今福龍太 『ジェロニモたちの方舟―群島・世界論〈叛アメリカ〉篇』

 2009年に就任した合衆国初の黒人大統領バラク・オバマは、インディアン強制移住法への謝罪と国家補償を約束し、キューバ東端グアンタナモのキャンプ・デルタを閉鎖した。そこに想起される、奴隷制度、メキシコ侵略、インディアンの掃討という遅れてきた「帝国」アメリカ合衆国の犯した3つの不義。1830年のインディアン強制移住法と1898年米西戦争によるキューバ・フィリピン支配を歴史的句読点としながら時空を自在に駆け巡るディスクールの束は、「帝国への叛乱」の不連続な軌跡をつづってゆく。合言葉は「ジェロニモ」。最後まで白人に抵抗をつづけたアパッチ族の戦士の名は、世界帝国への抵抗のシンボルとなる。生地への帰還を果たせず合衆国の捕虜の身分でオクラホマのシル砦で生涯を終えた男の記憶は直ちにナポレオン帝国に反逆しジュラ山中で没したハイチのトゥッサン・ルヴェルチュールへと結びつき、トゥッサンが果たせなかった「帰還」を試みたセゼール、アリスティド、ダニー・ラファリエールが召喚されるだろう。スペインによるチャモロ族の追放という破壊行為によって人工的に無人島となり、果てはアメリカの手に渡ったテニアン島から発進したエノラ・ゲイは広島を破壊する。エノラ・ゲイパイロット、クロード・イーザリーと往復書簡を交わしたユダヤ人哲学者ギュンター・アンダーズは、1956年に原子力平和利用博覧会が開催される広島の「復興」に違和感を覚える。それは破壊の破壊ではないのか。仮面をかぶった現在が、ほんものの過去を覆い隠してしまう。歴史は過去の方向へ改ざんされている。われわれは幾重にも堆積する惨憺たる破壊の反復から何を学ぶのか。記憶の消し方なのか。その軌跡をたどってわれわれはもう一度フクシマにたどり着く。
 大陸国家が吹聴したオセアニアの島々の「小ささの神話」を、海と群島のビジョンで粉砕するエペリ・ハウオファ。沖縄という土地にアメリカと日本の遠近感を写し撮った東松照明。南米に渡れば何よりもまずネルーダ、そしてチリの経済的ジェノサイドを告発した経済学者アンドレ・グンター=フランク。ドナルド・ダックに仕掛けられる巧妙な文化帝国主義の罠を暴露するドルフマン&マトゥラールの記号論。ブラジルに目を向ければ、「イパネマの娘」の作詞者ではなく黒人によるオルフェウス劇「コンセイサゥンのオルフェウ」を上演(1956年)したヴィニシウス・ジ・モライスと、こちらもまたオール黒人キャストで「ブードゥー・マクベス」を上演(1936年)したオーソン・ウェルズの邂逅。ウェルズの未完のフィルムが追跡する、筏舟(ジャンガーダ)に乗り込み2400kmの荒海を渡ってリオで大統領に直訴する漁師たち。 
 16世紀半ばにスペイン皇太子フェリペ(のちのフェリペ2世)の名をとってフィリピーナスと名付けられた東南アジアの群島に生まれたルイス・フランシアはその群島を語る。そこに重ねられるのはフィリピン・アメリカ戦争(1899〜1913)におけるアメリカ帝国主義の蛮行を告発する晩年のマーク・トゥエイン。最後に回想されるのはジェロニモのゲリラ戦術と、現代の「ジェロニモ」の一人、ポーランドユダヤ人の移民の子として米国に生まれネイティブ・アメリカンの口承詩に向かった詩人ジェローム・ローゼンバーグ。ジェロニモたちが乗り込み群島‐世界へと漕ぎ出す方舟は、すべての冒険者たちに開かれた船である。
クレオール主義』以来の、ずっしりと充実した読書。