POP2*5

過去にはてなダイヤリーで連載してた連載コラムのアーカイヴです。

課題をもらったので、iPodによる音楽業界の影響について考えてみた。

 ドラマ『のだめカンタービレ』第1話を見た。視聴率的にも健闘したみたいだし、まずまずといったところか。フェアじゃないかもしれぬが「ありものをドラマ化した」ということで、先週スタートした長澤まさみ主演『セーラー服と機関銃』と比較しちゃうと、やっぱりTBSのほうが巧いよね。薬師丸ひろ子の主題歌を長澤まさみにそのままカヴァーさせたり、現代的な脚色も抑えておもいっきしベタに作っていたが、変なアングルの技巧はスパイス程度で、ドラマがしっかり描けていたもの。「原作はマンガ」ということで、『のだめ』ではストップモーションでCGの涙を付け足したり、蠅の大量発生やゲロを映像化していたけど、ドラマがあまりに急展開すぎたので、そこだけが絵として立ちすぎていた感じ。これみよがしに『アリーmy Love』のマネして興ざめした『バス・ストップ』のころよりは、不自然さがなくっていたのは成熟した印象はもったけれど。
 問題は、狂言回し役である千秋真一役の玉木宏か。残念ながら、思っていたより“内省演技”ができてない。ブツブツと自己言及するタイプにはとても見えないのだ。あと「まくしたてる演技」というのができないというのは致命的。これは滑舌の問題なのか、もっと根本的な声質の問題なのか。 市川崑がリメイクした映画『八つ墓村』で金田一耕助を演じたトヨエツも、スチールを見た時は「オオッ!」と思ったものの、映画を観てその裏返ったハイトーンの声が終始気になって仕方がなかった。私が「声優好き」だからよけい耳についてしまうのかも知れない。だけど、ドラマにおける「声の演技」の選択眼って、もっとシビアにならないものかな。
 「まくしたてる演技」がめっぽううまいと言えば、これも長澤まさみである。この子は、気分屋な現代っ子やブスな演技をさせると天下一品。古厩智之監督の映画『ロボコン』の前半部は、「長澤まさみをブスに撮る」ということで成功した作品である。おそらくプライベートでの長澤は、ブスったれたそぶりは見せないむしろ優等生タイプで、これは彼女の観察眼のなせるワザなんだろう。「フントニモー」とか、ふくれっ面でこれだけ愛くるしさを醸し出せる女優は希有だと思う。同じ“自然体派”としてならしていた広末は、かなりあざといと思ったし。そのへん、いつもよっぱらって見える泉谷しげるが、実は下戸(酒が飲めない)なのに、あまりに堂に入っていて飲んべえが見ても本気にしちゃうのと同じみたいな。
 その点、上野樹里はかなり本人に近い天然キャラで演じていた。彼女はもともとルックスが「のだめっぽい」ので、今後の役作りに期待したいところ。もともと、のだめのキャラクターや動きのオフビートな感じは、マンガ特有の世界で創造された感じがあるから、ドラマにそれを持ち込むのって、よほど演技力があっても難しいだろう。今回のドラマ版は、先ほどのCGのようにマンガのタイム感を、人物の動きにおいてもそのまま再現する方法で、ドラマに馴染ませるというような模索の仕方をしていた。これはこれでアリだと思う。でもどうせなら、同じフジなんだから『翔んだカップル』『翔んだライバル』みたいな軽佻浮薄さというか、鈴木則文が撮った『伊賀野カバ丸』ぐらいに、ナンセンスでファンキーに弾けてたほうが、ごまかしが効いたかもしれない。
 昔、映画のビデオを見ながら絵コンテを切ってみたことがあって、映像と絵(マンガ)というものの表現の可能性の差って、けっこうあるものだなと思った。映画、ドラマとマンガって、表現として本当に別物なんだよね、上下関係があるわけじゃなくて。実は、ストーリー運びのほうは、ある程度メディア特性に合わせたトランスレートが不可能じゃないと思っている。オノマトペだって、ノワールやパルプ小説的なムードだって、それをCG技術で持ち込む方法がすでに確立している。だけど、キャラクター造形だけは、そのままの置き換えが難しいと思う。かなり役者の演技力によるし、そもそもキャストがハマるかにつきると思う。そういう意味で長澤がのだめをやったら、どんな感じになるんだろう。いや長澤は賢いだろうから、ホントは絶対ハズさない役だけをチョイスしているのかもしれないな。そういう意味では、ルックスがまるでのだめな上野樹里が、今後このドラマを当たり役としてキャラを成長さえてくれるかどうかにかかっている。『ジョゼと虎と魚たち』から彼女を見てるけど、上野樹里ってああ見えてかなり野心家のように思うので。17歳であれだけの濡れ場を演じたのは凄いと思う。ブス可愛い感じは、往年の藤真利子を思わせるところもある。違うってか……。
 タイトルと話題がいきなり乖離してしまった。今回はiPodについて書いてみようと思っていたのだ。このブログの読者の方から、「iPodについてどう思うか?」という課題をいただいたのである。ちなみに、メールの主によると、我が先輩ライターの湯浅学氏に同じ質問をぶつけてみたら「音楽を聴く選択肢が増えることはけっこうなこと」と答えたらしい。これは湯浅氏らしい、希望のある答えである。あの人はロジックに埋没しない実践派だから、あくまで自身の体験から言ってることなんだろう。iPodについて問われることは、私にとって名誉である。なにしろ私、iPodは初代から使っている筋金入りである。音楽を仕事にしているような友人からも、最初に買った時は白眼視された。それほど、最初の1代目を買った人は珍しかったということだ(最初はMacオリエンテッドだったから、今考えればそれだけWinユーザーが多かったということなんだろうね)。未だにカセット部分が壊れている10年前のコンポを使っているぐらい、私はオーディオ機器にこだわらない人間である。新製品を出たら買うみたいな習性がないことは仲間内でも周知だったので、iPodを買ったときは「何で? 何で?」とよく聞かれたものだ。いや、そのへん天の邪鬼だから。人が買わないって聞いたから買ったのかもな(笑)。iPod業界標準機になってから知ったら、迷わずネット・ウォークマン買ってたと思う(ウソだけど……)。
 iPodが登場するずっと前から、PC上で音声ファイルを扱うという経験はあった。私が最初のマック(II CX。すごいでしょ)を中古で買ったのは90年のこと。当時PC-98などの主流パソコンのサウンド機能が、ほとんどFM音源を準拠にしていたのに対し、マッキントッシュは84年の登場時からすべて、マシンから出る音がPCMサウンド(サンプリング)だったのだ。外部音声入力ツールもすでに持っていたので、起動音を「笑点のテーマ」に差し替えるなんていうカスタマイズも一通りやっていた。このへんはマックユーザーの特権であった。でも、私が使っていた当時のマックのハードディスク容量はわずか45Mバイト。ファイル形式はAIFF(無圧縮)が標準だったから、モノーラルの音でも数秒で十数メガが埋まってしまう時代だった。マックにはもう一つ、今のjpegみたいに、「音色」を時間的な波形の変化の差異でのみ記録するAD-PCMという、汎用性のない軽量ファイル形式もあったけれど、こちらはかなりジャリジャリした音になった、実用性という意味ではまだ、無圧縮方式ぐらいしかなかったのだ。
 mp3ファイルのことを知ったのは、ナップスターが日本で紹介されるのとほとんど変わらないころだから、かなり遅かった。ていうか、90年代初頭からマックを使っている人間だと、PCをジュークボックスに使うという発想なんて、あり得ないという先入観があったから。だからmp3圧縮を最初に体験した時は、AIFF(無圧縮)のわずか1/10のサイズで同等の音が再現できることに驚いた。友達の持っていたシリコン・オーディオ・プレーヤーを借りてきて、入れて聴いてみたこともある。当時交わされていた評価話で覚えているのは、「ハイハットの音がチリチリとよれる」という、高音域の再現性が弱点ということぐらいかな。当時のシリコン・オーディオ・プレーヤーの大半がまだアジア製品だったから、あまり現実的にそれを受け止めず、かなりゲリラな世界の風景のように思っていた。それがよもや、世界の音楽産業を揺り動かす革命になるとはつゆしらず。米軍のサープラスの汎用メモリを使って生まれたサンプラーが、遠くオーストラリアの地で産声を上げたみたいに、新しいテクノロジーの逆襲は、いつも辺境の国からもたらされるという図式なのだな。
 iPodの1号機を買ったのは、出てすぐの正月だったと思う。前評判では「誰が買うんじゃ、これ」と言われていたが、実際は出てすぐから評判を呼び、品薄で入手が難しかったのを覚えている。当時はハードディスクが5Gタイプ一種類しかなく、たしか1台5万円もした。それでも私が買うと決意したのは、単純に私が食費を削ってでもCDやレコードだけは買うという、音楽以外に趣味を持たない極端な性格であることを自覚していたから。それだけ音楽漬けな人間なんだから、神様もこの散財だけは許してくださるでしょうってことで。
 ウォークマンに代表されるカセット・テープ時代のポータブル・ステレオは、とにかく振動に弱かった。もともと脆弱な小型モーターで動いていたから、ジョギングなどをしながら聴いてるとワウ・フラッター(回転ムラ)が酷くて聴けたもんじゃなかった。ポータブルCDプレーヤーが出てからも、モーター駆動製品であるのは同じなので、振動に弱くて、よくレーザーのピックアップが誤動作して音が途切れることが多かった。ショック・アブソーバーがついても、大した改善にはならなかった。後にメモリーにロードすることでギャップレス再生できる機種も出たけれど、当時はまだメモリが高価だったから、ポータブルCDプレーヤーなのにかなり値段が高かったと記憶している。
 PC上でリッピングしてその音声ファイルを転送して聴くタイプの、モーター・ドライブを搭載していないポータブル・オーディオを最初に体験したのは「Rio」だった。フラッシュを記録媒体にしていたので、当時は“シリコン・オーディオ”と呼ばれていたものだ。モーター駆動がないから、どれだけ振っても音が飛ばないのは驚異である。しかし、当時のシリコン・オーディオは大半がアジア製だったため、PCやDOS機で動いていたウィンドウズ対応のものばかりで、マック・ユーザーには縁のない話だった。当時の標準的な接続端子は、すでにUSBだったのかな? 一部、マック対応のものもあるにはあったが、まだマックがUSBにそれほど対応していなかったためか(アップルはFirewireという、もっと高速なインターフェイスの標準化を目指していたのだ)、その時調べたら、シリアル接続のものが1台あるだけだった。シリアルだって(笑)。3分のmp3データを転送するのに、時間にして8分。まるでYMO時代のMC-8のテープロードみたいな、とても現実的じゃない話だったのだ。
 iPodのインフォメーションがもたらされたのは、すでにシリコン・オーディオに片想い初めていたころ。しかも転送方式がFirewireなんですって! 1秒間で100Mってことでしょう(理論値的に)。アルバム1枚分転送するのに、1分以内で終わってしまう。なんて素晴らしいこと(といいつつ、当時のAIFF→mp3への変換速度は2〜4倍だったから、mp3変換時間と転送時間を入れると1時間ぐらいになったわけだが)。
 レコードやCDをそのまま直に再生するのではなく、テープに録って聴くというのは、すでに私の生活において習慣化していた。レコード時代は、盤の扱いがデリケートじゃなかったもんで、ダビング中に針が飛んでやり直しなんてこともザラにあった。テープ作りも、だから選曲といった音楽的なことより、ダビングなどの実作業的なことに取られる時間のほうが大きかった。カセット・テープ時代は、片面が2分ぐらいあまると、そこにきれいに収まるような短い曲を探して入れるような気配りも発揮していた。まあそれほど、「音楽的なことじゃないこと」に犠牲を払っていたのだ。
 人によっては、マイ・テープをもっと凝って作る人もいる。ラベルもレタリング・シートなんか使ったりして。しかもそれは素敵な自分へのプレゼントで、「for me」なんて書いてある(笑)。一方、生まれついて自己愛を持ち合わせないタイプの私は、ただ生活空間を埋めるためのBGMとしてテープを作っていた(選曲というより、嫌いな曲をオミットする行為というほうが言い得てるかな)、飽きるとしょっちゅう消して新しい曲をテープに上書きしていた。iPodが素晴らしかったのは、テープ・メディアのようにリニア(一方向性)じゃないので、飽きた曲だけをつまんでポイして、代わりに新入荷の曲をリストに後から加えられるということだ。すでにテープ作りに対しても飽きつつあったズボラな私にとって、これは福音であった。
 初代iPodは「5万円!」という高価さもあって、実際にチタンボディは重かったが、それ以上の重みを感じた。ハードディスクも低騒音だし、ボタン・オンで即音が立ち上がる即応性にコーフンさせられた。小さいナリをして、高級オーディオ感バリバリだったのよ。しかも、何度聴いても音が劣化しない、これがポイント。それまでのカセット・テープの時代は、100回もリバースで聴いてればテープは昆布状になっていたから。しかしその分、たとえコピーであれ、あのころは1曲1曲を一生懸命に聴いていたのかも知れないな。
 iPodに実装されていた、もう一つの革命的な機能は、プレイリストとシャッフルである。いずれも、ノン・リニアな構造が生み出した、新しい活用提案であった。iPodがあの時代に、横並びの「Rio」などより少し大容量な1Gあたりで妥協せず、当時としては大容量だったいきなり5Gバイトで商品化したのも、それが理由にある。これなら、普通の人なら持っているCDを全部入れても十分なサイズだ。あとはプレイリストで、「天気のいい日にかけたい曲」「ジョギングBGM」などの個別の選曲を作っておけばいい。もっとも私の場合、すでに5Gじゃとても足りないほどCDが家に溢れていたので、変換時間短縮の意味もあって、最初っから必要な曲だけを入れるようにしていた。すでにCDの聴き方はかなり雑になっていて、買っても全部は聴かずに、1、2曲いいと思った曲だけをピックアップして愛聴するような生活を送っていたのだ。それは今でも変わらなくて、今は20Gある5世代型を使っているのに、だいたい容量は2Gぐらいでいつも足りる感じである。
 自己愛の薄い私は、今でも「for me」な感じのプレイリストなんかつくりはしない。けど、自分大好きな人なら、凝ったコンセプトの選曲が簡単に作れるプレイリストは、いい玩具になるだろう。実際、プレイリストという言葉は一時の流行語にもなった。『ブルータス』『リラックス』などの雑誌で、よく有名人のプレイリストが紹介されたりしていた。マガジンハウスの編集者の人はたぶん、そのころ世界一プレイリストな人たちだったと思う(今はたぶんマッシュアップな人たちだと思う)。カリスマ・デザイナーのNIGOのプレイリストなどが公開されると、それを再現すべく、ソースの収録されたアルバムを遡って買う信者も多かったと聞く。桑原茂一氏が掲げた「選曲」がビジネスとして確立したのは、真にそのころだったのかも知れない。
  アップルが運営している音楽配信iTMS」もそのへん目ざとくて、マイ・ミックスというページでは、有名人が選曲したプレイリストが公開されている。それをそのまま、オムニバス・アルバムのように購入できたりするのがミソだ。iTMSにエントリーされている曲から選ばれているから、ソースが入手困難で探し回るってこともないし。その後、「プレイリストな気分」を自分から発信したいユーザーの心に火を付けて、それが大衆化するのはあっという間だった。皆がamazonのリストみたいに、音楽のコンシェルジュになりたがった。もはやプロかアマかの差など眼中にはない。CDも100枚ぐらい溜まったあたりが、もっとも自己顕示欲が強まるころ。人に影響を与えたくてしょうがない。アップルの大看板の下で、そんな表現者の一人になれるわけだから、たまらんでしょう。一時、出版界が不況だと言われ始めた90年代中頃、書籍ランキングの4、5位に「白い本」「白い本デラックス」が並んだことがあって、私ら編集者を戦慄させた。「作家は、そう、あなたです!」とかいうコピーを付けて売られていた、中は白地のノートみたいな本である。普通の単行本でも、装丁作業のために「束見本」という、同版型の白い本を最初に作るのだが、いわばそれをただ商品化しただけのものである。それが活字本より売れて、版元もウハウハという現実に卒倒してしまった。今のブログ・ブームだって、一番大儲けしているのは、人の自己愛をネタに金集めしている胴元だからね。
 選曲家という商売はそれまでも存在していた。高度な音楽知識に裏打ちされたプロの選択眼によってそれはなされ、権利処理を含めた専門家の領域であった。DJも曲つなぎやエフェクトなど、鞄持ちから始めた10年選手ならではのいぶし銀のテクニックによって生まれる芸術行為だった。ところがiTMSのマイ・ミックスの登場で、誰でも表現者になれる時代になった。渋谷系に端を発した、90年代のクリエイター・ブームのころも、イラストレーターやデザイナー、ミュージシャンが大量発生したが、中でもヒロミックスの存在で一躍脚光を浴びたのが写真家だ。渋谷の街中で、ライカの高級カメラを持ち歩いている少女たちもたくさんいた。カメラによる表現は、イラストや音楽のような技量が必要なかったから、自己表現に恋する自己表現者たちにとっては、格好の自己表現方法だったと思う。
 マイ・ミックスの試みは評価できるものだが、「選曲家のような気分」が大衆化されたことで、それまでのプロの選曲家の地位が低くなってしまうような側面も生まれた。たしかに、ディレクターの覚えめでたい世渡り上手が作った、イージーな選曲盤も多かったから、そういう連中に独占させないためにも、既存の価値観にシャッフルをかけるのは有効だと思った。だが実際の選曲作業というのは、権利のクリアランスも含めた「大人の事情」によって、すべてが決定づけられている。というか、そういう「大人の事情」がまるでなにもなかったかのように立ち居振る舞うのが、プロの仕事なのだ。あなたがマイ・ミックスで作ったプレイリストがすでにあったとして、それを1枚のオムニバスとしてCD化したいと思っても、まずほとんどの場合がNGである。以前『イエローマジック歌謡曲』のエントリーで書いた通り、自社原盤比率を守るだの、「混在してはいけない曲リスト」だの、アーティスト本人の意思でオムニバス収録は不可だの、様々な制約が存在する世界なのだ。もっと昔は、1枚のディスクに他社同士の音源を混在することすら日本では許されなかった。アーティストのベスト盤でさえ、そこに移籍する前のヒット曲はリレコーディングされたり、ライヴ盤から拾ったりするのが普通で、レーベルまたぎのベスト盤なんて作れなかったのだ。
 拙者が選曲を務めた『イエローマジック歌謡曲』『テクノマジック歌謡曲』が完成するまでの顛末は、過去エントリーで紹介済みなのでそちらをお読みいただきたい。まあそれぐらい、一筋縄ではいかない世界なのだ。amazonを見ると、とにかく評価が手厳しくて閉口してしまう。「細野のベース参加曲だけで作るとか、そういうコンセプトが欠落している」……1曲100円以下という廉価コンピだから、そういうマニア向け商品じゃないことはわかるはず。大量生産のユニクロのフリースに、オートクチュールみたいな希望を言ってるみたい、それ。「某社の歌謡テクノコンピと半分以上被っている」……うそおっしゃい。「選曲コンセプトの説明がない」……入れられなかった曲のいいわけをたらたら書くのって、商品としてそれどうなの? あえて序文でいいわけせずに「聴いて気持ちいいエンタテンメント」として商品化したってのがコンセプトなんです、ってんじゃ説明になってないのかな。
 私が業界人だからかも知れないが、他人がやった仕事を見て誰でもわかる不備があるとき、その欠陥が生まれたことに「きっと何か裏がある」と思うクセがついている。だから、選曲家本人と合う機会があると、その問題点を指摘しつつ「ひょっとして×××みたいな事情あったりして」と聞くと、やはりちゃんとした理由が存在している。でも、普通の人はそうじゃないだろうから「大人の事情」なんて想像する余地もないだろう。しかし、社会人経験がある人なら、どんな場合にも結果には原因が存在しているってことは、誰でもわかる話だと思う。むろん感じたまま、急いでamazonのレビューに書いて、それを嬉々として断罪することも、消費者としての当然の権利ではある。だが、高級な消費者とそうじゃない消費者ってのは、歴然としてあると私は思う。中には「この選曲には、ひょっとしてこういう裏があったりして」なんていう想像力逞しいコメントが載っていて、それがけっこう現実を言い当てていたりすると、こちらも降参。グウの音もでない。努力しなければとホントに思う。だけど、そうじゃない短略的なクレームが、作り手の刺激することなんてほとんどない。ヒマだから電話してみたクレーマーと、作り手に与えるフィードバックの影響力が皆無なのはほとんどいっしょ。「4200円払ったんだから、重複曲分金返せ」……全部、自分でオリジナル音源集めればいいのに。「消費者のほうが立場は上だ」……はい、そうですか、トホホ。
 ええい、どうしても現実を直視するとグチっぽくなる。いかんいかん。話を元に戻して、ポータブル・オーディオの話だ。元々、応接間で聴くのが普通だったオーディオを野外に持ち出してみたいという欲求はそれまでも存在していた。79年に最初のウォークマンが登場するまでは、レコードは応接間の大型コンポか、子供部屋のラジカセで聴くのがほとんどだった。実はまだヘッドフォンもいまほど精度がよくなくて、いいものは結構高かったから、基本的にスピーカーで鳴らすことのほうが多かった。新譜を買ってきたら丁寧に中身を取り出して針を乗せ、四畳半で正座してライナーノーツを集中して読みながら聴くのが正しい鑑賞法だった。聴きながら音楽の世界に身を預けて、ヴァーチャルな密林のジャングル体験や宇宙旅行にトリップしていたのだが、あくまで起点は四畳半。思うにドラえもん的なSF体験なのだな。
 私が最初にポータブル・ステレオを買ったのは、おそらく上京してすぐの84年。学校に行く道すがらの1時間をつぶすために買おうと決意し、ソニーのは割引率が低かったので、中身が同じOEMのアイワのプレーヤーを買った。確かに、生まれて初めての屋外でのハイファイ体験は凄かった。『時計じかけのオレンジ』のサントラかなんかを、新宿の街中の信号待ちのスクランブルなんかで聴くと、まるで自分がサイコパスにでもなったような陶酔感があった。去年、初めて5.1チャンネルのサラウンド装置を買ったのだが、それでDVDを見直したら、映画の印象がまるで変わってしまった。よく視覚9割、聴覚1割なんていうけれど、映画の印象を決定づけている要素として、実は音が半分以上占めてるのではなかと思ったほどだ。それほど、聴く環境の変化というものが、音楽を聴く価値観に揺さぶりをかける効果は大きいと思う。「レコードを買わない人種」と言われた日本人が、90年代になって年に20本以上ミリオンが出るほどの音楽消費大国になったのは、確実にこの「聴く空間が広がったこと」に影響されていると思う。
 ウォークマンの成功に触発されて、一時、屋外でレコードが聴けるポータブル・プレーヤーという無茶な商品も発売されていた(下イラスト参照)。ウォークマンだって、元々70年代からデンスケ(当時のオープンリールの小型テープレコーダー)とヘッドホンをして銀座の街中で“ウォークマン体験”していた、ムッシュかまやつひろし)に触発されたって説もある。当時のヘッドホンがまたでかくて、デッキの電源が重かったから、写真を見るとマヌケなことこの上ない。だが、そういう無茶を承知で実行することこそ、発明の母なのだ。



 その後、満を持してCDウォークマンが登場。テープ時代のヒスノイズなどの問題がなくなり、初めて「ハイファイを屋外に持ち出す」時代になった。六本木ヒルズができたばかりのころ、ツタヤでCDを買った客が、スタバに入って早速開封してCDを聴いているというのが風物史化していたことがあった。せっかちな日本人らしい光景である。昔LPレコードのころは、予約して手に入れたお気に入りのアーティストの新譜は、家に帰って着替えて風呂に入ってウンコして、精神を整えてから初めて聴くものだった。最初に針を乗せる瞬間は、真剣白羽取りのような、儀礼であった。それまでの時間は、むしろワクワクをより長く楽しんでいた感じだ。しんぼーたまらん、と焦らすぐらいがベターであった。アルバムタイトルや曲名を見て、どんな感じの曲だろうと自転車で帰る道すがら、想像してみるのも楽しい行為であった。実際、その時に思いも寄らぬ名曲を勝手に作曲してしまって、後に自分の曲として完成しちゃったこともある(笑)。それぐらい、レコードを買って聞くという行為の一回一回が濃密だったのよ。
 先日、友人で『エロの敵』の著者であるライターの安田理央氏の事務所に伺った時、彼が入ったばかりだった噂のナップスターを見せてもらった。タワーレコード傘下になって息を吹き返した、この有名な音楽配信ブランドは、お金のないユーザーが音楽をもっと気楽に楽しめるように、定額制で150万曲すべてが聴けるサービスとして先日スタートしたもの。iTMSの革命とはまた別の訴求力があって、確かにこれは凄い。これを自分が思春期に手に入れていたら、確実に勉強などしなくなる「悪魔のツール」だと思った。だって、今でも好きすぎて仕事しなくなるだろうからって、昔の名作ドラマやってるCS放送に“あえて”入ってないぐらいだから(笑)。でも、可処分所得が少し増えて、CDを「大人買い」できるようになった今は、買ったけど聴いてないというCDが山ほどある。そんな私だから、月額固定のナップスターに入っても、結局1ヶ月一回も聴かずに終わってしまうなんてパターンになりそうだな。ああ、生まれるのが早すぎたのが、幸いなのか、不幸なのか。
 さて、シリコン・オーディオが主流になって、カセット・テープ時代のような音の劣化を気にせず聴けるようになったと私は書いた。音楽はそうして、水や酸素を摂取するような、気を遣わずに聴けるものになった。これには、もっと別の観点からプラスの部分もある。睡眠学習ではないが、無意識で聴くことで得られる知識というものもあるのだ。私は昔からピアノ、ギター、キーボードなどが弾けたので、初期から作曲の真似事みたいなことをやっていた。まだ、今ほどポップスの作曲法がマニュアルとして書籍化されていなかったし、坂本龍一氏に象徴されるようなテンション・コードの魔術は、70年代にソウルの文脈からポップスに応用され始めたばかりで歴史がなく、まだプロでさえ体系化できていないという時代だった。「なんでこの曲って気持ちいいんだろう」と、コードの解決などを聴いて再現してみようとも、ヴォイシングなど見当も付かないし、メソッドも謎だらけだった。それが、作曲中にうっすらとでも見えてくるようになったのは、音楽をたくさん聴くようになってからだ。あるレヴェルまでリスナー体験を重ねると、記憶の引き出しの中から展開のための参照例を自然と引き出せるようになる。あくまでステレオタイプなベタなコード展開ではあるが、それを当てはめてから変化を付けるのも早道だ。昔の人が「レコードをすり減るほど聴いた」というほど、一つの作品にめり込んだことはない。そんな根性なしの私にとって、日々iPodで浴びるように音楽を聴くことによって、わずかではあるが作曲術のなんたるかを学習していったような感触があるのだ。
 先日発売された最新型のiPodは、キーワード検索ができるようになるなど、今も確実に進化しながらモデル・チェンジを重ねている。ヴィデオが観れるというのも大きな躍進だが、こちらはあくまでオマケ程度だろう(とにかく電池の消費が早すぎて、どーも)。映像を扱うなら今はワンセグ・チューナーが必須で、そちらは東芝のギガ・ビートが一歩業界でリードしている。ワンセグ放送は、ステレオAMみたいな日本独自規格だから、米国標準のiPodが日本向けのカスタムとしてワンセグ機能付きのものを出すなんてとても考えられないし。ソフトバンクが計画していた、「iPod機能埋め込み携帯電話」の計画も、結局実現できなかった。「iPod+携帯」の2台をジャラジャラ持ち歩くことを推奨してCMやっているけれど、これじゃNTTドコモが一体型の売り出しで本気出したら、iPodのシェアはアブナイかも。
 iPodについて考えることは、すでにiTMSについて考えることと同義で、ある意味ではiPodは単なる「iTMSオフィシャル端末」という下位な位置づけでしかないのかもしれない。その昔、ネット・ウォークマンiPod流行に対する策として、mp3に対応するという噂が出回ったことがあった。ちなみにウォークマンが採用しているファイルは、MDと同じ圧縮規格である、セキュリティに優れた自社開発のATRAC3である。アップルのiTunesという音楽ブラウザが、今や業界標準化してしまったが、USBを接続すると自動的にPCと端末が同期するのは、これとiPodの組み合わせだけ。それと同等の機能をウォークマンに持たせたら、おそらくシェアはiPodと逆転するかもと思われていた。というのも、今やアップルに開発力はなく、ほとんどの製品が日本メーカーなどのOEMパーツの寄せ集めだからだ。ソニーの技術力は未だ衰えず、電池の持ち時間も30時間という、iPodの優に3倍もある。だがソニーはグループの見解もあって、ウォークマンをmp3陣営に解放することをしなかった。ソニーの凋落の一端として「ウォークマンの失墜」が言われることがあるが、このあたり、技術者に忸怩たる思いがあったんじゃないかと思う。Moraなどのグループ全体のネットワーク構想を引き立てるために、mp3への発展性をクローズされたことで、ウォークマン再生のタイミングを逸してしまった部分もあるんじゃないかと。ソニーには、iTMSより先に始めたネット配信のMoraがあり、そちらはATRAC3という自社圧縮規格が使われている。だからウォークマンは結局、iTMSブームに背を向けて、「Moraオフィシャル端末」の運命を引き受けざる得なかった。
 無論、ソニーが敵陣営に回ってしまったことは、アップルにとっても残念なことである。依然ソニー・グループのカタログがごっそり欠けているiTMSを充実させるために、アップル側も何度もソニーにアプローチはし続けてきたらしい。今年の初春には「ソニーiTMSに参加のXデーが近々来る」という情報も本当にあった。だがオレンジ・レンジやサンボ・マスターなど、邦楽界で数少ないヒットを連発しているのが、実はソニー・グループ。「打倒iTMS」を掲げた、携帯電話キャリア音楽配信の新サービスも揃ってきた現在、もはやiTMSも逆風気味だから、ソニー参加の実現性は薄いのかも知れない。
 でも、ソニーが参加しなくても、iTMSはなにも心配する必要はない。もともと日本人は、CMで聴いたりテレビの主題歌だったりといった、資本家が仕組んだあてがいぶちから聞くものを選ぶような受動的なところがある。「ソニーの欠落」を意識させず、iTMSを音楽業界全体とニア・イコールな世界に思わせてしまえばよい。そもそも、あてがいぶちからしか音楽を選択せず、宇多田ヒカルのファーストが800万枚ヒットみたいなアホな状況を生み出しているのは、消費者の皆さんが忙しくて音楽どころじゃないってことなんだろうから。気にしない、気にしない。
 オリジナル・コンフィデンスや、POSデータから集計する新興調査会社プラネッツが発表するランキング集計が、ヒットの潮流を読む基準となってきた。しかし、ご存じのとおり調査店は山野楽器、新星堂などの昔ながらの「街のレコード店」だけ。タワー、HMV、ヴァージンなどでいくら売れても、それは集計データには反映されない。iTMSが目指すのはズバリそこで、アメリカのカレッジチャート(CMJ)のような、オリコンのカウンター的チャートの最大規模のものになってしまえばよい。いつもR.E.M.がちゃんとランクインするみたいな(笑)。
 以前、ライブドア・パブリッシングから出ていた、iTMSのガイドブックのような本があって、これはなかなか面白い読み物だった。その筋のコンシェルジュがテーマごとにプレイリストを紹介するという本で、「ソニーがない、東芝がない」というカタログ過渡期に出たものだから、本編はかなり無理がある。だが、間に挿入されている読み物で、音楽好きのミュージシャンが「iTMSの可能性」について答えているインタビューは刮目に値する。商業主義に取り込まれないように、ミニマムな外部レーベル“デイジーワールド”を設立して、その都度メジャーと契約して既存の流通のみを利用している細野晴臣氏の、そこでのiTMSへの提言は手厳しい。ネット上のヴァーチャルな世界として、あるいはカウンターな存在として立ち上がったiTMSが、あまりに商業主義に飲み込まれていること。なにしろ、満を持してスタートした、iTMS日本版のスタート当日のトップ画面はB'zであった。おそらく、事前情報として伝わっていた「ソニー不参加」の逆風の中で、いかにして華々しく顧客をつかむかという苦し紛れの選択もあったと思うが、待ち望んでいたiTMSファン(それなりに音楽教養が高い人々)は思わず椅子から転げ落ちた。クルーエル・レーベルを主宰する音楽評論家の瀧見憲司氏は、いかにも個性派レーベルらしく、「レーベル検索ができないのは、弱小レーベルにとってウィークポイント」と、ズバリな欠陥を付いていた。確かに、ネオアコなどに夢中になったこともある小生は、アーティスト名に有名無名に限らず、「ここはいつも外さない」というご贔屓なレーベルをチェックして買っていた世代だから。インターネットは、メジャーも個人も同等な立場に立てると言われる世界。だが、目の前のトップページに存在していなければ、それが2ページ目だろうが100ページ目だろうが、トップページのみを見て完結してしまう多くの大衆にとっては、「存在していない」という意味で同等である。だから、amazonが「ロングテール」などの新しい鉱脈を見い出しながらも、一方では、業界1位のみが肥大化していく「ビッグヘッド」に向かいやすい。それに検索エンジンが拾ってくれるわけじゃないから、最大の武器であるお洒落なジャケットを作っても、ジャケ買いでユーザーを惹きつけることもできない。聴けば誰だって気に入るいいポップな曲を作っても、検索エンジンが捉えるのは文字だけだから。未曾有の新人をネットで発見してもらえる機会は、現実のレコード店よりも薄いかも知れない。特にクルーエルぐらい、知名度が高いレーベルだと、そのへん臍を噛むような気持ちなのだろう。
 しかし、レーベル検索機能が付いても、実際は売り上げが大きく変わるかどうかはわからないと思う。すでにクルーエルの熱心なファンは、Googleなどの検索手段で勝手に見つけて買ってくれるだろうから。本気で「浮遊層」を取り込むには、教育効果のあるマス・アピールをとにかく続けるなど、実はけっこう体力や先行投資がかかるのだ。だからiTMSで大きく流通コストを低減化できるようになった今は、「勝手に見つけてくれる」「勝手に口コミしてくれる」コアなファンに向けて、品質管理だけしっかりしていくことで、いつか道が開くのではないかと思っている。それに、クルーエルのような個性派レーベルなら、買い逃したら手に入らない飢餓感があるぐらいが、消費者としては付き合っていてハラハラして楽しい。レーベル検索してズラッとリスト表示されるのは確かに壮観だが、今の消費者は俺様気分で物事に接するのが常だから、逆に「こんなにあるんならイラネ」とか言われて敬遠されるかも知れないし。適度に「俺しか知らない」という自尊心をくすぐってあげたほうがいいかも。私でさえ、ムッシュムラムラな気分でレンタル・ビデオにAVを借りに行った時など、借り切れないほどの新作がズラリと並んでいる光景を見て、「このすべてを見ることができない自分。なんてちっぽけな存在」と勝手に意気消沈して、借りずに帰ってきたりすることも多いし(笑)。