お返事(社会とスタァ)


灰とダイヤモンド - 地を這う難破船

id:REV  「非教団員にとってのサリンのストレス」と「教団員がサリン散布を我慢することのストレス」とでは、後者のストレスの方がよほど大きいことを教団員は知っていたのですね。サリンとニコチンの吹きあいをどうぞ。
id:font-da   盗撮は迷惑(迷惑条例違反だしなあ)だが、盗撮を我慢することも迷惑だ。みんな迷惑を我慢し合って寛容の社会を、ってこと?盗撮趣味の人も少数者だろうしね。/(不本意ではあるが)どっちも条例レベルの問題id: www6

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サリン」「盗撮」引き合いに出してくるものでその人の関心領域がわかるものです。大カトーのごとく二言目にはヒトラーヒトラー言ってる私も人のことは言えない。で、違法行為は処罰すれば宜しいのではないですか。条例違反も検挙されるべきですね。松ちゃんは「俺の違法行為を見逃せ」とも「条例違反無問題」とも言っていないし(立川談志なら言う)、松ちゃんが条例違反で検挙されたという話も寡聞にして知りません。そもそも、明記した通り15年前の文章で、松ちゃんはとっくにタバコやめているわけですが。


迷惑が条例の問題とは初めて知りました。もちろん迷惑条例の存在は知っていますが、私はそのように「迷惑」という言葉を解したことがないので。「倫理マニュアル」のようなものですか。「倫理はマニュアルの問題ではないだろうjk」と突っ込むべきではないのですね。


都条例違反により吉本の後輩が検挙された際、週刊朝日の連載でその後輩の稀なる才能を主張して、彼に芸人としての再起の機会を与えてやってほしいと公に訴えたことは有名な話で『遺書』にも掲載されているし、その後輩は今や大成しました。あれは普通「美談」ということになっていますね。もちろん、松ちゃんはそのときも「検挙を見逃せ」などという話はしていない。「法治国家クソクラエ」とか、善良な市民として一言も言っていないと思いますが――松ちゃんは。


芸能人が写真週刊誌に報道されるストレスと、非芸能人が写真週刊誌でゴシップを読めないストレスとは、どちらが大きいのでしょう。喫煙には寛容で答えるべき。私生活の報道は寛容に自粛すべき。ホント、社会は不寛容ですね。

"赤の他人同士が迷惑をかけ合って生きていることに対する社会的な不寛容" - REV's blog


ところで、松ちゃんは写真週刊誌のことをよく愚痴っているけど、写真週刊誌を規制せよと主張しているところを見かけたことはない。写真週刊誌のことを愚痴る芸能人は多いが写真週刊誌を規制せよと主張する芸能人はあまりいない。権力による規制を殊更に主張する芸能人とかありえないからだけど。


ビートたけしフライデー襲撃事件の際にも「気持ちはわかる」との声はあったが、写真週刊誌それ自体の規制や暴力行為についてたけしの起訴見送り、という話にはならなかった。「法治国家として」当然のことですが。便乗発言した政治家がいたことは事実、しかし結果として写真週刊誌は規制の憂き目には至らなかった。そこには、未だ社会の一体感に対する信頼があった。そのような「社会の一体感」が気持ち悪い、という話は当然です。アメリカ型社会でGO、ということになるでしょうか。


愚痴りはするが「スターだから仕方がない」が松ちゃんのスタンスと理解しています。長者番付公開をとんでもないことと再三主張していたことも。松ちゃんが「あしながおじさん」をしていることは有名な話です。本人曰く、自身の収入に対する負い目がある、と。『たけしの誰でもピカソ』打ち切りを見るまでもなく、芸能人は自分のギャラを下げてはならないし、ワークシェアリングとかありえない。


長者番付公開をとんでもないことと主張することも「スターだから仕方がない」も、社会の一体感に対する信頼がそこにはある。社会の一体感に対する信頼を欠いた社会なら、セレブリティを狙うパパラッチ天国で、セレブリティも訴訟と社会的発言で自己防衛することになる。セレブリティとスターは違います。本人の意識ではなく、位置付けとしての社会との関係性の問題。「国民的オモチャ」と自らを名乗ったのはタモリです。「80年代的なTVに代表される大衆社会における芸能人の位置付けとその現在における変容」というようなナンシー関な話を私としたくて「写真週刊誌」に言及しておられるわけですよね――REVさんは。単なる、喫煙に対する御自身の問題意識からの他人の議論に対する脊髄反射なまぜっかえしではなく。


「喫煙者が盗人猛々しい」という話ならその通りと思いますよ。寛容ではなく公正の問題ゆえに超論理、と書いたと思いますが。「後者のストレスの方がよほど大きいことを俺は知っているのである。」は公共の利益に鑑みて通らない、寛容とは松ちゃんの自己都合の問題ではない、とわかりきったことを断り書きせよ、レトリカルに示唆するのでなく、という話でしょうか。ところで、そのような、自己都合の上部概念としてある寛容は、たとえば「自分はスターだから仕方がない」「長者番付公開はとんでもない」という、社会の一体感に対する信頼から発するものです。


さもなくば、アメリカのようにセレブリティは金と力と知名度にあかせて自力救済に余念なし、ということになる。訴訟三昧時々圧力で。泣きを見るのは知名度に比べて金と力がいまひとつのセレブリティです。デヴィ夫人に対するカイヤ的な意味で。あるいは飯島愛的な意味で。日本も、そうなりかけていますけどね、そして日本の芸能人の多くは「知名度に比べて金と力がいまひとつ」ですけどね、という話。


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REVさんやfont-daさんの言っておられることそれ自体はよくわかるしその脈絡もわかりますが――比喩的な表現で申し訳ありませんが、御自身の問題関心から当たり構わず絡むのもいかがなものかとは思います。人は、他人の文章を自分の読みたいようにしか読まないものですが――私を含めて。