蒼き鋼のアルペジオ 総評

 あまり整理できていないので、印象的なことだけ散発的に。
 
 蒼き鋼のアルペジオ。和音(コード)ではなく、分散和音(アルペジオ)。
 つまりは時間経過により響きを増し/変化させる和音であり、構成要素が増えるにつれて複雑さを増す機能であるのだから、正しく群像劇を予感させるタイトルではある。群像だけに。
 あまりアニメ版からは群像劇的なニュアンスを感じなかったが、或いはそれこそが漫画版から取り零された/零さざるを得なかった要素かも知れない。読んでないので適当。
 
 千早群像とイオナの初遭遇のシーンで特筆すべきは群像のイオナへの対応の仕方で、強い言葉で相手を否定するところから入りつつ、相手が傷付いているらしいと見るや否や、言った自分の方が表情を悲痛に歪ませて言葉を濁す―――といった一連の流れに、彼がどのように自分の心を鎧ってきたか、その過程が垣間見える。無論としてあのシーンのイオナは傷付いてなどおらず、ただ単純に、機能として群像の言葉を鸚鵡返しに反芻しているだけなのだが、そういった表層の振る舞いにすら思わず(おそらく本意でない)気遣いをしてしまうことで、千早群像というキャラの素の人の好さが表現されていたように思う。きっと今までも近づく者にはそうしてきたのだろうと僕に想像させるに、それは十分な描写だ(そしてその繰り返しを終焉させるイオナとの出会いの劇的さも、ここに最大限強調される)。
 回想で描かず、言葉で語らせず、現在の描写を以って来歴を想像させる。もちろん、第一には極端に足りない尺のための短縮処理に過ぎないのであろうが、僕はそのような省略の技法を好ましく思った。
 
 上述のシーンに限らず、トゥーン表現の3D(といった形容で正しいのかは怪しいが(おそらく上からまた描いてるのだろうし))であるにも関わらず、キャラクターの表情が豊かなことが印象的な作品だった。
 にも関わらず、というのには語弊があって、実際には「であるからこそ」と繋ぐのがおそらく正しい。素材を用意しさえすれば空間の中に自由に配置できるのが3Dの最大の強みであり、それは取りも直さず、アニメの表現における、カットごとの描き直しの手間を大幅に減じるものであるからだ。作画のコストが平均的に低減できた分だけ、様々なシーンに凝る余地が生じた、色々なキャラが目まぐるしく動く作画が可能となった、と捉えておくと非常にそれっぽく感じるが、実際の制作体制の話を寡聞にして知らないため、エア制作論に終始するほかない。つまり大変胡乱な話である。
 また、全編通して、飽くまでも2Dの画面作りのために3Dを使っているシーンが印象的だったことも書いておく。それはたとえば、ハルナがコートを奪われたギャグシーンでの離散的な時間の遣い方―――3Dであるのにキャラを何度も瞬間移動させている―――だったり、たびたび見られたアイレベルをキャラと同じ高さにとった平面的な画面作りだったり、といった処理に感じたことだ。無論、3Dであることを存分に活かした、ぐるりと回り込むようなカメラワークは随所に見られた(コンゴウの出撃シーン、ヒュウガの登場シーン等、枚挙に暇がない)のだが、そういったシーンが実際に存在するからこそ、そうではない、静的なカメラワークには強い演出意図を感じる。できるけれどしない、という状況は、強く拘りを感じさせる訳だ。
 
 物語としては、かなり切り詰めた結果のそれなのかな、と思わされる部分が多かった。
 先述の、群像の過去の回想がないのもそうだし、人間のクルーの来歴が一切語られないことなどはいっそ清々しいほどに省略の苦労を窺わせる。また、アニメとして描かれたのが新兵器をアメリカに輸送する期間のみ、というのもそうだ。戦争が終わるまでの話は描かれないし、物語の最大の山場はコンゴウとイオナの戦いに設定されている。話の軸が人間化―――と言って悪ければ意志の獲得であったのは、短い尺に纏めるための処理であったのかなと想像するが、尚も連載中の漫画版においてはどう描かれているのか知らないため、何とも言えない。もしかすると、漫画版の序盤をそのまま切り取った作劇かもしれない。いずれ読んで確認したくはあるが。
 
 さて、意志の獲得である。
 ぶっちゃけ僕は意志とか持ってるように見えない無機質なロボ子と一緒にいるだけで幸せになれそうな人間であるので、異種の人間化というテーマには常に生理的な萌えなさを感じてしまうのだが、イオナもその例に漏れなかった感はある。主人の死を予感するイオナの悲しみ方は猫のようなそれであって欲しかった、ということだ。わかりますか。
 個人的には、コンゴウの“「私は世界など認識したくはなかったのに」”という叫びに強く同調してしまった感がある。新たな認知を強いられることの苦痛。彼女にはもう寄る辺がなかったのだから、尚更だ。
 ……コンゴウにそのような台詞を吐かせることで、すんなりと仲間になった霧たちとの話では触れなかった、彼女らに意志を与えることの残酷さについても描こうという試みだったのかな、とは思いつつ。
 
 ところで、感情など不要だった、と断じたコンゴウが群像のもとを離れてからマヤを失うまでの間、変わらずマヤのことを大切に思っているふうに見えたのが、非常に強い萌えポイントではあって。
 カーニバルbotと化したマヤに思い出の話を悲痛な声で振るシーンなどを観ても、コンゴウが手足のようにマヤを自己と同一視していたようには到底思えないし、コンゴウのマヤへの想いは完全に友情か、親愛の情であるように見える(見える、というのが曲者ではあるのだが―――単なる機能としての反応経路を有すること、そこに感情が存在することとはイコールでは結ばれないので)。あれが感情の産物であるとするのなら、彼女は感情が必要か不要か考える時、自分とマヤとの間に存在する何がしかの感情については度外視していた、と読むことが可能なように思う。当然すぎて考慮の俎上にすら上らない関係性。