2008-07-05
ひだまりスケッチ×365 第1話 「はじめまして!? うめてんてー」
○モブを「人型」のピクトグラムで描く、という演出方法は作業工程を減らす、という現実的な側面もあるだろうけれど、『受験に望む』というゆのの心象風景を描く演出としても映えているといえるだろう。
○さらに言えば、人間の<世界>に対する認識方法としては、この描き方は正しいのだ。
人間は、自分に近い人間しか詳細を捉えていない。自分と遠い人間であればあるほど、ぼんやりとした像となってしまう。人間は<世界>を、隅々までクリアな映像としては捉えていないのだ。
だから、ゆのにとって「その他大勢」であり、<世界の背景>に過ぎないモブは、究極的に「ピクトグラム」として描かれる。
○暗い体育館でうつむくゆのの<世界>が、宮子との会話を経て「砕ける」様子は、何となくエヴァ26話を想起させる。
○しかし、動きのメリハリの付け方と、ポップな画面構成、省略と強調は見事だね。
○つまるところ、「ひだまりスケッチx365」の世界の描き方は、あくまで「ゆのの主観による世界」の描き方なんだよな。自分に近く、あるいは自分の印象に残るところだけが描かれ、後は省略されていくポップな世界。
とりあえず、何か求められている気がするので、小ネタ解析、するよ。
・受験当日、ゆのの父親がみている新聞
⇒一面トップは「やまぶき高校入試始まる 〜お父さんは心配性〜不安で夜も眠れず昼寝する有様」
・受験会場に急ぐゆのと母親。踏み切りで足止めをくらうが、その踏み切りの看板には「HURRY(急げ!)」の文字。そして画面を横切りる車両は、おそらく東急電鉄1000系である。
・受験会場のゆのを取り囲むピクトグラムには『PRESSURE』の文字。
なるほど、「プレッシャーに押しつぶされそう」なわけね
・試験開始前に出てくる腕時計のアップ。
自動巻きのクロノグラフであることが文字盤から確認できる。またも文字盤の下には"SWISS MADE"の文字が確認できる。…ところで、文字盤に記載されている文字が「TEREMETER」。
テレメーターとは、クロノグラフに搭載されている機能の一つで、例えば雷の距離が測定できたりするもの。
その正しいスペルは、"TEREMTRE"
・そうそう、デッサン用の鉛筆って、芯だけを長く出すんだよね。
で、練り消しでは文字は消せない。こすらず、叩くようにすればあるいは…
・入試問題は『鯖の頭を落として内蔵を取り、三枚おろしにしたものを塩に一晩程度漬け、酢で洗って作る、食品の名称を答えなさい』
で答えは『しめ鯖』
・次の問題は『昭和16年(1941年)、東京銀座の…「久兵衛」においてイクラを寿司…食べたいとの要望に応えて先代の…されている、酢飯の周…を答えなさい』で、答えは『軍艦巻き』と思われる。
・大家さんが吸おうとした煙草は「high-right」。元ネタはJTの煙草「high-light」
・作中挿入される英文の訳と意味は、以下に記述(登場順)
The die is cast.
直訳/意訳:賽は投げられた
More haste,less speed.
直訳:急ぐほど速度は落ちる
意訳:急がば回れ
Life is short and art is long.
直訳:人生は短く、芸術は長い
意訳:少年老い易く学為り難し
Heaven helps those who helps themselves.
直訳/医薬:天は己を助けるものを助く
Use the means and God will give the blessing.
直訳:手段を尽くせば神は助けてくれる
意訳:人事を尽くして天命を待つ
Tomorrow is another day.
直訳:明日は違う日
意訳:明日は明日の風が吹く
It is a long lane that has no turning.
直訳:曲がり角のない道はない。
意訳:待てば海路の日和あり
Spare the rod and spoil the child.
直訳:鞭を惜しめば子供を駄目にする。
意訳:可愛い子には旅をさせよ
Fear is often greater than the danger.
直訳:危険に合うより危険を恐れる方がまし
意訳:藍より青し 案ずるより産むが易し
To every bird his own nest is best.
直訳:鳥にとっては自分の巣が一番いい
意訳:住めば都
Pudding rather than praise.
直訳:賞賛よりプリン
意訳:花より団子
Two head are better than one.
直訳:ひとりよりふたり
意訳:3人よれば文殊の知恵
Nothing is hard to a willing mind.
直訳:乗り気ほど厄介なものはない
意訳:好きこそものの上手なれ
We never meet without a parting.
直訳:別れなしには逢うこともない
意訳:逢うは別れの始め
Love is blind.
直訳/意訳:愛は盲目
2008-06-21
CLANNAD_第10話
最初に確認しよう
最初に確認しよう。
我々は、1〜9話を見る中で、CLANNADという作品を語る二つのタームを手に入れた。
一つは、『世界への接続』。世界への参画、参与、関与をあらわすタームである。
そしてもう一つは、『接続』と対概念となるターム、『世界からのデタッチメント』だ。
『接続』からの『デタッチメント』を経ての、『再接続』という救済。それがどうやら『CLANNAD』の物語構造であるらしい、ということを、我々は1〜9話を見る中で確認してきた。
このタームを踏まえ、新たに語られる物語――ことみの物語を見ていこう。
残されたモノたち
アヴァンタイトル。久しぶりに<幻想世界>が描かれる。
荒野の中で、地面から空に上っていく光に包まれながら、「ガラクタ」と「少女」は対峙する。
この「光」、「幻想世界」が何なのかは、未だ明確に語られない。
しかし、幾つかの「ヒント」が示唆される。
この世界は「影」であるらしい、「遠い未来」あるいは「遠い昔」に「僕=ガラクタ」は別の世界にいたらしい、ということ。
果たして、<幻想世界>は、『現実=渚たちの世界』の写しなのかもしれない、という示唆を残す。
その示唆にリンクするように、<幻想世界>の光の印象そのものに、物語は「光に溢れた朝」の光景から展開されるのだ。
さて、前回で風子は物語の枠組みから退場した。
彼女の「存在」そのものが、10話以降の世界では「無かったこと」にされている。
それでも、風子の「想い」は確かに「世界」を変えたのだ。
朋也の、渚に対する呼びかけの変化、言い換えれば二人の「関係性」の変化という形で。
語られる二つの物語
そして、10話から語られ始めるのは、二つの物語だ。
一つは、主題としての『ことみの<世界>への接続』。
図書室に閉じこもるばかりだったことみは、朋也の手によって図書室の「外」の世界への参与を始める。
「私(=ことみ)」と「あなた(=朋也)」という小さくも完結された<世界>から、「私」と「みんな」という新しい<世界>への接続の端緒に、ことみは立つことになる。
その「世界への接続」を手助けするのが朋也であり、ことみが接続しようとする「みんな」の中に渚が含まれている、という図式に感慨深いものを感じてしまう。
ことみの姿は、『CLANNAD』という物語が語られ始めたときの二人の姿そのものであるのだから。
そしてもう一つの物語、いわば「副主題」は、杏と椋の物語だ。
1話でも軽く触れられていたが、どうやら椋は朋也に好意を抱いているらしい。
そして、杏はその「想い」を成就させるべく、彼女なりに画策している。
この「副主題」が明確に顔を見せるのが、0:13:34前後に見られる椋とことみ、朋也のやり取りだろう。
「岡崎さんと一之瀬さんはどういう…?」という椋の問いかけに対して、朋也は「授業のさぼり仲間とでも思ってくれ」と答える。
この朋也の答えを聞いての椋の表情が切ない。
ことみを見つめた後軽く目を伏せ、それでもことみとコミュニケーションを図ろうとする。
「ことみの立場になりえない」自分の立場を知った諦念のような、どこまでも自分の思いを飲み込んでしまう彼女の「気の弱さ」を象徴しているシーンだ。
「ことみの<世界>への接続」、「杏と椋の、朋也への想い」。
この二つを絡めつつ、10話以降の物語が展開していくのだ。
夕焼けに染められた演劇部室。
その中で、朋也、渚、ことみ、杏、椋の5人が揃い「賑やかさ」が描かれる。これからの物語を語る役者はそろった。
夕暮れの中での学校、という懐かしさ。
その一方で、これまでの物語の中で何度も出てきた、夕焼けの「不穏さ」。
この二つを提示し、10話――ことみの物語の「序曲」は幕を下ろす。
小ネタ
・杏の原付
⇒シルエットからHONDA DioZXと同定。
・図書室でぶちまけられていた本
⇒The Penguin Master Guide 入門編。
Linux関係の本だろうか。
それとも、『リトルバスターズ!』(key)に出てきた、小毬シナリオでキーとなる絵本(『ペンギンさん』のお話)を踏まえたものだろうか?
・ことみが興味を抱いている分野
⇒まず、図書室で背景にある本。
図書室でことみが読んでいた本は、「生物物理学」?
どんな内容なのか気になる。
本屋でことみが立っていたのは、物理学関係の本棚らしい。
「環境宇宙 加速空間イメージ」、「計量空間 運動的座標軸」、「多元宇宙論 予測と観測」、「超弦理論 未来と過去」、「幾何学宇宙 放射エネルギー」、「宇宙の意識学」、「時間量子論」、「素粒子 空間プロセス」、「素粒子 多次元反応」という書籍名が確認できる。
ことみがこの書店で立ち読みしていたのは
「CMB放射 ビック版理論の温度」
以上のことから、ことみは理論物理学にことさらの興味を抱いていることが確認できる。
これを踏まえると、演劇部室で箱を開けたとき「浦島太郎?」と聞いたのは相対性理論の「ウラシマ効果」を踏まえた台詞だったのだろうか…とすら思えてしまうのだが。
2008-06-19
CLANNAD_第9話
風子、朋也、渚の3人は、誰もいない夜の学校で『前祝い』をする。
それは、最後の…まさに最後の「にぎやかさ」でもある。
しかしそれは、これまでとは質の違う賑やかさでもある。
蝋燭の淡い光に包まれた教室の空間、そして寂しくなる3つのクラッカーの破裂音、身を寄せ合うような3人のそれは、まるで古代、洞窟の中で寄り添って外界の嵐から身を避けるような、前史時代の人類を彷彿とさせる。彼らは、まさに身を避けてここに辿り着いたのだ。
「再接続からのデタッチメント」という<痛み>に、「世界からの修正」という<脅威>に。
そしてまた、風子は「姉の結婚式を祝う」という目的――姉の幸せを願う、という想いとは別の「想い」を朋也と渚の二人に託す。それは、自分が好きだった人々に幸せになって欲しい、という「想い」である。
この時、風子の「強さ」に慄然とする。
風子は、かつて一度も画面上で「涙」を見せなかったのだ。そして自分の「存在」が抹消されることを自覚しつつも、他人の「幸せ」を願い続ける。決して泣き言は言わず、忘れないで欲しい、と懇願することもなく、ただひたすらに「幸せになって欲しい」という想いだけを語る。
夜が明け、二人もやはり「世界からの修正」から逃れることができなかったことを、我々は突きつけられる。
風子の存在が「無かったこと」にされたまま、物語は進行していく。そしてこの間、二人を捉えるカメラワークはロングに傾いたアングルが続く。端的な例は、渚の家の前での、秋生、早苗、朋也、渚のやり取りを捉えたカットだろう。このカットは、その台詞のやり取りを踏まえれば、不自然なまでのロングショットだ。それは何を意味するのだろう。「世界から切り離された」風子の、世界を眺める視線だろうか?
しかし二人は、「結婚」というキーワードと幸村という老教師のさりげない言葉によって、再び風子を<思い出す>。それは、違った方向からの『想い』による救済だろう。
老教師幸村は、彼もまた「他人の幸せ」を望んでいた。それは、「ある世代」が「次の世代」に向けて願う『想い』とも言える。
「風子の姉=公子の幸せ」を望んでいたのは、決して風子たち「だけ」ではなかった。風子の<存在>が薄れた時、彼女以外の人物が抱いていた「想い」が彼女を救済したのだ。そう、彼女は決して「デタッチメント」されっぱなしではないのだ。一度は接続された世界なのだ。
この時の風子の出現を描く演出は見事。
BGMの高まりと同時に、渚と朋也の表情を捉えるショット、そしてカットの切り替わりと同時に、風子が「出現」する。そこに何か特殊なエフェクトがかけられるわけでもない。ただ、画面の切り替わりによって唐突に――全く突然に風子が「現れる」のだ。
しかしそれこそが、彼らの関係性を表しているのだ。風子は消えたわけでもない。そして「復活」したわけでもない。ただ、ほんのちょっと忘れていたわけだ。風子はずっと、「そこにいた」のだ。決して消えてしまったわけではないのだ。
そしてカメラワークは、それまでの伺うようなロングショットから、彼らに寄り添うようなアングルへと切り替わる。
それをもっともよく表現しているのが、式が終わった後、校門に向かって校内を駆ける3人を捉えたカットだろう。
3人を追いかけるように、カメラも走る。そのカメラワークは、「カメラマンがカメラを持ちつつ走る」ことで発生する画面の揺れをも再現している。
それまでのスタティックなカメラワークではなく、アクティブな、彼らを突き放すことなく常にそばにあるような。これが、彼らの『距離感』なのだ。
そしてクライマックス。逆光の中、3人は手を繋ぎながら、幸せの中にある公子を見守る。
その光景を見ながら、風子は渚と朋也に「楽しかった」と感謝を述べる。この間、3人の表情は画面に映ることは無い。ただ光の中で、風子の台詞だけが続く。
風子は、ついに「世界へ接続される幸せ」を知ったのだ。
そこにあるのは、かつて公子の口から語られた「自分からは近寄らない」風子ではない。風子には、仲間がいたのだ。風子は自分の<世界>を手に入れたのだ。そして、彼女の他者の幸せを願うという「想い」は世界からの修正すらも克服したのだ。
今回を以って、風子は一端物語の枠組みから退場する。
しかし、彼女の「想い」は、形として残った。
エピローグ。
教室で朋也を囲みながら、春原、杏、椋、渚が「2年前に事故にあった女の子」の噂話をする。それは、どこか幸せな、「遠い場所にいる友達が戻ってくる」ことを期待するような口ぶりである。
そして、ほんの少し前までは目にすることのできなかった「世界」がそこにはある。
坂の下で朋也と出会った時には、独りでうつむくように学園生活を送っていた”渚”が再接続された世界、そして同じようにデタッチメントされていた”朋也”の持っていなかった世界が、そこには残されている。
2008-06-18
CLANNAD_第8話
前回から顔を覗かせ始めた「世界からのデタッチメント」。<穏やかならざるイメージ>は、明確に姿を現す。
それは、8話での画面構成にも現れるだろう。
画面の一部分にしか差し込まない光、どこか暗い部分を背負った画面、8話全体を通して、キャラクタの顔には影が差込み続ける。
光が増す一方である晩春〜初夏という時間の中で、朋也、渚、風子は、常に暗さを背負って描かれる。それは、彼らの心象風景そのものである。
関係の薄かった人間から彼女の<存在>を忘れていく。それは謂わば「世界からの修正」でもある。「あってはならない存在」を抹消する為に、<世界>は人の記憶に介入し、その記憶から<風子の存在>を消していく。それは、最も残酷な形の<修正>でもある。
「世界からの修正」。「病院で眠る風子」、つまり「風子が『ここにいるはずがない』」という証拠そのものを認識した人間は、その<修正>を受け、忘れ去ってしまう。それは、家族同然にすごした秋生や早苗であっても例外ではない。
そして早苗は、その「修正」に抗う。風子の存在を視覚で捉えられないながらも、その存在の<記憶>を刻み付けるように抗う。
その姿はあまりに痛々しく、直視に耐えないものでもある。
それでもなお、夕焼けの朱に染められた画面の中で切々と語られる『みんな風子ちゃんのこと、家族だと思ってます…』という台詞は胸を掴む。
ともに食卓を囲み、ともに「ひとで」を彫り、ともに風呂に入り、枕を並べ…
そうであれば、早苗は例えそれが擬制家族であったとしても、風子にとっては<母>であり、また風子は早苗にとっての<娘>であった。
<母>は決して<子>のことを忘れない、ということなのだろうか。
例え、<子>の姿を見ることが適わないとしても。
前回でも触れたが、1〜7話を通して、風子と朋也、渚とを取り巻く『賑やかさ』が丁寧に描かれてきた。8話においても、それは変わらない。風子と朋也との絡みや、プレゼントを買ってもらった風子の嬉しそうな様子、まるで姉妹のような風子と渚のじゃれあいが丁寧に描かれている。
だからこそ。
これまでの「賑やかさ」が丁寧に描かれてきたからこそ。「楽しい日常」だったからこそ、そこから徐々にデタッチメントされていく「哀しさ」と「残酷さ」が対比として鮮やかに浮かびあがってくるのだ。
3人は、最初に出会った場所であり、もはや3人以外の他者が介入しようの無い場所。ある意味での『聖域』。夜の学校へ向かう。
ついに、風子の存在を認識できるのは、朋也と渚だけになってしまった。
それは、初めて出会った頃と同じように。
しかし、彼らは「世界へ再接続」されることを知ってしまった。
一度接続された上での「切断」――デタッチメントは大きな痛みを伴う。
いまや我々の視線の先には、この<痛み>しか残されていない。
この<痛みの予感>を抱えつつ、9話へ臨もう。
2008-06-17
CLANNAD_第7話
前6話までのシークエンスが「起〜承」であったとするならば、本7話においては「転」の主題が奏でられるシークエンスである。
つまり、5〜6話において宣言されたテーゼ。「世界への再接続」という主題が否定され、「世界からのデタッチメント」という動機が、響かない不気味な和音が顔を見せるシークエンスでもある。
風子の「出自」が、公子によって語られる。
それは、風子が「自分からは他人に近づかない」人間であったことの告白であり、風子の中絶された<世界>――「世界に対する再接続」を姉に宣言し、新しい<世界>での生活を送る端緒において中断されてしまった<世界>の告白であり、公子の自責の念に駆られた告白でもある。
そして「自分から近づかない」人間であった、という告白は、朋也や渚そのものを指す告白でもある。
かつて朋也も渚も、弾かれた人間――世界からデタッチメントされた人間だった。
しかし彼ら二人は、とある春の朝。坂の下で出会うことで、「再接続」の端緒にたった。
その二人が、「姉の結婚を皆に祝ってもらう」という目的の元、ヒトデを配る=「学園生活」という<セカイ>に「再接続」を為そうとする風子の手助けをする、という構図は、観客に一種のデジャヴを喚起させるだろう。
その構図は、まるでフーガのように。
二人が公子を訪れる時、画面は夕暮れの紅に染められている。
それは、二人が学生であり、放課後に彼女を訪ねる、という時間帯である以上、当然のことではある。
しかし、この時公子の口から語られる話の内容も相まって、画面を包む紅の色は、『穏やかならざるモノ』をあらわす記号として扱われる。
この時の陰影の付け方、光線の周り方は視聴者に印象付けられるだろう。
振り返ってみると、7話では「夕暮れ」という時間帯が強く印象に残ることに気づく。
例えば子供の頃、家路に着くなかで感じた「もの寂しさ」や「寂寞さ」。そういうものを思い起こさせる画面構成である。
日本人に刻み込まれている夕暮れのシニフィエは、まさしくこれだと思うのだが。
そうしてまた、「創立者祭」が終わった学校の中で風子がヒトデを配り歩くシーンも、印象的だ。
祭りの後の寂しさ。
7話を全体に貫く印象は、「寂しさ」なのだ。
それでも、物語を通して見たとき、重苦しい感に引きずられず、陰鬱な印象とならないのは、ところどころに挿入される「賑やかさ」だろう。
このモザイク構造が、<風子シナリオ>の終盤で、さらに言えば「Keyシナリオ」全てを通して重要な構造となっているのだが、それはまた後に語ろう。
7話終盤、<穏やかならざる>紅の中で、「風子が目を覚まさない可能性」が語られる。
そして春原の口からも、「風子が忘れられつつある」という話が語られる。
<穏やかならざる>イメージを内包したまま、物語は8話へと続いていく
これ、http://stat.ameba.jp/user_images/cc/a5/10016416765.jpg
この時計からして”TELEMETER”となっているので、丸ごとパクって来たのではと思われる。