赤の女王とお茶を このページをアンテナに追加 RSSフィード

”All alive are fitting.” 「生きてりゃ適者です。」

2004-01-29 評価とは畢竟主観である

sivad2004-01-29

内田樹氏の1月29日記述http://www.geocities.co.jp/Berkeley/3949/学歴の問題が触れられてますが、僕が思うに、戦後日本人(のマジョリティー)は、人間人間を「評価」することをひたすら避けてきたのではないでしょうか。すなわち、評価するということの責任を社会から排除してしまった。その結果が学歴偏重であり、センター試験であり、年齢差別であり、社会全体の規範喪失なのです。

人が人の能力や仕事を評価しようとするとき、それが高度なものであるほど、評価する人間主観が入るし、また主観でしか評価できないと思います。そして下した評価には評価者が責任を持つ。これが人を評価する時の基本のシステムではないかと思いますが、日本は「客観的指標」の名の下に評価の責任スキルシステムも捨ててしまった。

恐らくは「評価」することに自信が無く、その責任も取りたくない(=評価者として評価されたくない)、すなわち自らの価値観に誇りが持てない指導者達がやったことなのでしょう。

しかし、人が人を責任を持って評価する、というスキルシステムは民主制の正に要です。健全な資本主義の要であるともいえるでしょう。

彼らの罪は深いです。・・しかし恐るべきことに、彼らを正しく「評価」できる人間も既に枯渇しつつあります。