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斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


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1951-07-10

創価学会の歴史と確信


 時あたかも、わが国は太平洋戦争に直面し、国をあげて、修羅のちまたに突入したのである。牧口会長は、この大戦争の間に、強く大聖人のご精神を奉戴して、国家の悪たる天照大神を拝むということに対立したのであった。


 時の軍部は、蒙古襲来のとき、神風が天照大神によって吹いたという歴史にだまされていたのであった。国家が謗法の行為をなすことを知らず、大聖人の教えを聞こうとせず、語ろうともせず、かつ、御本大聖人の祈りによって神風が吹いたことは、知らなかったのである。米国はデューイの哲学により、日本の軍部は低級な邪義である神道論によって、一国の精神統一を図った。勝敗は物量だけの問題でなく、すでにこのことによって定まっていたのである。かれらが敗戦とともに、狂人的になることは、どうすることもできないことであった。


 高級な教哲学は、敗戦すべきことを教えていたのであるが、そのたいせつな教理である大聖人の御遺文すら焼き捨てようとかかったのである。軍部の偉大な権力は狂人に刃物で、民衆はおどされるままにふるえあがって、バカのように天照大神の神棚を作って拝んだのである。このとき、牧口会長は、天照大神の神札を拝むことは、正宗の精神に反すると、きびしく会員に命ぜられたのである。


 日本の国は、軍部にひきずられて妙な考え方になっていた。国内が的に乱れるのを恐れ、宗教の統一を図ろうとくわだてた。天照大神を拝んで神風を吹かしてもらうと言いだしたのである。天照大神を拝まないものは国賊であり、反戦であるとしていた。日本始まっていらい、初めて国をあげて天照大神への信である。


 天照大神とて、法華経守護の神である。法華経にいのってこそ天照大神も功力をあらわすのである。しかるに、文底独一の法華経を拝まず、天照大神だけを祈るがゆえに、天照大神の札にはが住んで、祈りは宿らず、一国を狂人としたのである。


 しかも、御開山日興上人の御遺文にいわく、「檀那の社参物詣を禁ず可し」とおおせである。この精神にもとづいて牧口会長は、「国を救うは日蓮大聖人のご真たる大御本尊の流布以外はない。天照大神を祈って、なんで国を救えるものか」と強く強く言いだされたのである。


 当時、御本山においても、牧口会長の、宗祖および御開山のおきてに忠順に、どこまでも、一国も一家も個人も、大聖人の教義に背けばがあたるとの態度に恐れたのである。信者が忠順に神棚をまつらなければ、軍部からどんな迫害がくるかと、御本山すら恐れだしたようである。


 昭和18年6学会の幹部は登山を命ぜられ、「神札」を一応は受けるように会員に命ずるようにしてはどうかと、二上人の立ち合いのうえ渡辺慈海師より申しわたされた。


 御開山上人の御遺文にいわく、

「時の貫首為りと雖も法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」


 この精神においてか、牧口会長は、神札は絶対に受けませんと申しあげて、下山したのであった。しこうして、その途中、私に述懐して言わるるには、


「一宗が滅びることではない、一国が滅びることを、嘆くのである。宗祖聖人のお悲しみを、おそれるのである。いまこそ、国家諫暁のときではないか。なにを恐れているのか知らん」と。


 まことに大聖人のご金言は恐るべく、権力は恐るべきものではない。牧口会長の烈々たるこの気迫ありといえども、狂人の軍部は、ついに罪なくして罪人として、ただ天照大神をまつらぬという“とが”で、学会の幹部21が投獄されたのである。このとき、信者一同のおどろき、あわてかた、御本山一統のあわてぶり、あとで聞くもおかしく、みるも恥ずかしきしだいであった。牧口、戸田の一門は登山を禁ぜられ、世をあげて国賊の家とののしられたのは、時とはいえ、こっけいなものである。


 また、投獄せられた者どもも、あわれであった。事のつぶれる者、借金取りにせめられる者、収入の道なく食えなくなる者等続出して、あとに残った家族も、悲嘆にくれたのである。このゆえに、まず家族が退転しだした。疑いだした。これは確信なく、教学に暗いゆえであった。投獄せられた者も、だんだんと退転してきた。いくじのない者どもである。勇なく、信が弱く、大聖人を御本と知らぬ悲しさである。


 誉ある法にあい、御のおめがねにかないながら、誉ある位置を自覚しない者どもは退転したのである。大幹部たる野島辰次、稲葉伊之助、寺坂陽三、有村勝次、木下鹿次をはじめ、21のうち19まで退転したのである。


 会長牧口常三郎理事戸田城聖、理事矢島周平の3人だけが、ようやくその位置に踏みとどまったのである。いかに正法を信ずることは、いものであろうか。会長牧口常三郎先生は、昭和19年1118日、この誉の位置を誇りながら栄養失調のため、ついに牢死したのであった。


 私は牧口会長の死を知らなかった。昭和18年の秋、警視庁で別れを告げたきり、たがいに三畳一間の独房に別れ別れの生活であったからである。20歳の年より師弟の縁を結び、親子もすぎた深い仲である。


 毎日、独房のなかで、「私はまだ若い。先生は75歳でいらせられる。どうか、罪は私一人に集まって、先生は一日も早く帰られますように」と大御本尊に祈ったのである。


 牧口先生の先法華経誹謗の罪は深く、仏勅のほどはきびしかったのでありましょう。昭和20年18日、投獄以来一年有半に、「牧口は死んだよ」と、ただ一を聞いたのであった。独房へ帰った私は、ただ涙に泣きぬれたのであった。


 ちょうど、牧口先生の亡くなったころ、私は200万べんの題目も近くなって、不可議の境涯を、御本の慈悲によって体得したのであった。その後、取り調べと唱題と、読めなかった法華経が読めるようになった法悦とで毎日暮らしたのであった。


 その取り調べにたいして、同志が、みな退転しつつあることを知ったのであった。歯をかみしめるようななさけなさ。のなかからこみあげてくる大御本尊のありがたさ。私は一生の命を御にささげる決をしたのであった。敗戦末期の様相は牢獄のなかまでひびいてくる。食えないでしんでいる妻子のすがたが目にうつる。私は、ただ大御本尊様を拝んで聞こえねど聞こえねばならぬ生命の力を知ったがゆえに、2000べんの唱題のあとには、おのおのに100ぺんの題目を回向しつつ、さけんだのである。


「大御本尊様、私と妻と子との命を納受したまえ。妻や子よ、なんじらは国外の兵の銃剣にたおれるかもしれない。国外の兵に屈辱されるかもしれない。しかし、妙法の信者戸田城聖の妻として、また子とのり、縁ある者として、霊鷲山会に詣でて、大聖人にお目通りせよ。かならず厚くおもてなしをうけるであろう」


 毎日、唱題と祈と法悦の日はつづけられるとともに、不議や、数馬判事の私を憎むこと、山より高く、海よりも深き実情であった。法は厳然として、彼は天台の一三千の法門の取り調べになるや、重大な神経衰弱におちいり、1218日より38日まで一行の調書もできず、裁判官を廃してしまったのである。


 牧口先生いじめ軽蔑し、私を憎み、あなどり、同志をうらぎらせた彼は、裁判官として死刑の宣告をうけたのである。その後の消は知るよしもないが、阿弥陀教の信者の立ち場で私ども同志を裁いた彼は、無間地獄まちがいなしと信ずるものである。不議は種々つづいたが、結局、73日に、私はふたたび娑婆へ解放されたのであった。


【『大白蓮華』第16号 1951-07-10(昭和26年)発行】