POP2*5

過去にはてなダイヤリーで連載してた連載コラムのアーカイヴです。

私が今どきブログを始めた理由

 デビューというのは、難しい。私にとって昨年から気になりながら、ずっと無視を決め込んでいたのがブログだ。1000万人以上がデビュー済みという、今や一人一個のメルアドと同等の、個人情報のプラットフォーム(PIM機能があるものまである!)となっているブログを、一生やらないと決めていたのだ。しかし、今の私は焦っている……(笑)。私は雑誌編集者である。初の発行人を務めた雑誌(プロフィール参照)が、6月30日にコンビニや駅売店、書店に並ぶも、売り上げが伸び悩んでいるのだ。率直に言えば、往時の5倍近くの刊行点数に膨れあがった雑誌を扱う書店にとって、新雑誌など有り難迷惑な存在でしかない。雑誌広告収入を当て込んだ雑誌の創刊など、書店の預かりしらぬ話だ。しかしながら、不況を背景に庶民の雑誌購買習慣が薄れ、雑誌一冊あたりの部数も激減しており、乗じて広告料も安くなるという悪循環。よって刊行点数を増やして売り上げ補填をするのが、収入を維持するための版元の唯一の生き残りの策となっている。
 特に新聞、週刊誌はジリ貧である。速報性を切り札に、月刊誌を追い抜いてマスコミをリードしてきたデイリー、ウィークリー誌は、完全に役割をネットに奪われてしまった。かつて「テレビ欄しか読まない」新聞のライト読者をごっぞり奪い、「日本で一番売れている週刊誌」へと成長した『週刊ザ・テレビジョン』なども、その売り上げが今度は、DVDレコーダーの電子番組表の普及で完全に取って代わられた。だが、すべての紙メディアがそのまま電子メディアに置き換わるってわけじゃない。PIMやToDoリストのように、1日単位で人々の行動を管理することはできても、トップページ以外「前後不覚」のネット界は、長期的計画を準備するのには向いていない。人間は計画して行動しないと不安な動物なのだ。今や週刊版を追い抜く勢いだという『月刊ザ・テレビジョン』や、グラビア主義の『BLT』、完全な後発ながら30万部を売り上げている『TV Navi』などの“月刊テレビ雑誌"は、ネット情報を補完するものとして、新たな役割を与えられているという。そんなことをつらつら考えながら、今が盛んなネットを補完するネット雑誌という発想で作ってみたのがその新雑誌なのだが、まー、世間のネット族の無関心は厳しいもの(もっとも「内容がよければ売れるだろう」というお叱りは、甘んじて受けるつもりですが……)。
 で、早い話、これを売らなければという使命に駆られて、覚束ないマニュアル片手に、私はブログを立ち上げたのだ。先週、飲み会で某著名メディア評論家のT氏の殺し文句が、私の心を動かした。で、一週間後に立ち上げたのが本ブログである。
 ではなぜ、私がブログを躊躇してきたのか? 来訪された方の中で、ここで紹介している拙著から私の名前を類推できる方なら、私が90年代末にやっていたホームページの存在をご存じかもしれない。拙著『電子音楽 in JAPAN』の公式ホームページなるものを立ち上げたのは、日記によれば1998年の暮れのこと。同年8月に刊行された不祥の息子であるこの本は、内容の珍しさから、神保町三省堂の芸術書のランキングで一時は週刊売り上げ4位を記録するなどの健闘を見せたものの、ある事情で2刷りから版元が変わるという珍しい変遷を辿ることとなり、それが主たる理由となって(詳しくは後日お伝えする)、一切書店で扱われなくなってしまうのだ。流通業界のルールによって、完全に黙殺されてしまった拙著のために、それならと恥を忍んで立ち上げたのが、知らない方への書籍紹介を目的としたその公式ページだった。
 ネットに通じた方なら、98年にはすでにISDNの常時接続でバリバリネットサーフしていたのかもしれない。しかし、日本の電子音楽の歴史本を、ちまちまと国会図書館NHK日比谷図書館に日参し、コピー書類の山を整理しながら泣く泣く書き上げた、アナログ派な私に取っては、パソコン通信は知ってても、ネットはまだ未知のものだった。まずHTMLを覚えることから、私のホームページ作りは始まった。出版界に入る前、ミニコミ経験のある私は、このニューメディアの存在にすっかり魅了された。ちょっとしたCGIプログラムを書くなどに本格化し、目標の立ち上げ日には予定以上のコンテンツが仕上がった。当時カウンタが使えなかったBIGLOBEにSSIのカスタム・カウンタを付け、掲示板、Q&A、ウェブメールのプログラムを組んだ。それと、スタート当初から、2日に1回の割合で怒濤のように記事を更新して、来訪者を集めた。個人のマスコミ人のページが、ほぼ日記形式で埋め尽くされていたころで、あえて「私は絶対日記はやらない」という天の邪鬼な考えで、面倒くさい翻訳記事やそれ用の海外電話取材、ミュージシャン取材までやった。だが、“スタート・キャンペーン"などと銘打った1ヶ月の更新期間を履行した後、私はすっかり燃え尽きてしまった。やってわかったけれど、更新ってしんどいものなのね……(笑)。それと、掲示板を情報交流の場として作ってはみたものの、ホストの私がいなければ、そこには何人も近づかないのだ。来訪者A氏と来訪者B氏が勝手に出会い、自然発生的に情報交換が始まるように仕掛けても、結局は私がおもてなしして、来訪者A氏〜私〜来訪者B氏をつなぐという流れに落ち着く。まあ、個人のホームページだから、「どうぞ勝手に遊んでいって」とゲストを残してホストが奥の部屋に消えて行かれても、来訪者には勝手がわからないのも当たり前。もともと、ゲームごとよりそのルールを作るのが好きというのが私の性分。当時のメモを見るに、ちょうど今の「Wikipedia」や「はてな」のようなイメージを、ひとつの理想型として描いていたよう。残念ながら、その後ネット事業者としてIT長者になることもなく(たった5メガバイトのホームページで何を言う!)、しばらくして、すぐに出版界恒例の年末進行に忙殺される日々に呼び戻され、その公式ホームページは私がホスト役を放棄してからは、寂しい残骸となってしまった。
 拙著『電子音楽 in JAPAN』はその後、新たな出版社に拾われて、文字量を1.5倍に増量してCDまで付けた現行版へと生まれ変わったが、公式ホームページに載せていた記事の大半をそれに再収録できたことで、その使命を終えたと考えた私は、2001年11月、公式ホームページをサーバから消去した。書店で改訂版を観た人が、思い出して公式ページに久々に訪れた時、あったはずのページが消失しているというのは一種の“演出"のつもりでもあった(私は平沢進かよ!)。でまあ、そのホームページが消えたことをグダグダと悪口書かれたりがあったりして、無料で奉仕することのむなしさを知った私は、ネットが自治ルールで回っていかないことに虚しさを覚え、本当にその時「もう二度とやんない」と心に誓ったのだ。
 そういえば、よくホームページを立ち上げたとき、知人から冷やかしで「自己愛強いねえ」などと言われたが、いやいや、自己顕示欲はあるけれど、自己愛など人の1/100もありませぬ。ネガティヴシンキング派ですから。だって、自己愛が強い人は、苦労して本なんか書かないから。名刺代わりの本なんてなくても、十分自分を愛せるんだもの。書いていくうちに700ページに膨れあがった拙著を見て、つくづく「自分は不憫だなあ」と思ったものだ。「明日は檜になりたい」という思いが、不安の裏返しとしていつも物量へとエスカレートしていく私は、いうなれば白樺派なのだ。
 「wikipedia」「はてな」などの自治ルールがきちんと機能し、インターネットが独自のメディアへと成長する過程を見てきた私は、個人発信の情報基地としてのブログを、私のわがままのはけ口として再スタートさせることにした。昔は、拙著のテーマページとしてあえて話題も限定していたが、もともと音楽より映画が好きだったりする雑食派である。とはいえ、私は再び、発行人を務めた雑誌を売らねばならない十字架を背負っている。して、「萌え風イラスト」だの「アダルト系読み物」だのと、のっけから欲張って突っ込んでみた。これでページビューが増えなければ、どうすればいいというのだ……(笑)。