意味のラテン語)と -graphie(「(学問的)記述」の意味の接尾語)の合成語。本記事 第4節に2度ほど言及され、「柔軟な幾何学」と敷衍されるが、あまり詳しく説明されていない。

*7:シチュメトリー( situmetrie )ヨルンの造語。situ(「場所」の意味のラテン語)と metrie(「計測」の意味の接尾語)の合成語。本記事では、この箇所を別にすれば、全く言及されていない。

*8:C・O・ゲーツ カール(Karl)・オットー・ゲーツ(1914−)のことと思われる。ドイツの画家。まずキュビスム、次いでシュルレアリスムと抽象美術の影響を受け、戦後、コブラ運動に近づき、1950年代からは、アクション・ペインティングに接近した。

*9:ルイ・ポーウェル(1929−) べ.ルギー生まれのフランスの作家、ジャーナリスト。ジャック・ベルジエとの共著 『魔術師たちの朝』(1960年)で有名になり、次いで、「新右翼」の信奉者として、また1978年からは『フィガロ・マガジン』の編集長として、有名になる。なお、ジャック・ベルジエについては、右記著作の共著者であること以外は不詳。

*10:ゲオルギー・イヴァノヴィチ・グルジェフ(1877頃−1949年) アルメニア生まれの神秘主義運動家。彼の教義は、人間を束縛する古い思考と感情を捨てて高次の霊的自由を達成しようとするもので、20世紀初頭の神秘思想と1960年代のヒッピー文化に影響を与えた。ルネ・ドーマル、P・D・ウスペンスキー、J・G・ベネットらが彼を師と仰ぎ、また、フランク・ロイド・ライトやD・H・ロレンスらの信奉を得た。

*11:ドゥポールの最初の映画 『サドのための叫び』のこと。本書 第1巻を参照。

*12:『点と線から面へ』 原文ではドイツ語で《 Von Punkt ber Linie zur Fleche 》となっており、Fleche は Flache の誤植であるとしても『線上の点から面へ』くらいの意味になるが、これはおそらく、カンディンスキーの著書『点と線から面へ( Punkt und Linie zzur Flache )』(1926年)のことを指すものと思われる。

*13:リッピング画法 底に穴のあいた缶に入った絵の具を、カンバスの上から、動かしながら垂らしていく技法。マックス・エルンストが考案し、ポロックがよく用いた。