工事 3

 工事はほぼ終了。

  01教室もライブラリとワーキングスペースの両仕様となった。処分しようと思っ   ていた書籍がダンボール八箱復活。箱に入れた本を再度取り出して並べ直す二度手間をしてしまった。作業に当たった人には申し訳なかった。根が気まぐれで朝令暮改はふつうのこと、意に介さず、前日とは正反対の指示をした。許せ。

 手際よく作業が済んだので、構想中のネット配信の動画作成を試してみた。

 笑うほど課題が見つかった。「あれじゃあダメよ」、とダメ出しをされた。「そんなことは分かっている」、と反射的に言いそうになったが、黙って聞いておいた。じゃぁ、」どうすればいいのか。問題の所在はどこにあるのか、例によってとりとめもない、破砕された思考の断片が頭の中を浮遊する。

 夜、娘から電話があった。

 動画配信について、貴重な啓示を授けてくれた。「なるほど、そうやれば、あれとそれとこれの3つの問題がいっぺんに解決するね」。当面の作業課題が明確になった。体に重大な障害を抱え、滑舌の悪さに悩む、老いた塾屋が元気を取り戻すカルテを示された。 

  老いては子に従え。

  つくづく思う。

工事 2

 順調に、予定通り工事は進む。

 思い切って断捨離の対象に選んだ蔵書は、段ボール箱13箱。4千円余りの査定とともに消えた。明日、残りの書籍がいくらになるのか知らないが、大した金額にはなるまい。四十年余りの歳月、ぼくの脳みそを刺激し、心を耕してきた本たちとのお別れはあっけないほど淡泊に、事務的に終わった。

 人にとって重要なのは、何を読んできたかではない。これから何を読むか、だ。人はこれから読むものによってどう生きていくか、変わるのだから。だから、読んだ本は手放せばいい。そこに未来はない。ただし、感傷が必要な人は本を大切にすればいい。それを止めるつもりはない。

 

 朝から工事をしていると、いろんな人がやってくる。

 感謝の言葉しかない。

 ありがとうね、みんな。

 

工事 1

塾の工事がはじまった。 

103号室と102号室を完全に分離し、01教室と05教室の間を仕切るガラスを撤去した。102号室から退去し、LECは103号室だけになる。外の電飾看板を取り外し、102号室から、机、椅子を撤去した。近日中に残った本棚と書籍類が消える。

カレンダーひとつにも、もろもろの干渉が渦巻く。いちいち取り合っていると気が萎える。それなりに気遣いを見せる妻のやさしさが無性に腹立たしい。傲慢で性根が歪んでいるから妻には苦労をかける。

いかにもドライに「あっ、それ、ゴミ。それもいらない」と、エンドレステープのように繰り返す。鉄壁の鎧を身に纏い、片づけを進める。隠しおおせない感情のゆらぎがそれでもこぼれだすのは仕方あるまい。64歳になっても心が枯れていない証だと嘯くか。

 

WEBで塾をやる、授業動画の配信をする、という枠組みはあるが、中身(コンテンツ)がない。病院を3か月前に退院するときは、「楽しみでしかたありません。もう成功することしか考えられません」と根拠もなく大口をたたいていた。羞恥心をリハビリ室のベッドの上に置いてきたらしい。右半身の筋肉の強張りをほぐすときに、人として失ってはならない冷静な判断力をすっかり失ってしまったにちがいない。

 

この滑舌の悪さはどうだ。言語のリハビリはそれなりに熱心に取り組んだ、にもかかわらず、聞くに堪えない。退院後、視聴したWEBの動画で、無節操に娑婆り散らすどなたと比較しても、お喋りそのものが、下手過ぎる。勢いがない。スピードにかける。聞くものを巻き込んでいく熱量がたりない。滑舌以前の段階で淘汰されるだろう。

 考えろ。

 目の不自由な子が耳を頼りに理解を勧めようとして、心地よく楽しく理解できる授業ができるのか。

 耳の不自由な子がパッと見て思考の流れに乗れる図表を提供できるのか。

 ゆっくり考えゆっくり考察することで、知識を紡ぐ子らに安心感を与えられる授業テンポをつくりだしているのか。

 考えろ。

 誰でもできるようなことは、誰かに任せておけばいい。

 僕にしかできないことを僕はしよう。

 それが何か、考えるために、僕はこうしてここにいるのだと思う。

 

退院しました。4 

  退院してから1か月が来ようとしている。

  思っていた以上に、日常生活というのは大変だ。玄関のインタフォンに出ることから、お風呂に入ることまで、一人でできないことばかり。エプロンなしの食事は考えられない。羽田空港で18分間に374人が脱出した、と聞いても、もし自分が混ざっていれば事態はもっと複雑だったろう、と考えてしまうし、能登半島地震で被災された方々のお話を聞くと、困難しか思いつかない自分の行動力に暗澹とする。自分を見捨てるように家族を説得するのが、想定される対処法の規範になる。

 甲斐甲斐しく身を粉にしてお世話してくれる妻を見るたび、ありがたさと申し訳なさで身がすくむ。とんでもない運命に巻き込んでしまった罪悪感をぬぐうことはできない。

 問題は、それでも人生は続き、人はこの社会の中でまっとうな暮らしをしなければならない、ということだ。たぶん僕にも何か新しく与えられた使命があり、社会的責任を果たすことが求められている。のんべんだらりと余生を過ごすことは許されていない。何もしない、何もなしえない一日が過ぎると、どす黒い感情の塊が心の底に溜まる。焦ったところでどうしようもないことぐらい分かっているから、小さくため息をついて、床に就く。

 必ず復活する。このやるせなさをすべてひっくり返して、明確な目標と合理的な方針で人生をリコンストラクトする。

 焦るな、急ぐな、ゆっくりと、着実にすすめ。大丈夫だ。道は一本、迷わず進め。

 

退院しました。 3

 退院して、とにかく歩く距離が激減した。無理もない。狭い家で、どんなに頑張っても一度に歩ける距離は5,6メートルが限界だ。往復しても10~12メートル。自宅にいると、どんどん退化していく。生活するうえで、煩わしい規則はほとんど無く、ほぼ自由だ。ゆえに、人は堕落する。

 「転倒しませんでしたか」週に2度外来リハビリでお会いする理学療法士に必ず聞かれる。入院中の前科を考えれば当然の質問だ。悪運強く、まだ転んでいない。しかし、歩く距離が短くなっただけで、転倒の危険性が低下しているわけではない。残念だが、歩いている本人が一番よく知っている。

 ならば、歩けばよいではないか。かつて、ロシア革命前、獄中に囚われていたトロツキーは、体力の衰えを防ぐために、狭い独房の中で、自ら定めた日課(歩行、腕立て伏せ、腹筋等々)を鉄の意志でやり抜いた。革命勃発から内戦期、共産主義者たちの軍事的指導者としてトロツキーは獅子奮迅の活躍をした。オデッサで生まれ育ち、ロシア人というより、ウクライナ人だったトロツキーは、社交的で明朗な人柄だった。陰湿で猜疑心の強いスターリンと馬が合うはずもない。

 話がそれた。右半身不随だろうと、トロツキーなら、何かをしでかしただろう。「左手一本、左足一本動けば何でもできる、ガハハハ」と、僕の娘は笑う。全盲で車椅子の教授、全盲で耳の不自由な教授、そういう方はいっぱいいらっしゃる、と、東大の先端研でお世話になった先生方の話を楽しそうにする。

 克己心のかたまりのような方々を仰ぎ見る。

 僕に何ができるのだろう。

 

 

 

退院しました。(2)

 塾講師から足を洗う、ことは、僕の予定表にはなかった。いやいまだにない。しかし。現役復帰するには乗り越えなければならないハードルがいくつもある。

 まず、滑舌の悪さは致命的だ。5か月の入院中に、ほぼ普通に話せるようになった、と思いあがっていたが、とんでもなかった。日によって、舌は動いたり動かなったり、気まぐれだ。藤井壮太竜王・名人の師匠杉本昌隆氏の著述を朗読していると、その日の状態がてきめん出てくる。ダメな日は呂律のおかしいこと、発声した音が、濁る、籠る、重なる。読んでいる本人があまりのひどさに本をとじる。稀に調子のよい日はまるで何も後遺症は残っていないかのように、すらすら読める。渡辺名人と藤井竜王の心理の綾が見事に解き明かされ、朗読しながら感動に心震わす。とにかく、舌の肌肉トレーニングを地道に継続するしかない。

 配信しようとするコンテンツも問題山積みだ。かつて行っていた授業をそのまま再現しても、臨場感のワクワクする授業を再現することはできないし、面白くって分かりやすい授業にはならない。右半身のマヒを抱えて、板書もままならない状態でコンテンツ以前だろう、と思う。まずは、伝えたいことを最低限伝える方法に腐心する毎日になるだろう。

 

 

退院しました。

 塾生の皆さん、保護者のみなさま、たいへんご迷惑をおかけいたしました。

 5か月余りの入院生活にピリオドを打ち、12月16日に退院いたしました。現在、4点杖で歩行。食事をはじめとする身の回りのことは、左手1本で行っています。字は左手でかろうじて判読可能な文字らしきものを書ける状態です。パソコンのキーボードは左手だけで入力中です。

 会話は入院当初から考えればかなり改善されましたが、まだ呂律の怪しいしゃべりかたで、日々のリハビリが欠かせません。10分前後ならほぼほぼ普通に話せても、20分を越えると、声の張りが消え、発語が曖昧になり、言葉の明晰さが失われます。

 7月は、私の記憶にほとんど残っていません。担当だった先生方からは「よくねていましたよ」のお言葉をもらいました。8月中旬、やっと周りの状況が認識されはじめ、

復職するために途方もない努力が必要らしい、と実感し始めました。気ばかり焦って、「一人で立つな」「ひとりでうごくな」という禁止事項を勝手に破っては、都合3回転倒しました。幸い。毎回、尻もちで済み、骨折や捻挫を免れることができたのは不幸中の幸いでした。ただし、病院側からは、きつーいおしかりをいただきました。

 9月になると、できそうなこと、できること、できそうにないことがだんだんと明瞭になってきました。幾許かの絶望と底抜けに楽天的な見通しがないまぜになった状態で、復職の困難さが否応なく明らかになりました。従来型の一斉授業は無理。個別指導も無理。残された道はウエブ上で、編集した問題解説の配信。あまたの先行業者を掻き分けて生き残っていく道を探る、そうした戦略にたどりついたのは11月も下旬。紆余曲折、様々な挫折と断念の末に、決断を下しました

 自分にできることできないことが明確になるのに長い時間がかかり、塾生の皆さんや保護者の皆さんに、はっきりした方針をお伝えするのが遅くなってしまいましたこと、深くお詫びいたします。退院をお待ちくださっていたみなさん、本当にすみません。懸命のリハビリにも関わらず、今までのような授業や指導をする力は戻りませんでした。病院の先生方は、皆さんよくして下さいましたが、損なわれた体の機能はどうしようもありません。むしろ、今使える手足を活用して新しい塾のあり方を探ろうと思います。

 あたらしい希望を全力でカタチにします。皆さんにご紹介できる時が一日も早く訪れるように頑張ります。