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スローラーナー

2009-07-20 事物に対する尊敬について

slowlearner_m2009-07-20

事物に対する尊敬について

| 02:27


昨日の続きです。

リュミエール」7号に掲載された大島渚監督の発言を、自戒をこめて書き写しておこうと思います。

インタビュアーは、蓮實重彦さん。ちょうど『マックス,モン・アムール』が公開された時のインタビューです。

この大島監督の発言は、とても単純だけど重要だと思うのです。


「忘れもしませんけれど、ぼくが大庭秀雄さんの助監督をずっとやっていまして、その時のチーフ助監督が監督になることになって、ぼくはそこに行くことになった時に「大庭さん、どうでしょうね。彼はいい映画が撮れますかねぇ」って言ったら、「大島君、彼はね、家に来て、玄関を開けて、玄関の挨拶もできないような男なんだよ。そんな男にいい映画が撮れるわけないだろう」って言うわけです。確かに映画の撮り方というものには、礼儀正しさ、つまり一軒の家へ入ってどうするかみたいなとこがある。だから引けるも引けないも、そういう礼儀みたいなとこがあると思います。…だから、才能はあっても礼儀正しくない撮り方というのはありますよ。やっぱり世界の大監督の撮り方は、全部礼儀正しい。ひとつの人物、あるいは事物に対する尊敬の念みたいなものが出てるかどうか。事物を尊敬しない奴は駄目だと思います。そういう意味では、日本ではやまり松竹大船というのは礼儀正しい撮影所でした。一方では、監督を「先生」と呼んではいけない。みんな「さん」で呼べ。つまり仕事の上では同等なんだ。しかし敬意は尽くせと」


大島監督は、同じインタビューの中で、こんなことも言っています。


「作品の中の思想なんて大したことない、作品のつくり方に出る思想が大事なんだ」


今でも折に触れて読み返す、とても影響を受けたインタビューです。

こんな文章に触れて、ゴーシュのセロは、わたしにとってすっかり“物への尊厳”の象徴のようになっていったのです…。


さて、シネマート新宿で公開中の、浅生ハルミン原作、星野真里主演、鈴木卓爾監督作品『私は猫ストーカー』ですが、明日はまた鈴木卓爾監督の旧作の上映とトークがあります。


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■21日(火)20:30の回上映後


ワンピース『男の子はみんな』(07年/出演:唯野未歩子鈴木卓爾、寺十吾、近藤公園徳井優、谷川誠司/12分)


ワンピース『種を蒔いたのは、ばあば?』(07年/出演:唯野未歩子、寺十吾、猫田直、田中要次/9分)


鈴木卓爾監督のトークあり。


作品は全てDVD上映です。


前回上映された『ケーキを食べたのは誰?』が情感という部分で『私は猫ストーカー』に繋がるのなら、今回の2作品は、蓮實さんにもご指摘いただいた『私は猫ストーカー』の持つ「ある画面と向かいあっていながら、それをしめ括るはずのショットがまったく予想できないというサスペンス性」と繋がる2本です。『私は猫ストーカー』にも出演していただいた寺十吾さん、徳井優さんが出演されているのも見ものです。お時間がある方は、是非いらして下さい!


久しぶりの猫ストーカー映像を、どうぞ!


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2009-07-19 ゴーシュのセロについて

slowlearner_m2009-07-19

ゴーシュのセロについて

| 02:19


今日はお休みなので、以前のブログでちょっと触れた『セロ弾きのゴーシュ』について書いてみます。

私は猫ストーカー』に鈴木役で出演していただいた宮崎将さんを見ていたら、『セロ弾きのゴーシュ』をなぜか思い出したのです。


セロ弾きのゴーシュ』がずっと気になっています。何で宮沢賢治の作品の中でも、この作品が気になっているのか、自分でもよく分かっているわけではありません。小学生の頃、器楽部にいてコントラバスを弾いていたことも理由のひとつかもしれません。オタマジャクシもろくに読めないまま弾いていたのですから、ひどい話ですが、わたしがゴーゴーとコントラバスを弾いている前では、FくんとSくんがチェロを弾いていました。時々、楽器を交換して弾いてみるのですが、弓の持ち方も違うし、力の入れ方も全然違うので、音が上手く出なかったのを覚えています。


高校生の時に見た高畑勳監督のアニメセロ弾きのゴーシュ』が素晴らしかったのも、理由のひとつかもしれません。


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その後、「PeeBoo」という絵本ジャーナルと銘打った雑誌を読んだ時に、ある記事を目にしました。それは『はせがわくんきらいや』や『とんぼとりの日々』の絵本作家長谷川集平さんが責任編集をした号で、「描く前に見ろ、読む前に見ろ」という特集が組まれていて、そこで長谷川さんは「ゴーシュのチェロは描けているか?」と、これまでの絵本や挿絵がチェロの楽器としての形がいい加減に扱っていることに疑問を呈していたのです。


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「…もし外国の画家が、自国のこどもに見せる絵本の、ゲイシャの膝の上に6本弦の楽器を描いたとしたら、われわれは失笑するに違いない。日本はまだ理解されていない、と怒る人だって出てくるだろう。

ところが、たとえばチェロという楽器を日本人に描かせると、とたんに怪しくなってくる。弦の数だけではなく、形、構造、大きさ、弾く姿勢、実にいいかげんになってしまう。…簡単に言えば、じゃ、チェロをあえて描かないことで、何をいったい描きたいの?という素直な問いを、画家たちに投げかけてみたいのだ。」


おそらく長谷川さんは、写実的に描かなければいけない、とか、デフォルメしてはいけない、とかそういうことを短絡的に言っているのではありません。まず描く対象に敬意を払い、そこから出発することの重要性を書いているのだと思ったのです。


「われわれもゴーシュに習って、謙虚に、まず見るところから、もいちどしずかに始めたいと思う」



そう文章は結ばれていました。

そして、これは、何も絵に限ったことではなく、表現ということの根幹に関わる問題ではないかと、ちょっと震え上がりました。「物への敬意」。そして、この言葉を「リュミエール」誌に掲載された大島渚監督と蓮實重彦さんの対談でも、また目にすることになったのです…。