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farthesky

【サクラノ詩】応援中!

2013-07-10

ととの。

 ととの。に関するメモ書き。乱文なのは容赦願いたい。

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2012-12-10

ヱヴァQの感想なんじゃないかな

 思い出話*1。を思わず書こうとしてしまった。もちろん決してそんな話を書いてはいけない。

 Qについては沈黙を保つとか言ってたそばからこの体たらくなので、まあ過去や未来の自分から糾弾されるんだろうけど、それでもとりあえず吐き出しておかないと息苦しいので吐いておく。あ、ネタバレです。

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*1:僕がエヴァをみたのはちょうど14歳のとき。音楽部の合宿に同級生が全巻DVDを持ってきていて、それを2日だか3日だかほとんど徹夜でみた(練習時間にうとうとして指揮者に怒られたりしたのが懐かしい)。これが僕にとってのアニメ初体験で、結局それは僕が第二外国語独語にしたところまでついて回ってきている…(延々と続く)。

2012-06-17

すぴぱらのムービーとか新海誠とか

 『すぴぱら - Alice the magical conductor. STORY#01 Spring Has Come !』(以下『すぴぱら#01』。正式タイトル長い…)をちまちまとすすめているのだけど、どうしてもその画面から違和感を覚えてしまう場面があるのでそのあたりについて少し…と、本当はゲーム画面の話をするつもりだったのに、ムービーの話になってしまった。どうしてこうなった

 現時点での暫定的な結論を先に言うと「キャラクターの〈顔〉と〈風景〉は両立しないのではないか」という感じ。

ムービーにおける風景

 まず前提として、我々は世界を一挙に捉えることは不可能であり、何かを見るときには必ずなにがしかの視点が設定されなければならない(少なくとも、そういった考えを刷り込まれている)。形式的には、風景とは一人称視点からのパースペクティヴ(遠近法)によって統一的に把握される対象のことであり、それは消失点がただ一つだけ設定されているということでもある。すなわち裏返せば、一人称視点から見たパースペクティヴ(遠近法)によって統一的に把握されているように画面が構成されていれば、我々はそれを風景として読んでしまう。

 ムービーにおける風景を考えてみたい。minoriの過去作ムービーの大半で監督を務めてきた新海誠の映像(及び明らかにその影響下にある『eden*』『すぴぱら#01』ムービー)ではその風景がまず何よりも特徴だと言える。通常、風景や背景は単に人物(=前景)がいる場所を定位するものでしかなく物語に従属しているのに対し、ここではそれが逆転されており、まず第一にあるのは風景であって、風景により物語が構成されている。そして、風景こそが物語を描き、キャラクターの内面描写をしているという意味において「風景はキャラクター化している」と言ってよく、また逆に画面全体が風景として見られるということは、そこにキャラクターが映り込んでいることを考えれば「キャラクターは風景化されている」と言えるはずである。ここでは背景/前景といった二元論は成立しない。また、より正確に言うならば、風景/キャラクターといった二分法も成立しない。風景がキャラクター化しており、かつキャラクターが風景化されているということは、両者は渾然一体となって〈風景〉をつくりだしているのだ。いわば、そこでキャラクターはその〈風景〉に投げ込まれた存在であり、その〈風景〉の参加者になっているのである。

minori過去作ムービーとの比較

 このことは、例として『Wind - a breath of heart - Re:gratitude.』(以下『Wind』)のムービー、『ef - the first tale.』のムービー*1を見てみるとわかりやすい。そして、それらのムービーと今回の『すぴぱら#01』のムービーでは大きな違いが存在する*2

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 これらのムービーを見比べてすぐに目につくのは『すぴぱら#01』ムービーにおけるキラキラ感―"新海フラッシュ"がほぼ全シーンにおいて用いられていることだが、それはひとまずおいておくとして、ここで注目したいのは『すぴぱら#01』ムービーにおいては他の過去作ムービーに比べてキャラクターの〈顔〉が画面に(比較的大きく)写っているシーンが多いということである。もう少し正確に言うならば、キャラクターの動く〈顔〉全体だ。過去作ムービーにおいては、キャラクターが画面に大きく登場するとしても、その多くはキャラクターの「手」や「脚」など身体の一部分のみがクローズアップされての動きであったり、頭部の一部分だけが映っているのであったり、キャラクターの背面が映っているような画面構成であった。あるいは、キャラクターは(表情の判別が出来ないほど)遠くに映っていた。画面に映っているものは全て〈風景〉なわけだが、その意味で、このような形で画面に登場するキャラクターはまさしく〈風景〉化できている。もちろん『すぴぱら#01』ムービーにおいてもその傾向はあるが、やはり他の過去作ムービーと比べた場合、基本的にキャラクターの顔あるいは全身(もちろん〈顔〉を含む)が画面を占めていることが多いと言えるのは確かである。

 また、確かに過去作品においてもキャラクターの〈顔〉が大きく画面を占めているシーンは存在する。しかしそれらの大半は、端的に言って〈風景〉ではないものとして位置づけられている。たとえば、『ef - the first tale.』ムービーにおいて4組の男女の顔が連続で大きく映し出されるシーンがあるが、そのシーンは新海誠の『ほしのこえ』において唯一〈風景〉ではなくなっている(が故にカタルシスを生む)ラストシーン―美加子と昇の「ここにいるよ。」という台詞が文字通り天文学的な距離・時間を超えて重ねられるシーン―と同じようなものであると言ってよい。そのシーンはまさしく〈風景〉の文法が破れているところであり、そのことが画面構成から一目でわかるようになっている(一人称視点である我々の視界は普通あんな風には占められないだろう。また、『ほしのこえ』のラストシーンで画面に映るのは「ここにいるよ。」という"文字列"である*3)。『Wind』のムービーについても同じようなことが言える。

 〈顔〉は他人を認識する際、最も重要となるファクターの一つだと言っていい。我々が他人の〈顔〉を見るとき(普通はその一部分だけを見るようなことはなく、一気に顔全体を見せられているわけだが)、その〈顔〉のみから我々は様々なこと(主として「内面」に関すること)を読み取ることが出来る。そしてたとえば、多くの実写の映像においては主に人間の〈顔〉を用いることによって、人間の内面描写=物語を構成していると言えるだろう。ここで注意しなければいけないのは、実写の映像における三次元の人物の〈顔〉はその輪郭のなかでは(本人が意識している以上の)相当に高い解像度を持ち、多様な変化に富んでいるからこそ、我々はその〈顔〉を一種の「内面」を表すものとして違和感なく捉えられる、ということだ。そして、このように実在する人間の〈顔〉に宿る豊かさ―現実の人物の解像度の高さ―をそのまま("リアル"に)二次元アニメーションで再現するのは、コスト的に考えてもかなり難しい。

新海誠

 そうした状況のなかで、新海誠アニメーションでは独自の手法が編み出されていると考えることができる。それは、先に述べたように〈風景〉をキャラクター化すること/キャラクターを〈風景〉化することである。いわば、〈風景〉によって内面描写をし、物語を描くための解像度を確保するために、キャラクターの〈顔〉を映すのではなく〈風景〉を映す、あるいはキャラクターそのものを〈風景〉化するという手法だ。

 映像表現におけるキャラクターの〈顔〉には、輪郭という限られた範囲のなかで高い解像度を実現しなければならないという制約がある。しかし一方で〈風景〉にはこの〈顔〉の輪郭に当たるような範囲の制約は存在せず、〈風景〉を切り取るのはその視点―画面でしかない。つまり、「内面」を描写するために〈顔〉と〈風景〉のどちらかで同じ解像度を実現しようとするとき、画面のなかでさらに輪郭によってフレーミングされてしまう〈顔〉より画面を独占できて範囲を自由に決められる〈風景〉を映した方がよいということになる。これはつまり、〈風景〉は局所的な解像度が〈顔〉に比べて低くても大局的には高い解像度を得られるということでもある。また、キャラクターそのものを〈風景〉化するというのは、キャラクターを映すときでもその一部(身体の一部は基本的にどのように切り取ろうと自由である)のみを映したり、キャラクターを表情が判別できないほど(〈顔〉の解像度が問題にならないほど)遠方に配置することで、キャラクターそのものを〈風景〉の一部に溶け込ませるという手法である*4。たとえば、キャラクターが泣いているのは、キャラクターの泣き〈顔〉を映すのではなく、「水滴」を映し出すことによって表現される。

 さらに、新海誠作品のテーマが「距離=時間×速さ」の三つであることを考えれば、〈風景〉はそれらの変化による物語を描くためにはもちろん静止画的な〈風景〉ではあり得ない*5。そこでモンタージュ・遠景化やカメラ移動などの技法が使われることになる。逆に、遠景化やカメラ移動によってはじめて〈風景〉は見出されたと言ってもよい。また、たとえば、新海誠の映像において「雲」が主要なモチーフになっているのは偶然ではないだろう。人間の生きる時間スケールに比べて遥かに長いスパンで変化していく大地とは異なり、雲―空の変化は我々の生きる時間スケールの内にその変化を見ることが出来る。また、「電車」というモチーフも同様である。車両の中の風景といえば一見変化に乏しいように思われるが、新海誠作品では電車の窓を通じて入ってくる光の移り変わりが捉えられており、その光量の変化を描くことで電車の仔細な走行が見事なまでに表現されている。さらにそういった局所的な変化だけでなく、〈風景〉によっては大局的な変化までもが表現される。たとえば『秒速5センチメートル』において第一話の電車は二人の距離が引き延ばされながらも確実に近づいていくことを示しているが、第三話ラストの踏切のシーンでは、まさしくその電車こそが二人の間に広がる決定的な断絶を示しているのである。そして、そのような変化がキャラクターの〈顔〉によってというよりは〈風景〉によって描かれている*6。他にも例を挙げればキリがないだろう*7

『すぴぱら#01』デモムービー

 以上、(話が横道にそれすぎたものの)これらの議論をふまえれば、minoriの過去作ムービーについても前述のような「キャラクターの〈顔〉を映さずに〈風景〉化する」という手法がとられていたと考えられるのではないだろうか(たとえばキャラクターの身体の一部はその〈顔〉ほど解像度を要求しない)。この手法が用いられていたことで、過去作のムービーではたとえばキャラクターの〈顔〉を画面に押し出すために〈風景〉の文法を意図的に破る、といったような箇所が存在していた(ex.画面が分割されて四組の男女の〈顔〉が映るシーン)。しかし、今作『すぴぱら#01』のムービーにおいては驚くべきことに、こういった〈風景〉の文法が破られている箇所が一つも存在しないのである。これはつまり、『すぴぱら#01』のムービーは全編にわたって〈風景〉となり続けるようにきわめて意識的に構成されている、という事実を明確に表している。しかしそうであるにも関わらず、前述したように『すぴぱら#01』のムービーではキャラクターの〈顔〉が数多くのシーンで映し出されるようにもなっているのだ。

 『すぴぱら#01』のデモムービーは大きく分けると三つのパートからなっていると言える。最初のパートは魔女アリスの独白シーンであり、第二は学園パートとでも呼ぶべきシーンであり、第三は魔女アリスの飛翔シーンである(これで通じて欲しい)。もう少し詳しく見るならば、『すぴぱら#01』のムービーでアニメーションになっているところは日の出→朝→昼→夕方→夜→翌朝と一日の変化を追っていることが分かる。日の出が映るところは箒に乗って空を飛んでいるアリス視点だと考えられ、朝(登校)・昼(学園)・夕方(下校)が学園パート、夜がアリス飛翔シーンとなっている。このようにデモムービーから学園パート・アリス飛翔シーンなどという大きなわかりやすい単位を取り出せてしまうことは、『すぴぱら#01』のムービーが時間的な連続性を意識し、ムービーの自律性を意識して作られていることを示していると言えるが、これは特に『Wind』のムービーなどとは対照的である。

 さて、〈風景〉のなかに〈顔〉が映し出されるカットが多いのは主に学園パートである。この部分は確かに〈風景〉の文法を守っているという意味では新海的な〈風景〉を採用しつつも、キャラクターの〈顔〉が大きく映り込んでいるためにキャラクターが〈風景〉化されているとは言い難い。〈顔〉も〈風景〉も内面の描写装置である。しかし、一つの画面に〈顔〉と〈風景〉とが同時に映り込んでいる場合、そもそも焦点がひとつに定まらない気持ち悪さがある(〈顔〉と〈風景〉のどちらを見れば良いのか)*8。ここでは〈顔〉の解像度を上げることが画面全体の画質を上げることに繋がっていない、と言ってもいいだろう。このパートはそのような不自然さを感じさせるシーンがいくつかある(といってもその違和はそれほど大きなものではないのも事実だが)。また、ここでは一つの〈風景〉のなかに複数のキャラクターの〈顔〉が映り込んでいるシーンが多いが、それは(「内面」の)統一感のなさをもたらしていると言える。新海誠の映像では一つの〈風景〉に一人のキャラクターしか映っていないシーンが多いことも特徴であるが、それは基本的に一つの〈風景〉と結びついているのがキャラクター一人の「内面」だからである(たとえば、『ほしのこえ』や『秒速5センチメートル』は物語としては恋愛モノであるにもかかわらず、キャラクターのツーショットは極めて少ない)。そしてそれによって逆に、同じ〈風景〉にキャラクターが複数いるシーンにはある種の価値が付与されている*9

 そんな学園=日常パートに対比される形で、次のパートでは魔法の箒で縦横無尽に空を飛び回るアリスといった非日常なシーンがやってくる*10。このアリス飛翔シーンでは、〈顔〉のクローズアップ・及びそこからの一気にカメラを引いたロングショットという組み合わせよって、〈顔〉が映し出されるときには〈風景〉が映らず、逆に〈風景〉を映すときにはアリスの姿を一気に引かせることで全体を〈風景〉として映しており、ひとつの画面のなかに同時に〈顔〉と〈風景〉が映し出されないような工夫がなされている*11。この飛翔シーンはノーカットの長回しなので*12、もちろん〈風景〉に〈顔〉が映り込むこともはあるのだが、カメラの動きが余りにも速いためにアリスの〈顔=表情〉の変化を追うよりも先に〈風景〉の変化が視線を捉えるのである。また、この飛翔シーンは、『ef - the first tale.』ムービーのサビ部分で優子の〈顔〉がクローズアップされた直後に遠景化しつつカメラが180度回転し、壮大な〈風景〉が映し出される仕掛けとおおむね同じ流れになっているといえる*13

 こうしてみると、『すぴぱら#01』ムービーはキャラクターの〈顔〉を回避することで生み出された〈風景〉を受け継ぎつつも、キャラクターを押し出すためにそこに〈顔〉を復活させている故に、*14映像的にだいぶ無理をさせてしまっているような強引さや映像的な"うるささ"が、学園パートにおける描きこみ(とそれにも関わらず残ってしまう違和感)・アリス飛翔シーンの(カメラグルグル等)コストかかってる感に表れてしまっていると言える*15。これまでのムービー製作の方法に付け加え、『すぴぱら』でアピールされている「人物の躍動感を、活き活きと感じられる」キャラクターを描こうとした結果、〈顔〉と〈風景〉が衝突事故を起こした、という感は拭えない。

 とまあ、これを書きながら何度もムービーを見返していたらもはや違和感なんてなくなって慣れてしまって、ただただ「わーすごいー」という状態になっているのでもはや何とも言えないのだけど…。


 本来書こうとしていたゲームの画面については機会があったら後日また。

*1:ここで『Wind』『ef - the first tale.』のムービーを例として出したのは個人的な趣味で、他意はなくてただ他のに比べて少しばかり好きというだけです。他の過去作ムービーと比べても同じような傾向がみられます。

*2:これらのムービーはminoiのホームページhttp://www.minori.ph/」にWMV形式の高画質ムービーが存在するか、入手方法が明示されている。

*3:関係ないけど、久々に『ほしのこえ』を観ていたら昇は地球で成長していくのに対して、美加子はずっと少女のままなのだということに今更気づいて自分のボンクラ感に死にたくなった。

*4:このことは、たとえば新海誠がどのようにしてあの〈風景〉を製作しているのかを考えてみても分かる。あの〈風景〉は実写の画像を加工して作り上げられたものだが、それはつまり〈風景〉に関しては総体的には高解像度を得られていることを意味する。一方、人間の〈顔〉についてそのような技法が使えるとは思えない。

*5絵画において一つの消失点を設定することが物語を表現するのを妨げたにもかかわらず、ここで物語を紡ぐことが可能になったのは、映像がまさしく"動"画としてつくられているからである。

*6新海誠の作品の主題は何よりも〈風景〉だと言っていい。あそこにある〈風景〉は限りなく"リアル"だが決して"リアル"ではなく、そのような〈風景〉とロマンティシズムが新海誠の作品において共存していることは決して偶然ではない。

*7:他にはたとえば飛行機・桜(の花びら)などのモチーフが頻出である。

*8:もしかすると、顔というよりも眼(の大きさ)の問題が大きいのかも知れない。

*9:たとえば『Wind』のムービーでは屋上シーン等はまさにそのようなシーンである。また、『はるのあしおと』のムービーも参照。このムービーは、基本的に同じ画面ではあるが同じ〈風景〉ではない、つまり画面二分割=〈風景〉二つに二人のキャラクターを映し出しているが、ラストの橋のシーンでは一つの〈風景〉にキャラクターが集まっている。

*10:空を飛ぶことは自由で開放的であるのだが(それはアリスの表情からもシーン全体の爽快さからも分かる)、この夜の飛行は昼間の学園生活との対比でもあり、そのためにこのパートは魔女アリスの孤独を示しているとも言える、かも。

*11:非常に近く、かつ非常に遠いというのはまさしく「風景の発見」である。

*12:最近の作品のムービーに近づくにつれてモンタージュが減って長回しのシーンが増えている、と言えるかも知れない。

*13:『はるのあしおと』ムービーでカーブミラーに映る悠が走っているシーンや、『ef - the latter tale.』ムービーの最後で遠景化されて〈風景〉と化していた火村と久瀬の〈顔〉が、直後にクローズアップされるシーンの辺りなども参照。

*14:ムービーではないが、ゲームの立ち絵演出について前作『eden*』では「カメラの前で人間が演技をして、それを撮影したもの」である「ドラマ」を意識しているとnbkzが述べていることも関係あるだろう。動画において〈顔〉を映すというのは基本的に実写の戦略である。

*15:映像的な"うるささ"に関してはED一枚絵の魅力などについて考えてみる必要もある。

2012-06-02

猫撫ディストーション

 ハードルを上げ過ぎただけなのかもしれないけれど、正直そこまでだなーというのが全体的なファーストインプレッション。全般的にSFガジェットの使われ方が中途半端で、単なる衒学に堕してる感が否めない。設定に食われてると言ってもいい。世界の(物理的)基礎づけとしては、バークリの「存在することは知覚されることである」という命題と、量子系における観測を組み合わせて、見/観なければ世界は存在しない(確定しない)という設定をするのだけど*1量子論多世界解釈というガジェットを使って多世界的な世界観(いわば可能世界実在論)を構築し、世界を「観測する=観る」ことと、誰か(だけ)を「見る」という比喩的な表現とを重ね合わせて、そこに観測者=主人公=プレイヤーの選択/自由意志の領野を確保しようとするというのはもう本当に食傷気味だし、そもそも論理的に破綻している。量子論的な非決定性から導かれるのはあくまでもアトランダム性でしかなく、もちろんアトランダムであること、根源的に確率的であることと「自由」との間にはかなり大きなギャップがあるし、そもそも全く異なる概念である*2。単純な話、例えば観測者がz方向のスピン+1/2の電子を見たいと思ったからといって、その電子のz方向のスピンは+1/2だと観測結果として出るわけではない。そもそも、別に人間の自由意志による選択が世界を変える、というだけの話ならわざわざ量子論を持ち出してこなくていい。それどころか、むしろ量子論を持ち出して云々しようとするのは害悪であるとさえ思う(陳腐でダサいというのはもちろんあるが)。更に言えば、孫引きで申し訳ないが『恋愛ゲーム総合論集』猫撫ディストーション特集の論考「"圧倒的な現実"と"人間"が作り出す楽園」によれば、元長柾木氏は「「選択」が「人間の条件」である」と考えているらしい。しかし、それでは人間の条件、つまり人間を人間たらしめているものであり人間に欠かせないものであり、人間という存在に意味を与えているもの、言ってみれば人間の本質なるものは結局量子論における非決定性によって基礎づけられてしまうということだろうか?本質とは(たとえそれがある種の倒錯だったとしても)それ自体で価値をもつのではないだろうか?結局、人間の本質は量子論の非決定性に還元可能だということだろうか?そういう意味で、量子論ガジェットに選択/自由意志の素晴らしさをおしだすという戦略は自壊的であるとさえ思う(少なくとも、それが「選択/自由意志」といったものを通じて人間の「崇高さ」を描こうとするならば)。

 というのはさておき。上述したような物理的世界の基礎づけはぶっちゃけどうでもいいので措いておくと、すば日々をやった直後にプレイしたからというのもあるかもしれないが、猫撫の「"世界"観」は結構ウィトゲンシュタイン的というか、世界は言葉であり、それに意味を与えるのは「私」である、というのが基本軸になっているように思われた。比較的冒頭の方で琴子が本を読みながら言う台詞がウィトゲンシュタイン『草稿1914-1916』からの引用であることからも、多少なりとも意識しているのではないかと推察される。

歴史が私にどんな関係があろう。

私の世界こそが、最初にして唯一の世界なのだ。

―『猫撫ディストーション』七枷琴子/ウィトゲンシュタイン『草稿1914-1916』1916年9月2日

基本的にはどんなルートにおいても、世界に意味を与えられるのは人間だけであり、逆に言えば人間は主体的に(自らの自由意志で選択して)意味を与えなければ世界は存在しない、というのが根底にある。琴子ルートの最後では、世界=言葉でしかないのだからある意味で全部意識の中の記憶でしかないのだ、ということが語れるが、このことは猫撫の世界観の一つの側面を示している(このあたりの話は確かに使い古されている感はあるものの、基本的にはよいと思う。ただ、やっぱりそこに量子論的な多世界解釈を結合すると一気にダメになるなあ、とは)。あとは、ギズモの「驚き」というのも言葉をもたない故世界を分節化できないためのものだと考えれば『論考』における「驚き」と同じものと言えるだろう。で、そのギズモルートで端的に示されていたように言葉を使えること=意識があること=人間であることであって、人間のみが世界を創り出すことができる=世界を選択することが出来る、言い換えれば人間のみが世界を世界として経験できるのであって、人間だけが世界に関わることが出来るのだということが強調される。あるいはここで「人間は世界形成的である。/動物は世界貧乏的である。/石は世界をもたない。」(ハイデガー)という三つのテーゼを思い起こしてもいいだろう。猫撫で言うならば、人間は樹であり、動物とはもちろんギズモのことであり、石は結衣ルートにおける赤い宝石のことだ、ということくらいは簡単に言える。が、しかし人間ってそんなに特別だっけ?と僕は思ってしまうのも事実。

 そういえば、OPなんかでも「家族は揺らがない」などとうたわれているけれども、結局猫撫では各々のルートでは家族は壊れてしまう場合が多い。壊れずに永遠に残り続けるのは、ある種の畏怖すら感じさせる式子ルートのみであり(しかも式子ルートにおいて一度はもはや家族が「群体」に変質した)、他のルートでは七枷家は何らかの形で揺らいでいる。柚ルートならば樹がまさしく七枷家と決別することで、結衣ルートならば結衣と二人だけの世界に閉じこもることで、ギズモルートならば新たな家族をつくる、という形で。むろん、最終的にはそういう可能世界を見てきて、これからは家族のことをしっかり見よう的なオチに落ち着いてしまうわけだが。

 一番最後、結局プレイヤーを利用してメタフィクション的なオチをつけるのがまた個人的にはあまり面白くないなと思わされてしまうところだった。最後の日記を読んで云々というシーンが無ければまだ後味がよかった気がする。

 ただ、最後の最後のEDがOP曲の"Bullshit!! Hard problem!!"なのはすごく良かった。しかし"Bullshit!! Hard problem!!"というならはっきりと"Hard problem"が"Bullshit"だと言って欲しかった、というかそういう話にするのかと期待してしまっていたいた面もあり。結局Hard Problem (of consciousness)というのを使って人間を神秘化しているだけなのではないかな、という気がしてしまった。ついでに、「意識」の存在を量子論から説明しようという試みは、最終的にそれを選択や自由意志といった概念に結びつけようとするならば、個人的には上述したような理由から筋が悪いと思っている。あれ、少しくらいは擁護しようと思ったのに結局あんまり出来ていない…。

結衣ルートと式子ルート

 まず結衣ルートから。記憶((=過去)という情報)を失うことによる「永遠の現在」。

『意味が蓄積されているモノ』を残してると言うので、その意味ってどういう意味?と聞いてみた。

いろいろ難しいことを言われたけど、まあ、ようするに……。

郵便ポストがあの『形』をしてるのは、利便性と実用性と文化性による必然的な要求の結果であって……。

たとえ日本がどんな世界の国であっても、郵便ポストは郵便ポストとして、あの『形』になってただろうと。

そういう強固な意味を持った『形』を永遠に残したい。……と、そんな風なことだったと思う。

―『猫撫ディストーション』結衣ルート

このあたりは自然誌的必然と同じような話で、つまり結衣ルート全体とつなげるならば、過去を失っても、様々な形式と同じように幸せという「意味」も形式と見なされるくらいの強固さで残っている、という具合(カッシーラーの「シンボル」みたいなものかな)。しかしそれは逆に言えば、その幸福を自然誌的必然性と同程度に必然的なものとしなければならないということであって、必然なものとしての幸福というのはこの結衣ルートと式子ルートに共通したものだと思われた。

 このルートでかなりよいなーと思ったのは呼び名。結衣は基本的に自分のことを「結衣」という三人称で呼ぶのだけど、途中のクリスマス・イヴの日の公園での場面と一番最後の場面の二カ所だけ、はじめて「私」という一人称で自分のことを呼んでいて、更にそこではじめて二人称の「あなた」が出てくる、というのはテクニカルなところだけど、かなりうまかったなと思う。世界を「私」の名の下に引き受ける、ということ。

 次に式子ルート。一言で言って頭おかしい。このルートは前述したようなウィトゲンシュタイン的世界観・幸福観が割と前面に押し出されている。例えば、以下の文言はかなり直截にウィトゲンシュタイン的な幸福観を述べていると思われる。

【樹】「幸せに向かう、必然的な手続き、とか。」

【樹】「母さんのことを観るって、そういうことだと思うから」

必然的であること。

手続きであること。

つまり、疑いをもたないということ。

―『猫撫ディストーション』式子ルート(太字強調引用者)

…幸福の世界は、幸福を感じる主体の世界。

主体の世界では、永遠も一瞬も同じ。

【琴子】「つまりは時間は無意味となり、ずっと続いていける、というわけですか……」

【琴子】「あとはそれをどう具象化するかですね、兄さん。この、現実世界で――」

―『猫撫ディストーション』式子ルート

まあ言ってみればウィトゲンシュタインの『論考』はまさしく幸福に至るための"必然的な手続き"(はしご)について述べたものだと解釈するのが全体としては最も筋が通っているように思われるのだけど、式子ルートの恐ろしいところは、そのウィトゲンシュタイン的な幸福(観)をSF的な設定によって現実に可能なものとしてしまったところ―まさしく「永遠の相の下に」世界を見る/観ることを可能にしてしまったところにある。ウィトゲンシュタイン的幸福観がどういうものかについては前の『素晴らしき日々』蛇足エントリ(素晴らしき日々 - farthesky)に書いたので再度ここに書くことはしないけど、簡単に言えばそれは人が人間ではなくて天使になり、その生を肯定することだと言える。つまり、まずは「無時間性の中に生きる」ということが必要になる。公園で樹の両手が吹っ飛び火に包まれるという"儀式"はある種の"サクリファイス"であり、それは人間が天使になるための儀式である。また、樹が繰り返す「観測する」「ただ観さえすればいい」というのは対象の総体として世界を捉えること(=「永遠の相の下に」世界を見ること)であり、例えば「悲しみ」がない世界をつくるという話(森END)では、「悲しみ」という対象をみないことによって(「悲しみ」を対象の総体たる世界から排除することで)主体の捉える世界を変化させているのだ。やばい。いや、本当に*3

必要なのは―――

悲しみを正面から受け止めること。

だけどそれは、そんな暑苦しい表現をしたからといって、現実を見つめることとは違う。

そんな安っぽいことじゃない。

小さなことじゃない。

悲しみを、悲しみ以外のものと関連づけたりせず、ただ悲しみとして受け止めること。

俺たちは、ただ感じるだけでいい。

ただ悲しむだけでいい。

それ以外の意味づけは必要ない。

(中略)

救われないのは……感じたことに意味を付け加え、深みとか重みとかをでっち上げること。

そんな乱暴が、幸せをふいにする。

―『猫撫ディストーション』式子ルート

ただし、最後の場面ではここで語られているように「悲しみ」を世界から消去するのではなく、死の意義づけゲームから脱出するというのが目指されている。しかし、それは生と死との間に存在してしまう「幻想を食って生きる」「ヒト」ではなくなることには変わりない。死をただ死としてのみ受け止めること、そこに何らかの意味づけをなさないという態度はまさしく倫理的と呼ぶにふさわしいが、そうせずにはいられないのが人間であるというのもまた事実だ。そういう意味で、やっぱり式子ルート、人間をやめて幸せになるというのは恐ろしい。

 これら結衣・式子ルートを総括するような台詞として、琴子ルートにおいて電卓が以下のように語っている場面がある。

変化を否定することで、永遠を得るか、逆に変化を肯定することで、永遠を得るか

そして琴子。お前はそのどちらでもない存在としてここにいる。

―『猫撫ディストーション』七枷電卓

ここにおける前者、つまり変化を否定することで永遠を得ているのは結衣ルートであり、後者、つまり変化を肯定することで永遠を得ているのが式子ルートだと思われる。注意すべきは、式子ルートにおいては変化があることだ。

私たちは変わらない……だから、変わらないものだけを観ればいいんだ

―『猫撫ディストーション』結衣ルート 七枷結衣

母さんがくれたもの。

それは永遠。

ちょっとずつ変化しながら、循環を繰り返しながら、ずっと続いていくもの。

―『猫撫ディストーション』式子ルート

結衣ルートにおける「石」とは対照的に、式子ルートにおける「森」では木々の生死・循環といった「変化」が紛れもなくあるのであり、変化を決して否定していない。そして、結局永遠に至っているのは結衣と式子ルートであり、ギズモ・柚ルートは有限性にとどまる話だと言える。有限性にとどまるというのはすなわち無限に選択し続ける、ということでもある。逆に、結衣や式子ルートで体現されているウィトゲンシュタイン的幸福(観)においては、その生の肯定の絶対性が重要なのであって、一度生=世界を肯定するという選択をした先にさらなる選択は存在しない。もし存在してしまったら、生の肯定の絶対性が揺らいでしまうだろう。

 あとは、式子さんが緑なのはも森=守だからで、結衣が赤なのは(赤い宝)石=意志だからだなー、とかいう言葉遊びとか。

こまごまとしたところ

 「虚空の海」に「ディラックの海」とふりがなをふって読ませるあたりのセンスはかなり好きだった。


 なんだかとりとめもない感想になってしまったけど、とりあえずおわり。

*1:今ふと思いついたけど、「存在者とされるということは、掛け値なしに言って、変項の値と見なされることである。」というクワイン存在論的見解を使ったSFとか新しいかも知れないので誰か考えましょう(他人任せ)。

*2:というか、このあたりは色々と分析形而上学心の哲学ガジェットを使っている割にかなり流されてしまっているところな気がする。まず、決定論と自由は論理的に矛盾するわけではない、とする哲学的立場は十分にあり得る。そのためには「自由意志」という概念の中身をもう少し詳しく分析しなければならないが。あとは、量子論決定論の関係で言えば、量子論のようなミクロなレベルでの非決定性がはたして我々が日常観測するようなマクロなレベルに転出することがあるだろうか、とか、何らかの原因に基づく結果ではないと言われるそうした事象(非決定論・あるいはかなり強い意味での自由意志とはそういうことである)が、それでは一体何であるのか、とか問題は山積している。

*3:このやばさは『いろとりどりのセカイ』の藍が思い出された。

2012-05-05

素晴らしき日々

 『素晴らしき日々』の雑感。終ノ空IIまで一通りやってから再びDown the Rabbit-Hole STORY:Aをプレイするとかなり印象が変わって、素晴らしいなーという印象に。twitterにだいたい書いてしまったので、そのまとめ的な記事。基本的に蛇足。

ウィトゲンシュタインとか

 "Tell them I've had a wonderful life."

―Ludwig Josef Johann Wittgenstein

 『素晴らしき日々』という題名の元ネタはおそらくウィトゲンシュタインが死ぬ間際に言ったとされるこの言葉だろう。そもそもすば日々がウィトゲンシュタインの思想から大きな影響を受けている事は周知の事実なので、まずは僕に分かる範囲でウィトゲンシュタインに関連するあたりの話を。

 まず、Down the Rabbit-Hole STORY:BやIt's my own Inventionにおける主題は「懐疑」とまとめられる。It's my own Inventionは外界への懐疑とそれによって逆説的に強化される「卓司」の確実性といった二面性はあるものの、その破滅的結末を考えると、その懐疑的側面(のマイナス面)が中心になっているとは言えるだろう。Looking-glass Insectsでは、冒頭のざくろと卓司(人格的には皆守)の会話に象徴的なように、「意志/勇気」という主題が導入されはじめる。すなわち、その冒頭で示されているのは、意志で自らを変化させることができない=己の確実性に至れない「皆守」の"鏡"としての「ざくろ」ということだが、この断章における分岐が結局のところざくろの「意志/勇気」の向かう方向性に依っていることからもこのことはわかる。つまり、それが現実の懐疑に向かえばアタマリバースENDになるし、希実香との共闘に向かえばざくろHAPPY ENDとなる。この章におけるそれぞれのENDは明確にこの作品の持つ二項対立―懐疑と肯定、不変と変化、終わりとその乗り越え…etc.―を示していると言える。だからこそ、この断章が全六章のうちの第三章―折り返し地点/分岐点―なのだろう。Jabberwockyでは、皆守は夢の中で由岐と精神鍛錬をするわけだが、この話は完全にウィトゲンシュタインの『確実性の問題』におけるムーア命題*1(ex.「私はここに手がひとつあることを知っている」等*2)の扱いと同じである。ムーア命題の奇妙な点の一つは、マルカムが『ムーアと日常言語』で主張したのとは全く反対に、日常このような命題を述べて知の主張をすることはない、ということである。ウィトゲンシュタインは、ムーアも懐疑論者も外界の存在証明はムーア命題に収斂すると考えているが、そこに両者の錯覚が存在すると考え、以下のように述べている。

 私はこう言いたい。ムーアは、彼が知っていると主張することを、実は知っているのではない。ただそれはムーアにとって、私にとってと同様、ゆるがぬ真理なのである。それを不動の真理とみなすことが、われわれの疑問と探求の方法を定めているのである。(151節)

 (これらの)命題は、われわれが営む言語ゲームの体系全体の基礎にあたるものである。この想定は行動の基盤であり、したがって当然思考の基盤でもある、と言える。(411節)

 言語ゲームの根底になっているのは或る種の視覚ではなく、われわれの営む行為こそそれなのである。(204節)

ウィトゲンシュタイン『確実性の問題』

ムーア命題で述べられているような「確実な」知は、われわれが/私がそれを"生きる"知なのである。いわゆる懐疑論が不可避な理由は、知識や真理は根拠や正当化をもつ限りにおいて知識や真理である、という考えに由来すると言えるだろう*3。しかし、それはウィトゲンシュタインの用いる区別でいうならば、「原因」を問う場面において「理由」を問うているような、カテゴリーミステイクによって生じているのだ。我々は「何故手があると知っているのか」という問いに対して、その「原因」(本能、習慣付け…etc.)を答えることはできても「理由」を答える事は出来ない。

「いかにして私は規則に従うことが出来るのか」もしこれが因果関係に関する問いでないなら、それは私が現にこのように規則に従っていることを正当とする根拠の問いである。正当化の根拠を尽くした時、私は固い岩盤に突き当たってしまい、私の鋤は跳ね返される。そのとき私はこう言いたくなる。「ただ私はこのようにやっているだけなのだ。」(217節)

ウィトゲンシュタイン哲学探究I』

我々が普段生きているとき、そのような自明なことはわざわざ口に出して言う必要は通常ない。だからこそムーア命題が奇妙な命題に思える。普通だったら「私はここに手がひとつあることを知っている」などと言わずに、「手がある」とだけ言うだろう。逆に言えば、ムーア命題を宣言することに何かしらの意味があるとすれば、その役割は世界内の対象についての事実の伝達ではないということだ。では、ムーア命題の宣言が問題になるような場面とはいったいどのような場面なのか。それは、「手がある」ことが、あたかもあひる-うさぎの反転図形のように捉えられるような場面である。あひる-うさぎの反転図形について、それが反転の可能性があることを踏まえた上で言及されるとき、「(私には)あひるみえる」「(私には)うさぎみえる」と言われ、決して「あひる見える」「うさぎ見える」という風には言われない。このような言明で行われているのは、「私は(この図形を)あひるうさぎとして取り扱う」というある種の態度の宣言なのだ。同様に「私はここに手がひとつあることを知っている」と言うことは、「世界の中に手が存在する」という事実を伝えるものではなく、言うなれば、「私の世界」を伝えるものなのだ。この無根拠で最大限確実な命題を「私」の名において引き受ける、ということ。ここにおいて、はじめて「心」あるいは「魂」が現れる。

 「心」が現れるとはいったいどういうことなのか。それは、まず第一には「心」に関する概念を持っているということになる。「心」に関する概念とは、たとえば「痛い」だとか「考える」だとか「思う」だとかいった概念だ。こういった「心」に関する言葉は、必ず「私」という一人称だけではなく、二人称三人称でも使われるが、その使い方は明らかに違う*4。端的に、あなたの痛みを私は感じられない。それは人称概念は非対称的だと理解することである。しかし、それだけではない。あなたの痛みを感じられないからといって、「あなたの痛み」という言葉が全く使えないかといえばそんなことは全然ない。むしろ、日常生活では全く問題なく使われている。それはすなわち、自分は「私」ではあるが、そこにいる「あなた」というのも「あなた」からみれば「私」なのだと理解することである。そのように非対称的ではあるが、それが結びついているという特徴をもつ人称概念を持ち、それが適用される、というのが「心」/「心」のある人間の根本的な特徴なのだと言える。我々は(「心」のある)人間を人間と認識してからその人に呼びかけるのではない。そうではなく、逆に、呼びかけることこそが、(「心」のある)人間を人間として認識することに他ならないのだ*5。だからこそ、その"言葉"の宣言は魂があることの宣言になるのであり、それはその"言葉"が「私」を生み出している、ということだ*6

 このような「魂」が存在するとは、何よりもまず「(生きる)意志」が存在するということに他ならない。Jabberwockyでの「強い意志」の話はまさしくこれに対応している。皆守は己が破壊の役割を持つ人格でしかなく、その役割さえ果たせば死ぬのだと思い込んでいたわけだが、そこに「生きる意志」は存在しなかったと言える。明晰夢の認識/鍛錬は、羽咲を守るということを目的として「生きる意志」をもち、ムーア命題を宣言できるようになるための訓練に他ならない。余談だが、ウィトゲンシュタインも「意味盲」について語る節において、夢の比喩を用いている。

もしも意味が心に浮かぶことを夢になぞらえるなら、われわれは通常は夢をみることなしに語る。〈意味盲〉の人はいかなるときも夢を見る事なしに語る人であると言えよう。(232節)

ウィトゲンシュタイン心理学哲学

夢を見ること、それがムーア命題の宣言であることはもはや言うまでもないだろう。そしてそれは「私=世界」を変化させるということでもある。例えば、屋上での卓司との戦いにおいて「私はナイフを持っているということを知っている」という命題は、一種のムーア命題だったのだ。故に、その宣言が出来なかった皆守は(一時的にとはいえ)死んでしまう=世界が終わってしまうのだ。

 この作品のテーマでもある「幸福に生きよ!」という命令文はこの「意志」の次元においてようやく関わってくる。それはまた、「意志」が出てこないルートにおいてはBAD END的な結末をむかえることになることからも分かるだろう。しかしそれは通常言われるような意味での「意志」ではない。

 この場合世界はそれ自身では善でも悪でもない。

(中略)

 善と悪は主体によってはじめて登場する。そして主体は世界には属さない、それは世界の限界である。

 表象の世界は善でも悪でもない、善悪があるのは意志する主体である、と(ショーペンハウエル風に)語ることが出来よう。

ウィトゲンシュタイン『草稿1914-1916』1916年8月2日

 世界は私の意志から独立である。

ウィトゲンシュタイン論理哲学論考』6.373

 人は自分の意志を働かすことはできないのに、他方この世界のあらゆる苦難をこうむらねばならない、と想定した場合、何が彼を幸福にするのだろうか。

 この世界の苦難を避けることができないというのに、そもそもいかにして人間は幸福であり得るのか。

 まさに認識に生きることによって。

 良心とは認識の生が保証する幸福のことである。

 認識の生とは、世界の苦難をものともせぬ幸福な生である。

 世界の楽しみを断念しうる生のみが、幸福である。

 この生にとっては、世界の楽しみはたかだか運命の恩寵にすぎない。

ウィトゲンシュタイン『草稿1914-1916』1916年8月13日

 世界の意義は世界の外になければならない。世界の中ではすべてはあるようにあり、すべては起こるように起こる。世界の中には価値は存在しない。

ウィトゲンシュタイン論理哲学論考』6.41

 意志は世界に対する態度決定か。

ウィトゲンシュタイン『草稿1914-1916』1916年11月14日

 善き意志、あるいは悪しき意志が世界を変化させるとき、変え得るのはただ世界の限界であり、言語によって表現され得るような事実ではない。

 つまり、この場合世界は全体として別の世界になるのでなければならない。世界はいわば全体として縮小もしくは増大せねばならない。

 幸福な人の世界は不幸な人の世界とは別の世界である。

ウィトゲンシュタイン論理哲学論考』6.43

通常「意志」という言葉が使われる際、それは世界の中の「事実」を変化させる一種の要因として捉えられている(現象としての意志)*7。しかし、上の引用(特に『論考』6.373)から明らかなように、ここで言われる「意志」とはそのようなものではない。ある種"運命"論的な世界観において考えられている「意志」とは徹底的に無力なものであり、消極的/受動的なものである*8。少なくともJabberwockyIIにおいては「意志」がこのように運命に対して無力なものとして捉えられていることは、屋上から落ちていく際の皆守の台詞からも分かるだろう。

自由落下……重力という運命により、俺たちは地面に吸い込まれる……。

空を飛ぶことが出来ない人間は、

空の上から地に落ちることしかできない。

でも、俺は認めない。

絶望なんてここには無い。

あるべきはすべき事だけ。

この瞬間にすべき事だけ、

今を生き。

そして明日を生きるためにすべき事だけ、

―『素晴らしき日々』皆守

そのように無力な「意志」はいかにして善悪/倫理の担い手となるのか。それは、この「意志」がいかにして世界を「認識」するのか、すなわち、いかにして私の生を受け止めるのか、ということによってである(cf.「世界と生とはひとつである」―『論考』5.621*9)。では、その「認識」とはどのようなものだろうか。

 まず、引用から明らかなように、世界内の事実による幸福や不幸といったものがここで考えられているのではない(その「楽しみ」は「運命の恩寵」にすぎない)。ここで問われているのは、まさしく「この世界の苦難を避けることができないというのに、そもそもいかにして人間は幸福でありうるか。」ということなのだ。それは『素晴らしき日々』という作品内において、執拗に悲惨な「事実」が描写されることが示している。そんな生を、それでも肯定するためには、あくまでも偶有的なものに留まる「事実」の総体としての世界ではなく、必然的なものとして(=「永遠の相の下に」)「対象」の総体として世界を見なければ/認識せねばならない。すなわち、「意志」は「対象」の総体として(=論理空間そのものとして)の世界の見方/生の受け止め方を実現する力だと言える*10。あるいは、『論考』6.43に則してこう言ってもよい。「意志」は認識によって私=世界の限界を超える力なのだ。世界の限界を超えることは、新たな「対象」を世界に取り込む=肯定するということであり、それは私=世界を変えることに他ならないのだ*11。このとき、世界の中の「事実」が何か変わったわけではない。あえて言うならば、「認識」が変化したのだ。そして、このような肯定のことをウィトゲンシュタインは「認識に生きること」と言っているのである。つまり、ウィトゲンシュタインにとって、認識とは(世界に対する)ある種の態度に他ならなかったのだ。例えば、皆守の世界には「生」は存在しなかった=皆守は世界を肯定的な態度で受け止めていられなかった。故に「意志」によって私=世界を拡張=変化させられなかった場合には死=世界の終わりがやってくることになる。

 そのように見られた世界に不可解なもの(『論考』の言葉で言えば「驚き」)などあるはずがない。「意志」によって私に唯一の必然的なものとして世界を見られたならば、あとはそれを「肯定」することにより、生を絶対的に肯定することが出来るのである(最後の「肯定」というステップについては次節で触れる)*12。ここに「幸福に生きよ!」という言葉/命令文のトートロジー性がある。それは仮言命法ではなく、定言命法だからこそ意味があるのだ。

そして……俺の世界が世界であり……それに外側なんてありはしない

(中略)

人生が不可解であると戸惑う必要はない

この世界も、この宇宙も、この空、この河、この道……そのすべての不可解さに戸惑う必要なんてない……

人が生きるという事は、それ自体をものみ込んでしまう広さだから……

―『素晴らしき日々』wonderful everyday 皆守

 そして、Jabberwockyにおける「意志」、wonderful everydayにおける「幸福に生きよ!」という命令文を通じて、終ノ空IIでは「(私の)魂」が前面に出てくることになる。まさしく「「世界は私の世界である」ということを通じて自我哲学に入り込む」(―『論考』5.641)のである。

 私の言語の限界が私の世界の限界を意味する。

 世界霊魂がただ一つ現実に存在する。これを私はとりわけ私の魂と称する。そして私が他人の魂と称するものも専らこの世界霊魂として把握するのである。

 右の見解は、唯我論(引用注:=独我論)がどの程度真理であるか、ということを決定するための鍵を与える。

ウィトゲンシュタイン『草稿1914-1916』1915年5月23日

 ざっと大枠を振り返ってみたが、かなり後期、最晩年に近いウィトゲンシュタインの思想が取り入れられつつも(cf.懐疑主義からの決別」byすかぢ)、それを足場にwonderful everydayや終ノ空IIでいったん示される着地点は前期の『草稿』『論考』から変わらない幸福観である、とは言えるだろう。そこでは、「意志」がある時は「現象としての意志」として使われ、またある時は「倫理の担い手としての意志」として使われていることによって、蝶番的役割を果たしている。

言葉と旋律

僕たちの頭はこの空よりも広い……

ほら、二つを並べてごらん……ぼくたちの頭は空をやすやすと容れてしまう……

そして……あなたまでもを……

ぼくたちの頭は海よりも深い……

ほら、二つの青と青を重ねてごらん……

ぼくたちの頭は海を吸い取ってしまう

スポンジが、バケツの水をすくうように……

ぼくたちの頭はちょうど神様と同じ重さ

ほら、二つを正確に測ってごらん……

ちがうとすれば、それは……

言葉と音のちがいほど……

―『素晴らしき日々

 自分が成し遂げてみたい最高のことは、旋律の作曲だろうとしばしば思う。というか、旋律を作ろうとしても自分にはひとつたりとも浮かんでこないことが私には驚きなのだ。しかしそれに加えて私はこう言わなければならない、私に旋律が浮かぶなどというのは多分決して起こりえない、なぜなら、まさにそれにとって本質的な何かが、あるいは本質的なるものが私には欠けているのだから、と。旋律を生み出すことがかくも高い理想として私に浮かんでくるのは、そのとき自分の生をいわば要約できるだろうからであり、結晶化できるだろうからである。そしてたとえそれが小さなみすぼらしい結晶にすぎなかったとしても、それはやはり結晶なのである。

ウィトゲンシュタインウィトゲンシュタイン哲学宗教日記』1930年4月28日

 この作品は「言葉と旋律」の物語だと言われている。その時言われている「旋律」とはなんだろうか。

 作中では、「私の言語の限界が私の世界の限界を意味する。」(―『論考』5.6)によって言葉と世界とをつなげ、更に「旋律」という言葉がディキンスンの詩と組み合わされることで、「言葉と旋律」が「世界と神」に重ねられていった。それでは、神とは何か。神は世界=生の意義である(『草稿』1916.6.11下記引用参照)。つまり、ここで『素晴らしき日々』という作品は、いわば生を肯定するための具体的な方法を「旋律」という形で示しているのである。それは『草稿』/『論考』のウィトゲンシュタインならば「芸術」や「宗教」であったものだろう*13。由岐の下記の台詞に出てくる「美しさ」とは芸術の問題に他ならず、「祈り」とは宗教の問題に他ならない。

言葉と美しさと祈り……

三つの力と共に……素晴らしい日々を手にした

人よ、幸福たれ!

幸福に溺れる事なく……この世界に絶望することなく……

ただ幸福に生きよ、みたいな

―『素晴らしき日々』水上由岐

 乱暴に言ってしまえば、「言葉と旋律」というのは「幸福な生」にいたるための方法を提示しているのだ。すなわち、「言葉」によって現実世界を自らの生として引き受け(cf.ムーア命題の宣言)その生が自分にとって唯一で必然的なものとして見られた後、その生を肯定する一つの手がかりとして「旋律」というものが提示されているのである。由岐の台詞に対応づけるならば、『素晴らしき日々』では、芸術=「美しさ」の具体的なものとして「旋律」が、宗教=「祈り」の具体的な行為として、その「旋律」を弾くことをが示されている、と言える。そのことは下記の引用からもわかるだろう。だからこそ、wonderful everydayの最後は皆守がピアノを弾くシーンで終わるのである。

鍵盤の音が俺の耳に響き……

そして他の誰かの耳に届く。

誰かが作った曲を俺が弾く。

そいつは俺に弾かれると思って作曲したわけじゃない。

でも俺はその曲を弾く。

だいたい好きな曲だから……

感動した曲だから……

その旋律は、誰かの耳に届く、

俺以外のの誰か、

皿を洗う羽咲に、

最近、玉のみならず、本当に竿まで取ろうとしているマスターに、

店に集まるオカマ野郎どもに……

音楽は響く。

店内に響く。

世界に響く。

世界の限界まで響く。

そこで誰かが聴いているだろうか?

聴いていないのだろうか?

それでも俺は……音楽を奏でる。

誰のためでもなく、

それを聴く、あなたのために……。

―『素晴らしき日々』wonderful everyday 皆守

そして、ここで示されている見方はおそらくすかぢが下記のtweetにおける考えを反映したものだろう*14

是非、この先を(つまり、『サクラノ詩』)をはやく見てみたい。

Down the Rabbit-Hole STORY:A

 このプロローグはすば日々という作品全体の総括、エピローグにもなっており、だからこその「無限回廊/無限に続く先」、というのが巧く描写されている。というより、この序章において、重要な主題は全て提示されており、終ノ空IIが終わった後にもう一度プレイすると、ここは各断章を大きく反復しているように感じられる。だからこその、エピローグ。

 例えば、7月∞日のC棟屋上における由岐とざくろの会話は明らかにムーアの「常識の擁護」「外界の証明」を意識した『確実性の問題』の話を検討していた(cf.Jabberwocky)。また、ざくろの「この空には言葉が溢れていません……この空には言葉が無い……」といった発言は、つまり"由岐"という存在が"言葉"によって定立されていない(=「私」が生み出されていない)、ということだろうし、だからこそ7月∞日に世界から人が消え、屋上で懐疑的議論がなされてしまうのだ、と言えるだろう。鏡/司ENDは、逆にある種の「確実な知識」(=鏡/司)を手に入れることができ、その宣言(=「魂」)によって生まれる「私」="由岐"が"由岐"として存在できたENDだと整理できる。

 この章での最後の由岐の台詞

 世界は器……

 器を満たすもの……それは

―『素晴らしき日々』Down the Rabbit-Hole STORY:A 水上由岐

この後にくる言葉はもちろん「(生きる)意志」だろう。つまり、ここで回答自体はほぼ出ているわけである。由岐も「私は私が得た真理を胸に……白い部屋から出る。」と独白しているように。例えば、『草稿』には次のようにある。

 神と生の目的とに関して私は何を知るか。

 私は知る、この世界があることを。

 私の眼が私の視野の中にあるように、私が世界の中にいることを。

 世界についての問題となるものを、我々が世界の意義と称することを。

 世界の意義は世界の中にはなく、世界の外にあることを。

 生が世界であることを。

 私の意志が世界にあまねく浸透していることを。

 私の意志が善か悪かであることを。

 従って善と悪は世界の意義と何らかの連関があることを。

 生の意義、即ち世界の意義を我々は神と称することができるのである。

ウィトゲンシュタイン『草稿1914-1916』1916年6月11日

 最後の「透明な白」の空間について。この「透明な白」の空間というのは、ここと終ノ空IIの冒頭に計二回出てきて、そこがつながっているのではないかと意識させる点で非常にうまい(つまり、最後、何時何処で由岐は眼を開いたのだろうか?)。あと、おそらく「透明な白」についてはウィトゲンシュタインの『色彩について』で透明な色や不透明な色の論理、ガラスの色・三次元の物質の色・光の色が問題になり、さらに何故"透明な白"や"灰色の光"が存在しないかが問題にされるあたりの文脈をふまえている気はした。

各断章雑感

 Down the Rabbit-Hole STORY:A以外の断章についてつらつら覚えている範囲で。

Down the Rabbit-Hole STORY:B

 鏡と司をもっとうまく使えたのではないかなー、という気はする。二人のノイズ感がもっとあればよかったと思う。

It's my own Invention

 希実香ENDでは、最後屋上から飛び降りたときに卓司と希実香は初めて抱きしめあうわけだけど、それは飛び降りによってようやく二人は救世主―信者という関係から男の子―女の子という関係になれた、ということで、個人的にはそのシーンが結構好きだったりする。この断章のTure ENDでは卓司と希実香はセックスしている一方で、この希実香ENDではセックスをしていない、というのがまさしく最後の「飛び降り」こそが関係性の移行を可能にしたという事実を強化してて大変良かった(といってもこの事実はtttさんに指摘されて初めて気づいたのだが)。そもそも希実香はこの作品においては明らかにサブキャラクターなのにも関わらず、この作品の中心的なテーマには触れている、という意味で特異なキャラクターで(ex.C棟屋上でのダンス・神と旋律・銀河鉄道のチケット…etc.)、そのノイズ感が僕は結構好きだった。

 あとは、科学哲学者イムレ・ラカトシュの「新奇な予言」という用語が割と自然な文脈で使われていて、個人的には「おーっ」と思ったり。「新奇な予言」というのは、ラカトシュの提唱したリサーチプログラム説において、前進的プログラムと退行的プログラムを区別するために用いられるもので、…って普通に科学哲学の話になるのでやめよう。欲を言えばラウダンのリサーチトラディション説も何かの形で出して欲しかったな!(無茶ぶり

Looking-glass Insects

 希実香かわいいよ希実香。というのはもうおいておくとして。

 アタマリバースENDでざくろは自殺をするわけだが、この作品のテーマである生を肯定するという観点から見たとき、もちろん自殺は生を否定するものとして、その対極に位置するものだと位置づけられる。Down the Rabbit-Hole STORY:Aにおいて、ざくろは自分のしたこと=自殺が罪だということ、そしてその贖罪をしようとしたことを由岐に告白しているけれど、それはまさしくこの認識があるからだ。

自殺が許される場合は、全てが許される。

何かが許されない場合には、自殺が許されない。

このことは倫理の本質に光を投じている。というのも、自殺は基本的な罪だからである。

ウィトゲンシュタイン『草稿1914-1916』1917年1月10日

ただ、ここで描かれるのは悲惨な「事実」に直面した結果としての自殺、というよりは意志/勇気をもてなかったが故に、「私=世界」を肯定する事=変えることが出来なかったが故の自殺が描かれている気がする。それによって素晴らしき日々ENDで描こうとする「生の肯定」の絶対性をより際だたせているのではないか。

 では一方のざくろHAPPY ENDはどうか。ここで描かれる「幸福」に関しては、一見したところでは、ある「事実」がたまたま成立したことによる「幸福」のように思える。そういう意味では、生を絶対的に肯定することが出来ているわけではない(それは一方の自殺ENDがあることからも明らかである)。だから、ここで描かれているのはある種のご都合主義END、世俗的幸福観に過ぎない。しかし、ざくろの世界は確かに変化していると言えるのではないか。ざくろは自らの認識を変え、「私=世界」を限界を拡張させたのではないだろうか。ではこの断章で描かれている「意志」は「現象としての意志」に過ぎないのか、それとも「倫理の担い手としての意志」なのか…。やはりこの断章が様々な意味で「蝶番」な気がしてならない。そのうち再読したい。

Jabberwocky

 この章は明らかに主人公(=視点人物=皆守)萌え。皆守はここまでの章では単なる嫌な奴だったので、この章でギャップ萌えが発生するというか。主人公萌えというのが正しく現代的だなー、とかは思った。

Which Dreamed It

 僕はやっぱり判子絵のkarory絵に弱いなあ、みたいなことを思った。羽咲、かわいい。しかし逆に言えばそれ以外何もない。

JabberwockyII

 過去編。皆守と由岐と羽咲かわいいなあ、という感想しか残っていないが、これはまずいのではないか。あと、向日葵の坂道ENDは素晴らしき日々ENDとは対照的に世俗的な幸福というものが体現されたルートだったといえる。すかぢも公式本で「ご都合主義END」だと語っていたように。

 というか、後半三つの断章については一番はじめの節でまとめたいことはまとめてしまった。こうしてみると過去編がますますいらない…。



 そしてもちろん、『素晴らしき日々』という梯子は、登り切った後には投げ捨てられなければならない。

 しかし、本当にそんなことは可能だろうか?*15

 生の問題の解決を人が認めるのは、この問題が消え去ることによってである。

 しかし、生が問題的であるのをやめるような具合に、即ち時間の中にではなく永遠の中に生きる、という具合に、人が生きることは可能であろうか。

ウィトゲンシュタイン『草稿1914-1916』1916年7月6日

―――――いつか、辿りつけるのだろうか?

素晴らしき日々

ー『素晴らしき日々』OPムービー

*1:G.E.ムーアは論文「常識の擁護」「外界の証明」において「自分が確実に知っているいくつかの命題が存在する」と主張した。その際に挙げられた命題をムーア命題と言ぶことにする。

*2:『確実性の問題』は「ここに一つの手があるということを君が知っているのであれば、それ以外のことについてはすべて君の主張を認めよう(1節)」という書き出しで始まっている。

*3:この見解は『論考』において既にみられる。『素晴らしき日々』における『論考』読解はこの部分に注意し、「懐疑主義からの決別」をはかったものだと言ってもいい。「問われえないものを疑おうとする以上、懐疑論は論駁不可能なのではなく、あからさまにナンセンスなのである。すなわち、問いが成り立つところでのみ、疑いも成り立つのであり、答えが成り立つところでのみ、問いが成り立つ。そして答えが成り立つのは、ただ、何ごとかが語られうるところでしかない。」(―『論考』6.51)

*4:これがたとえば「鉛筆」だったら使われ方は異ならないだろう。「私の鉛筆」と「あなたの鉛筆」といった時には、互いに同じようにそれをみているだろうから。

*5:「私の彼に対する態度は心に対する態度である。だが、彼が心を持つという考えではない。」(―ウィトゲンシュタイン哲学探究』)も参照。ここで述べられているように、この認識が「態度」であるということは重要である。

*6ウィトゲンシュタインではないが、ローティの次のような言葉を思い出してもいいだろう。「人間は誰しも、自らの行為、信念、生活を正当化するために使用する一連の言葉をたずさえている。(中略)こうした言葉を用いて、時に先を見越しつつ、時に振り返りつつ、人生の物語を語る。このような言葉を、その人の「最終的な語彙(final vocabulary)」と呼んでおくことにしよう。それが「最終的」であるのは、こうした言葉の価値が疑われたときに、この言葉を使う者は、循環論法に陥らざるをえない、という意味においてである。この言葉は、私たちが言語を手放さないかぎり、どこまでもついてくる。」(―R.ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』)

*7:実際、すば日々においてもそのような意味で「意志」が使われていることが多い

*8:それはまた、『草稿』『論考』において最終的に、主体が世界の中にも外にも存在せず、私=世界/世界の限界となっているためである。この"私"は世界を見ることしかできない。

*9:「現実世界が自分の生である」ということは「懐疑主義からの決別」によって示されていると言ってよい。「意志」が問題となるのはその次のステップである。

*10:だからこそ、倫理が意志の世界への態度決定だと考えるならば、「倫理は超越論的である。」(―『論考』6.421)と言われるのだろうが、ここでは深入りしない。

*11:ここでいう「対象」は(客観的に)定まるものではない、というのが重要である。

*12:逆にこれを否定することが自殺である。wonderful everydayにおいては、琴美が出てくるところで自殺と意志の話がなされている。

*13:「倫理学美学は一つである。」(―『論考』6.421)や「芸術作品は永遠の相の下に見られた対象である。そして善い生とは永遠の相の下に見られた世界である。………永遠の相で見られるものは、全論理空間と共に見られたものである(こんな思想がしきりと浮かんでくる)」(―『草稿』1916年10月7日)といった章句を参照。

*14:そしておそらく、これは永井均論文「他者」等で述べている捉え方に近い(実在論はともかくとして)。先に引用した『草稿』における「世界霊魂」についての記述も同論文を参照。

*15:いわば、無時間性の中に人間が生きる、とは天使になる、と言ってもよい。それは例えばefで示された幸福観とはまた異なったものだろう、という幸福云々という話はまた機会があったら。

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