ブログトップ 記事一覧 ログイン 無料ブログ開設

【蝸牛の翅(かたつむりのつばさ)】 このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2011-06-24 『まどか☆マギカ』を教養小説的な視点から見ると。 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

魔法少女まどか☆マギカ』という作品を教養小説的な視点(にあえて絞って)から見てみると。


鹿目まどか暁美ほむらの「成長」は描かれていない」

という結論になる(より正確に言えば「うまく描かれているとは言い難い」)のではと思えます。


なお、大前提として。

この感想日記ではこの後「多様な読み解きを成し得る(そしてそれこそが魅力を支えていると思われる)『魔法少女まどか☆マギカ』というアニメ作品」について「あえてほぼストーリー部分に関心を限定した上で」更に「ビルドゥングスロマン(教養小説)の視点からの分析に絞って」話を進めて行きます。


ここで「では、他の見方としては?」という話は一旦措くとして。

この日記ではまず魔法少女暁美ほむらの特異性」という切り口から話を始め、物語全体を通してみたときの表・裏の主人公(どちらが表かは措いて)「鹿目まどかと暁美ほむらの「成長」は作中に於いて描かれていない」という話をしていきたいと思います。


魔法少女暁美ほむらの特異性。

それが実に明確に現れるのは、さやかとマミさんに攻撃力欠如を指摘された時の対応です。

暁美ほむらは躊躇もろくな時間経過もなく「「化学」で爆薬を作り攻撃力の無さを補おう」という発想に至ったのでした。


勿論、他の魔法少女だって工夫はします/しています。

しかし方向性が根本的に違うのですね。端的に言えば「魔法」の有無です。

本日記では、そこを最初の切り口として「暁美ほむらというキャラクター、その特異性について」考えていってみたいと思います。


まず、比較対象として他の魔法少女達の工夫について。

例えば(以下「メガミマガジン」7月号別冊付録の虚淵インタビューより)巴マミさんの魔法の本質は「モノを結び合わせる/縛り合わせる」なのだそうです。それを応用させて独特な戦闘スタイルを築いたらしい。

もう一人、佐倉杏子は実は「人に話を聞いてほしい」という願いから「幻惑とか幻覚とか、そっち方面の魔法を持っていた」が「家族を失ったことで、その力を潜在意識で完全否定してしまい、彼女は本来の魔力を失っているんです。だから、後付けでまなんば魔法の力だけで戦っている」とのこと。

暁美ほむらとの比較としては、特に後者が面白いところ。

元々の力を否定しても「魔法」は否定せず、その枠内での工夫になっている。

そして考えて見ればそれは「当たり前のこと」かと。


魔法少女契約の対価はあまりにも大きい。

得た力にその行使のみならず発想レベルで依存するのは当然のことでしょう。

「魔法の力を除けば自分たちの力は普通の少女たちと変わらない。魔法あっての自分だろう」というのが通常の発想。

人は過去に。とりわけ願いと、それ以上に何より「過去に支払った払った対価」に束縛されるものです。


にも関わらず、その力不足を指摘されたとき。

「魔法」以外の「一少女でしか無い自分」の知識を活かした対策を直ちに検討し、実行してしまう暁美ほむらの精神は尋常ではありません。

その異様さに比べれば、その「お前は昔の全共闘の活動家だか、その後の過激派だかの精神的子孫か?」とでもいいたくもなった手法が速やかにエスカレートしてヤクザ事務所からの武器窃盗になり、最終的には「ご覧の有様だよ!」な「ワンウーマン軍事演習」化してしまった過激さすら、色褪せて見えてしまいます。


例えば、仮に同じ能力を持った別の魔法少女が同じ問題に直面したと仮定した場合。

「自分の魔法を「攻撃には向かないもの」と自己規定した上でチームプレイを検討する」のがごくオーソドックスな発想ではないでしょうか。

あるいはマミさんのように「「魔法の応用」でカバーしようとする」ことでしょう。

暁美ほむらの発想は「魔法少女として」極めて異例なものと思えます。


さて、ここまで説明してきたほむらの特異性について。

僕はその理由を「ほむらがとことんまどか以外の背景を剥奪された存在、あえて言ってしまえば大変空虚な存在であることに求めるべき」と思えます。

あるいは「その特異性がほむらの空虚さを鮮明に語っている」。

「鶏が先か卵が先か」な話ではありますね。


暁美ほむらは鹿目まどかとの関係性以外の背景がまるで描かれていないキャラクターです。

家族も友人関係も過去も経済状況も、休学していた病気の内容すらろくに描かれません。

この徹底ぶりは凄まじい。


「暁美ほむらの固い決意を示す」という面のみが注目されがちな魔法で視力他病弱な自分の根本的身体改造をしてしまうという発想についても。

この文脈で見た時には(特に人間としての身体性を喪った事に対する美樹さやかの嘆きと対比させた時)別の側面が見えて来ます。

即ち「「過去の(人間としての)自分」への異様なまでの拘りの無さ」を見い出すことが出来ます。

常識的には「願いに全てを賭けて魔法少女化以降の全てを喪った」魔法少女にとって、たとえ欠点でも(あるいは欠点であればより一層)人間時代の自分の特性をそうそう簡単に変えてしまいたいと思えるものではないと思えるからです。


そうした暁美ほむらの「背景の欠如」は先日のイベント「まどかマギカナイトhttp://togetter.com/li/151398 で出演者の泉信行さんが"ほむらはエロゲーの主人公みたいなもの。それ故に(効用的に)視聴者の移入を招きやすかったのかとも考えられる"と「なぜほむらに視聴者の人気が集まったのか?」という話の流れに応じる形で「視聴者に対する効用面」を中心に指摘されてもいたところ。


ここで。

鹿目まどか絡み以外に過去や背景を剥奪された暁美ほむらには「まどか以外に大切にすべき「現在」も「未来」も無い」という発想とあまりにも都合よく親和性が有り過ぎるとも思えもします。

暁美ほむらは自分の過去・現在・未来全てについて、鹿目まどか絡み以外の価値をおよそ認めているように見えない。

そして自分についておよそ価値を認めていない存在が、他人のそれについてどれだけ価値を認め、感じ、それを目的のために蹂躙することの意味を理解し受け止め感じるか------理解し得受け止め得感じ得るか------と考えたとき、そこには随分と荒涼とした精神を感じざるを得ません。


なお、ここで重要な前提として。

「キャラクターの背景が作中において「描かれていない」」ということと「キャラクターに背景が「存在しない」」ということは決して同義ではありません。

例えば、十全に背景を構想しキャラクターにそれに即した言動を取らせつつ、あえて作中において「背景を説明する描写は入れない」という手法はむしろそれほど珍しいものでもありませんから。


しかしながら。

具体的に『魔法少女まどか☆マギカ』という作品における暁美ほむらというキャラクターの言動を追った時。

先述した部分では特に顕著に。また、それ以外(とりわけ10話で一気に語られた描写というか、もう「10話そのもの」)を観ていっても、僕には暁美ほむらに感じられるのは極度の空虚さであると思えてしまいます。


当然、ループの過程は「まどかを「最後に残った道しるべ」としてそれ以外の全てを喪失していく過程」なのですが「随分あっさり喪失していくよな」とは思えてしまうところです。

ここで話を最初に戻し「魔法への拘りは契約で未来のすべてを失う前の過去の自分への拘り」でもあるところ、ほむらが躊躇もろくな時間経過もなく「「化学」で爆薬を作り攻撃力の無さを補おう」という発想でそれを一蹴してしまったように。

例えば「美樹さん、ごめんなさい」とは言いつつも、なんだかんだで「随分あっさりと始末を付けている」ようには見えてしまいます。


とりわけその危うさは記念すべきループ一周目の終幕直前の

「ねえ…私たち、このままふたりで怪物になって、こんな世界、何もかもメチャクチャにしちゃおうか…嫌なことも、悲しいことも、全部無かったことにしちゃえるぐらい、壊して、壊して、壊しまくってさ…。 それはそれで、良いと思わない?」

に特に強く現れてしまっているように思えます。

なお、その最悪の呪いは魔法少女鹿目まどかさんによって、我が身を犠牲に見事に打ち消されてくれたのですけれども。

そこで暁美ほむらの「世界へ向けた呪い」を打ち消した際の鹿目まどかがほむらに託した願いは、ほむらが魔法少女になった際の願いに更に二重になって載せられた「願いであり呪い」となっていったと思えます。

結果「ひたすらにまどか、まどか」であって自分にも他者にもろくに他の価値を理解せず受け止めず感じない------理解し得ず受け止め得ず感じ得ない------暁美ほむらさんの危うい傾向は決定的に加速してしまう。


あえていってしまうなら。

この時点を以て「魔法少女暁美ほむら」は「救済の魔女クリームヒルトグレートフェンの片割れ」として一対の存在となったのだとも思えます。

特に『魔法少女おりこ☆マギカ』で新キャラクター織莉子が提示した「「今」を守護する」「私の世界を守る」という視点からは「魔法少女暁美ほむらは(魔女化を待たずとも)既にして最悪の魔女の半身」だと受け止められて当然と思えます。


そして「魔女」となってしまった者には届く言葉も思いもない。

そして「魔女」となってしまった者には成長も成熟もない。

以降にある/あったのは「手段や手法の過激化」に過ぎないであって。

それは「成長」や「成熟」(特に後者に)求められる認識や行動の「深まりや広がり」とはむしろ逆の「(歪んだ)先鋭化」だと思えてしまいます。


『CUT』掲載の虚淵インタビューでしたか。

僅か一月という限られた状況の限られた時間を繰り返すループは概ね「足踏み」であると。歩みをろくに進められず同じところばかりをぐるぐると巡りに巡る「停滞」だと。

そう語っていた記憶もあります(立ち読みで済ませて現物を持ち合わせていないため、いい加減な記述になってしまっているのをお詫びします……)。

「足踏み」や「停滞」から自力で抜け出すならばそれは見事な「成長」でしょう。

逆に言うならば、それにひたすら追い詰められるのなら、それはおよそ「成長」とは言い得えないと考えます。

虚淵玄「この作品の人間としての主人公はほむらになると思うんです。まどかの足取りは、成長とはまた違いますからね」

オトナアニメVol.20

この言からも窺えるように。

また脚本家の言葉に頼らず作品自体をつぶさに観ていっても。

※参考:「『魔法少女まどか☆マギカ』における「成長物語」の描かれ方(「ちらしの裏的な何か)」

http://d.hatena.ne.jp/cirno6gwa/20110616/p1

まず、鹿目まどかの「成長」というのは大変にあやしい。

あえていってしまえば「成長」ではなくアレは「帰着」だろうと思えます。


しかし、ここまで論じてきたとおりに。

作品全体におけるもう一人の主人公である暁美ほむらも「人間としての主人公」なのだと脚本家によって語られながらも「人間としての成長」は(仮に描かれていたとしても)ループ一周目あたりで早くも概ね止まってしまっているように見えてしまうわけです。


なお、美樹さやか、佐倉杏子、巴マミの「成長」については論じていないため、以上の話から「『魔法少女まどか☆マギカ』では五人の魔法少女たち全員においておよそ「成長」が描かれていない」とは言えないわけですが。


そこらへんは以下それぞれ……


美樹さやかについてはこのあたりを。

○」魔法少女まどか☆マギカ』において、美樹さやかが担った役割は重い」(2011/4/22)

http://d.hatena.ne.jp/skipturnreset/20110422

佐倉杏子についてはこちらあたりを。

○「杏子とおりこ☆マギカ新キャラの関係は杏子&さやかの悪意ある反復?」(2011/5/12)

http://d.hatena.ne.jp/skipturnreset/20110512


※なお、二巻(完結)まで読んで漫画の印象はガラリと変りました。

○「ムラ黒江『魔法少女おりこ☆マギカ』全二巻を「漫画の形をとった激しくも鋭い『魔法少女まどか☆マギカ』批評」として読む」(2011/5/12)

http://d.hatena.ne.jp/skipturnreset/20110613

巴マミさんについては僕以外の他の方のまとめなのですが

○「巴マミ考察: 彼女はいかにして『魔法少女』になったか」

http://togetter.com/li/128846

こちらのまとめあたりを参照して頂ければと。


で。ここまで延々やって来てなんなのですが。

これは「主要登場人物たちの成長が描けていない=作品としてダメ」という話ではありません。


ここまでの読みで僕が言える/言いたいことは冒頭にも明示した通り。

「『魔法少女まどか☆マギカ』のストーリーを「ビルドゥングスロマン(教養小説/成長物語)」として「だけ」捉えようとしてしまうと……あまりろくなことにはならなないようですね」に限られると思っています。


「ビルドゥングスロマン」として読まない(あるいは読んでもいいのかもしれないけれどそれは悪手と思える)というのならば、ストーリーとして例えば他にどのように捉えればより楽しめるのか。

ここで、例えばノワールとして捉えようとする視点からは、また違った面白さがあるらしいですね」という話があるらしく。

虚淵玄のその面での志向は『Phantom -PHANTOM OF INFERNO-』や『鬼哭街』といった作品やとりわけそれら絡みのインタビューなどでも明確に伺われるものとも聞きます。


ただ、残念ながら僕は基本的に「ビルドゥングスロマン」にかなり偏向した趣味嗜好、視線の持ち主である一方(これ、あまり宜しくない話ですね……)、ノワール方面は他ジャンルに比してすら門外漢そのものです。

「どうやらその視点でストーリーを読んでいくと諸々面白そうだ」とは思えても、その先を自分の力で論じていくには明らかに役者不足のようです。


そういうわけで。

僕がこの日記で「ビルドゥングスロマンとして観る(観てはいけない)『魔法少女まどか☆マギカ』」をやってみたように。

「ノワールとして観る『魔法少女まどか☆マギカ』」をどなかたやって頂けないものかな、と。

あるいは「それをやっているみたいだよ」という論考を教えて頂ければな、と。


心より、そう願う次第です。

宜しくお願いします。


なお、極めて大雑把に検索してみたところ、下記のような感想を見つけたりもしています。

そこら辺についてのご意見なども伺えますと、幸いです。


「はっきり言って俺はまどマギは失敗だと思っているよ?(K氏の「逃げてない」日記(普通版))」

http://d.hatena.ne.jp/meta_funny/20110424/1303620942

ああ……何やら早くもはてなブックマークのコメントで端的かつ説得力あるご意見を伺えてしまったようにも思えますね。

http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/meta_funny/20110424/1303620942

「これだけ多様な切り口から読んで楽しめる作品」に対し「一視点のみを強調しての評価というか断罪はつまらない」といった趣旨の、非常に納得の行きそうなコメントと思えます……。

いつもながら、ありがとうございます(僕がここで感謝を表明するのも多少経路として微妙な気もしてしまいつつ)。


ただし。

「まどかマギカハードボイルド任侠もの説。魔法少女は仁義背負った鉄砲玉!」

http://togetter.com/li/115389

これについてだけは「だいたい合ってる」どころじゃないところが、なんというかいろいろアレなんだよなあ……。