Hatena::ブログ(Diary)

地を這う難破船 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2008-07-11

パラダイム銀河(「皆でニコニコ」は包摂するか)


ハゲのおっさん7日間戦争 - ls@usada’s Backyard

2008-07-04 -  SPOTWRITE

「ニコニコ現実」のプロトタイプとしての「ニコニコ大会議2008」 - 濱野智史の個人ウェブサイト@hatena

学級委員長たちは自分の意見を何としても正当化したいのですね、わかります - ニート☆ポップ教NEO

2008-07-10


いじめとかいじりとか、言葉というのは本当に強烈で。あと、はてな学級委員長選挙は実施したらよいと思う。むろん立候補制でなく推挙制で。日頃の行いに鑑みてはてな学級委員長にふさわしいと思うidを皆の投票で決定。それなんてイジメでイジリで罰ゲーム


私の印象と断るけれども。ある単位の集団において、誰かをダシにして皆の(結束を高めると言わずとも)繋がりとその共有を得ることの問題としてこのことは問われたのではないかと思う。たまたまダシにされた「誰か」がその世界観に同意する者であるか否かと問題それ自体はあまり関係がないことは、確かではある。そして、正直「ハゲ」ならまだ笑いにする余地もあるが、その繋がりの共有のための「ダシ」が任意の属性嫌悪と不意に接続したときどうなるか。「生身の女の子」ではないが、生身の人間を「ダシ」にして得られる繋がりとその共有、「いじめ」であるかは知らず、危険だろうとは思う。


それが「ある単位の集団」にとどまるならまだしも当事者問題と言いうるけれども、来るべき社会的現実の話となるなら、ファッショであるかは知らないが、うへえ、ということにはなる。濱野智史さんが説かれる「ニコニコ現実」についてのCNETインタビュー記事には目を通していたけれども、そのニコニコ現実とは、生身の人間に対してもリアルタイム可視化されたコメントが付きまくる現実ということなのだろうか。その「暴力性」については自明であるけれども、それが技術と人間性の来るべき未来であるからして目を逸らしても詮無い、というのは、目を逸らすべきでないのは確かだけれども、うへえ、以前に、無茶な話ではないかなぁ。私がSFをあまり解さないうえ保守的なのかも知れないけれども。


ニコニコ動画がその理念において利用者皆がニコニコするための繋がりの共有メディアであるとき、むろんそれは素晴らしいことだけれども、そのニコニコのために偶発的にも任意の利用者が「ダシ」にされてしまうなら、ましてそれが任意の属性嫌悪と偶然にせよ接続して可視化されるなら、そしてその向こうにいるのが生身の人間であるとき、それはまずいことではないの、という。そしてニコニコ動画は理念においては利用者皆がニコニコするための繋がりの共有メディアであるからして偶発的にも「ダシ」にされてしまう任意の利用者もまた皆の繋がりを共有する一員であるからしてニコニコ、皆ニコニコ、それがニコニコ、というのは、「いじめ」と判断する人があって妥当だろう。つまり、利用者皆のニコニコのために誰かが常にかつ偶発的にサクリファイスされる限り。


生贄とされる者もまた利用者であることによってニコニコ、皆のニコニコする顔を見てニコニコ、かくて皆ニコニコ。それはひょっとしたらグロテスクな事態であるかも知れないし、そのニコニコがその最優先が、たとえば「ハゲ」ならまだしも無害であるが任意の属性嫌悪の存在と介在を覆い隠して、たまたまサクリファイスされてしまった生身の人間をそのニコニコできないかも知れない心境を「ニコニコ利用者」であることによって利用者皆ニコニコという繋がりの共有に包摂し溶かし込んでしまいもする。


有村悠さんがニコニコ動画に限ることなく一貫して問題としてきたのもまたそういうことだろうと私は理解している。「相手は生身の女の子なんだぞ!」と有村さんはあのとき大声で怒鳴っていた。良い人と思った。


はてなダイアリー


たまたま誰かを「ダシ」にしてサクリファイスして共有される繋がりとは、そして「ダシ」にされサクリファイスされる誰かもまた「ニコニコユーザ」という繋がりに包摂して皆でニコニコ、という暗黙合意は、たとえその包摂がまったき善意によるものであろうとも、たまたま「ダシ」にされてしまった誰かに対して繋がりとその共有において包摂して皆でニコニコせんとするその心意気に善なる意思に疑う点なくとも、少なくとも円環は閉じているし、ある人々にとってはグロテスクな光景に映りうるものである。有村さんのようなニコニコユーザもまた強い違和感を覚えるように。


ファシズムとかいじめとかそういうことは私は言いたくない。私はニコニコユーザではないのでニコニコのその心もわからない。アカウントを取っていない理由も単にこれ以上時間を食われることが恐ろしいからに過ぎない。ただ。皆でニコニコして繋がりが可視的に共有されるとき何かが覆い隠されるなら、皆でニコニコするために生身の人間がリアルタイムで可視的に「ダシ」にされるなら、偶発的にせよ「ダシ」にされる誰かの公開供犠によって皆の繋がりがニコニコと共有されるなら、「ダシ」にされた生身の人間が時に技術と人間性のコンボにおいて忘却されるなら、それは、1935年ニュルンベルク大会が大成功を収めドイツ国民皆がニコニコする一方ユダヤ人商店は焼討されていた(むろんユダヤ人もドイツ国民皆のニコニコのためニコニコ)とは私は言わないが、来るべき素晴らしい未来でありパラダイムシフトですね、うへえ、という感想を持たないものでもない。


うへえ、とは倫理的な非難を含意しない。生身の云々とも私は強くは思わない。ただ、インターフェースにおいて前提化される感想の直接表出、というふうには思う。私たちはハゲを目にして「ハゲ」とは口に出さない。美人を目にして「美人」とは口に出さないことと同様に。口に出すときは、前者に対しては喧嘩を売るとき、後者に対しては口説くときだ。失礼とかそういうことの以前に、独り言以外で思ったことをタイムラグなく右から左に口に出すことはありえないことである。そのありえないことはニコニコ大会議において万人規模において実現されたらしい。それってつまり独り言なのかな、万人規模の、と状況を聞いて私は勝手に思う。


私は単身生活が長いせいもあり身内恋人に不審がられる程度には独り言が激しい。TVのブラウン管に向かって始終ぼやいている。それが可視化され万人単位で共有されることがニコニコ動画ということなのかも知れない。(独白でなく)独り言があるいは独り言としての端的な感想が万人規模で共有されるとき、本質的孤独な私たちは心の奥深いところで「繋がった」と思うものなのかも知れない、あるいは。「みな同じことを思うのだ」と。それがたとえリアルな蜃気楼であろうと。そのことが個人の意見表明どころか言語的表出の陳腐化を促すことは自明であるが蓮實重彦批評論ではあるまいしそういうことを言っても詮無い。


独り言を可視的に万人規模で共有することによって生じる繋がり、それが感情表出の陳腐化を促すところにおいて1万人が皆でニコニコすることを可能とする。それがけしからんとか嘆かわしいとか私はまったく思わないし言う筋合もない。ただ、感情表出の陳腐化によって可能となった「皆でニコニコ」が、誰かの涙をもニコニコによって包摂しようとするとき、それが「皆のニコニコ」のため覆い隠されている涙と映る人もある。誰かの涙によって贖われる繋がりの共有などクソクラエと思う人もあるだろう。それが誤解であるかは私はわからない。


「皆でニコニコ」がたまたま生じた誰かの涙をもニコニコで包摂しようとしているのか、「皆でニコニコ」のため誰かの涙は1万人に贄として供されるのか、それとも「よかった、涙はなかったのか」なのか。そもそも涙はニコニコにおいて包摂されるべきか。生身の人間としての誰かの涙は繋がりにおいて共有しうるのか。それともそれはインターフェースの革命性の前では些細なことであるのか。むろん些細なこととすることは構わない。原理的に包摂はされないということであるから。私見であるが、たぶん涙は包摂されないし繋がりにおいて共有しうるものでない。掲げられた理念の実現において、皆でニコニコすることは途方もなく難しい、否、それが不可能であることを示したのが20世紀歴史でなかったか。というのは大袈裟か。ニコニコという文字列を私は何回記したろう。


■■■


私が小中学生の頃の話をすると。直截に兎口とも呼ばれる口蓋裂の子や頭髪がまったくない子、アトピーで全身真っ赤な子などが身近にあって、中学入学式で幾人もが指差して笑ってその場で教師や父親や先輩にボコボコに怒られる、というのは恒例だった。あるいはプールで海で浴場で友だちの身体のひどい火傷痕など目にするものだった。つい見たり見なかったりして、また友だちも説明したりしなかったりする。女友だちの身体にそれを見て気まずくなったりならなかったりしたこともあった。虐待云々という話では必ずしもない、真偽は知らず、幼い頃の事故と彼や彼女は言った。


そうして学習するものだった。人の個性を指差して笑うべきではないと。それは口蓋裂や火傷痕やアトピーに限らない。個性と私は綺麗事で言っているのではない。口蓋裂を兎口と直裁に認識してはならないしましてその認識を可視化してはならないということ。なぜならそいつは仲の良し悪しにかかわらず同輩だからだ。個性とは個性化とは人間の個々の身体であってそれを脳内の共通性において標準化するのが脳化社会たる都市の近代社会であると養老先生は言ったが、幼き日の野口清作を手ん棒と囃した子供を仕方がないことといえ馬鹿と思う私は養老先生がDisる近代都市社会を棲家と思う。


人の個性はその人の好むと好まざるとにかかわらない。身体にも規定される個性とは個性化とは、かく言ってよいならネガティブなものだ。だからこそ、その人のその人であるところの個性を指差して笑うべきではないし、尊重しなければならない。「世界に一つだけの花」とはたぶんそういうことだ。あれをポジティブな歌とじつのところ私は思っていない。「個性尊重」とはそういうことと私は思っている。外見内面魅力の有無努力の余地、そういう話ではない。その人の好むと好まざるとにかかわらない個性を指差して笑うべきではないし、その人のその人であるところを同輩として尊重しなければならない。


口蓋裂を傍から兎口と呼ぶことは、人の火傷痕をアトピーを指差して笑うことは、それはまったくその人の個性を個性として認識していないし尊重もしていないし、同輩とさえ思っていない。入学式のファーストインプレッションを経て、仲良くなるかは知らんが(というのはそういう人たちはことにその年頃では人見知りなので)、指差されて笑われた「個性」持ち合わせる彼らもまた同輩として存在を尊重されていく。男塾ゆえ率直に言って暗黙にも馬鹿にされる奴というのは否応なく出るが、人の口蓋裂を火傷痕をアトピーを指差して笑う馬鹿はいない。というのは私の進んだ中学が都心の男子進学校であったからかも知れない。だいたい中学男子なんて大半は汗臭くニキビでえらいことにもなる。偉大なる手塚治虫よりは余程ヒューマニストな私はしかしながらhuman beingというイデアル概念が苦手なので人間の対等性を考えるとき原則的には男女を問わず同輩という概念で考える。その方が実感にしっくり来る。


きりひと讃歌 (1) (小学館文庫)

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そして思うことは。件のニコニコ大会議において、もし口蓋裂の人が質問に立って中継されていたら、画面にそのことを端的に指摘するコメントが流れていただろうか。そのときどのような反応があったろうか。というのは仮定に基づいた差別云々のまさしく学級会的な話をしたいのではなくて、考えるまでもなくそのような人は中継前提のニコニコ大会議で挙手質問しないだろうということ。ニコニコ大会議とはそういう場所でもあるということ。


それが悪いということではないし繰り返すけれどもいじめと言いたいわけでもない。ただ、皆でニコニコすることは人の個性を尊重することとは時に両立し難く、繋がりを共有することは時に繋がりえない要素を前提において排除しているということ。繋がりの共有を前提する限り結果的にも、生身の人間もまた排除しているということ。ディスコミュニケーションを前提において能う限り排さんとするコミュニケーション指向とはそういうもの、功罪含めて、と言ってしまえばそれまでだけれども。


生身の人間が生身の人間であることを前提に、人の口蓋裂を火傷痕を赤くただれた顔を指差して笑わないこと。そうした他人の個性の尊重のもと、その相互的な了解において皆でニコニコできずとも繋がりを共有できずとも同輩を同輩として正しく喧嘩しうる間柄として見なし正当に扱わんとすることにおいて、脳内世界に準拠した文明的な人間社会は成立している。古臭いヒューマニズムかも知れないが、私はそう考えている。「才能を伸ばす」ならともかく個性を伸ばすとか私は意味がわからない。いずれにせよ、芸能人にも政治家にもなりたいと思ったことのない一般市民の私は一般市民のまま1万人に公開処刑されるなら阿久正のごとくまったく無名の一般市民として終わりたいとつくづく思うのだった。パラダイムシフトうへえ。


長谷川四郎 (ちくま日本文学全集)

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