チェスター・ハイムズの亡霊2

 シリーズ7冊目の『夜の熱気の中で』(原著1966年、篠原慎訳、角川書店)になると、ハーレムの描写が少し変わって来る。麻薬の問題がクローズアップし、提示される問題が次第に深刻さを増してくる。1964年の公民権法の制定後、キング牧師の非暴力路線と一線を画すマルコムXが1965年に殺害され、ブラックパワーの台頭をみる時期である。それでもなお、元ボクサーである白子のジャンキーであるピンキーへの愛情がラストに感じられ、ハイムズ独特のユーモアが読者をなごませる。ところがシリーズ最終作『熱い日、熱い夜』(1969年、篠原慎訳、角川)になると状況は一変する。ストリートで殺害された白人の演劇プロデューサー、若返りのインチキ薬を売ろうとして殺された年老いた白人の医者という二つの事件をめぐって物語はめまぐるしく舞台を変えながら進行するのだが、ついに事件の真相は明かされない。そして最後にはピストルを持った盲目の年老いた黒人が地下鉄内で発砲し、さらに地上に出て白人警官を殺害し、あたりがパニックになったところで物語は突然終わる。棺桶エドと墓掘りジョーンズはただ立ちつくすばかりである。通りには白黒友愛派、ブラック・イエス教団、ブラック・ムスリムの3つのデモが衝突している。1968年、キング牧師殺害後の社会状況がそこに読み取れるだろう。「ピストルを持った盲目の黒人」はチェスター・ハイムズの、混沌とした同時代のブラック・ブラザーズへの悲痛なメッセージである。原著の最初のタイトルはBlind Man with a Pistol(その後Hot Day, Hot Nightと改題)。混沌としたハーレムを砕かれたストーリーとエピソードの点描で描くやり方に、ふとグリッサンの『マルモール』(1975年)を思い出した。グリッサンもまた、その「砕かれた小説」でフランス海外県となったマルティニク島の疲弊した社会を告発したのだった。
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 チェスター・ハイムズはホモセクシュアルでもあったが、フランスでアイルランドの女性ジャーナリストのレスリーと二度目の結婚をし、南仏、スペインと移り住み、アメリカに戻ることはなかった。リチャード・ライトボールドウィンに比べて軽量級と評されることが多いこの亡命作家の描くさまざまな逃走線と一貫した問題提起は、ダニー・ラフェリエールに大きな影響を与えているようにおもわれる。ジャズの多用もそうだし(チェスターの小説にはいくつもの鋭いジャズ批評がちりばめられている!)、そもそも『ニグロ...』の登場人物コンビ、「おれ」と「ブーバ」は棺桶エドと墓掘りジョーンズのコンビからヒントを得ているのではなかろうか。
 チェスター・ハイムズは日本では忘れられた作家だろう。邦訳本は高井戸図書館の書庫に眠っていた。さて、チェスター、このへんでさよならだ。ずいぶん付き合ったよ。またいつか会おう...と思ったら、木内徹編『黒人作家事典』に気になる記述を見つけてしまった。なんと、読まなかった『ピンク・トウ』は植草甚一、『黒の殺人鬼』は片岡義男が訳してるじゃないか。こいつは見過ごせないなあ。よし、今年の夏のキャンプでローソクカンテラでも灯して読むことにしよう。