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地を這う難破船 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2007-03-26

長い補記


最初にお詫びを。まず、反応が遅れまして申し訳ありません。そして。前記エントリ、掲示の1、2時間ほど後に見直して、誤字に気が付き直してから再度アップロードしたのですが、すでにブックマークしてくださっている方が何人かおられたことに、そのとき気が付きました。そのゆえなのでしょうか……ブックマーク対象のエントリがふたつに分かれてしまいました(私はブクマ機能は使用していないのです)。トラックバックの反映もうまくいかなかったようで。大変に、申し訳ありません。両方にブックマークしてくださった方達、御手数をおかけして、すみません、そして、本当に、有難うございます。御礼申し上げます。読まれてほしいと思うエントリが読まれることは、筆者にとっては感慨無量です。


そして。匿名の方と、id:Lhankor_Mhyさん、送信していただいた、大きなポイント、そしてLhankor Mhyさんの添えてくださったコメントありがとうございます。その他にも、ブックマークのうえにて嬉しいブックマークコメントを記してくださった方達、この場を借りて、御礼を申し上げさせていただきます。


――私は、もともと遅レスがちなうえ、この件については、前記エントリを掲示したら「離脱」するつもりでいました。それこそ私は浅学であるので、間違ったことを言っているのであろうし、と。理由はひとつ、この件については、議論を更に拡散させたくはないためです。流れとしても収束しかけている。


ただ――反応をいただきました。ありがとうございます。当方がTBを送った以上、反応するべきですね。前記エントリと重複することなきよう、また話が拡散することのないよう、前記とは違えて、失礼ながら端的に記させていただきます。


普段から差別表現と受け止められる可能性のある罵倒発言をしている人が「差別」だということ - ARTIFACT@ハテナ系


広義の性産業に従事している人が、性意識について語っていることに対して他人が関心をもつ自体が差別なのか? - ARTIFACT@ハテナ系


arisia氏の始めの発言が侮辱的でも差別的でもない可能性


他なる方の反応に対するレスポンスも含めて、追加的な見解としての思うところを、補足的に。


罵倒をするのは自由だけど、自分にその罵倒が向けられることを考えてないのなら、罵倒をすべきではない。

今後yukiさんが、他人に対して何らかの社会属性に対する罵倒をした時、今回のyukiさんの発言は問題ないと言っている人たちは、それを問題視するだろうか? 問題視するのなら公正だと考えるが、おそらくしないだろう。たまたま今回の件が「売春婦」というわかりやすい事例だから問題視されたのだろうし。もしかするとyukiさんの罵倒は芸として面白いからokとか?

弱者であると主張した人間の行為がすべて肯定される訳ではないのに、そうした部分を見逃すといった不公正さが、弱者利権の主張などのバックラッシュを呼んでしまう。

今回の件は、普段からyukiさんの言動を見ている人たちと、そうでない人たちの間の温度差があるのだろうなあ。罵倒言動を見ていても、そこは気にしない、眼をつぶるというのは「中国の核はきれいな核」状態だ。


他の方はわかりませんが――私はyukiさんのブログのそれなりに長い愛読者であるので、yukiさんの過去の言動については存じ上げています。というか、そうでなければエントリを掲示しませんでした。「罵倒をするのは自由だけれども、自分にその罵倒が向けられることを考えてないのなら、罵倒をすべきではない。」全面的に同意します。


kanoseさんは御存知のことと思いますが、私はかつて音羽さんに対して、ほぼまったく同様の見解を示しています。罵倒屋は罵倒によって報いられてやむなし、と。私は、音羽さんが「watch」の対象となることに対して「まったくの自業自得」であると、言いました。音羽さんの罵倒は芸になっていないけれどもyukiさんの罵倒は芸になっているとか、そういうことでもありません。思いはしますが、それは(yukiさんについては)部外者の無責任な感想であり贔屓目です。「弱者であると主張した人間の行為がすべて肯定される訳ではない。」同意です。


私のスタンスが「中国の核はきれいな核」であるかといえば――私は自らの姿勢が「公正」であるとは、この件についてもまったく思いません。はっきりと、yukiさんの側に立って書きました。一目瞭然であろうと、思います。yukiさんの側に非がないとか落ち度がないとか問題がないとか、まったく思いません。


ただ、この期に及んで自らのエントリにてそのようなことを書いても仕方がないと思いました。それこそkanoseさんや、あるいは他なる方も多く指摘している、yukiさんの過去の言動を知っていたなら、了解される疑義です、私はそう思っている。


つまり――yukiさんが今回の件について何を「差別」であると見なしているのか、yukiさんが「差別」と「罵倒」の線引きをしていること(yukiさんは自らに対する「罵倒」は無問題としている)、そしてそれは一概に「自分ルール」であるとも言えない、一定の正当性と妥当性を備えたものであるということ、ひいては、yukiさんが恣意的かつ御都合主義的かつ手前勝手に利己的に「差別」概念を使用ないし濫用しているわけではないということ、少なくとも今回の件に関しては、yukiさんの発言は一貫しているということ、問うなら一貫性において問われるべきであるということ。


つまりは――yukiさんが今回の件について「差別」を持ち出したことには「理」が所在する、今回の件における「差別」についてyukiさんを問うなら、yukiさんの「理」の正誤妥当不当について問うべきであろう、ということを、はっきりとさせたく思って、エントリの掲示に踏み切りました。


yukiさんの過去の言動については、すでに示されてありました。私が、付け加えたい認識が有った、ということです。そして。記したことですが、kanoseさんがそうということではまったくありませんが、yuki19762というブロガーの「個人の資質」に「のみ」収斂させて今回の件を処理するなら、それこそが「差別」の機能であろうとは、私は思ったし、おそらくyukiさんもそのように考えたのでしょう。


「自らの事」「自らと相手の事」に尽きる話ではないと。「社会を前提する事項」について「個人の問題」に収斂させて処理してはならない、と。ゆえに単なる「罵倒」ではなく「差別」とした。それはyukiさんにとっての「理」であり、私はその「理」が一概に「自分ルール」であるとは思わないし、一定の正当性と妥当性を備えているとは考えますが、そうではない、とする見解はあると思う。


「理」が「自分ルール」でしかないのか違うのかということについては問われるべきでしょう――「差別」概念を行使したからには。ただし「理」は在る。「理」の所在と内実について、少なくとも、仔細に書こうとしている人を本人以外には見なかったから、つまりこの件について「何が「差別」であるのか」という検証がきっちりと為されることなく「yuki19762というブロガーの個人の資質と事情」という条件に「のみ」収斂しかけていたので、棹差した次第です。


yukiさんの資質については措いて、少なくとも「差別」ではありました、と。kanoseさんの御指摘通り、yukiさんの「個人の資質」がかかる事態を招いたのかも知れない、というか、そうであると思います。ただ、それと「差別」は別個の問題です。その区別については示しておきたく思いました。――実際「差別イクナイ」で通しきれることではないのです、現実的には。


――事実、yukiさんならぬ非当事者のある方が、「差別」概念について詰めることなく御自身の「感性」を根拠としてarisiaさんを「差別主義者」として他所のブログのコメ欄にて幾度も記しているところを目にしたときには、はっきりと、まずい、と思いました。その方の意思については理解しますし後出し野郎が言うことではありませんが、フォローとしてもまずい、ということです。


「差別」概念をブラックボックスとして処理し行使しそれが流通することは、被差別側含め誰の利益にもなりはしません。「差別」を批判する、少なくとも非当事者がそうであってはまずいのです。ゆえに「何が「差別」に該当するのか」について、私なりの観点から、念押しに念押しを重ねて執拗に記すこととしました。


――実は、前記エントリには更なる続く大部の記述がありました。私の個人的なる売買春観について記したものです。結局、その部分については全面的に削除して掲示しました。理由は、前記エントリにてリンクさせていただいたkanoseさんのエントリの結部に記されてあったことと同様です、


売春婦への蔑視発言の話 - ARTIFACT@ハテナ系


特に今回のようなセンシティブな話題においては、この話題をきっかけに自分の持論(今回なら売春の是非や差別一般論など)を語るというような行為は、当事者の人を不快にさせてしまう可能性があることは意識しておきたい。


私は――「職業に貴賎なし」とは言いましたが、id:takisawaさんも仰る通り、それは近代社会の原理であるけれども、言い換えるなら近代の枠組におけるタテマエの話でしかない、と考える。近代社会における差別というのは事実性の水準、言い換えるならホンネの水準にこそ所在します。少なくとも単なる言論において「タテマエ」としての筋論制度論「のみ」を改めて提示したとして通ることではない。


ただし「ホンネ」の事実性の水準に居直っても、少なくとも単なる言論において「ホンネ」としての歴とした現実「のみ」を改めて提示したとして、それはあまりに保守的というか、左翼的な言説が廠蕨を極めた時代であるならともかく、この発言の自由を保障されたWeb2.0におかれては何も言っていないも同じではないか、と保守の私が時に思います。


たとえば――私は売春防止法の廃止については、現在の事情を鑑みるなら、どう考えても賛成できない。現実的に考えて。むろんのこと私は「公序良俗」や「性道徳」の話をしているのではない。私は恋愛至上主義でも性交渉至上主義でも全然ないので。むしろ両方に関心がない。


kanoseさんが、そして上記リンクの増田が、私のエントリに対して示している指摘とは、私の解釈から、端的に言うなら、以下。「売春婦」ないしは広義の性産業従事者を、ネガティブ意味にて特別に「差異化」して考えてはいないか、第1に「社会的地位」において、第2に「性」という条件において。かかる発想に基づく言行は既存の差別を温存することに与しているのではないか。


実際、私は以下のように記しています。


何が「差別」であるのか(――検証) - 地を這う難破船


まず第1に有体に言うなら、macskaさんの指摘した通り、「売春婦」が現行の社会において賤しめられている存在であることを認識し、その事実を明示したうえで、現実の「売春婦」ないしかつてそうであった存在に対して、「売春婦」であること、あったことを理由として「個人的に」卑しめる発言を同時に示したなら、それは差別に該当する行為なのです。あまつさえ、yukiさんという個人に対して直接にそう言ったのであるから。それは差別行為です。


第2に。「面倒なセックスビジネスのようだ、つまり売春と考えるのだ、元風俗嬢は、なるほど、と興味深く思った」などということは、思ったとして公的には絶対に言ってはいけないことなのですよ。常識として。


まず第1の点について。増田から。


もっと突っ込むと

「空いた時間をそれ程好きでもない相手とデート代を払ってもらってする面倒なセックスが売春のようだと元風俗嬢が言うのは興味深い。」

が引っかかるか否かは、風俗嬢をどう見ているか(あるいは認識しているか)という違いになるのではないか?

そして是か非かは置いておいて、これが引っかかる人は風俗嬢の地位を低く見ている人達なのだろう。


御指摘の通り。そう思います。少なくとも私は「風俗嬢」をそのように見ているし認識している。発端としての、当該のブクマコメントの段階におかれては、arisiaさんが「風俗嬢」の社会的地位について如何なる認識を持っているかまで、了解し得るとは言えないかも知れない。


「風俗嬢の地位を低く見ている」か、と問うなら、見ています。ただし、厳に但し書きしておきますが――価値判断ではない、事実認識として、です。私は、「風俗嬢」の社会的地位は、事実、低いと認識しています。少なくとも精神科医やエコノミストと比較するなら。職業に貴賎がないのは、周知の通りタテマエの話です。事実性の水準におかれては話はまったく別。macskaさんの表現を借りるなら「世間の風当たりは強い」。


性風俗産業に対する差別 - Wikipedia


「精神科医」や「エコノミスト」の社会的地位が相対的にも高いということと同様に、「風俗嬢」の社会的地位が低いという事実認識を私は持っていますが、むろんのこと、価値判断は別個です。私は、自らの身内の事情等についてはあまりここでは書きませんが、事実性の水準においても「低」については原則的には是とはし得ません。


タテマエの水準を除外して「風俗嬢」の社会的地位が、少なくとも精神科医やエコノミストと比して「低い」という事実認識について、暗黙の了解が為されていないのでしょうか、日本社会におかれては。


結構な高学歴の妹と、彼女が大学に在籍していた頃に話していたところ、ひょんなことから、彼女が部落差別の存在についてまったく、「部落」「同和」という単語と概念に至るまで何ひとつ知らなかったことを知って私は仰天しました。それほど育ちの良い家でもないはずなのに。そういうのをリベラルとは私はまったく思わないし言わない。


kanoseさんのエントリから。


ある人が、自分の仕事と関係のある行為をプライベートな話と繋げて話をしていて、それに対して他人がその仕事と繋げて関心を持つことは差別になるかどうか。元精神科医なら差別にならずに風俗嬢なら差別になるのか? 社会的地位の高低が差別を決めるというのなら、誰が考えたかわからない「社会的地位」を考慮して発言を変えるという「政治的正しさ」が差別を温存してしまう。


まず。極端に言うなら、私はPCとはタテマエとしか思っていません。むろん原理原則としてのタテマエは絶対に肝要です。そして――「誰が考えたかわからない「社会的地位」」とは現行にして既存の社会システムにおいて決定されている。私達は事実性において「与えられた条件」としてその中に生まれその中に生きてその中にある。むろん、そのことと社会システムの事実性を自明と見なす知的認識的な怠惰とは別個である。社会の事実性を前提することとそれを自明の前提と見なすこととは異なる。


――私の見解を補足的に示すなら、私は、社会の事実性を前提して発言しますが、社会の事実性を自明の前提と見なして発言することはないし、自明の前提と見なしたことはないし、かくあることを戒めている。事実認識を踏まえて、価値判断をそれに沿わせるか否か、ということです。


私は――社会的な位置ならざる抽象概念としての存在論的な「弱者」という表現を公的には決して使用しないし、少なくとも任意の「社会的属性」に対しては、そうした認識を示すことない。むろんのこと、抽象観念としての「政治的正しさ」を前提しているわけでもありません。それが差別を温存すること、kanoseさんの見解に同意します。


ただ、現行の社会システムとその事実性は現実に存在している。そして、社会の事実性のもと「抑圧」されている「社会的属性」の集団が現実に在る。しかるに「社会の事実性」がその「抑圧」が、対象としての「社会的属性」を有する任意の個人の感情や心理に対する毀損的な機能を果たしていることが多くある。而して、毀損された感情や心理が、任意の契機によって露出することは、あります。


私には生活保護受給者の友人がいます。うちひとりは、私に対して自ら幾度も言います。自らの立場は正当なものである、と。私は何も言ってはいない。思ってもいないと言い切れる。事実、制度的にはまったく正当です。彼女が体を壊したことは彼女の自己責任であるかも知れない、私の知る限り、そのような側面がないとは言えない。


しかしながら。私は彼女に対して直接には、過敏だよ、とは到底言えない、まして、やましいところがあるからだ、とは思わないし、それは思ったとして言ってはいけないことです。いずれにせよ、直接には言えたものではない。事実、彼女が過敏にならざるを得ない状況が社会において事実性として、存在している。私はそのことを認めざるを得ない。


そして付き合って甲斐ない相手であるなら、私はべつだん「いい人」でも「付き合いのいい人」でもないから、当人の「社会的属性」が何であれ、去る。そして私は去っていない。付き合うことを選択している。なら何を言うか、こと本人に対して直接には、ということです。私は彼女を対等の相手と見なしていると、ここにおいて言明する必要がありますか。というか、私とて明日をも知れぬ一介の自由労働者です。


むろんのこと、誰しもが毀損されています、時に現行の社会の事実性の抑圧によって、いわゆる「勝ち組」であろうとも。私とて数え上げるなら「履歴」におけるネガティブなファクターは「差別語」が該当し得る条件に限ったとして片手を満たす。それが何か?と私は言いますよ。私的な人間関係においては。公的には実体としてのリカバリーによって帳尻を合わせるしかない。礼儀正しく、なおかつ、傍目からはあきらかに不当な自己信頼を持ち合わせているしかない。


それは、世界的には現在において苛烈な差別の相対的に少なき国であるから言えることであるのかも知れません。言ってきたし示してきたし言うべきであるし示すべきであるし、幾度も言わせる相手は私的には縁なき相手と判断してきました。言って文句が出ないだけの自己を担保してきたつもりです。しかしながら。それは私という個人の話。他に対して言うべきである示すべきであるとはまったく言えない。


他に対して言い得ないと私が考えるのは、社会の事実性の強固なることを私が知っているためです。むろん周知のことです。認識したうえにて、自らはそのような「誰が考えたかわからない」条件については意思的に意識しない、とすることはできます。それは正しい、と私は思う。


しかしながら。自らはそのような「与えられた条件」とは関係がない、と言うことはできない。任意の社会に生きる個人にとって、任意の社会において堆積し流通している事実性の外部に現実的に位置することは、諸関係の内部における自己においては不可能である。――認識において位置することは、そして、かかる認識を志向することは、あると思うし肯定します。


自らはそのような条件について意思的に意識する、とすることは、現行の社会の事実性を原則的に肯定し容認することとは異なる。スタンスの相違に正誤も上下も関係はしない。現行の社会の事実性についての認識を前提したうえにて、かかる「誰が考えたかわからない」社会システムとその事実性自体について、問題なしとはまったくしない、自明の前提とは到底見なし得ない、という点において一致を見出し得ると、考えています。


第2の点について。増田から。


話はずっこけるけれども、でも大事な話。

植草教授痴漢をやっていたとして、「エコノミストは痴漢をする」「エコノミストだから痴漢をする」とは、「手鏡と痴漢によって幾度も逮捕されるのだ、つまり偏向したイリーガル性癖を持ち合わせているのだ、元経済学者は、なるほど、と興味深く思ったということです。」とは、言わないでしょう。いや村崎百郎氏はそう言ったけれども(クロソウスキーの『生きた貨幣』を引き合いに出して)。


クロソウスキーとやらはどんなスキーなのか浅学にして知らないが

この例え話は間違いである。

まず風俗嬢とセックス(建前的には性的なサービス)には直接の関係がある。

精神科医とカウンセリングにも直接的な関係がある。

なぜならそれが仕事であるから。

しかしエコノミストと痴漢はなんら関係がない。

この例え話は例え自体が間違っているのである。


kanoseさんのエントリから。


また、ここで注目された「行為」によっても扱いの違いが生まれている。「カウンセリング」「文章を書く」という行為と「売春」という行為では違うという認識だ。


広義の性産業に従事しているorしていた人が、本来プライベートである性意識について語っていることに対して関心をもつこと自体が大きなお世話であり、差別の視線であると、sk-44さんは主張している。そして、明言はされてはいないが、これはほかの職業には適用されず、広義の性産業だけに適用されるのだろう。*1

ここにあるのは、性意識の特権化だ。これ以上触れると、自分が問題視していた「個別の事例から一般論を語る人」になるので止めておくが、こうした性意識の特権化こそが、性産業従事者への差別を生むのでは…?と考えたことは記しておく。


――私は「差別イクナイ」とは改めて言挙げる気もない、と書いたけれども、それはタテマエの話であるからです。言論においても原理原則は一応抑えておいて、と。近代の枠組を、近代社会の原理を大義を、社会の事実性において個々人の意識において貫徹させることは、日本という条件にかかわることなく、できない。無理筋において貫徹させようとするならバックラッシュを時に招来させます。


広義の性産業に従事している人が、性意識について語っていることに対して他人が関心をもつ自体が差別なのか?

という、エントリ表題におけるkanoseさんの端的な問いに応えるなら、そして。


2007-03-22 - 力士の小躍り


におけるtakisawaさんの、


 あと一点、私は子供であるのか、sk-44さんのいう

>arisiaさん――なぜ「元風俗嬢が」という一節が入るのですか、要らないではないですか。

 という点に関しては、私としては聞いてみたいとは思うんですよね。


というスタンスに対して、私が私のスタンスにおいてレスポンスするなら――「関心を持つ(こと)自体」は差別ではないし、「聞いてみたいと思う」こと自体は差別的ではない。というか、事実、そうした事柄について聞き書きした書物はピンキリ無数にあって、私も面白いからよく読む。ただし。


一般論としても同様ですが、こと任意の個人に対してそうした「関心」を直接に示すことは、実際に「聞く」ことは、ことにそれを公共空間において有体に行う際には、当事者間の事前の合意が、言い換えるなら「任意の個人」の事前の了解が、絶対に必要でしょう。


arisiaさんは、その手続きを怠った。なにゆえに怠ったかというなら、yukiさんが「元風俗嬢」という「広義の性産業に従事している人」であったためでしょう。それをして差別であると私がしたことについては、判断の余地があるかも知れない。しかしながら、yukiさんがかく反応したこと自体については、当然のことであると、私は考えます。「最初の段階で相手の発言から相手の意志を読み取り過ぎている」とは、私は思わない。


kanoseさんほか幾人もの方が指摘している、yukiさんという個人の資質が、当初の反応に際して関係していないとは思いません。しかしながら――。私はあまり有体な話はしたくはありません、ただ、他なる例を挙げた通り、そのような話は、多いのです。このような形による個人の毀損も、また毀損された個人の反応も。そして事実、押し黙る人は、少なくとも現実の世においては、多い。


任意の個人としての「元風俗嬢」に対して「元風俗嬢」であったことを言挙げると同時にその「性意識」についても問うたら、あるいは言挙げたなら、それは言及を受けた当人の意識にかかわることなく、個人に対する毀損として機能することある、少なくとも、その蓋然については、認識し意識したほうがよいと、私は思いはします。


むろんのこと、kanoseさんやtakisawaさんが認識していない、ということではありません。――私はフェミニストとは言い難いし「差別イクナイ」の人でもないのですが。為念。ただ。


少なくとも今回の事については、自らひとりに限った事ではない、と考えたのであろうし、詭弁ではなく、本当に――「押し黙る数多の娼婦のために」書きまくっていたのであろうと、私は思いますよ。


こうした事柄は、社会性に属する意識の問題です。端的に言うなら、マナーとエチケットの問題。私は(kanoseさんはむろんのこと)takisawaさんがそうであるとはまったく思いませんが「コドモ」という表現を用いたのはそうした意味においてです。


――kanoseさんの御指摘の通り、私は、少なくとも「性意識」とは個人において最たるプライヴァシーであると考えています。それをして「性意識の特権化」とするならその通りです。ただ、話が逆であるとも私は思っています。


「履歴としての社会的属性」から「性意識」について直接に結び付けて問われ言挙げされ得るのは、「職業」という条件におかれては「広義の性産業に従事している人」以外にはなく、その点において「広義の性産業従事者」は、ネガティブに「意味化」「差異化」され、それゆえに「世間の風当たりは強い」――言い換えるなら差別を被っている。


一般論としてどころか、任意の個人について、それも公共空間において「「履歴的な社会的属性」から「性意識」について直接に結び付けて問い言挙げする」人の存在こそが、そしてかような行為と発言を可能とする認識意識と、その事実性の水準における流通こそが、「広義の性産業に従事している人」の「社会的地位」の低さを証している。


「与えられた条件」としての事実性について認識したうえにて「自分はそのような「誰が考えたかわからない「社会的地位」」とその高低を「考慮して発言を変えるという」ことはしないし、意思的に意識しない」とすることは正しい立場であるし、私とて個人に対する意識におかれては当然のこと、同様です。しかしながら、当事者が上記を認識したうえにてなおかつ意識するとき、私は何かを言えるかというなら、あくまで私個人のスタンスとしては、言えない。


それが「差別の温存」に与する立場であるのか。ただ――「政治的正しさ」というのはタテマエでもあるけれども、時に原理的なるタテマエを要請する、ホンネとしての事実性の水準における実態としての現実もまた、歴と在る。PCとは必ずしも絵に描いた餅ではないし、そのようにしてしまってはならない。


2007-03-22 - uumin3の日記

 

「差別」問題を語るときに糾弾口調になる方にはどうもついて行けないところがあります。他者を「差別をする者」、「差別意識を持つ者」として糾弾するとき、どうしてもそれを咎める側は差別に対してイノセントな、いえむしろ「高い」立場に身を置いているのではないかと思えるからです。

 差別問題は皆の心の問題だ、自分にもその種があることを意識しなければならないというその御当人が、自分と異なる者として他者の罪や責任を問うとき、そのおっしゃられる言葉は私に違和感を感じさせます。

(中略)

 しかし「誰もが例外なく差別者になりかねない」という認識は、他者を糾弾するという態度につながっていかないはずのものなのではないでしょうか? あなたも私もいつ「差別」する側になるかもしれないよ、というのは共感を求める言葉であり説得する言葉です。惧れを認識させる言葉といっていいかもしれません。 その認識は、何も私たちに特別の「高い位置」をもたらしてくれるものではないのです。


uumin3さん、イチ早くのトラックバック、ありがとうございます。1年前のことについては、私は言及したことないので措きます。一般論として、私もまた、uumin3さんのように思うこと多くある、というか、こうした事柄を記すのは私の役目ではないと思うのですが――ただ。あくまで一般論として、1点だけ。


反差別の闘争とは、糾弾する主体の無謬や身綺麗や高潔や無垢を前提するものであるはずがないし、糾弾者の(差別意識は言うまでもなく)差別行為なきを証すものでも罪なきを証すものでもありません。


糾弾する主体の無謬とイノセンスと罪なきを証すために反差別闘争があることは、絶対に有ってならないし、かような認識と意識における前提をこそ撤去さるべきである、被差別者としての糾弾する主体におかれても、他なる「私達」におかれても。


糾弾する主体の過去における差別行為によって、その糾弾行為自体の正当性と妥当性は無化されないし、取引も為されない。もっとも――端的に説得力の問題だ、と言われたなら、それこそ事実性に準拠して私は何も言えない。


ただ、タテマエとしてはそうなります、ということであるし、反差別闘争とは、糾弾の主体の、ひいては被差別者の無原罪と無垢と高潔を保障するものでも証すものでもない、それは現在の反差別闘争における知的な要諦であり綱領でもある、そのゆえにこそ、立場にかかわることなきオープンな相互批判が何よりも肝要である。――そうした旨については、インフォしておきたく思いました。


またしても長文を、失礼しました。補足を掲示することを決めた最大の理由は、以下の魚拓コメント欄に記された一文を目にした為。他人事ながら、一読少しく切れかけた。――ものには言いようというものがある。ことに『heartbreaking』の読者であるなら。


メッセージ


自分のエントリーに大して「興味深い」と書かれただけで切れるのですから、yukiさんに深いコンプレックスがあったように思いました。


「深いコンプレックス」ですか。とんでもない大きな御世話です。そのようなことを、如何なる経緯もなき他人が公的にかつ直裁に、本人が目を通すことを前提して記してよいものではまったくない。最低限の、マナーとエチケットの問題です。筋論の以前に、言って良いことと悪いことがある。


御本人の言う通り「そういうのが差別」です。私もまた、takisawaさんと同じく「差別は絶対悪」と一概にする者ではありませんけれども(というか、倫理面におかれる善悪の議論に相対的にも関心がない、私の場合は)。上の言については、他に言うこともなし。以上。


そして、この件については、私は〆ます。仮に書くとして、今後は完全な一般論としてしか書かない。あくまで、補足としての、私個人の認識と立場の説明としての反応です。


(経過と状況を鑑みて、(追記:最終的な掲示の段階において、)引用含め、途中、記述を大幅に削除しました。論旨が飛躍し脈絡が不自然であったなら、申し訳ありません。)

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