ポトラッチ第6号

訳者改題


レトリスト・インターナショナル・フランス・グループ情報誌──毎週火曜日発行
1954年7月27日


響きと怒り

 1947年*1オノマトペ詩は1つの新しい思想潮流の最初のスキャンダラスな介入を記していた。自らが主張する詩法のために「レトリスト」という名称のもとに結集した集団が、それ以降数年間にわたり、その活動領域を、小説から絵画に(1950年*2)、さらに映画へ(1951年*3)と広げてゆくことになる。
 ポジティヴなダダイスムと言うべきこの時期の運動は、美学のさまざまな学説の形式的進化に対する批判を行った。その関心はもっぱら新しさにあったが、それは、是が非でもオリジナルなものをという嗜好ではなく──われわれはそのことについてあまりに容易に反対された──、発明のメカニズムを支配しようという意志だった。レトリスムの目的の拡大は弁証法的に考えれば十分予想できたことだが、過程にはフラクション間の激しい闘争と乗り越えられたメンバーの除名とが刻み込まれている。このレトリスムの目的の拡大という事態によって、問題の所在は、発明のメカニズムを情熱的な〔=情念に関する〕目的に利用することにのみ局限されることになったのである。
 1952年6月に結成されたレトリスト・インターナショナルは、レトリストの運動の過激な潮流を結集させた。同年10月、インターナショナルの支持者が引き起こしたチャーリー・チャップリンに反対した事件と、その行動へのレトリスト右派の非難のあと、退嬰的な潮流との協力関係は破棄され、そのメンバーは粛清された。
 それ以来、われわれの歩みはあらゆる機会に明確なかたちを取ってきた。
 われわれが常に言ってきたことだが、たとえば、ある種の建築の実践や社会騒乱の実践は、われわれにとって、構築すべき形態の生へのアプローチの手段を意味するだけである。
 詩の表現など、エクリチュールが取りえた別の歴史的形態と同じく、われわれにはどうでもいいにもかかわらず、ただ悪意に満ちた敵意だけが、世論の一部を誘導して、われわれを詩の表現──あるいはその否定──の1段階と混同させているのである。
 われわれを何らかの美学の支持者の役割に限定することは、他のところでよくなされているように、われわれを麻薬中毒者とかギャングだとか言って断罪するのと同じくらい軽率である。いく度も言ってきたことだが、かつてシュルレアリスム──このシステムだけを挙げるとすれば──によって定義された要求のプログラムは、われわれの眼には最低限のもの、その緊急性が見落とされてはならないものと見えるというだけなのである。
 個人の野心はと言えば、それは、われわれがそのために意図して身を危険にさらしてきた大義とは、かなり両立しがたい。

1954年7月22日

レトリスト・インターナショナルのために

ミシェル=I・ベルンシュタイン、アンドレ=フランク・・コノール

ムハンマド・ダフ、G=E・ドゥボール

ジャック・フィヨン、ヴェラ、ジル・J・ヴォルマン


東方(オリエント)へのアピールヘの覚え書き

 アラブ国家は死に絶えつつある。自国の国民の貧困の上に作られた彼らの国家政策はどこに通じているのだろうか。
 エジプト革命は起きなかった。それは、その最初の日々にすぐ死に絶えた。「共産主義者」として銃殺された織物工場の労働者たちとともに死んでしまったのだ。
 エジプトでは、群衆にスエズ運河を見せて彼らを眠り込ませている。イギリス人もそれほど遠くに去りはしない。せいぜいヨルダンかレバノンまでだ。
 サウジアラビアコーランの上に社会生活を建設し、自分の国の石油をアメリカ人に売りさばいている。中東はすべて軍人の手に渡っている。資本主義列強は敵対的なナショナリズムを鼓舞し、それを弄んでいる。
 ナショナリズムという考えの一切を乗り越えねばならない。北アフリカは外国勢力による占領からだけでなく、彼ら自身の封建的支配者からも解放されねばならない。われわれに相応しい自由の理念が君臨するところならどこにでも、そしてただそこにのみ、われわれの祖国を認めねばならない。
 われわれの兄弟は国境と人種の問題を超えたところに存在する。いくつかの対立──イスラエル国家との紛争のような──も、2つの陣営のそれぞれの内部での革命なしには解決しない。アラブの国々にこう言わねばならない──われわれの大義は共通である。あなた方の前にあるのは西洋(オクシデント)ではないのだ、と。

ムハンマド・ダフ


今週のベストニュース

 ──インドシナ全域での停戦協定が調印される。

(『フランス=ソワール』紙、7月22日付)

 ──チュニス発、7月22日、AFP。フェラーガ*4の運動は依然として重要である。この36時間だけでも、ケフに向かって南西山脈に登っていったいくつもの反乱者部隊の通過が確認されている。これらの無法者が行動を起こすことが懸念され、当局はその脅威を回避するためあらゆる予防措置を講じた。さらに、サヘル*5の150名の若者が、つい最近フェラーガに合流したことも確認されている。

(『ル・パリジャン・リベレ』紙、7月21日付)


ちゃちな麻薬

 一般に知られている娯楽のくだらなさを見れば、真面目だと評されている事業のうちでも最もひどいもの──たとえば大陸間戦争やプランタン・デパートの発展など──になぜ多数派がすぐに同意を与えてしまうのかが説明できる。
 売り買いされている「逃避手段」があまりに貧弱なため、キリスト教を受け継いだばかばかしいまでに抑圧的なわれわれの社会だけが、若い未経験者の伝統的な陶酔とモルヒネの習慣化とのあいだに区別を設けているのである。
 逃避はいかにしても不可能である。可能なのは、われわれの生活条件のすべてを変えることである。それ以外は、面白くなく、卑しいことである。安易な方法を選ぶ者は、雑多さと、ちゃちな麻薬と、退屈と、卑小さのなかに自己を見失うだけだ……。
 娯楽を持たぬ王とは何なのか?
 新しい行動様式のチャンスが賭けられている。
 この賭はこの上ない厳密さをもってしか行えないのである。


神話の境界

 生まれるのが20年早すぎたために人生をしくじった女たちがいる。イヴィッチについても同じだが、彼女は相変わらず生きている。彼女は、オイディプスにテーバイの門で讃えられた時に、すでに年齢不詳だった。その後、何人かの作家が、彼女が足早に通過したことを記録している。時に人に気づかれ、時に讃えられるが、理解されることはない。
 何年か前から、彼女は力ずくでのカムバックを準備しているらしい。それは、万事がついに影響波及的になった暁に実現されるだろう。彼女が最後に姿を現したのは、『自由への道』*6にさかのぼる。もう少しで間違われるところだった。かなり近眼のサルトル氏には、イヴィッチがブロンドに見えたが、実際は黒髪だったのである。
 彼女がわが国を通った記録も少しあったが、彼女が自分を待っていてくれる場所に亡命したのはまったく正しい。彼女が知らないことは、あえてまだだれも認めようとしない。そのあいだ、彼女は自分に近い者と一緒に暮らす。それが理由で、世界の不幸も、イヴィッチの疲労も生まれる。彼女はまだ眼を上げようとはしない。男たちは乱暴で騒がしい。彼らはせわしなく動き回っている。結局、男は大きな沈黙を乗り越えられないのだ。とはいえ、もしかりにこの宇宙にわずかでも微笑みがあるとすれば、それはすぐに訪れるだろう。なぜなら、再びイヴィッチを探しているからだ。彼女はわれわれの方に歩いてきている。だが、人生は波潤万丈、小説とは違って終わりがない。したがって、続きは次号で。

A=F・C


心理地理学に関するお知らせ

 レトリスト・インターナショナルは、ヴァレット街(5区)に賃貸のアパルトマンを3戸探している。

『ポトラッチ』編集長アンドレ=フランク・コノール

パリ6区、デュゲ=トゥルアン街15番地

*1:1947年 イジドール・イズーがパリでガリマール書店から『新しい詩と新しい音楽への序説』(「ボードレールからレトリスムにいたる」という副題がある)を出版し、レトリスムの理論を公表した年。レトリスム自体の名は、その前年1月21日、トリスタン・ツァラの芝居『逃亡』の上演会場で、イズーとポムランが「ダダは死んだ! レトリスムがその後を継いだのだ!」などと叫び、『コンバ』紙など翌日の新聞に大々的に取り上げられて有名になっていた。

*2:1950年 この年、ガプリエル・ポムランの絵文字でできた本『サン・ゲットー・デ・プレ』(78ぺージの注を参照)が発行された。

*3:1951年 この年、イジドール・イズーのレトリスト映画『誕と永遠についての概論』がカンヌ映画祭ジャン・コクトーに絶賛され、「アヴァンギャルド観客賞」などの賞を獲得した。

*4:フェラーガ フランスからの独立運動期のチュニジアアルジェリア武装ゲリラ。「フェラーガ」とは北アフリカアラビア語で「匪賊、反逆者」の意味。チュニジアは、1954年にフランスから内政上の自治を勝ち取ったが、それに「フェーラーガ」すなわち武装ゲリラが果たした役割は大きかった。アルジェリアのFLNは11月1日に武装蜂起するが、その前夜ともいうべきこの時期には、第二次大戦前から独立運動を行っていたアルジェリア人民党(メッサーリ派)の方針を不十分に感じた若者たちが、チュニジアのフェラーガにならい、メッサーリの意向を無視して武装ゲリラ方針を立て、蜂起へと向かっていった。

*5:サヘル 北アフリカ地中海沿岸の丘陵地帯。

*6:『自由への道』 サルトルが1945年から49年に発表した未完の長編小説。イヴィッチは、主人公の哲学教師マチューの教え子の姉の名。