SKY NOTE

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大河ドラマ「花燃ゆ」にみる正論の実用性

NHK大河ドラマ、「花燃ゆ」に出てくる吉田松陰を見ていて、正論の実用性について考えさせられた。幕府が動かないのであれば、動かすために、自分たちで渦をつくって、その渦に幕府を巻き込むために、幕府の要人を殺害するという考え方は、実際に水戸藩の脱藩浪士による井伊直弼の暗殺によって、実現された。井伊直弼の殺害を期に尊皇攘夷という天皇を中心とする政権構想が勢いづき、その後の明治維新の方向付けが示された。しかし、それを実際にやったのは、水戸の脱藩浪士であり、吉田松陰松下村塾のものではなかった。

吉田松陰は正論を言えても、それを実践する能力には乏しかった。明治維新の要人を育成するという先生としては優秀だったが改革者としては、実行力が乏しく、行動しようとする度に藩に囚われる身となる。それは、彼がオープンで公平な人物であったため、隠密で行動するということが、そのオープン性からできず、また公平であったため、塾生に犠牲を強いるような極端な行動をしようとしても、塾生に無理だと言われると、納得してしまう公平さがある。

では、行動するのには、時には秘密裏に、不公平に立ちまわる必要があるかといえば、そうではない。そう言う種類のことをするにそれが必要というだけで、本来はそうでない方法のほうが後々に禍根を残さず、ベストなのだ。そう言う意味で、人材を育てる面において、彼は優秀だったといえる。先生としてはベストな人なのだ。だが改革者としては実行力が乏しかった。

そこで思うのは、正論の実用性だ。正論では実行力が乏しく、改革は不可能なのかという命題が吉田松陰を見ていると感じる。しかし、正論で改革できた事もある。キング牧師は暴力を用いず、演説だけで公民権運動を率いて、暴動などはあったものの、事実上言論活動主体で改革をやってのけた。では、吉田松陰キング牧師の違いは何かというと、時代の差である。吉田松陰の時代にはテレビはなかった。いくら素晴らしいビジョンがあっても、それを人々に伝えるインフラがなかった。

それでテレビがあれば正論が広まり社会が変革できるようになったのかといえば、そうはならなかった。新しいメディアは、その時代の実力者に支配され、その結果、正論を広めようとすると、実力者の意向によって妨害され、黙殺されてしまうのだ。ここで重要なのは正論で改革はできるが、そのためには、それを広めるメディアが必要なのである。それも、その時代の実力者の介入が出来ないメディアが。

つまり、正論の実用性とは、その正論を世に広めることによって成立するのである。しかしながら、御用メディアがメジャーな日本社会では、そういった正論は黙殺されてしまう。庶民がするべきなのは、そういう御用メディアに一銭たりとてお金を渡さないことである。そういったメディアを、見ない、聞かない、読まない事が必要なのだ。その上で、自分たちの側に立つメディアを支持し、正論が世の中で機能するようにすることが必要なのである。つまり、正論が機能させるためには、それを広めるメディアを吟味する必要があるのである。また、秘密保護法のような市民の言論活動を政府が制限できる法律など認めてはいけないのである。そうすることによって、正論に実用性が生じ、正しい政治(事)が行われるようになるのだ。