smarpleの日記

2009-05-06 秋葉原の伝説を書いてみた

 JR秋葉原駅電器街口の改札を出る。メイドの服を着た女の子たちがチラシを配っている。素人アイドルの子を取り囲んで、いわゆるオタクと呼ばれる男の子達がデジカメや携帯のカメラで写真を撮っている。その横をさっと通り抜ける。秋葉原駅再開発の真っ最中、次々と高層ビルが建設され、秋葉原カオスにも少しずつ変化が現れている。

 秋葉原駅のとなりにある秋葉原ラジオセンター入る。秋葉原ラジオセンターは1950年に開業した。GHQによる露店の取り締まりがきっかけでガード下に電機部品を売る店が集まったのが始まりだ。総武線のガード下にあり、電車が通ると激しく揺れる。通路は幅80cm、人と人がやっとすれ違える。コンデンサー、発光ダイオードトランジスター、各種ケーブルなど、間口3m、四畳半ほどの広さしかない電気パーツを売る店が軒を連ね、現在53店舗が営業する。

 内田ラジオはその二階にある。赤いエプロン、老眼鏡、きちんとしたお化粧。内田久子が店番をしている。御年81歳。今でも午前11時から午後6半時まで、週4日は店に出ている。他の日はアルバイトを雇って営業している。

 店先には真空管で動く古いラジオが並ぶ。商品の中にはナチス時代のドイツで作られたラジオもある。

 「ハーケンクロイツが付いたラジオはすぐに売れちゃってねえ」

 ちなみにナチス時代のラジオの値段は8万円だった。一般的な日本製真空管ラジオは2万円から3万円で買うことができる。

 古いラジオと並んでこの店の目玉は真空管だ。真空管とは信号を増幅するためのもので、電球と同じガラスでできている。電源が入るとほんのりと光る。トランジスターが登場するまで、電子パーツの主役だった。真空管の品揃えは日本一だという。こういう真空管のパーツを売る店は、ここ秋葉原にしかないから、世界一だと言っても過言ではない。

 初めてこの店を訪れたのは、学生の時だった。大学が御茶ノ水にあり、大学の帰りに散歩していると、古いラジオの形の面白さに目が止まった。

 「真空管というのは時代遅れと思われているかもしれないけれど、戦闘機人工衛星にだって使われているんだからね」

 真空管の魅力をこれでもかという気迫で話す。ペレンコ中尉亡命事件のときに日本にやってきたミグ25戦闘機真空管が使ってあった話は十八番だ。

 久子は1926年、箱根に生まれる。父親は陸軍パイロットだった。ロンドン軍縮会議により軍が縮小されると、退官し、箱根にある旅館「環翠楼(かんすいろう)」の総支配人になった。旅館の名前、「環翠楼」は伊藤博文が名付けた。それほど老舗の旅館だった。旅館の経営は安定していて、昭和の初めの頃にはもうラジオがあるほど裕福な家庭だった。

 子供の頃は、現在は小田急電鉄が所有し、当時は神田にある教会ニコライ堂が所有していたベゴニア園でよく遊んだ。上海事変が勃発し、父親が出兵して行く際には近衛文麿内閣陸軍大臣を務めた杉山元品川駅でだっこをされた思い出がある。

「杉山さんがだっこをして、悪かった、悪かったと言って、森永のミルクキャラメルを一箱くれたんです」

 兄も日本航空パイロット、甥っ子も全日空パイロットという三代続くパイロット家系である。兄はダッカ日航機ハイジャック事件のときに、日本赤軍に乗っ取られた飛行機の機長をしていた。

「自分の人生は数奇な運命ですよ」

昭和の歴史をくぐり抜けてきた。

「旦那はノーベル賞を取れたんです」

 学生時代聞いたその一言を覚えていて、書こうと思った。トランジスターを12年前に亡くなった旦那の秀男が世界で最初に発明したと言うのだ。

 トランジスターとは真空管と同じ電気信号を増幅させるためのものである。真空管は球切れを起こし、必要電力が大きい。それに対して、トランジスターは増幅素子がゲルマニュウムのような金属で出来ている。そのため、球切れを起こさず、必要電力も小さい。トランジスターの重要な点は金属の結晶が電気信号を増幅することである。ベル研究所のウォルター・ブラテッテン、ジョン・バーディーン、ウィリアム・ショックレーらのグループが発明したとされ、この三人は1956年にノーベル物理学賞を受賞している。

 内田秀男は1921年、福井県の家具商の家に生まれる。子供の頃からラジオ技術者を夢見ていた。しかし、技術系の学校への進学は家族の反対を受け、家業を継ぐために、福井商学校に進む。卒業後、技術者への夢が捨てられず、東京都砧にあるNHKの養成所へ入所する。

「その頃は成績がトップの者はNHK技術研究所に配属されたです。だから、養成所では一生懸命、勉強したと聞いてます」

 努力の結果、NHK養成所をトップクラスの成績で卒業し、福井放送局勤務を経て、晴れてNHK技術研究所に配属される。

配属後、かねてから着想していた三極鉱石の研究をはじめる。これがトランジスターと同様の原理で動く増幅子であるとされる。1943年、研究成果を発表しようとした。しかし、上司に反対され、

「君は、味噌汁で顔を洗ってきたのか」

とまで言われた。NHK内では研究は認められなかった。戦後、『ラジオ科学』に発表しようと試みるが、今度は、掲載前にGHQによって、記事の掲載は差し止められた。アメリカトランジスターの研究が進められていたため、それより先に発表されないようにGHQが工作したという。

 この研究が発表できていれば、秀男はノーベル賞は取れただろうか。厳しいと思う。まず、ベル研究所のチームは早い段階で金属結晶によって電気信号を増幅するというアイディアを持っていた。トランジスターの開発において、困難だったのは不純物のない金属結晶を作り出すことである。当時の日本では高純度の半導体結晶を手に入れることは難しかった。アイディアは正しかったが、それを実現するための技術は当時の日本にはなかった。また、ノーベル賞の受賞理由はトランジスターの発明だけでなく改良にある。発明された当初のトランジスターは不良品が多く使いものにならなかった。

 1948年5月6日、秀男と久子は結婚する。雑誌『ラジオ科学』の編集者だった柴田が二人を紹介した。同じ年の6月30日、ベル研究所のチームによって、トランジスターの発明の報告がされる。

 秀男はひどく悔しがり、すぐに新しい研究を開始した。1956年、その過程で、アメリカソ連核実験によって飛来する塵に含まれる放射能がテレビ画面上に特有の白黒の斑点となって現れることを発見する。この内容を『電波技術』に発表。朝日新聞にも取り上げられた。

 発表の直後、秀男はNHK技術研究所を突然退職する。

「突然辞めて、荷物をまとめてタクシーで帰ってきたんです」

記事の発表によって、研究所の内部で対立したことが原因だった。

 退職後、現在の内田ラジオデパートを秋葉原で始める。店を始めるにあたって、開業資金を集めるのには苦労した。

「住んでいる家を担保にしてお金を借りて、この店の営業権を買ったんです」

家を担保にした金と共に、久子の実家からもいくらか援助を受け開業の資金にした。家計の収入を支えたのは店の収入と雑誌に書いた記事の印税だった。月に4本ほどの連載を持っており、けっこうな収入になった。店は一年ほど軌道に乗る。

 店が軌道に乗り始めると、秀男は自宅の庭にプレハブの研究室を作り、「内田ラジオ技術研究所」と名付けた。夕方、店に顔を見せ、客の相談に乗る時間以外は研究に没頭した。

 1950年代半ば、内田ラジオに一人の韓国人の青年が訪ねてくる。東京大学に通っていた、若き日のナムジュン・パイクである。ナムジュンはビデオアートの先駆者で、ビデオアートという美術ジャンルそのものを作ったアーティストである。パイクは秀男に作品を表現するための技術的指導を仰いだ。秀男はパイクにTBSに勤めたいた技術者、阿部修也を紹介する。パイクは阿部と共に動く立体作品『ロボットKー456』を作り上げた。その頃、パイクは最初の個展『音楽の展覧会-エレクトロニック・テレビジョン』を開催し、世界で始めて、ビデオインスタレーション作品を作り上げていた。その後、阿部はパイクを追ってTBSを退社し、家族を置いて、ニューヨークへ赴く。

「亡くなるまで、パイクさんは日本に来日すればかならず、店に寄って、喋って行きましたよ。液晶テレビが出始めの頃、ポケットから一万円札を数十枚取り出して、『3、4台買ってきてよ』って、私に頼んだんです。とにかくユニークな人でした」

現在でも阿部とは親交があり、店で売っているラジオの中には阿部が持ち込んだものがある。

 1963年頃から、秀男はいわゆるオカルト的な研究を始める。きっかけは久子の影響だった。

 「四次元に興味を持っちゃったのは私の責任です。神も仏もまったく信じなくて、あまりにも技術一辺倒だったから、目に見えない世界があるんだってことを教えたんです」

 結婚した当初、秀男は霊的なものへの関心はまったくなかった。見える者がすべてと考えるような人間だった。逆に久子は14歳のときに母親を亡くしており、その影響で霊感があったという。少しずつ、秀男を久子が変えた。

「信じ始めたら、まっしぐらでしたね」

秀男は無線に関する雑誌、『電波技術』に『あなたは信じますか』というオカルト的な内容を科学的に説明する連載を始める。後に連載をまとめて4冊の単行本が出た。

 その頃、自宅によく訪ねてきたのが、日本テレビに勤め、11PMのディレクターをしていた矢追純一である。現在、矢追は大槻教授と共にガリバーのCMにも出演するほど知名度のある、超常現象の第一人者である。

「矢追さんがまだ日本テレビに勤めていた頃、スクーターに乗って毎日のように、主人のところに来てましたよ。科学的なことは、あんまり知らない人で、主人が色々と教えたんです」

 秀男について、矢追にインタビューしてみた。黒のポロシャツ、ジーパン、ナイキの白のスニーカー、とても72歳には見えない。

「なつかしいじゃん」

秀男について尋ねると、矢追は開口一番、こう言った。乗っていたのはスクーターではなくて、ボンキーという50CCのミニバイクらしい。

「とにかくきまじめな人だったね。あんまりしゃべらない技術者だった。俺はおしゃべりでいい加減だから、正反対なタイプだったね」

 1972年、矢追の依頼によって、秀男はバラエティ番組11PMのためにイオンクラフトを製作する。イオンクラフトとは秀男の発明で、「宇宙電化エネルギーとの作用で飛行する」という。最終的には直径2mのバルサ材とアルミでできた模型を製作し、浮遊させることに成功した。飛ばすために、小型のものはテレビ、大型のものはネオン用のトランスで電源を供給した。

「風があったら、飛ばないんですよ。だから、よく、朝4時頃、風のない時間帯に自宅の屋上で実験しました。夫が電圧を上げろって、言うと、私がメーターを回して、電圧を上げたりしたんです」

久子は言う。特許を取得するために、二人でイオンクラフト特許庁に運んだこともある。夫婦二人三脚での研究だった。

 イオンクラフトとの研究の副産物として、発明したのが、オーラーメータである。久子によると人のオーラを計ることができるという。

しかし、矢追に聞いてみると意外な答えが返ってきた。

「オーラメーターは微弱な電流を測ることができる機械。だけど、人のオーラを測れるかは分からないし、証明しようがない」

面白いことに、秀男の研究には意外に懐疑的だ。その理由を話してくれた。

「科学とオカルトはなじまないんだ。内田さんはオカルトを科学で説明をしようとしていた。僕はオカルトオカルトとして、見ていたい。そこが違うね」

秀男はどこまでも科学者だった。

 久子に秀男の普段の生活を聞いた。

「研究以外、余計なことは考えていませんでしたね。短気で研究に詰まると『どう思う』って私に聞いてきました。食べ物はあんまりあれこれ言わない人でしたね。お酒は飲まなかったけれど、野菜が嫌いだった。もう少し、野菜を食べさせておけば脳梗塞にならずにすんだかもね」 

 1981年、秀男は脳梗塞で倒れる。リハビリで幾分良くなったが、脳に障害が残った。久子は店の経営と秀男の介護をしなければならなくなった。

 脳梗塞で倒れてからも、秀男は車椅子で講演をした。原稿は久子が書いた。講演中詰まると、久子がマイクの前に立ち、講演を続けた。久子が支え続けた。

「夫の考えはほとんど、分かった。ずっと一緒にいたから」

14年間の療養生活の末、1995年、秀男はこの世を去る。技術一筋、まっすぐな84年間の人生だった。

 取材の最後に、秀男についてどう思うか久子に聞いてみた。

「よくやったと思いますよ。私じゃなかったら、離婚していたんじゃない。四次元的な世界には私が引き込んでしまいましたね」

死んでから、12年。久子の薬指にはまだ、金色の結婚指輪が輝いている。内田ラジオの物語は終わらない。

NOVAKAZZNOVAKAZZ 2013/11/05 20:08 懐かしく拝読させていただきました。
内田先生がセンターの2階で開店した頃に、私はその1階上の3Fでセンターニュースというタブロイド新聞を作っていて先生にはいつもお世話になったものです、同じ酉年で気があったのでしょうかね。