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スローラーナー

2010-11-28 プリング・フィーバー

slowlearner_m2010-11-28

スプリング・フィーバー

| 21:34


めずらしく新しい映画を見たいと思っています。

ロウ・イエ監督の『スプリング・フィーバー』です。

渋谷シネマライズで上映しているのです。


先日、『海炭市叙景』のマスコミ試写の時に、脚本家荒井晴彦さんにお会いして、ロウ・イエ監督にある映画監督がインタビューした時の話を聞きました。

この作品は全編を家庭用のHDカメラで撮影しているそうです。

それは『天安門恋人たち』の後、当局より5年間の映画制作・上映禁止処分をロウ・イエ監督が受け、そのためゲリラ的に撮影しなければならかったからだ、と聞きました。

そのインタビューの際に、あるシーンのカメラの露出のことを聞かれたロウ・イエ監督は、一言「AUTO」と答えたそうです。

ようするに監督は露出をAUTOで、撮影していたのです。


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別にAUTOだからよいとか、そうことではなく、ロウ・イエ監督は、オートフォーカスで、自動露出の家庭用のHDカメラで撮影することで、何を表現しようとしたのか、何を作品の、表現の味方につけようとしたのかを知りたくて、この映画を見たいと思ったのです。

美しい画とはなんでしょう?

いい映画とは何なのでしょうか?


昨日は、『海炭市叙景』の函館初日。

たくさんのお客様に恵まれたようです。


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ほんとうにありがとうございました!

2009-01-12 大友良英さんのこと

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大友良英さんのこと

| 23:47

フィリップ・ガレル監督の『孤高』を公開した時、どうしてもやりたいと思ったひとつのイヴェントをしました。それは、音のない映画(一般的な意味でのサイレント映画というもののと、この映画は異なります)であるこの作品と、ミュージシャンがセッションをする、というイヴェントでした。

架空サントラ…と言っても、いいのかもしれません。

映画を上映しながら、ミュージシャンは、その流れる映像とセッションして演奏する。

参加して下さったのは、大友良英さん、Sachiko Mさん、杉本拓さんです。

このセッションの模様は、公開録音され、CDとなって発売されています。

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その時、大友さんは、映写室から洩れて来る映写機の音を聴いて、この音ともセッションしようと言いました。

音のない映画である『孤高』は上映していると、映写室から映写機の回る音が聞こえてくるのです。しかもフィルムが掻き落とされて行く音が不規則に、高低に変化するのです。CDにもこの音は、もちろん記録されています。

セッションは、素晴らしいものでした。

リハーサルで映画を見ながら、彼らのセッションを聴いていると、突然涙が溢れ出したのです…。

大友さんとの仕事で、同じような事がありました。

安藤尋監督の『blue』を配給した時、大友さんの映画のための音楽のライヴを、HEADZの佐々木敦さんたちと協力して開きました。香港映画のための音楽、そして、安藤尋監督の作品のための音楽、そしてもちろん『blue』のための音楽を演奏した時、ふと振り返ると、宣伝部の、しかも大友さんの音楽をいつも聴いているわけではない女の子たち二人が、目に涙をいっぱい溜めて立ち竦んでいるのです…。

『blue』のサウンドトラックは名盤だと思います。

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そして、大友さんの仕事からは、いつも多くの刺激を受けます。

そのひとつを、この文脈で取り出せば、『blue』の音楽には、ミュージシャンのほかにも原作の魚喃キリコさんをはじめとする非-ミュージシャンが多く参加しました。そして、知的に障害のある人たちとのセッション“音の海”(この音遊びの会によるCDは、横浜聡子監督『ジャーマン+雨』の音楽に使用されました)なども、同じ発想の圏内の試みなのかもしれません。

それは、単純化し過ぎることを畏れずに言えば、「いい楽器を使用している」「高い演奏技術を持っている」ということと「いい音楽である」ことはイコールではない、ということだと思います。『blue』での演奏を観た時に、これは、大友さんの“革命”が始まった、と思ったのです。

映画にも同じ事が言えます。

素晴らしいCGが使用されていること、凄い音のシステムを使用しているという事、デジタルの技術を駆使していること、クリアで綺麗な映像(それはほんとうに“美しい”のでしょうか?)であることと、「いい映画である」ことはイコールではありません。

フィリップ・ガレル監督は、そのことを“資本の罠”だとして、最も警戒しているひとりでもありました。

2009-01-11 フィリップ・ガレルのこと

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フィリップ・ガレル監督のこと

| 02:22

かつてフィリップ・ガレル監督の70年代の作品『孤高』を配給しました。

この映画は、スローラーナーで初めて独自で海外から輸入した映画でした。

何度か直接ご一緒する機会があり、個人的にも、ガレル監督から多くの影響を受けました。

彼は、35mmのフィルムで映画を撮る事、そしてモノクロで映画を撮る事を手放してはならないと、いつも言います。最初の作品『調子の狂った子供たち』を撮った16歳の時、彼は別の現場で働いた報酬として端尺の35mmの生フィルムを貰い、それでも足らなくて、CMの制作会社をまわって、冷蔵庫の隅に眠っている端尺の生フィルムをもらって、それで撮影を続けたそうです。

だから、とガレル監督は言います。

僕は基本的にワンテイクしか撮影しない。

映画を撮るという事は、デカルト的な経済の中にある。

しかし、それが、自分のスタイルになった、と。

例え予算がそこそこある映画のときであっても、ワンテイクしか撮影しない。

カトリーヌ・ドヌーヴに主演してもらった時も、撮影前に、僕はワンテイクしか撮影しないと宣言したそうです。

彼の映画が好きです。

『愛の誕生』をスクリーナーのビデオテープで観た時、どうしてもこの作品を日本で上映したいと思いました。

フィリップ・ガレル監督の作品に恋をしたのです。

あの映像が、あの俳優への演出が、基本的にワンテイクで撮影されていたというのは驚きです。

カメラが回るその瞬間まで、彼はどのような作業をするのでしょう…。

フィリップ・ガレル監督は、モノクロで映画を撮るときは、ラウル・クタールと一緒に映画を撮りたい、と話してくれました。しかし、高齢のラウル・クタールさんは体の調子が思わしくなく、そして、モノクロで映画を撮ることを映画の制作会社から警戒されてしまい、契約書に「モノクロで映画を撮らない事」という一条を入れられてしまうのだ、と悔しそうに話してくれた事があります。

だから、彼の新作の知らせが聞こえて来て、それがモノクロだと聴くと、何だか嬉しいような気持ちになるのです。

2009-01-10 エリック・ロメールのこと

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エリック・ロメール監督のこと

| 01:22


「…なかんずく、ロメールの味わい深い『海辺のポーリーヌ』は、近年、私がアメリカで撮ってきた一連の映画とは対照的に、私に謙虚さの感覚を取り戻させてくれるに違いないものだった。撮影はノルマンディーで、五週間ほどでたいへん素早く行われ。スタッフも最小限度のものだった----何しろキャメラに三人(私自身、撮影助手、照明係)と、録音に二人(録音技師とマイクマン)だけという編成だったのだ。ほかには、助監督も、スクリプターも、美術監督も、メイク係も、衣装係も、特機係もいなかった…。『海辺のポーリーヌ』がこうしたやり方で撮影できたのは、ひとえに、ロメールが予算上の制約に留意するだけでなく、それを最大限に活用しながら、この作品を構想し、シナリオを書いたからだった。シナリオの登場人物は六人で、したがって彼は六人の俳優を見つけるだけでよく、また、撮影場所についても、浜辺と別荘という、三ヶ所だけでよかった。」

ネストール・アルメンドロス『カメラを持った男』(武田潔・訳/筑摩書房)


エリック・ロメール監督の『海辺のポーリーヌ』は傑作です。

撮影を担当したアルメンドロスが言うような状況で撮られたからといって、この映画が貧しい映画だと(もちろん金銭的な意味ではありません)言うことはできないでしょう。

しかし、巨額な映画の縮小版の現場を構想していたとしたら、この映画は貧しいものになったのかもしれません。

巨額な映画と低予算の映画。

巨額なお金がかかったからといって傑作だということではありません。

しかし、低予算だから傑作だということでもありません。

フィリップ・ガレル監督は、映画はデカルト的な経済の中で撮られる、と話してくれた事がありました。

映画作りとは、つねに具体的なものだと思います。

では、『海辺のポーリーヌ』は、何を、どのように撮ろうとしたのでしょう?

ロメールは予算がないから、仕方なくこのような映画を撮ったのではないでしょう。

このような映画を、このように撮ろうとしたのだと思います。

是非『海辺のポーリーヌ』を観て下さい。

この映画を見ながら、いつもエリック・ロメール作品の攻撃性と、自由さについて考えてしまいます。