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2014-05-16 [米澤穂信関連]『満願』収録全六篇の初出との比較で見えるもの。

[]『満願』収録全六篇の初出との比較で見えるもの。 『満願』収録全六篇の初出との比較で見えるもの。を含むブックマーク 『満願』収録全六篇の初出との比較で見えるもの。のブックマークコメント

満願

満願

米澤穂信短編集『満願』収録六篇につきまして、各収録作の初出の形と比較し、その意味を考えることを中心にレビューしていきます。


過去の米澤作品ではたとえば『リカーシブル』が雑誌掲載とのちに単行本に載った作品がまるで別物だというのが有名かと思います。

リカーシブル

リカーシブル

『満願』収録作品にそこまでのものはありませんが、程度の差こそあれ全ての短篇に改変が行われ、ミステリとして&小説として完成度を高めたり、いわゆる読後感や作品のテーマ、広がりが大きく変化しているケースも見られます。

特に収録作随一の傑作「柘榴」の変容は鮮やかであり、何よりまずそれを語りたいがためのレビューといっても過言ではありません。


この度めでたく『満願』は第27回山本周五郎賞に輝いたわけですが。

賞の規定 http://www.shinchosha.co.jp/prizes/yamamotosho/regulation.html とされる

「すぐれて物語性を有する新しい文芸作品

として高い評価を受けた背景には、本論で採り上げる多くの改稿も大きく寄与するところがあったのではと思えます。



なお、本レビューにおいては2014年4月27日に荻窪ベルベットサンで開催された

スーパーフラット読書会 杉江松恋の、読んでから来い!/課題作『満願』米澤穂信」

http://www.velvetsun.jp/next.html#4_27

に参加させて頂いた際に各短篇について他の方から伺ったことについても適宜、できるだけ発言者を明示しつつ取り込んでいきたいと思います。

※参考

○読書会で配布して頂いた自分のレジュメ(参加者一人ひとりがA41枚のレジュメを持ち寄る会でした)

http://fast-uploader.com/file/6980901341880/

○読書会発表の読み上げ用に準備した原稿(文字が小さすぎてとても読むにたえないレジュメともちろん自覚していたため、レジュメを読まずとも伝わる発表ができるよう用意しました)。

http://fast-uploader.com/file/6980901437107/


以下、各篇について見ていきます。



「夜警(初出題名「続きの音」)」

小説新潮 2012年 05月号 [雑誌]

小説新潮 2012年 05月号 [雑誌]


これは「警官に向かない三人の男たち」の物語です。

改めて確認すると、三人とは語り手の柳岡、彼が結果的にいびり殺してしまった三木、そして小心者の川藤となります。


ここで一言でいうならば、雑誌版ではなにより「警官に向かないのは犯人の川藤であった」という印象が強調されて感じられるのです。

それが単行本版では、語り手の柳岡の(俺が本当に優秀ならあの二人も死なせずにすんだ、俺も警官に向かない男だったのだ……)そんな思いがより前面に出る作品に変化しています。

以下、具体的に見ていきます。


たとえば冒頭、葬儀の場面。初出では以下の一文がありませんでした。

浅黒く日焼けした男が物問いたげにこちらを見ていることには気づいていた。

(『満願』p7。以下、特に指定のない場合は単行本『満願』のページ数を指します)

後の登場に向け、またこの「物問いたげ」な顔と視線が最後に柳岡を追い詰めることを鑑みれば、どうしてもここにおかれて欲しい追加でもありました。


※本論で後に触れていく諸々の変更についてもいえることですが。

初出の形にあたって同様に確認して頂ければ勿論なによりなのですが、それを求めるのは無茶かとも思えます。

ただ、できるならば単行本の記述を確認してみて「もし、この追加/変更がなかったら」と想像してみていただけると大変嬉しく思います。



梶井が川藤への懸念を語る直前に八行追加された以下の一連の説明(p11)も光ります。

「装備課、ぴりぴりしていたな」

 世間話に、そう話しかける。梶井は苦笑いした。

「無理もないですが」

 拳銃と銃弾を戻しに行った時、扱いは慎重にとひとくさり演説をぶたれた。いまさらな話だが、理由があった。最近都心の方で、駅のトイレに警官が銃を置き忘れる事件が起きていたのだ。何年かに一度はこうしたことがあるが、そのたびに耳にタコができるほど管理徹底を聞かされる。

「かなわねえな。とばっちりだ」

(p11)

ところで、はじめに触れた読書会の中で、「"工事現場で交通整理をしていた誘導員が倒れ、ヘルメットに派手な傷がついていた"という描写(p31-32)のあたりで、年季の入ったミステリ読みなら真相には気づいてしまえる」(ホッタタカシさん)といった意見が出ました。

その妥当性に対する疑問はおくとして、もしそうであるとしたら、その気づきにおいてはp11で追加された、拳銃と銃弾の取り扱いに対する強い印象付けの効果も大きいのでは、と思えるところでもあります。

作者が出題し、読者が答えようと試みる推理ゲームとしての観点からすると、初出よりもより適切な難易度設定がなされたことになるのでは、と個人的に感じられます。


他には川藤について兄が語る中、

「銃を撃ちたくて海外旅行に行き、戻って来れば早撃ちの自慢ばかりするようなやつです」

(p36)

は是非ともここにあるべき一文。

むしろ、雑誌掲載時の題名「続きの音」なら、よりあって欲しかったエピソードといえるかもしれません。



そして「夜警」において最も巧みな改稿箇所と思えるのが、以下の二か所です。


スナックでの客の口論で川藤が腰(の拳銃)に手をやっていたことについて、

「俺は川藤を見ていなかった」

(「続きの音」)

「難しい喧嘩ではなかったが、川藤までには気を配っていられなかった」

(p12)

事件の時。川藤は威嚇発砲をしたか、とその兄に問われて、

「見てはいない。だが、」

(「続きの音」)

「見てはいない。その余裕はなかったのでは、とも思う。だが、」

(p49)


「夜警」という作品においては、川藤と出たパトロールで交通切符を切るくだりが描写としても作品構造としても素晴らしく巧いと思うのですが、以上二箇所は(かつて指導した三木のエピソードと共に)そこと相呼応する描写となったと思えます。


横柄だった川藤の切符切りのようにいずれの時も彼は「間違ったことをしているわけでは」(p16)ありません。

しかし、柳岡は彼が真に「警官に向いた」男であれば、気を配るべき、見ているべきだったと思ってしまうのでしょう。

それが(雑誌版の時点からあった)冒頭と、そしてラストにも追加された「(自分は/自分もまた)警官には向いていない男」であったという嘆息に繋がるのだと思います。

作品の締めにおける以下の詠嘆は(柳岡による仮説の検証、証拠集めと共に)初出になかった、単行本での追加です。

 国道60号線を無数の車が走っていく。それぞれに人生を乗せて。そいつらの中にはきっと、生まれつき警官に向いた男だっているのだろう。

 だがこの交番にいたのは、警官に向かない男たちだった」

(p55)



以下、すこし初出との比較と離れた作品感想も。


【茶封筒と、露出した土】

なんとなく、冒頭に机に置かれる葬儀の写真が入った茶封筒(かすれたカサコソとした音を立てるだろう)と、川藤のあの弾丸が踏まれめりこんだ露出した土の茶色とが重なり作品の印象をかたちづくっている感があります。



チェスタトン古典

ブラウン神父の童心 (創元推理文庫)

ブラウン神父の童心 (創元推理文庫)

一読、チェスタトンのあまりにも有名すぎる短篇を思い浮かべる人は少なくないようです(読書会で提出された十枚のレジュメ中、私を含む三人が挙げました)。

特にお一方(ホッタタカシさん)は「その逆説ロジックを基本に物語を起こすのではなくて、まず殉職警官の葬儀の場面から始まり、「俺」の回想から入っていく」とレジュメでも分析されていて、面白く、また、頷ける指摘でもあると思います。


自分としても、改めて原典に当たると(先掲の指摘も含め)その壮大とこの卑小の対照はとても綺麗で、はっきりと意図的なものと思えます。


たとえば私は下のように、二つの作品の抜粋を並べて見たくなるわけです。

今日一日だけで幾人がこの道を通るだろう。彼らは、道の傍らに建つこの交番の巡査がひとり死んだことになど気づきもしない。

(p8)

「英国にいるかぎり、あの男とは縁が切れないよ」と神父はうつむいて言った------「真鍮や銅が頑丈で、石が朽ちはてぬかぎりは無理だな。この男の大理石像は、今後なん世紀ものあいだ、誇りの高い無垢な少年たちの魂を奮い立たせ、片田舎にあるその墓は、百合の匂いのごとき、忠節の香りを放つことだろう。ついにその正体を知ることのなかった幾百万もの人びとは、父のごとく彼を愛していかねばならぬのだ------その正体を見きわめた生き残りの少数者が鼻つまみした当の男を、世人は父と仰がねばならぬのだ」

(『ブラウン神父の童心』創元推理文庫版p325)


対比は他にも無数に見られ、ある種徹底しているとも思えます。


かの古典の「犯人」は生前から偉大と讃えられるに足る業績を数多く挙げていた、歴戦の軍事的天才でした。

彼はブラウン神父曰く「自分の聖書を読む男」(先掲p318)であり、あまりにも自己の欲望に忠実で「神秘的な熱帯のどの国に行っても、ハレムに妾をかこい、証人を拷問し、不善の富を集めた」(同p318)悪徳においても雄大な人物。

そして自らの罪を覆い隠すための犠牲として巻き込んだ、無辜の忠実で勇猛な部下たちにその真実を知られ。

生き残った彼らによって裁かれました。


「夜警」の川藤は小さな交番に配属されたばかりで上司にも先輩にもすぐに無能、足を引っ張るだろう、と判断された新米の巡査でした。

彼は他人の目と叱責ばかり気にする小心者であり、卑小な人物。

そして自らの罪を覆い隠すための犠牲として選んだ、以前から交番を悩ませている札付きのろくでなしを利用し口も封じようとして、川藤が思い込ませたままの偽りを信じ込んでの誤った怨みの一撃を受けて。

不当な運命を呪いつつ、相手と共に死にました。



『満願』は連作短篇集ではなく、収録作品相互に明確な繋がりがあるとは限りません。

ただ、自分には全作品を通じて「愚かで卑小な人間の持つ、誤まった切実さ」という共通項があるように感じられます。


そして、それは改めて一冊の本に収録するに際しての改稿の方向性としても、かなりはっきりと見て取れるのではないか、と。

特に「万灯」においては、まさにその点において大きな変更が加えられたと感じています。




「死人宿」

小説すばる 2011年 01月号 [雑誌]

小説すばる 2011年 01月号 [雑誌]


この作品について読書会では、書評家・ライターで主宰の杉江松恋さんによる「ミステリとして完成度は収録作中随一。読者への手がかり提示の妙が見事で、語り手が解き明かした第一の事件に隠れた第二の事件、という構造が見事。文章の傍点の打ち方は、読み解こうとする読者への「ここに気をつけよう。これをうまく踏まえられていれば、いい解釈」といった確認メッセージの役割も果たしている」(大意)といった指摘もありました。


その通りかと思えます。

以下、それを踏まえつつ、初出との違いをあげながら作品を観ていきます。


結論から書きますと、書籍化の際に幾つか手がかりが付け加えられ、それに応じてラストに数文の追加がなされたことで、締めくくりのニュアンスもかなり変化しています。

「紺地に流水模様の」浴衣

(p66)

「普段着の締め付けが鬱陶しく感じられて、部屋に備え付けられた紺地の浴衣に着替える」

(p69)

「流水模様の」浴衣

(p78)

「桜模様の白い浴衣が長押に下げてあるのと」

(p80)

と追加され、締めくくりの、

気づかなかった。気づいてもよかったはずなのに。

(p97。この周辺、単行本化にあたり大幅追加)

に繋がっています。


初出の雑誌版では上記の浴衣に関する手がかりが全く提示されませんでしたので、第二の事件はそもそも読者には読み解くことが不可能でした。

ミステリとしての完成度が魅力である一篇であるだけに、ある意味「生まれ変わった」といって差し支えないくらいの変貌であるのかもしれません。


小説としては、それによって、語り手の後悔が強まる一方で(気づきようが無かった、よりも「気づいてもよかったはずなのに」の方が厳しい)。

そうでありながらあえて

 私の背中に手が置かれる。温かく、柔らかい手が。

「いいえ。誰にも、どうにもできなかったのよ」

(p97)

と手を置き、声をかける佐和子……まさに彼に「気づかれなかった」女性の言動のニュアンスもかなり変わることとなります。


なお、一応書いておきますが。

当たり前ですが、彼女は彼を赦しているわけではないと思います。

この温かさ、柔らかさはそうでありながら、冷たく固く彼を拒絶するもの(だからこそ、この表現にはより一層面白い味わいがある)と感じられます。


その「拒絶」とも関連して。

初出の頃から変わらない巧みな描写として、序盤の宿に向う場面を描いた以下のくだりがあります。

「一時間ほどで行けるよ」

 礼もそこそこに、私は車に取って返した。

 一時間と言われたが、それでは済まなかった。道は進むほど険しく、舗装されているのが不思議なぐらいに細くなっていく。村落の風景はいつしか過ぎ去って、道はひたすら渓谷へと分け入っていく。ガードレールがなくなり、道は高いところを走っている。ひとつハンドル操作を誤れば谷底に真っ逆さまだ。緊張に体が硬くなり、亀が這うような速度で曲がり角をひとつひとつこなしていく。梁の主人が一時間と言ったのは、通い慣れた者の時間間隔だったろう」

(p60)

悪気なく"大したことはない"とアドバイスしたことが、言われた相手にとっては一大事であったり、実態とそぐわなかったりする。

まさにかつてそのような過ちを犯した者がその罪に向き合いに行く道程の描写として、無駄なく素晴らしいと思えます。


そして、この「死人宿」については読書会でも「イザナギイザナミを思わせる(ホッタタカシさん)」「彼女は既にして死者なのでは(水野美和子さん)」という感想・指摘があったように(自分はマヨイガも挙げました)、これは黄泉路を辿っていることを連想させる表現でもあるとも思えるところです。


作中に「落ち鮎」という漁がでてきますが、鮎を取るといえば「鮎の友釣り」がすぐ連想されます。

かつて自殺するのではないかと思われるほど追い詰めれた女性が、親類の所有する「死人宿」にすっかり馴染むまで務め、やがて継ぐのだという。

死を望む者を引き寄せ、「ちくしょう、死人宿め。これでまた、さぞや繁盛するだろうよ」と締めくくりの一言で罵られる宿の女は、やはり既にして(特に精神的な意味において)死者であるのかもしれないと思えます。


語り手の男の熱意、佐和子のほのかな期待といった"彼らなりの切実さ"が、生者と死者の間の圧倒的な埋めがたい断絶を思わせるその拒絶によってなんとも無力でみみっちく、虚しいものとも見えてくるようで。

その辺りに、他収録作と通じる匂いを感じさせられもします。


なお、佐和子が語り手の男に向ける思いとしては、以下の描写も面白いところです。

通された部屋には「竜胆」の表札が出ていた。入ると床の間つきの十畳で、違い棚に置かれた細口の花瓶には夾竹桃の花が生けてあった。造花かと思ったが、触ってみると瑞々しい。どうやら少し前に枝ごと切って来たらしい。他にも仲居がいるのかもしれないが、その花は佐和子の心づくしに思えてならなかった。

(p65-66)

ということなのですが、その「心づくし」について、すこしwikipediaあたりを参考に考えてみましょう。

特に夾竹桃は"造花ではなく瑞々しい"ものなのです。



○竜胆 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%A6 について。

「古くはえやみぐさ(疫病草、瘧草)とも呼ばれた」

「花言葉:群生せず、一本ずつ咲く姿から花言葉は「悲しんでいるあなたを愛する」といわれている(かまくら花飾人)。

○夾竹桃 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%A7%E3%82%A6%E3%83%81%E3%82%AF%E3%83%88%E3%82%A6 について。

「毒性:キョウチクトウは優れた園芸植物ではあるが、強い経口毒性があり、野外活動の際に調理に用いたり、家畜が食べたりしないよう注意が必要である。花、葉、枝、根、果実すべての部分と、周辺の土壌にも毒性がある。生木を燃した煙も毒。腐葉土にしても1年間は毒性が残るため、腐葉土にする際にも注意を要する」

「花言葉 - 用心、危険、油断しない」


花言葉は国や地域ごとに異なったり、同じ国や地域でも複数のまるで異なる意味を持っており、その中で特にどれが圧倒的に認知されているものともいえない……といったことも往々にしてあり、作品解釈上、あまり暗喩として恣意的に解釈に使いすぎることは躊躇われるものではあります。

植物の性質も、一つの植物は多種多様な性質を備えるものですから、あまり都合よく特定の性質を持ち出すのもどうかと思えるところではあります。

しかし、ここでの個別具体的問題として「造花かと思ったが、触ってみると瑞々しい」とわざわざあるからには、上記の毒性をはっきり意識した描写であると断定しても、差し支えないところかと思えます。

花言葉に関してはそこまでの自信はもてませんが、ここまでぴったりきてしまうからには、参考として挙げておくのは悪くないだろうと思えます。


なお、「死人宿」は(これは他の方も指摘されていたことですが)ミステリとして、また過去の米澤作品との関係においても、その趣向がたいへん面白く感じられます。


探偵はなぜ、直接関係のない他人の謎に取り組まなければならないのか、取り組むべきなのか。

米澤作品において大変なじみ深いこの問題について、"赤の他人の事件(を防ぐこと)に真摯に取り組むこと"そのものが理由として提示されるのがユニークさであり、魅力ともなっているわけです。

"無情に恋人を死地に追いやった過去を償うため、赤の他人の死を予防することで自らの再生を示す"という、優れた趣向でもあります。

【関連】

「米澤穂信過去作品感想をまとめて再掲」

http://d.hatena.ne.jp/skipturnreset/20140501/

既読の方は、宜しければ古典部小市民両シリーズ及び『さよなら妖精』あたりの感想をご参照頂けますと幸いです。


ちなみに、「一人目を防止できていなかったら二人(の自殺者)は鉢合わせしていたのでは。面白いことになったかも?」という読書会会場である「ベルベットサン」の店長である長谷川健太郎さんがぼそりと語った指摘は、個人的に大変愉しいものであったりしました。

その場合、どんな光景が展開されたのでしょうね。



「柘榴」

小説新潮 2010年 09月号 [雑誌]

小説新潮 2010年 09月号 [雑誌]


他五篇(特に「万灯」)と比べ、改稿された箇所も、各変更の分量も僅かです。

しかし、収録作中随一の傑作であるこの短篇がみせる変容は、他を寄せつけない鮮烈さを誇ります。


まずは、二番目に見事だった改変について。


「------美しくなる前に傷を。たとえ小さくても、いずれ癒えてしまうとしても、わたしの呪いを刻みつける」

(『小説新潮』版)

「------美しくなる前に傷を。わたしよりも美しくなるかもしれない背中に、たとえ小さくとも、一生残る傷を」

(p138)


説明は不要でしょう。

作品は疑いなく、こうあるべき動かし難い形となりました。

むしろ、初出の形がなぜこうだったのか、不思議にすらなってしまいます。


そして、続いてそれを上回る最高のものを。

追加は最後の一文ですが、直前の二つの文を受けてより輝くものであるため、まとめて引用します。

柘榴はまだ熟し切るには早かったけれど、早過ぎはしなかった。わたしと父は一日中、それを存分に貪った。わたしの汚れたくちびるは、父のつややかなくちびるで清められた。

(p133)


たった一文の追加が翼となり物語を高みに駆け上がらせる、稀有な例と思います。


ロミオとジュリエット (新潮文庫)

ロミオとジュリエット (新潮文庫)

ロミオ「さあ、これで私の唇の罪は浄められました、あなたの唇のおかげで」

ジュリエット「では、その拭われた罪とやらは、私の唇が背負うわけね」

ロミオ「私の唇からの罪? ああ、なんというやさしいお咎めだ、それは!

もう一度その罪をお返し下さい」

(第一幕五場/新潮文庫/中野好夫訳)


「本を読むのは好きだ」(『満願』p114)という少女である夕子は、このあまりにも有名な古典も読んだことがあるのだろうと思います。


また、『小説新潮』掲載時のコメントにはこうあります。

「小説は時に読者との共犯的協定を結ぶことがある。「鐘と白蛇」を出せば道成寺とお察しの通り。では、「柘榴とミステリ」だとどうだろうか?(後略)」


恋愛、性愛を描いた場面において「くちびるをくちびるで清める」という描写が出たならば。

そしてそれが物語中、決定的な場面においてあえてこうして追加されたというならば。

それは『ロミオとジュリエット』と察するべきものと思います。


ジュリエットは十四歳を迎えようとしている十三歳だったといわれます。

夕子はあの秋の日に小学六年生。十一歳か十二歳。同じく越えてはならないとされる恋に身を投じたということになります。

しかし、それ以外はあまりにも夕子のそれとジュリエットのそれとは相手も状況もなにもかもが違い過ぎている。あえてひとつひとつ挙げはしません。

ただ、ここで無邪気に自らの欲望の果てと純な悲恋を重ねる少女、というあまりといえばあまりな構図の見事さを称えたいと思えます。


そして(こちらは相対的にかなりこじつけめいてはしまうのですが)『ロミオとジュリエット』の呪いはそれに留まりません。

まず『ロミオとジュリエット』を持ち出さずとも、初出の段階ですでに、夕子、月子という姉妹の名前と由来も本当にひどいものなのです。

酷過ぎて素晴らしい。


佐原成海が「夕焼けの鮮烈な赤」を「こんなに綺麗な空を最初の思い出にしない手はない」といったから夕子。

「病室から見えた空は白んでいたけれど、満月がまだ冴え冴えと浮かんでいた」から月子(いずれも『満願』p103より)。


夕子は周囲を焼く太陽の美しさ。ただ、それは"これから沈む"前の光でもあります。

月は太陽の陽を受けて輝く受け身の美。そして満月はこれから欠けゆくもの。

しかも白み始めた空のそれでは、完璧な美はもはや僅かな時間しか残っていません。

「三十歳を超えても全然衰えない若々しい容色には、自分の母親ながらちょっと化け物じみたものを感じるけれど」(『小説新潮』版)

「四十歳に近づいても全然衰えない若々しい容色には、自分の母親ながらちょっと化け物じみたものを感じるけれど」(p111)

というのは地味に(?)残酷な改変ですが、そうしてつけこむ隙ができた……という物語の中での姉妹のこの名づけであったわけです。


そして。


ロミオ「あれは東、すればさしずめジュリエット姫は太陽だ。

美しい太陽、さあ昇れ、そして嫉妬深い月を殺してくれ。

月に仕える処女のあなたが、主人よりもはるかに美しいそのために、

あの月はもう悲しみに病み、色蒼ざめているのです。

もう月の処女になるのはよして下さい。月は嫉妬深い女神なのだ

(第二幕二場/新潮文庫/中野好夫訳)q1

ロミオ「ジュリエット様、僕は誓言します、見渡す限り、

樹々の梢を白銀色に染めているあの美しい月の光にかけて」

ジュリエット「ああ、いけませんわ、月にかけて誓ったりなんぞ。

一月ごとに、円い形を変えてゆく、あの不実な月」

(第二幕二場/新潮文庫/中野好夫訳)


月たる妹に嫉妬した夕陽たる姉が、自分の恋に『ロミオとジュリエット』を重ねていた姿は、ここにおいて更に皮肉なものともなるように思えます。


先だって「夜警」においては、チェスタトンの古典中の古典との間にいうなれば「卑小と壮大」との対照があるのでは、と書きました。

この傑作「柘榴」においては、『ロミオとジュリエット』との間にいうなれば「汚濁と純粋」との対照があるのでは、と思えます。





一方、「なぜこんなものが加えられたんですか?」と真顔で問い質したくなってしまったのが、あの最高の改変が加わったのと同じ時間を扱ったこのくだり。


そして秋、わたしは柘榴を食べた。

父とふたりきり、誰も来ない山中で。

(p117)


この二つ目の文は初出では無かった、無用の解説と自分には思えます。

ひょっとすると雑誌版では例のp133

柘榴はまだ熟し切るには早かったけれど、早過ぎはしなかった。わたしと父は一日中、それを存分に貪った。

(p133)

の部分についていた傍点を外したこととセットなのかもしれませんが、あまりにも割の合わない取引と感じられます。

個人的にはこのシチュエーションで「食べる」というだけで性的なニュアンス十分過ぎると思え、実際、初出の際に読んだとき、直ちにごく自然にそう感じられました。


しかし、私の感覚はあくまで私の感覚なのであり、客観的な正しさを備えたものであるわけでも、他の方のそれより無条件に尊重されるべきものでもありません。

第一、いうまでもなく作者の米澤穂信さんは、それがより作品を高めると考えたからこそ、この一文を加えたわけです。

独善や視野狭窄防ぐためにも、ここは特に読書会で他の方のご意見を伺いたいと思って臨んだ改稿箇所でもありました。


ちなみに参加者のお一人であるホッタタカシさんは読書会の感想をまとめた日記、

スローリィ・スローステップの怠惰な冒険

米澤穂信『満願』の読書会にて

http://ch.nicovideo.jp/t_hotta/blomaga/ar510858

において、

ちなみに初出を読んでいない私としては、追加個所が気になることはまったくなく、むしろその場面がリフレインされることでより効果を上げていたと思います

と言及されています。

他の方の反応を見ても、自分の激しい反発は、広く同意を得られる感想とは言えないのかな、と思わされもしました。

貴重な経験でした。

ありがたいこと、と思います。


なお、題名にもなっている「柘榴」というモチーフについて。

読書会でもその実が爆(は)ぜる様子と靴べらで無残に叩かれる二人(とりわけ月子の)白い背中と傷の重ね合わせなど、様々にみてとれるし、印象深いという意見が多かったのですが。


事前に自分が発表用に準備していたレジュメを数年来の付き合いであるかみつかい( https://twitter.com/The_paper_ )さんに見せて意見を伺ったところ、「死人宿では竜胆の花言葉に言及されてたのに、柘榴ではそれをされないのが勿体ないなと」指摘を受け、「なんでそれに思い当たらなかったんだ!」と驚愕して調べてみた、柘榴の花言葉がなんとも素晴らしく含蓄に富んでいると思えます(読書会でも言及しました)。


「柘榴」という植物全体の花言葉は(諸説ありますが)「優美(円熟した美)」「お洒落」、そして「愚かさ」なのだといわれます。

この組み合わせ、作品、特に夕子というキャラクターに重ね合わせるとなかなかに含蓄に富んでいます。

そして、より面白いのは「花」「木」「実」にそれぞれ異なる花言葉を宛てることも多いらしい、ということです。

以下、分けて書きます。


柘榴の「花」------成熟した美しさ。

柘榴の「幹」------互いに思いあう心。

柘榴の「実」------結合。


わずもがなですが、「結合」には、性的なニュアンスを含めて受け取ることも当然に可能かと思います。

夕子が父のみならず、母と妹にもけっして愛情を抱いていないわけではないことと、「幹」(傷つけられた背中と連想で繋げないこともない)の「互いに思いあう心」との関わりを勘繰るのも、なかなかに面白いかと思えます。



なお、他の変更点としては例えば、家裁の男女の調査官の名前が出されなくなったのが非人間的な木で鼻をくくったような対応の印象を強めていて効果的です。

また、些細ですがp108で浴衣の件で引き合いに出される友だちの名前変更「ゆっちゃん」⇒「さっちゃん」は夕子と音を(ひいては印象を)かぶらせないためかとも思います。


それと、雑誌掲載からの変更という視点以外からも本作品について、すこし。


○内面が描かれない男・佐原成海


彼は単にトロフィーであるに留まる男なのか。そうは思えません。

では、どこまで競技者を積極的に操っていたのか。

わかりません、でも。

わたし、気になります


たとえば。

「夜警」の「煙たがられながら頼られる」(『満願』p15)警官。

『死人宿』の「証券会社などというところに勤めていると、自殺はさほど縁遠いこととも思えなくなってくる」証券マン。

「万灯」の高度経済成長期の香り漂うジャパニーズビジネスマン。

「関守」の火のないところに立てた煙を売ろうとする三文ライター。

「満願」の弁護士。

『満願』に収録された各短編はそれぞれ、職業上の要請と人間性との葛藤を描いてもいる職業小説としても見れなくはありません。

ではここで、瞠目すべきプロのヒモである「柘榴」の佐原成海にはそこら辺の悩みなり自負なりはどのように存在したのでしょうね。

そんな視点からこの人物を捉えてみるのも、作品の一つの楽しみ方として、また、読者同士の漫談として、面白くはあるのでは、と感じます。



○姉妹に受け継がれたもの


佐原成海という人物について考えることには、副次的な妙味もあります。

姉妹は母だけでなく彼からもなにがしかを受け継いだのか。

継いだとしたなら、どのようなところに現れているか。

あれこれ考えてみるのも、また一興ではないでしょうか。



「万灯」

小説新潮 2011年 05月号 [雑誌]

小説新潮 2011年 05月号 [雑誌]



この作品については先日の日記で、独立してまとめましたが、読書会で伺ったことも加えつつ、再掲します。


まず、読書会においては、

ロイ・ヴィカーズ『迷宮課事件簿』の「百万に一つの偶然」と深い関連がある。初出のときに著者ともあって聞いた話であり裏づけともいえる(杉江松恋)

眉村卓『産業士官候補生』や松本清張『一年半待て』を思わせる(本坊さん)

○「15%のコストダウンなら115でなく117.6では」(同じく本坊さん)

といった意見を伺うなどしました。


「万灯」の改稿は箇所の数においても、各改変の分量においても『満願』収録の他5編を圧倒し、物量としてはこれ一篇で他五編を上回ります。

数十行丸々入れ替え、追加といったところもありますし、冒頭と結末もセットで別物に代わっています。

初出ではあった大きな叙述トリックがひとつ、単行本では取り除かれてすらいます。(性質上詳しい言及は控えますが)その排除による筋の一本化は、ミステリとしても小説としてもより美しいかたちに整うことになり、大正解でしょう。


そして全般的に語り手が商社マンとして更に優秀になり、一方、井桁・OGO両社の社員への扱いが冷淡になっています。

競合他社がバングラディシュで仕事をしているのに気づかないほど間抜けではなかったり(森下の所属がバングラデシュ支社⇒インド支社)、帰国時に総務部には当然連絡を入れていたり、ロビーラウンジで森下を待ち構える間は「じっとりと手に汗を握る」で済んだりしているのです(初出では(別の理由(=コレラ)があるのかもしれないが)トイレにいって吐く)。まあ、あと、森下殺害にはスタンガンからの絞殺(初出)でなく金槌を使ったりもしています。

語り手の部下・斉藤が腕を折っての退職後、初出ではすぐに後任として新人が補充されますが、単行本版ではされません。

森下は初出では退職ではなく休暇でした。

村での事件ののち、森下の動向を問い詰められた勤め先の反応について「つまり、「面倒だから森下の始末は森下につけさせよう」と思わせたのである」(初出はこうで、OGO側について記述なし)⇒「OGOはそれほど抵抗しなかった」となり、冷淡さが強調されています。


そして、帰国後の本社総務部とのやりとりの異同と、改稿後の伊丹の述懐が大変に重要です。

(前略)本社に電話を掛ける。総務部が準備をしていてくれるはずだ。

 電話口に出た男は、なぜかひどく不機嫌だった。

「支社から連絡が行っているものと思いますが、手配をよろしくお願いします」

 そう下手に出る。

「ええ、準備はしてあります。何時頃に着くんですか」

「八時か九時くらいには」

「ぐらいじゃ困るんですよ。ここはバングラディシュじゃないんだから、時間にいい加減なことは言わないでください。じゃあ、八時で進めておきますよ」

 嫌味を言われても、午後八時に仕事にいけるかどうかは、森下が何時につかまるかによる」

(小説新潮掲載版)

(前略)本社に電話を掛ける。総務部に話は通していた。

 電話口に出た男は、機械のように淡々と受け答えをした。

「バングラディシュ開発室の伊丹ですが、伝言はありませんか」

「伊丹さんですね。いいえ、伝言はありません」

 室長が不意の出張でいなくなっても、二、三日なら何とでもなる。何か起きたとしても現地スタッフだけでたいていのことは解決できるし、そのための態勢も整えてきた。それはわかっていたが、やはり少し、寂しさを覚えた。

 たとえば私がこのまま東京に溶けて消えてしまっても、せいぜい予定が一年遅れるかどうかというところなのだろう。開発は決して、止まることはない。

 しかし今日、東京に消えるのは私ではない」

(p203)

伊丹の強烈な自負と高い能力に関わらず、彼も替えのきく歯車でしかありません。

そのギャップの強調と冒頭そして結末の変化(全面改稿なので大枠だけ書きますと"迫られる決断⇒裁きを待つ"です)は連動しています。

そして、改稿後が明らかに良いのです。

彼が心から信じ、人生を懸け、他者の犠牲も積み重ねた上でも、彼一人の行動が(いまこの時も、これまでにおいても)左右できるわけではなかったのだという無情感が、素晴らしい。

タイトルの意味も変わります。彼の双肩に東京を埋める灯がかかっているのでなく、彼のもたらそうとしたものも彼という存在も、万の灯のひとつに過ぎません。


「夜警」についての解説で触れた、『満願』収録作に感じ取れる「愚かで卑小な人間の持つ、誤まった切実さ」という共通項。

特にこの「万灯」においては、正にここで紹介した変更により、一冊の本の中での位置づけが大きく異なるものとなったと思います。



それと、先に触れたように初出では語り手の帰国後にひとつ叙述トリックがあるのですが、単行本版では除かれた上、代わりに吉田工業の脱硫によるエネルギーコストの話が置かれています(この部分は初出ではまったく存在しません)。

新たに加えられたこの挿話は、伊丹が掲げた目的に至る道としてそれしかなかったのか、それが適切であったのか問うものになっています。

ここで、そういった問題は作者に直接聞くのは宜しくないとは思いつつ。

このくだりについては三原順『Die Energie 5.2☆11.8 』(『三原順傑作選 (’80s)』(白泉社文庫)収録)に想を得るなり、大いに踏まえるなりしてはいないか、と尋ねたくなってしまいます。

あまりに、しっくりくるかと思ってしまいますので。

三原順傑作選 (’80s) (白泉社文庫)

三原順傑作選 (’80s) (白泉社文庫)

※参考

原発マンガ「Die Energie 5.2☆11.8」についてまとめてみた〔レビュー/反応」

http://matome.naver.jp/odai/2130395747489431701


他の変更としては、

「私が井桁商亊に入社したのは十五年前、昭和五十年のことになる」

(小説新潮掲載版)

「私が井桁商亊に入社したのは十五年前、昭和四十一年のことだった」

(p141)

も「万灯」という作品においてとても大きいものです。

語られる事件が昭和五十年(1975年)から十五年後=1990年=湾岸戦争の年のものであるか、81年=79年イラン革命後の第二次石油ショックが80年にピークに達した翌年のことか。

それによって「エネルギーという名の、資源という名の神」(『満願』p205。この周辺は丸々改稿。森下が現れての感慨が「結果としては、私はかなり幸運だった」⇒「そしてその神は、よほど冷淡に違いない」などなど)の貌(より正確にいうならば、それを見上げる日本人の眼に映る貌)も変わるでしょうし、バングラデシュも帰国後の日本の風景もだいぶ違うことになります。


ただし、初出でも単行本でも語り手は入社三年目の春にインドネシアの天然ガス開発に関わっていたとありますが、史実LNG開発及び日本の商社のプロジェクト参入は70年代前半であるらしいところ(個人サイトからの情報を適当に拾っただけなのでソースとして微妙ですが)、変更後(単行本収録版)では昭和四十四年(1969年)から関わっていたことになってしまうのが問題ではあります。

※参考

「LNGの開発輸入」

http://www16.plala.or.jp/bouekitousi/sub34.html

より、以下引用。


「インドネシアのLNG事情

1. 天然ガスの開発

 生産分与契約(P/S 契約)に基づいての探鉱の結果、モービルは1971年末、北スマトラのアルン地区で、ハフコ(現在はVICO)は1972年初頭、東カリマンタンのバダック地区で、それぞれ、世界有数の埋蔵量を持つガス田を発見した。プルタミナ、モービル、ハフコの3者は、天然ガスを液化して日本向けに輸出することに合意し、ベクテルをコントラクターに起用してのLNGプラント建設の準備を整えた。

 プルタミナは、子会社で日本法人のファーイースト・オイル・トレーデイング(FEO)と日商岩井(現在の双日)を窓口に、日本のLNG ユーザーである電力・ガスと輸出商談を始めた。1973年12月3日、プルタミナと関西電力、中部電力、九州電力、大阪ガス、新日鐵5社との間に20年間に渡る長期売買契約が締結された。その時点、LNGの生産体制はまだ整っていなかったが、プルタミナは、1977年中頃までには、プラントを建設しLNGを輸出することを約した。生産体制を整えるためには、インドネシア側はガス田よりのパイプラインとLNG プラントの建設資金を必要とした。世界的に権威のあるデゴニア・マクノートンによって確認された埋蔵量はバイヤーや金融機関などに大きな効果を発揮した。これにより、LNGプラント建設に必要な資金をプルタミナに供与する融資契約のネゴが始まった。1973年暮れに長期売買契約が締結されて、すぐ翌年(1974年)の2月25日、プルタミナへの窓口として、売買契約の交渉、契約の実務実行、ファイナンス手配などを業務とする日本インドネシアLNG 株式会社(JILCO)が、日商岩井とFEO、電力・ガス等5社を中核に設立された。JILCOは、1974年5月17日、LNG 輸入代金の前渡金という名目でプルタミナに資金供与する融資契約をプルタミナと結んだ。

 おりしも、1973年10月にオイルショックが発生したことから、日本政府はエネルギー政策上、インドネシアのLNG 事業を最重要案件と位置づけた。両国政府の話合いによりガス田よりのパイプライン敷設には海外経済協力基金の円借款の供与も決まった。」

「関守」

小説新潮 2013年 05月号 [雑誌]

小説新潮 2013年 05月号 [雑誌]


雑誌掲載時からの改稿という点に限れば他の作品に比べ、見所は少な目です。

ただ、出だしと締めはぐっとブラッシュアップされています。

エンジンを止めると、歌声も止まる。それにほっとしたことに気づき、聞き飽きたCDを無理に聞き続ける必要はなかったのだと舌打ちした」(『小説新潮』版)

「エンジンを止めると、歌声も止まる。うんざりさせられる繰り返しが終わったことに身震いするほどの解放感を覚え、それから、聞き飽きたCDを無理に聞き続ける必要はなかったのだと舌打ちした」(『満願』p225)

冒頭のこの描写全体は彼が最期に聞かされることになる「年寄りの長話」(『満願』p268)と重なるわけです。

ということで「うんざりさせられる繰り返しが終わったことに身震いするほどの解放感」は素晴らしいですね。

この短篇の締めくくりはここで特にひとつひとつ挙げる必要は感じないため割愛しますが、語りとしていろいろ手が入って改善されています。機会があればぜひ、比べてみてください。


そんな修正の上積みもあって、とにかく語りの面白さに浸れる一篇です。

白石加代子あたりに朗読してもらえればうれしいだろうと思えます。脳内に勝手に再生してみてもいいかな、と。


なお、「死人宿」でも触れた"謎とそれに関わる者の関係、関わることの妥当性"といったことを考えると、すこし、面白いかと。

共通項などなく本当は謎などないと思っているところになんとか謎をでっちあげるべく首を突っ込んできた者が、あると思っていなかった謎を見出したと思ったとき、渦中に呑みこまれてしまっている。しかも、人違いで。

再読時に自然に気づかされる描写がいちいち妙味になる本編ですが、中でも"シケた物語を編もうと苦心する語り手が、本物の恐ろしい物語の蜘蛛の巣にまさに絡めとられている"ありさまが読みどころになっているかと思います。

その観点から見て、

「ばあさんが酒を出したのは、確かにまずい。だが霊の仕業ということでまとめるなら、飲酒の件は書かない方がいいだろうか」

(『小説新潮』版)

「ばあさんが酒を出したのは、確かにまずい。酔っぱらいの車が崖下に落ちたことを不思議がる読者はいないからだ。だが霊の仕業ということでまとめるなら、飲酒の件は書かない方がいいだろうか」

(p252)

中間の一文の追加は"自分は当事者でない"という語り手の意識を強調しており、かつ、彼の末路を思うと……なかなか味わいのある変更ですよね。


なお、一連の事件はきっと"これで終わり"ではないわけですね。

元々、強い疑惑をもって調べ、多くの証拠を既に集めてしまってもいたのは語り手でなく、先輩ライターです。

ここで語られた後輩の死は、彼を贖罪の念と共に事件の解明へと駆り立てずにはおかないのでは。

その先になにが待っているのか……すこしばかり想像の羽を広げてみるのも、面白いのではないでしょうか。



「満願」

Story Seller (ストーリー セラー) Vol3 2010年 05月号 [雑誌]

Story Seller (ストーリー セラー) Vol3 2010年 05月号 [雑誌]


単行本版で達磨大師を描いた禅画に殿様の賛である例のブツは、雑誌版では島津の殿様からの感状でした。

ああ、なるほどな、と思わされます。

「崩し字でなにか書かれているが、私には読めない」(『満願』p294)という賛はなにが書いてあったのでしょうね。


ちなみに初出で読んだ際、ついtwitterでご本人に(こういうことは作者に直接聞くべきものではないな、とは思うのですが)「連城三紀彦の花葬シリーズ(例えば「菊の塵」)を連想させるな」と思いました。憶測なのですが、ひょっとしてオマージュなのでしょうか」とたずねてしまったのですが。

「ありがとうございます。花葬は大好きですが、「満願」に際して特に意識はしませんでした。 RT @sagara1: //「満願」を読み「いい作品。そして、連城三紀彦の花葬シリーズ(例えば「菊の塵」)を連想させるな」と思いました。憶測なのですが、ひょっとしてオマージュなのでしょうか。」

https://twitter.com/honobu_yonezawa/status/51649086281097216

と、お答えを頂きました。

そーなのかー、とかなり意外に感じられたことを三年経った今もよく覚えています。


正直にいって、作者はそう仰るのですが、勝手に「菊の塵」との対照について、考えてしまわずにはいられないのですね。

これは作者が「意図的に」行ったものではない(と聞いた)。

そう前置きを入れた上で、以下、すこし書きます。

なお「菊の塵」のネタバレになりますので、背景と同色の白文字とします。


もちろん、なによりもまず「満願」と「菊の塵」とは、犯人の動機において強く重なるものを感じるわけですが。

最大の違いは「満願」においては「犯人」は"先祖から受け継いできた"生命や財産より尊重すべきものとして物体としてのかの禅画を扱いつつ、子のいない(おそらく近い係累も)彼女には、それを受け継ぐ者がいません。

語り手の学業を後押ししたことである種の繋がりとして残る、という発想ではあるようなのですが、彼が禅画を物として引き継いでいくわけでもなく、やや奇妙にも感じられるところです。

一方、「菊の塵」では子どもという形で血が受け継がれるわけです。大変、わかりやすいですね。

そこにおいて、繰り返しますが個人的に『満願』収録作に共通して感じ取れる「愚かで卑小な人間の持つ、誤まった切実さ」、その「誤まった」という色合いを「満願」に感じます。

あと「菊の塵」においては、男は、ある意味気持ちよく死なせてもらっているわけではあるんです。

「満願」のある種の生殺しは、見方によっては「(騙された上であっても)気持ちよく死なせて貰う」よりも非道い仕打ちと受け取れないこともないのかもしれないな、と思わされたりします。


なお、読書会では夫の死を聞き「目元を覆って静かに泣いた」理由はなんであったのか?について人それぞれの意見が出たりしました。

「保険金が下りる(これで窮迫を抜け出せて)嬉しい」(水野美和子さん)」

「特に悲しくなくても(演技などでも)泣けもする」(杉江松恋さん)

「(保険金も含め)彼女の最も大切なものの喪失の恐れが消えた「満願」の嬉し泣き」(自分)

といった感じでした。

一応、自分の解釈だと、すこしばかり凝りすぎなのかもしれないな、とは思うとこともあります。


ところで、この表題作をはじめ本短篇集からは「良きミステリを書こう」という意思とともに、並々ならぬ「人間を描く」こと、「小説を書く」ことへの強烈な意欲と工夫の数々が感じられるというのは、一読して誰も……といわずとも、多くの方が受ける印象かと思います。

作品そのものから離れた話をしてしまうと、作者自身もしばしばミステリであることと小説であることの両立、融合をインタビューなどで語っています。

「かつて私は連城三紀彦の小説を読み、ミステリであることは小説としての何かを諦めなければならないことを意味しない、と思った。

 いま道尾秀介を読み、同じことを再び確信している」

(道尾秀介『カササギたちの四季』2014年2月20日刊行・光文社文庫版解説より)

カササギたちの四季 (光文社文庫)

カササギたちの四季 (光文社文庫)

「たぶん私は、ミステリもまた小説であって欲しいというか、手法としてのミステリを用いつつも小説としての完成を目指すのが本当だろう、と思っています」

(『野生時代』2013年11月号、作家特集「わたし、米澤穂信が気になります」内、Q&Aで谷川流からの質問への回答の中で)

2 作家、米澤穂信(小説の書き方、キャラクタ造形)について


──インタビューなどを拝見しておりますと、先生は「ミステリと小説との融合を目指している」と語られているのをよく見かけるのですが、そのきっかけは何だったんでしょうか?


今は本当に優れたミステリがそうした融合について関わってきていますので、最初の例が何だったのかは分からないのですが、一個挙げるとすればやはり『六の宮の姫君』ではなかったかと思います。あれは芥川龍之介菊池寛の関係の間に生まれた謎を一つの焦点にしつつ、大学を出て社会に出ていこうとする主人公「私」の側面とも関わってくる。「私」の心理の問題を解決する時に、芥川と菊池の関係が二重結びになって、その交点が生まれるところが、ミステリと小説の融合だと思うんです。ミステリと全く関係なく小説的解決の方が進んでしまったり、小説的な解決が全く行われないままミステリの事件だけ終了してしまったりする。それは「融合」とは言わないですね。

http://kenbunden.net/general/archives/4145/2

「見聞伝「「探偵」企画 米澤穂信先生取材」」より。


こうした作者の「小説であること」のこだわりと、第二十四回山本周五郎賞における『折れた竜骨』についての選評 http://homepage1.nifty.com/naokiaward/other/otherYS24YH.htm ((「「直木賞のすべて」付録・他文学賞候補作家の群像」より)を見比べると、ファンとしていろいろ思うところがあったりもします。

なお、同作品について第64回推理作家協会賞(長編および連作短編集部門受賞)の選評(『オール讀物』2011年7月号掲載)と山本周五郎賞のそれとを見比べるととても面白いのでお勧めでもあります。

当時両賞の選考委員を兼ねていらした北村薫先生の、それぞれの賞の性格を踏まえた評を見比べるのはとりわけ興味深いかと思います。

そして『満願』はこの度、第二十七回山本周五郎賞候補作となり、昨日、見事受賞が決まりました!

まず、何よりも、おめでとうございます。一ファンとして、嬉しい限りです。

そして前回と入れ替わった選考委員は受賞に当たってどんな評を出したのか、にも注目したいところです。