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2006-07-27

[]究極の選択>音楽が好きか? 楽器が好きか?

 昨日、フェアライトCMIに関するエントリーで、私の奇妙な楽器愛好歴を披瀝してみた。共感いただける人がどれだけいるのだろう。それが心配だ。心配過ぎて、言葉が足らないのではと、不安になってまた性懲りもなく続きの話を書いてしまう私だ。

 『電子音楽 in JAPAN』なんて本を書いちゃうぐらいだから、10代のころから楽器についてはひとかたならぬ興味を持っていた。だが、地方に住んでいたので楽器について教えてくれる人などまわりにいない。近くの楽器店に一台だけヤマハシンセサイザー(CS10)があったのを、まるでJACCSカードのCMの黒人の子供みたいに、ショーウィンドーに顔をひっつけてヨダレだらだらにしながらいつも眺めていた。お金もないので、当時は音楽雑誌や無線雑誌で知識を得ていたわけだが、所詮パッチワークに過ぎない知識だから、勝手な解釈がいっぱい入っていて、あとから困った……(笑)。『Techii』編集部のころは、楽器店やスタジオ取材の担当をやっていたので、会う人会う人にいろいろ質問していた。しかも「音の原理」などについてだ(笑)。ずいぶん変な趣味のヤツだと思われていたようだが、「楽器の話が好きな音楽バカ」というのが珍しかったので、案外可愛がってもらえた。意外に思われるかも知れないが、楽器好きの音楽ジャーナリストって、当時も今も、結構珍しいのだ。

 私が高校生ぐらいの時に、『ミュージック・マガジン』に颯爽と登場した、新しいタイプの音楽ライターが高橋健太郎氏だった。例えばヒップホップの生起について、楽器の進化史などを検証しながら語るというような書き手は、同誌では初めてだったと思う。その後、半分断筆みたいにして、40歳にしてバンドを結成したり朝日美穂のプロデュースを手掛けたりと、音楽制作という“送り手側”に回られた高橋氏だが、それも氏らしい行動で、音楽とテクノロジーとの関係について昔から思慮深い考察をお持ちだった。一昨年の「輸入権騒動」の時、多くの音楽ライターが無関心を決め込む中で、いち早く業界に警鐘を鳴らしたのが高橋氏だったというのも道理だろう。ともにアホみたいに輸入盤を買っていた、私と友人のメディア評論家・津田大介氏とで、「輸入権」についてはかなり早い時期から取材に取りかかっていたのだが、高橋氏が官庁に抗議行動を取られた時は心強く感じたものだ。また、その時の幹事役をやっておられたのが、『Digi@SPA!』でも原稿を書いてもらっている小野島大氏だった。氏もまた、業界では珍しいオーディオに詳しい音楽ライターである。オーディオに詳しい人というのは昔からいるが、そういう人は決まって、装置は豪華な一級品を取り揃えながら、レコードラックには松田聖子のベストとか喜多郎の『シルクロード』とかが数枚あるだけで、いつも私をがっかりさせた。教養というのは、カタログに載っているオーディオパーツみたいにお店では買えないのだ。

 これも意外に思われると思うが、テクノロジー×音楽の権化である「テクノポップ」系のライターの人で、私がこれまでお会いした同業者を見回してみても、楽器好きの人はほとんどいない。これは未だに私の中の疑問であり、また孤独を感じる最大の理由でもある。だが、出版界にしてもそうだ。実は私、高校時代に読書感想文を書いて校内で選ばれるような子であった。自意識に目覚めるのが早かったので、どういう感想文を書けば教師が喜ぶのかがわかっていた。だいたい、読書感想文などマジメに書く生徒なんて普通はいない。せいぜいあらすじが関の山だ。新聞で読んだ社会情勢や自身のステートメントをちょっと織り込めば、コンクールで選ばれるのなど簡単なことだった。だから、私が出版界の門を叩いた時、この世界は自分のような、各校の読書感想文コンクール優勝者が選抜で集まってきたような世界だと思っていた。しかし実情は違った。書くことが好きな人よりも、テレビ局や広告代理店の入社試験に落ちたのでこの世界に入った、という人のほうが実際は多かった。

 ともあれ、それほど物珍しかった「楽器好きの音楽バカ」が目の前に現れたのだから、創刊されたばかりだった『Techii』編集長が、他社の社員であった私にラブラブファイヤーしてきたのは道理であろう。

 「楽器好き」というのもまた、ある一面で偏向者だと思われることが多い。実際、『Techii』時代にスタジオ取材で会った人にも、シンクラヴィアなどの最新デヴァイスには人一倍詳しいのに、聴く音楽はレッド・ツェッペリンイーグルスで止まっている人というのがずいぶんいた。海外のニュー・ウェーヴの動向が気がかりという人よりも、酒や女への関心が強かった人のほうが多かったように思う。そんな中で、一握りの「音楽好き」という存在が、大瀧詠一山下達郎などのナイアガラ一派や、YMOムーンライダーズのメンバーだったのだと思う。それが後に、ピチカート・ファイヴフリッパーズ・ギターの時代になって、やっと初めて「音楽に疎いミュージシャンって恥ずかしい」というような逆転現象へと結実するのだ。

 私が構成を担当したYMOのインタビュー集『OMOYDE』で、「自分自身でMC-4を打ち込み始めた理由は?」という質問に対し、細野氏が答えた「コンピュータを自分で打ち込まないと自分の作品にならないと思った」「(コンピュータを使うというのは、文系的なロマンティシズムの所産であって)理工系のアンチロマンなんかじゃない」という発言はとても暗示的である。ロックンロールの発明者の一人であるレス・ポールは、一方では機械ヲタとして有名で、“多重録音の始祖”と呼ばれ、アンペックスにマルチトラック・レコーダーを作らせた張本人である。ディズニーの『ファンタジア』の音楽監督だったストコフスキーは、晩年はオーケストラをコンソールのように操作することにご執心だったという。ラジオ文化の草創期に活躍したビング・クロスビーが、アンペックス社のテープ・レコーダーの1号機のオーナーだったこともよく知られているし、監督、出演から音楽まで務めた“全身映画家”であったチャップリンが、RCA社のテルミンに興味を持ち、いち早く2台購入していたという事実も、理由はなんとなくわかるような気がする私なのだ。

 地方に住んでいた私にとって、雑誌が唯一の情報源だったわけだが、今考えるとユニークな時代だったと思うのは、『ロッキンf』『プレイヤー』といった当時の雑誌に、ごくごく普通に、「エフェクターの作り方」といったハウツー記事や電子基板の見取り図が載ったりしていたということだ。イギリスの最新事情をチェックするのと同じようなノリで、ハンダゴテで基盤を作ったりするというのが、割と当時のロック少年にとって普通な時代だったのだ。いや、なにも理系の知識の水準が今よりも高かったというわけじゃない。エフェクターなど、気軽に手に入るものがまだ少なくて、海外のレコードで聴けるような音を出すには、エレキットで自作するしかなかったのだ。だって、YMOの『テクノデリック』が発売された後の『ロッキンf』の特集が「君にも作れる、LMD-649の回線図」だもの(笑)。それほど、当時のテクノポップ・ファンというのはけっこう逞しかったのだ。

 それは、一般の音楽ファンだけの話じゃない。YMOが『BGM』の制作時に、ドラム音をリヴァーブに通してそれをノイズ・ゲートで切るという、「ゲート・リヴァーブ」というドラム・サウンドを実践していた時、ミリコンマ単位でタイムを調整できるような海外製のノイズ・ゲート(キーペックス)があったのは、アルファのスタジオAだけだった。そもそもレキシコンのデジタル・リヴァーブ自体が高価で、都内のスタジオにもわずかしか存在しなかった時代なのだ。だから、YMOのサウンドがアルファレコードから登場したのは、歴史の必然だった。『電子音楽 in JAPAN』で私は、これまでのYMOヒストリー本で語られたことがなかった、そんなテクノロジー側から見たYMOの姿にスポットを当ててみた。それは同時に「スタジオAが使えなかった同時代のテクノポップ系グループが、では、どうやってそのサウンドを獲得したのか?」という疑問となって、取材時の私を駆り立てることにもなったのだ。