開かれた創造とその敵4

訳者改題

「それについての思考と考察は全く新しいものです。引用はまだされていません。主題は、きわめて重要であり、限りない秩序と明噺さをもって取り扱われています。私はそれにずいぶん時間を費やしました。どうか、それを受け入れて、私の才能の最大の努力と考えてくださるよう、お願いします。」

ジョナサン・スウィフト『魂の能力についての反論の余地なき試論』


 かりに、ルメートルかト主張するように、時間か状況に内在しない観念であるとしたら、シチュロジーは、唯一物、すなわち形態を研究するものとして、形態学と同じになってしまうだろう。しかし、正確に言えば、シチュロジーは、時間の形態学である。というのも、トポロジーを連続性の研究として定義することについては、万人の意見が一致しているからである。連続性というのは、広がり(空間)における非分割性と、時間における非中断性のことである。シチュロジーにおける形態学的側面は、次の定義に含まれる。すなわち、環境とは無関係に、図形に内在する特性に関すること。
 停止と中断の排除、強度の恒常性、および過程の伝播の一方向性は、1つの状況を規定するものであり、また、ルメートルが可能だと主張する時間の細分化をも排除する。しかしながら、ルメートルのような無学な輩において観念が混乱しているのは許せるにしても、専門的トポロジー学者たちの間で観念の混乱が横行しているのは許しがたい。そのせいで、われわれは、純粋なトポロジーの分野から離れて、より基本的なシチュロジーを考案せざるをえないのである。その混乱は、向きづけ可能性──それは、本当は、時間の次元への適用にすぎないのだが──の定式の中に入り込んでいる。E・M・パターソンは次のように説明している。「向きづけ可能性という観念は、面は単側か両側かのいずれかである*1という物理学的観念から派生している。1つの面の各点──境界( boundary )に点がある場合は、それらを除いて──の周りに、小さな閉曲線を一定の向きに描いてみることにしよう。その向きは、時計回りか反時計回りかのどちらかであるが、その点に帰属するものとする。そのとき、互いに十分近いすべての点について同じ向きになるようにそれら閉曲線の向きを選ぶことが可能な場合は、その面は向きづけ可能であると言う。そうでない場合は、その面は向きづけ不可能であると言う。単側な面はすべて、向きづけ不可能である。」
 この幾何学と物理学のごた混ぜは全く不当である。容易に証明できることであるが、球体は1つの面しか持たず、輪環も同様である。円錐は2つの面を持ち、円筒は3つの面を持つ、等々。しかし、論理的に言って、1つの面は単側でしかありえない。
 いずれにせよ、両側な面は、連続性が途切れているのだから、トポロジー的でない。しかし、両側な二重の面という間違った道筋に入り込んでしまった理由は、明白である。なぜならば、それによって、トポロジーを、等しさないし同等性の研究という幾何学の一般的な傾向に結びつけることが可能になるからである。2つの図形がトポロジー的に同位相ないし位相同形であるのは、2つの図形のそれぞれが連続的変形によってもう一方の図形に変換できる場合であると説明される。このことが意味するのは、単に、変換においてたった1つの図形しかないということである。シチュロジーは、唯一物の変換的*2形態学である
 幾何学の古典的なパースペクティヴをトポロジーに適用することで生じる最大の誤りとは、幾何学の古典的な区別に適合させて、座標の数に従って、線形トポロジー、面のトポロジー、立体のトポロジーに区別することである。これは、シチュロジーの基本を理解しようとするならば、不可能で滑稽なことである。なぜならば、トポロジーにおいては、点と線と面と立体の間に、まさしく同等性があるのに対して、幾何学においては、絶対的な区別があるからである。この混乱は、メビウスの帯に関する考察のうちに明確に反映されている。メビウスの帯とは、「位相同形性のない2つの面」を持ち、あるいは「単側な複数の面」を表し、前も後ろもなく、内も外もない、と言われるものである。この現象を見て、メビウスの帯はただ1つの次元しか持たないと思う人さえいるかもしれないが、それは全く馬鹿げている。なぜならば、メビウスの帯を紐で作ることなどできないし、ましてや、線では作れない。メビウスの帯において最も興味深いことは、まさしく、平行な縁の2つの線の間の関係である。
 次のような明確な事実を理解するならば、メビウスの帯についての幾何学的同等性、合同と相似を、研究することが可能である。すなわち、メビウスの帯の長さは、その幅に比していくら長くてもよいが、その幅との関係において計算可能な一定の比率よりも短くすることはできない、という事実である。この最小限界ぎりぎりのメビウスの帯を計算して作るのは、数学者の仕事である。そのようなメビウスの帯ができたら、人は自分の目の前にあるのが、次のような物体だと分かるだろう。すなわち、任意に選ばれた1点を通る、その帯の幅を示す直線は、帯の反対側の部分に引かれた同じ直線と直角をなす──もし帯が円筒状につなぎ合わされていれば、その2つの直線は平行線になるのに──ような物体である。同じ直線が、ある点では水平線を表し、別の点では鉛直線を表している。したがって、帯がぺちゃんこでないなら、空間があるわけではないのに、3つの次元があるわけである。それこそが、メビウスの帯の不思議さである。この種の2つのメビウスの帯は、必ず相似であり、帯の幅が等しければ、合同である。
 あらゆるトポロジー的な図形や形態の不思議な振舞いを、空間座標系(縦、横、奥行き)──その中で図形や形態は動くのであるし、またそれが図形や形態を、生んだり消したり、あるものから別のものへと変換したりする──との関連において注目した人は、今まで誰もいなかったようである。ユークリッド幾何学にとっては、座標系〔=座標システム〕は既定の土台である。シチュロジーにとっては、そうではない。なぜならシチュロジーは、座標を好きなように創造したり解体したりするからである。そういうわけで、ユークリッド幾何学は、最小努力の法則に則した方式である直交座標系を基準点とするために、あらゆるシチュロジー的考察を通り過ぎなければならなかった。ルネ・ユイグ*3が著書『芸術と人間』で明らかにしているところによれば、新石器時代の農耕文明期ののち、金属器文化の発展とともに、2つの様式の分化、すなわちハルシュタット様式*4とラ・テーヌ様式*5の分化が生じたのであるが、それこそまさに、幾何学的思考とシチュロジー的思考の分化にほかならない。ドーリア*6を通じて幾何学的指向はギリシャに根づき、合理主義的思考を生んだ。それとは反対の傾向は、アイルランドとスカンディナビアで終わった。
 ヴァルター・リーツマン*7は、その著『直感的トポロジー』の中で次のように指摘している。「芸術において、例えばヴァイキングの時代に、曲線交錯模様が飾りとして好んで用いられた。私の目の前に、ストラットフォード・オン・エイヴォンにあるシェークスピアの結び目の庭の写真がある。その庭には、花が幾つもの結び目の形に配置されている。(中略)シェークスピアが結び目と何の関係があるのだろうか。私はそれに答えることができない。たぶん、それは何かの間違いかもしれないし、あるいは、意図的に迷宮のテーマと取り違えたものかもしれない。シェークスピアにおいてそのテーマは2回問題になる。『真夏の夜の夢』(第3幕 第1場)と『テンペスト』(第3幕 第3場)である。」
 間違いなどあるわけがない。ジェイムズ・ジョイスは、『フィネガンズ・ウェイク*8の中で、「疾風いけない、怒涛いけない( No sturm ,no drang )」という不条理な文句を発することで、古典主義とロマン主義の間の昔の争いを乗り越え、情念と論理の間の和解に向けた道を切り開いたのである。今日欠けているのは、トポロジーにおいて計画されたことに合致する思考と哲学と芸術である。しかしそれが実現可能なのは、現代科学のこの分野をその元の道──すなわち「位置解析学*9ないしはシチュロジー──に戻すという条件においてのみである。ハンス・フィンダイゼンは『霊媒とシャーマン』*10の中で、シャーマニズムは、ラップ人*11のうちに今なお生きながらえているが、その起源は間氷期の洞窟の画家たちの精神に遡ると述べている。そして、ラップ人的な個性を特徴づける装飾が単純な曲線交錯模様であることは意味深い。トポロジーに関するいろいろな秘密が知られていたことは、いつも、結び目、紐、曲線交錯模様、迷宮、等々の印の存在によって示されてきた。そして、織工たちは古代からずっと、多かれ少なかれ奇妙でまやかしめいていて曲折した形態に関する革命的な教育を、変わったやり方で伝授してきたのである。この歴史は、あまりによく知られすぎているので、まじめに研究されたことがなかった。そこにこそ異常が認められるのであって、その逆ではない。
 マックス・ブロート*12の著作が打ち立てた、カフカデンマーク天文学者ティコ・ブラーエ*13の間の関係は、シェークスピアハムレットの間の関係と同じくらい深い。そして彼らがプラハ──プラハは、ラ・テーヌ文化の時代からトポロジー的思考に光り輝いており、またトポロジー的な意味においてバロックさえ凌駕するに至っている──にいたという事実は、ケプラー*14がティコ・ブラーエの計算に幾何学と古典数学の方法を適用して──それはティコ・ブラー工自身には不可能だった──導き出した驚くべき結果と同じくらい、当然なことである。このことが今一度明らかにしているのは、トポロジー幾何学の源なのであって、その逆のプロセスは不可能であるということである。このことはまた、キルケゴールの哲学をへーゲルの哲学の継承として説明することが不可能であるということも示している。ヨーロッパ文化におけるスカンディナビア的思考の影響は、首尾一貫したものでも、絶え間なく続いたものでもなく、不条理の思考そのもののようなものである。したがって、イギリスのプラグマティズムやドイツの観念論やフランスの合理主義とはまったく異なるスカンディナビアの哲学的伝統──それは、オーレ・レーマー*15、H・C・エルステット*16、力ール・フォン・リンネ*17等々の潮流を構成している──が存在するという事実が相変わらず秘密であっても、驚くにはあたらない。スカンジナヴィア人たち自身がこのような奥深く隠された首尾一貫性の基本的論理を知らないのだから、それだけにいっそう他の地域の人々には分からない。私は学問の効用に関するすべての考えに対して最大限の軽蔑を抱いている。しかしながら、ヨーロッパの現在の状況においては、この主題についての無知は危険を呈しかねないように思われる。そういうわけで、私は、スウェーデンボリ*18ノヴァーリス*19鉱山技師であったという事実は、彼らの背中に精神分裂病的狂気という診断を張り付けることを可能にするようなヤスパースのあやふやな公準よりも重要であると考える。それは、その事実が科学的に論証できるからではなくて、それが織工職と同様にトポロジi的思考に基礎をおく職業だからであり、また、その事実がわれわれをシチュロジーの確立のための貴重な考察に導くかもしれないからである。
 けれども、これらすべては、SIの仕事に従属する、可能な技術としてのみ提示される。SIの味方と敵は容易に見分けられるものである。ベルジエとポーウェルが、著書『魔術師たちの朝』を出版して、オカルト技術研究所を組織することを提案し、その創設のための援助を求め、また、今日同時代人たちをいろいろ操作できる人々専用の支配的な秘密結社の結成を提案するとき、シチュアシオニストは、最大限の敵意をもってその提案を拒否する。われわれは、いかなる場合にも、そのような企てに協力することはできないし、また、その資金調達を援助したいという気持ちも全くない。
 ガストン・バシュラールが『新しい科学的精神*20の中で言っているように、「等しさは、明らかに、計量幾何学の基礎である」。そして彼はわれわれに次のことを教えてくれる。「ポアンカレは、さまざまな幾何学の論理的同値性を証明した後で、ユークリッド幾何学は常に最も便利なものであり続けるであろう、そして、ユークリッド幾何学が物理学的経験と対立した場合には、人々は、この基本的な幾何学を変えるよりも、物理学理論を修正するほうを好むであろう、と断言した。たとえばもっと前に、ガウスは、非ユークリッド幾何学の一定理を天文学的に実験してみたいと主張していた。彼は、3つの星を頂点にもつ三角形は、したがって途方もない面積になるが、その三角形はロバチェフスキー幾何学によって示された面積の減少を見せるだろうかと自問したのである。ポアンカレは、そのような実験が決定的なものであるとは認めなかった。」
 シチュグラフィーあるいは柔軟な幾何学の出発点は、位置解析学でなければならない。それは、ポアンカレによって展開され、トポロジーの名のもとに等しさの方向に押し進められた。しかし、等しいとされる要素が少なくとも2つないならば、等しさに関するいかなる言説も、当然、排除される。たとえば同等性は、唯一物についても、唯一物の多価性についても、何もわれわれに教えてくれないが、実はそれこそが、位置解析学あるいはトポロジーの本質的な研究分野なのである。われわれの目的は、ユークリッド的な等しさの幾何学の対極に、基本的で柔軟な幾何学を置くことであり、また、両者の助けを借りて、変数の幾何学微分的で遊戯的な幾何学のほうへ向かうことである。われわれは、実験的にガウス曲線を見せてくれるガルトンの装置(『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌 第1号の図を参照*21)のうちに、この問題に対するシチュアシオニストの最初のアプローチを見いだす。そして、たとえ私の直観的な幾何学の取り扱い方が明らかに反正統的であるにしても、私は、道を切り開き、そしてまた、幾何学と物理学をどちらの自律性をも放棄せずに調和させる可能性に関して、ポアンカレガウスを引き裂いていた深い溝を渡る橋を架けたと信じる。
 あらゆる公理は、望ましくない可能性に対して扉を閉ざすものであり、その結果、意図的な非論理的決定を含むものである。ユークリッド幾何学の基礎にあってわれわれの関心を引く非論理は、次の2つの公理の間で演じられる。すなわち、互いに重なり合うものは等しい、および、全体は部分より大きい、という公理である。この不条理が分かるのは、例えば、われわれが幅のない長さという線の定義を適用し始めるときである。互いに等しい二直線を重ね合わせるならば、その結果として、二直線が平行である(そのことは、等しさが完全かつ絶対的なものでないか、または、重ね合わせが完全かつ絶対的なものでないかのいずれかを示している)か、または、二直線が合体して一直線になっているかのいずれかでなければならない。けれども、もしその合体してできた直線が、直線の1つよりも長かったり、または幅を獲得したりするならば、それはそれらの直線が等しくなかったからである。しかしながら、もしそれらの直線が絶対的に等しいならば、全体は部分より大きくないことになる。このことは異論の余地のない論理であるが、しかし、もしそれが真であるならば、計量幾何学はまさに全体は部分より大きいという公理に基礎をおいているのである以上、われわれは不条理のうちにいることになる。
 計量幾何学においては、等しい2つの大きさは同一であるという考えを考慮に入れている。しかし、2つのものは決して同一ではない。なぜならば、そのことが意味するのは、それがただ1つのものであるということだからである。もし裁判官の前で殺人者を同定しなければならないならば、それが殺人を犯した人とちょうど同じような個人であるというだけでは不十分であり、この場合、彼の双子の兄弟が彼の身代わりになるわけにはいかない。等しいものはない、重複はないということは、ケーニヒスベルクの橋渡り*22の経験の場合と同様に、確信できるものである。幾何学において、大きさの同一性と位置の同一性は、いかなる量的な考察とも相いれない。しかし、大きさの等しい無数の直線を、重ね合わせによって、それらの直線の1つより大きくない1直線にしてしまうということが、どうして可能であろうか。1直線を2つに分割して、その2つともが元の直線に等しいということなどは、考えられないというのに。
 1直線をその位置から移動すると同時にその位置に留めておくならば、できるのは2直線ではなく、1つの面である、2直線か等しいということを証明するような重ね合わせは、2という性質を消さずに実行することはできない。つまり、もはや等号で結ぶことはできない。ただ1つの直線は何にも等しくない。このことが立証しているのは、ユークリッドの直線には厚みがないというこの定式の絶対的観念論が、いかなる現実性も持たないということである。
 もし、やり方を現代化して、合同、ないしは大きさと形の同一性という定式を用い、空間における位置を除外するならば、重ね合わせによる証明はもはや不可能になる。
 千の点を重ね合わせによって1つの点にすることができ、その点は、千の点のうちの1つに等しい。けれども、1つの点を、元の場所に留めつつ同時に移動することによって、点の数を増やすことはできない。そうすることによってできるのは、線であろう。しかし、立体は? 2つの同一の立体は、想像の中でしか重ね合わせることができない。そうすることができるのは、二つの幻の立体だけであって、現実の立体ではない。この抽象性は、ユークリッド幾何学の力でもあり弱点でもある。トポロジーにおける抽象化の欠如は、弱点でしかない。
 ゼロの千倍は、ゼロでしかない。そしてゼロからは何も引き出せない。ユークリッド幾何学の使用は、この意味において一方向的であり、不可逆的である。すなわち、向きづけられているのである。そして、シチュグラフィーを別にすれば、すべてすべての幾何学は、同様に、向きづけられている。向きづけは線的な概念であり、向きづけられた直線は、半直線とも呼ばれる。なぜならば、そのような直線は1つの行程を意味しており、選ばれた向きは正の向きと呼ばれるからである。線上の任意の場所に選ばれたゼロ点は、始点として定められる。したがって、向きづけられた直線は、線そのものではなく、線と点の組合せである。向きづけられた平面とは、いわゆる正の回転の向きが選ばれている平面である。そして、その平面もまた、ある1点、すなわち、回転面と直角をなす回転軸の設定を可能にするような回転の中心に、結びついている。
 空間が向きづけられるのは、空間の各軸の周りに回転の向き、いわゆる空間の正の向きが、結びついている場合である。このような装置は、計測と呼ばれるいっさいのものを可能にする。けれども、計測とはどういうことなのであろうか。それはこの件に関して最も奇妙なことである。長さであれ、あるいは幅、高さ、質量、時間であれ、またそれら基本概念から派生したどのような単位であれ、単位の計測というものはすべて、ゼロ点から無限へと向きづけられた等間隔に分けられた半線──空間の半次元──上に示された大きさの表示にあるのである。その半線は、直線である必要はなく、円周上にしるされていてもよい。大きさが数回転以上になるならば、その回転が、より大きい線なり円なりの大きさの間隔になる。このことこそが、ありとあらゆる計測が結局帰着する原理である。いかなる計測であれ、半線上の展開というこの限界から外れたことを──それが何であれ──説明しえない。
 ユークリッド解析幾何学は、その古典的な説明では、半線の向きづけに従って展開される。まず、空問的次元のない点から始まり、点を前へ進めると、線になる。線をその長さに垂直な方向に進めると、面ができ、そして面について同様の操作をすると、立体ができる。しかしながら、点から線や面や立体を作るこのような向きづけられた運動、この運動それ自体は、空間的次元との関係において幾何学の考慮に入っていない。非論理的であることは明白である。重ね合わせの行為もまた、運動なしには不可能である。けれども、古典幾何学を築くのに必要なすべての運動を問題にし始めたら、もはや純粋に空間的な現象について語ることができなくなる。とはいえ、それでも運動は最初からある。次のように自問することもできよう。時間はたった1つの次元しか持たないのであろうか、あるいは、起こることをもっと整合的に説明できるようにするために、将来は時間に少なくとも3つの次元を与えざるをえなくなるのではないだろうか。それはまだ分からない。しかし、確かなことが1つある。すなわち、時間は、計測器具を与えることで、半次元、ないしは向きづけられた長さの形に単純化されうる、ということである。それゆえ、科学的定義において持続の計測単位として「時間」と呼ばれるものそして、このような形式のもとで時間は相対性理論に関与するのであるがは、正確には、向きづけないしは半線という観念の基礎ではないのかどうか、それを知ることがもう1つの問題である。
 向きづけられた幾何学は、その向きづけゆえに、システムに内属している時間の諸概念を無視しうる。しかしながら、時間の役割、空間の3次元との関係における時間の現実的な役割を自覚するために、われわれは、半線状の向きづけという道を捨て、統一的な位相同形性を確立しなければならない。
 われわれは、次元という表現を用いようとすると、すぐさまその正確な解釈と定義の問題に直面する。1つの次元は、始まりも終わりもなく、向きも方向もない1つの大きさ、1つの無限として、論理的に定義されうる。時間の次元における無限についても同様である。それは永遠である。空間の3次元のうちの1つの次元の大きさは、面を表わすが、それも、始まりも終わりもない大きさである。もし線的な計測システムが半線しか計測できないならば、2次元直交座標による計測システムは、面の4分の1に記入された図形しか空間的に計測できないし、また、3次元の計測情報は、球の8分の1に、すなわち同じ向きに向きづけられた3座標軸が90度の角度をなすところから始まる部分に、記入されているのだから、いっそう乏しいことになる。このような知識の永続的縮小を避けるために、われわれは、逆方向から取り組もう。
 殺人事件の証人にとって、同定するということは、容疑者をありうる唯一の者として規定することである。けれども、位相同形性は、われわれにさまざまな問題を提起する。それらは、簡単にいえば、次のような比喩で表現できる。今や、同定すべきは、もはや殺人者ではなく、哀れな犠牲者、乱暴者が故意に車で何度もひいて潰した哀れな犠牲者のほうである。犠牲者は、生前の面影とは悲劇的に異なる様相をしている。すべてはまだあるのだが、しかしひどく位置がずれている。彼はもはや同じではないが、しかしまさしく彼である。形が崩れていても、人は彼を同定できる。疑いない。このことが、位相同形実験の場であり、統一体の可変性なのである。
 ここでシチュロジー的実験の場は相反する2つの傾向に分けられる。すなわち、遊戯的傾向と、分析的傾向である。芸術と網目織り(スピン)*23と遊びの傾向と、科学と技術の傾向である。統一体における可変性の創造と、変数間の統一の探求である。お分かりのように、われらが殺人者は前者の道を選んだが、同定者たちは後者の道をとらなければならない。後者の道は領域を位置解析学ないしはトポロジーに限定するものである。シチュロジーは、その展開において、これら両傾向に決定的な推進力を与えるだろう。今1度、ガルトンの装置が表している網の目をもって、一例とできよう。遊び道具としては、その機械は、終了合図の出たピンボール・マシンであり、パリの大半のビストロで見かけられる。また、計算された可変性の可能性としては、それはあらゆる電話網のモデルである。
 しかし、一般的で基本的なシチュロジーにおいては、創造的な面が分析的な面に先行する。シチュアシオニストは現存するすべての条件を潰す者になるであろう。それゆえわれわれは、われわれの証明を始めるにあたって、われらが犯罪者の方法を採用することにしよう。けれども、そのやり方が血みどろのドラマになるのを避けるために、それをユークリッドのように完全に想像上の抽象的な世界の中に引き入れることにする。
 われわれは、ある物体に、完全な位相同形の性質、絶対的で実際には存在しない性質を与えることから始めるが、それはユークリッドが点に空間的な大きさの不在を与えたのと同様である。われわれは、完全に球形で正確な直径を持つボールに、絶対的な柔軟性を付与する。そのボールは、決して引きちぎれたり穴があいたりすることなく、あらゆる仕方で変形できる。完全な3次元的対称性を持つこの物体を前にして、われわれの目的は明白である。われわれは、その物体をすっかり平たくして、2次元の面に変形し、そして、それらの位相同形的な同等性の数値を見つけようとしているのである。その球の高さを、最後はゼロになるように等しい10段階に縮小しよう。そして、球が次第に面に変形されていくのにつれて、球の3つの直径のうちの1つが減少していくことが認められるが、その減少に対応して、他の2つの直径が増大する比率を計算しよう。最後の数値は、それに先立つ9つの数値から導き出せよう。当然ながら、無限に達することはできない。なぜならば、5倍の大きさのボールで同じやり方をすれば、少なくとも5倍の大きさの面ができるはずであり、大きさの違いを計測できる2つの無限などというものは、論理を超えているからである(ただしルメートルが永遠について語る際の彼の論理は別であるが)。この実験に関する実際の計算作業は、数学者たちに任せる──彼らにそれよりましな仕事が何もないならば。
 まだ終わりではない。この厚さのない巨大なクレープ内にひとつの対角線を選び、先の実験とまったく同じ仕方で、この面を長く伸ばして、厚さのない線になるようにしよう。その際、先と同様に、計算を行なう。そのようにして、位相同形的な同等性が、3次元、2次元、1次元の物体の間の数値として表現されるのであるが、人々は皆、抗議し始めるかもしれない。最も頭の良い人々は、ユークリッドは点から始めたのだから、と言って、続きを辛抱強く待つだろう。どのようにして、この途方もない直線をたった1つの点に縮小できるだろうか。私には、球に戻ることしかできない。かりにシチュロジーがただ単に空問的で位置的な現象にすぎないとしたら、その通りなのだが。
 アインシユタインの説明によれば、もし線が光の速度に達しうるならば、線は進行方向に縮んで、長さとしては完全に消えるに至り、他方、その速度において時計は完全に止まるであろう。それが、われわれのやりたいことである。そうすれば、ことはすべて解決される。この派手なやり方の唯一不都合な点は、些細なことではあるが、見えないということである。というのは、私は宇宙を横切って飛んでいくこの点を2度と手に入れることができないからである。かりに空間を横切るこの運動をその場での自転運動に変えることができるとしたら、私は.再び、程度の差はあれ、この点を確保できるのであるが。
 アインシュタインは、「空間と時間を分けて考えると、それらは空虚な影になってしまう。両者の結合だけが、現実を表現する」と言明している。まさにこの考察に基づいて、私は別のところで次のように明言した。ユークリッドの点は、空間的次元を持たず、しかし、空間内にある以止は何らかの次元を表さなければならないのだから、少なくとも、空間に導入された時間の次元を表している。持続なき点を空間内に固定することが不可能であるだけに、なおさらそうである。持続なくして、位置はない。
 しかし、その点が時間の性質を持つためには、その点は運動の性質を持たなければならないし、幾何学的な点は線をなすことなく空間内を移動できないのであるから、その運動は自転、すなわち自分自身の周りを回る回転でなければならない。その運動が連続的であるとしても、その運動は軸も空間的な方向も持ちえない。そのうえ、その渦巻きはどんな小さな空間を占めることもない。点についてのこの定義は、ユークリッドの定義よりも豊かで明確なものであっても、やはり抽象的であることにかわりない。しかしながら、ヘロン*24というギリシャ幾何学者がいて、ガウスは彼からヒントをえて、直線とは、その直線を構成する諸々の点のいかなる移動もなしに、軸として自分自身の周りを回る線であると定義したこと、そしてまた、それが直線に関してこれまでに言われた中で唯一の明確なことだと多くの人々が認めているということを、私が知ってからは、私は、自分が正しい道を進んでいると感じている。
 しかし、軸は1つの向きにしか自伝できない。軸を反対の向きに自転させるためには、一旦止めなければならない。それに対して、自転している点は、自転軸の連続的な変化によって、反対の向きの自転に、またどんな向きの自転にも、導くことができる。したがって、直線は、次のように説明できる。もし任意の自転している2点をつなぐならば、それらの点は同じ向きに同じ速度で回転せざるをえない。速いほうは減速し、遅いほうは加速することによって。
 このようにして、線のすべての点は、空間的次元の中に存在を獲得したが、それは、運動の自由の喪失に相応している。運動は空間の中で向きづけられたのである。
 直線についてのこのような向きづけられた明確な定義をいつまでも抱え込んでいたくないならば、急いで柔軟な定義を考案する必要がある。柔軟な定義というものを理解するためには、次のことを念頭に置く必要がある。柔軟な幾何学は、各次元の無限という性質を強調するのではなく、一般的な時空間における存在という性質を強調する。時空間は、有限でも無限でもよいが、しかし、大きさについて研究されるすべての物体に対して、第1次的なのである。各立体、各面、各線分、あるいは時間の各部分は、普遍的な時空間の全体の一部である、あるいは、その全体から抽出されたものである。例えば、ユークリッドの等しさの幾何学における線分の分析においては、直線の「無限」という性質が捨象される。一部分が切り取られ、残りは忘れられる。統一的な幾何学においては、それは不可能である。直線は、点の途切れることのない列ではない。なぜならば、諸々の点は、1つの直線を作り上げるために何かを失ったからである。線分においては、線の両端から観察されうる二つの点しかない。しかし、線分には2つのゼロ点があるのであって、半直線のようにただ1つのゼロ点があるのではないということを、どのように説明できるだろうか。唯一の可能な説明とは、2つのゼロ端を持つ線分は、ゼロ点を交差させて相反する方向に向かう重なり合った2つの半直線から構成される、というものである。そういうわけで、線分は、行き帰りという二重の行程を持ち、また、対極になった、ないしは対位法に置かれた、両端間の距離の2倍の長さを持つ線である。このことは、柔軟な、ないしは弁証法的な、幾何学にとって、基礎である。この観点からすると、定められた各立体は、全体的な立体ないしは普遍的な空間の中で、面によつて分割された立体である。同様に、定められた各面は、線によって区別された普遍的な面の断片である。また、各線分は、点によって規定された線的な断片である。そして、各点は、時間の中でその持続によって規定された瞬間である。
 立体を規定する特有の面、すなわち立体の表面は、容器とか、外形などと呼ばれる。そしてその機能においては、2つの立体の分離として、内部と外部の対置という性質を持つ。同様に、線による表面の分離は、前と後を対置し、線上の点は、行程の正の向きと負の向きを区別する。これらの表示がこのように意味を持つのは、2つの次元システム間の関係の中でのみ、座標の同一の組合せの中でのみである。問題がいっそう複雑になるのは、相互に関連した複数の座標系で遊び始める場合である。それは射影幾何学と呼ばれ、その最もよく知られている例は、中心消失遠近法である。
 射影のシステムだけでなく、対象化一般のシステムをもよく理解するためには、座標系〔=座標システム〕の二分化がどのように作り出されているか、また、最初の第1次的なシステムとはどれかを見る必要がある。あらゆる観察者に対して第1次的なシステムとは、観察者自身に内属する座標系であり、観察者の主観的な座標である。ふつう、人々はこのような観察の基本的前提条件に無関心である。個人の座標は、前、後、上、下、左、右と名づけられている。そしてそれは、科学における向きづけだけでなく、本源的なやり方で倫理における向きづけ、すなわち社会的な向きづけ〔=オリエンテーション、進路決定〕にとっても、重大な役割を演じている。そこにおいて個人は、左に引かれ次いで右に引かれ、前に傾けられ、進歩によって常に前に傾けられ、後に押され、上昇と高い経歴の方へ急かされ、最後には地面の下に運ばれる。右*25の方向は、最小努力の方向、直線の方向、正しいないしは合理的といわれる方向である。反対に、左は、本来、遊びと網目織り(スピン)と最大努力の方向である。しかし、政治左翼が最小努力の方法に従って公正さを整備する方向になるたびに、そのような対立は緊張を欠くことになる。しかし、われわれの対立観においては、最小努力の方向は落下の線を示すのだから、上昇を表すのは、左の方向、遊びの方向であるはずである。そのことこそ、私が弁証法的逆転を用いて証明しようとしたことである。右という語(ドイツ語 recht 、英語 right )は、スカンジナヴィア諸語では上方への上昇( hogre )を意味するが、それは他のところでは左を象徴している。ヨーロッパにおける社会的な向きづけやその語彙における混乱は、そのおかげで、よりいっそう豊かで矛盾したものになっている。これらのことは、純枠に客観的な考察であり、いかなる予定された結論も含まないが、しかし、最も基本的な宗教的諸観念(天と地獄)にさえ影響を与えたものである。
 一座標系の距離的な段階付けは、現実には、等距離の平行座標線網を作ることを可能にする。この格子縞化は、ゼロ点と正の向きを、座標系内のどこでも好きなところに、変えたり選んだりすることを可能にする。線についてもまた3次元座標系についても、それは同じことである。
 ときに投影が必要となるのは、観察される物体の座標系が、観察と計測にとって基礎となる座標系に対してずれているからである。そんなわけで、投影幾何学は、2ないし複数の座標系の間の関係の規則を、まるで2ないし複数の空間があるかのように表示する。そのようにして、同一の空間を投影によって複数に増やすことができる。しかしそれは、時間の次元を通してしか正当化されない。
 半直線、面の4分の1、立体の8分の1で働く正の幾何学は、しかしながら、純粋に空間的な別の遊びを可能にする。2次元座標の2つの負の半直線が作る直角を移動して、正の角と向かい合わせに置き、例えば正方形を作ることができる。この操作は、円をその細部の1つである正方形によって定義できないにもかかわらず、なぜ正方形の説明が円周と円の対角線の比のうちに見いだしうるのかを説明してくれる。並置による正方形のこの定義は、われわれによる線の弁証法的定義に付け加わり、そして、常に円積問題*26にぶつかっている幾何学よりもシチュロジーのほうがどうして直接的なのかを示してくれる。
 われわれはここに、シチュロジー幾何学的思考に導入できるかもしれないが大変動の結果のいくつかを素描した。しかし、この分野を知る者にとっては明らかなことであるが、われわれの物理学的、力学的概念に関しても、結果はそれに劣らず大きなものであろう。アインシュタインの定義から理解できるように、われわれが持っている光の観念はいかなる空間的次元にも属さない。とはいえ、光を物質でないと考えるのは誤りであろう。4元素〔地、水、空気、火〕という古代の神秘的な観念さえ再考の余地がある。それらが絶対的な現象として存在しないことをわれわれは知っている。とはいえ、現代科学が、固体、液体、空気または気体および光とも言われる物質の状態の区別を考察しようとしないのは不思議である。角氷が突然溶けてテーブルの表面に広がるのを見ると、液体の状態は、空間的次元の1つを失って代わりに流れという自由をえたことを表わしており、液体は2次元の物質であると結論できるかもしれない。そして、水の表面張力の定常性は、物理学において、光の速度の定数と同じくらい重要であるように思われる。このことから予想しうる論理的な結論とは、気体は1次元しか持っておらず、その埋め合わせに運動の自由な戯れをえているということである。そして、もっと少ない次元を持つ何かの例を探す必要があるならば、モーリス・ルメートルとその仲間を思い浮かべたえ。

アスガー・ヨルン

*1:面は単側か両側かのいずれかである 表裏がつけられる面を「両側」、そうでない面を「単側」という。だいたいの面は両側であるが、メビウスの帯は単側である。なお、この引用文の後、ヨルンは「論理的に言って、1つの面は単側でしかありえない」と述べているが、それについては、ヨルンに概念上の混乱があるのではないかと思われる。

*2:変換的( transformatif )英話の形容詞 transformative からの借用と思われる。

*3:ルネ・ユイグ(1906−) フランスの美術史家。数々の著作を通して、美術的な着想が、社会、哲学的・宗教的思想、生活様式に依拠することを示そうと試みる。『芸術と人間』(1958−61年)はその集大成。1950年コレージュ・ド・フランス正教授。1960年アカデミー・フランセーズ会員。

*4:ハルシュタット様式 ヨーロッパ初期鉄器時代の主流をなす文化様式。オーストリアハルシュタット墓地遺跡に代表され、それにちなむ命名。

*5:ラ・テーヌ様式 紀元前5世紀から紀元前1世紀頃のヨーロッパの鉄器時代の文化様式。ハルシュタット様式に続くもので、ケルト人によるものとされる。剣の柄頭や留め針にある独特の曲線文がこの様式の特徴の1つ。スイスのラ・テーヌ遺跡にちなむ命名。

*6:ドーリア 古代ギリシア民族の、一分派。前1200年ごろ、ペロポネソス半島を中心とした、ミュケナイ文明世界に侵入し、古代ギリシアに鉄器をもたらしたことで知られる。

*7:ヴァルター・リーツマン(1880−1959年) ドイツの数学者、数学教育学者。

*8:フィネガンズ・ウェイク ジェイムス・ジョイスの20世紀最大の実験的小説。「疾風怒涛 Sturm und drang 」は、シュレーゲルらの19世紀初頭のドイツロマン主義に先駆けて、ゲーテらが起こした18世紀の文学運動。

*9:位置解析学 ( analysis situs )「トポロジー」の旧称で、20世紀初頭までこの言葉が使われていた。ライプニッツが1679年に「代数学が量を扱うのに対し、直接に幾何学的な位置を扱う解析学の1つの分野が必要であると思う」と述べ、この分野を位置解析学( analysis situs )と名付けた。しかしライプニッツは具体的な問題には触れなかった。この分野におけるオイラーらの先駆的な業績の後、位相幾何学の実質的な創始者であるポアンカレ(1854−1912年)も、この数学を位置解析学( analysis situs )と呼んでいた。この言葉に代わって、「トポロジー」という語(ドイツ語での初出は1847年)が普及したのは、S・レフシェッツの著書 《Topology》(1930年)によるところが大きい。

*10:霊媒とシャーマン』 ハンス・フィンダイゼンの著書(シュトゥットガルト、1957年)で、邦訳は、和田完訳、冬樹社、1977年。なお、邦訳書の「訳者あとがき」によれば、フィンダイゼンは、深層心理学超心理学に造詣の深いドイツの学者のようである。

*11:ラップ人 ノルウェーフィンランドスウェーデンにまたがり、海岸、山地、森林に住む民族。現在の総人口は約3万人。周辺諸民族からはラップと呼ばれ、ノルウェーではフィンと呼ばれるが、自らはサーメ( Same )と名乗り、漁猟、遊牧などで生活している。

*12:マックス・ブロート (1884−1968年) プラハ生まれのユダヤ人で、ドイツ語作家。フランツ・カフカの友人で、カフカ伝を著した(1937年)。

*13:ティコ・ブラーエ(1546−1601年) デンマーク天文学者。観測実体に合わない宇宙構造論を排し、フヴェン島に設けた観測所で、生涯、規則的な天文・気象観測を続けた。望遠鏡なしで、彗星の発見、惑星・恒星の位置測定など驚嘆すべき成果を上げた。ブラー工の死後に残された太陽及び惑星の膨大な観測資料から弟子のケプラーは近代天文学の基礎と言われるケプラーの法則を編み出した。

*14:ヨハネス・ケプラー(1517−1630年)ドイツの天文学者。ティコ・ブラーエの残した観測記録に統計学的計算と幾何学を適用して、火星の公転軌道を決定し、さらに他の惑星の楕円軌道を証明。そこから、惑星は太陽を焦点とする楕円軌道を描いて公転するなどの、ケプラーの三法則を発見した。

*15:オーレ・レーマー(1644−1710年) デンマーク天文学者。ティコ・ブラーエ天文観測所で助手を務め、のちにパリの新王立観測所などで天文観測を行い、デンマークに戻ってからは、コペンハーゲン大学天文学教授として教える。木星の衛星の食により光の速度を測定した。

*16:ハンス・クリスチアン・エルステット(1777−1851年) デンマークの物理学者。電流が磁力に与える影響を研究し、電磁気学発展の端緒を作った。

*17:力ール・フォン・リンネ(1707−78年) スウェーデンの植物学者。オランダのライデン市で『自然分類』を出版、全植物を24の綱に分けた分類法を作り、生物を属名と種名の二語で表す二名法を確立。植物分類学に不朽の業績を残した。

*18:スウエーデンボリ(1688−1772年) スウェーデンの哲学者・神学者ストックホルムの貴族出身でウプラサ大学で学んだ後、自然哲学者、科学者として活躍。この時、鉱山技師として自ら採掘を行った。後年は、霊感を受け、神霊学研究に没頭し、神秘論に基づく新宗教の布教に努めた。主著として『天界の神秘』(1749−56年)、『キリスト教の神秘』(71年)など。

*19:ノヴァーリス(本名フリードリッヒ・フオン・ハルデンベルク 1772−1801年) ドイツ・ロマン派の詩人。1791年、ライプチッヒでフリードリツヒ・シュピーゲルと知り合い、ロマン主義の活動に参加。同時に法律学、鉱山学を学び、鉱山技師として働いた。代表作に『夜の讃歌』(1880年発表)、『青い花』(死後発表)など。

*20:『新しい科学的精神 1934年刊。なお、関根克彦訳で1976年に中央公論社から邦訳が出ており、引用部分(邦訳書46ぺージ)の後半に関して同氏が付けられた訳注の一部をここに引用させていただく。「虚の半径を持つ球面上の幾何学すなわちロバチェフスキーとボリアイの非ユークリッド幾何学の場合、三角形の内角の和は三角形の面積が大きくなればなるほど、二直角πからのずれが大きくなって減少していく。ガウスは(中略)3つの山の頂上を結ぶ三角形を測量して、内角の和の減少が見られるかどうかを知ろうとしたが、その結果は否定的であった。(原文改行)なお、バシュラールはここで diminution de surface (面積の減少)と書いているが、意を汲んで「内角の和の減少」と訳した。いうまでもなく、三角形が大きくなればなるほど(正確に言うと三角形の3つの高さのいずれもが大きくなれば)、三角形の面積は大きくなる。」(同書228ぺージ。ただし本記事の訳では原文通りに訳した。)コブラの自発性に基づく形態の実験やそのためのプリミティヴィスムや民衆芸術への関心には、バシュラールの「物質的想像力」の影響が大きく、雑誌『コブラ』にはバシュラールの名が数多く出てくる。ヨルンは1960年、「ガストン・バシュラールの肖像」という絵を描いている。

*21:アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』第1号の図記事 「シチュアシオニストとオートメーション」に挿入された図のこと。

*22:ケーニヒスベルクの橋渡り 1963年にオイラーが提出した一筆書きの問題。オイラーは、「次のようなのが、おそらくライプニッツの位置解析学( analysis situs )であろう」と前置きして、ケーニヒスベルク(現在ロシア最西部の都市。ソ連時代はカリーニングラードと呼ばれた)にある7つの橋を全部1回だけしか渡らないように歩くことができるどうかかを検討した(答は「できない」)。これが一筆書き問題の始まりであり、一筆書き問題は、線状グラフの位相幾何学の一例である。

*23:網目織り 原綴りは spinn で、外来語であることは確かであるが、実を言うと、何語なのか確定できていない。しかしノルウェー語にはこの綴りの語があり、2種類のノルウェー語=英語辞典と1種類のノルウェー語=フランス語辞典の記述をざっとまとめると、「紡績糸、織物、網(目)、クモの巣」くらいの意味である。これは、本記事が(リーツマンやフィンダイゼンを引用しつつ)北欧の「曲線交錯模様」「結び目」「(古代からの)織工」に「シチュロジー的思考」を見いだしている部分に通じるとも考えられるので、一応暫定的に、ノルウェー語と見なし意を汲んで「網目織り」と訳した。ちなみに、スウェ一デン語にもこの綴りの語があり、「回転、紡績(英語 spin, spinning )」という意味のようである。なお、デンマーク語(アスガー・ヨルン母語)、ドイツ語、オランダ語には、この綴りの語はないようである。

*24:ヘロン(2世紀) ギリシアの数学者・物理学者。アレクサンドリアで活躍し、幾何学と物理学の書を多数著した。

*25:( droite ) フランス語の droite には、「右」「直線」の意味があり、また、形容詞 droit (女性形 droite )には、「右の」「まっすぐな」「正しい」といった意味がある。ここでの記述はそのような多義性に基づいている。

*26:円積問題 円と面積の等しい正方形を作図する問題。実際には作図不可能である。また、比喩的に、「解決できない問題」を意味する表現でもある。