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1974-03-03

ファシズム


 さて、最近、色々な機会に私は、現代の日本ならびに世界が深刻な危機をはらんでいることを指摘しました。長期的には公害や資源問題、人口問題、更に人間の精神的空白化等といった人類の運命にかかわる危機が潜在している。これらと関連した形で、短期的には、石油ショックによる経済的危機があり、それより少し長い、いわば中期的な展望の危機として、ファシズムへの傾斜という問題があるわけです。このファシズムの危険という点については、昨年末の大阪・中之島公会堂での第36回本部総会でも訴え、その危機を防ぐ一つの具体的運動として、平和憲法を擁護する戦いが進められている。

 そこで本日は、このファシズム復活の危険に対処する私どもの基本姿勢、根本的考え方を法者としての原点に立って、所を申し述べておきたいのであります。

 ファシズムとは何であるかという問題については様々な側面があり、その定義づけについて、多くの議論があるでありましょう。

 その中には、特にドイツのナチズムに典型的にみられたように、人種主義があり、一人の政治権力者、一つの党による完全独裁政治があり、、言論、集会等の自由に対する抑圧があり、進歩への否定があり、更に武力による対外侵略という問題がある。これらは、いずれも無視できない問題でありますが、それらの根底にあって、こうした種々の特徴的機能を生み出してきたファシズムの本質は一体何か。

 それを私は、集団力の崇拝であり、集団の中への個人の埋没、個の圧力的消滅であると規定できるのではないかと考える。

 そうした集団の中への個人の埋没と消滅という点については、エーリッヒ・フロムが『自由からの逃走』という著書の中で、精神分析の手法を適用することによって、徹底的に解明している通りであります。それは、ナチズムの全盛時代に書かれたものでありますが、ドイツの民衆がなぜ一人の政治権力者ヒトラーの独裁体制下に喜んで自ら入っていったか――すなわち、ワイマール憲法という理的な民主憲法をもちながら、それがなぜ一転してファシズムに走ったかの謎を、明快に示してくれている。

 フロムによると、それはルターやカルヴァンらによるプロテスタンティズム以来、用されてきた精神的空白と無力、権威への服従主義から出ている一種の病理現象である。これが一方では、ナチズム、ファシズムとなり、一方においては資本主義社会となった、というのであります。

 しかしながら、集団に帰属することによって、精神的な安定や充足を得るということは、人間全てにある理といってよい。完全な孤独状態では生存し得ないのが、あらゆる生物の必然的原理である。なかんずく、高度に発展した精神機能をもつ人間の宿命ともいえるかも知れない。

ここで大事な点は、個人の尊厳が否定されてしまって、全体の中に部品として組み込まれるか、それとも個人の尊厳観が根本にあって、その個人を守り支えるために全体があるか、ということであります。

 人類文化の歴史をみる時、いわゆる古代においては「個の自立」ということは、ほとんど識されなかったといってよい。個人は集団の中に一体化してしかあり得ず、そこから離れて生きる術(すべ)はなかった。それは、物質的かつ技術的にやむを得ないことであったし、識的にも集団の中に埋没し、ある特定の権威をもつ個人――すなわち帝王に服従することを、何ら異としない精神構造に形成されていた。それが、古代における英雄神の神話が果たした役割であったのであります。

 それに対し、教をはじめ、キリスト教、イスラム教などの高等宗教が果たした役割は、何よりも個人の尊厳を浮かび上がらせたことにあった。それは、「永遠不変の法」や「永遠なる神」なりを打ち立て、それと個人とを直結させることにより、有為転変の現実に左右されない永久的な救いの道を説いたのであります。このことが、必然的に個人個人の尊厳を裏づける結果となったといってよい。

 なかんずく法においては、小乗、権大乗を経て、法華経にいたって「の生命」即「永遠不変の法」が、全ての生命の内奥に実在することが明かされ、個人の尊厳観に不動の基盤が確立されたのであります。この点は、「神は人々のの中にある」と説きながらも、超越的な唯一絶対神という考え方を強調することをやめなかったキリスト教や、更にそれを徹底したイスラム教では、曖昧さを残していたところであります。

 それはともかく、こうした高等宗教が目指し、あるいは結果としてもたらした「個人の尊厳」というは、ファシズムにとっては重大な障壁となる。ファシズムにとって都合のよい宗教とは、集団力を神格化した古代宗教であり、その神的力が、ある特定の個人の内に体現されるとする“英雄崇拝”“カリスマ信仰”なのであります。

 ゆえに、ナチズムがドイツ国民の識を深層部から動かし、支配するために利用したのは、キリスト教以前のゲルマン古代宗教への郷愁だったのであります。特に、リヒァルト・ワグナーの「ニーベルゲンの指輪」は、ゲルマン古代民族的英雄ジークフリートの悲劇の運命を歌ったもので、その壮麗な調べは、第一次大戦の敗戦国ドイツのイメージと重なって、深く民族の血を沸き立たせたといわれる。

 日本においては、同じく高等宗教である教を飛び越えて、古代の神道国家神道として復活し、この神格の体現者である天皇のもとに、日本民族という集団力の中に、個人の埋没と犠牲が促されたのであります。

 同様にして、イタリア・ファシズムの場合は、キリスト教以前のローマ帝国の民族的栄光と、ローマの神々への憧憬(しょうけい)が、人々のを集団力への服従に導く手段として用いられたことが看取(かんしゅ)されるのであります。

 こうした歴史的事実の教訓は、一面の裏づけに過ぎない。ファシズムの本質が何であるか。それに対して高等宗教、その中でも最も完成され、最高峰をゆく法の教えの本義が何であるか。この事実、本質を、正しく、鋭く見極めるならば、ファシズムの危機に対して、最も強力な抵抗をなす力をもち、また、抵抗すべき責任を担っている者こそ、最高の法を受持し、実践している諸君達であることは、もはや明白であると私は信じますが、いかがでしょうか。

 否、諸君達は、単にファシズムの危機を防ぎ、人間の尊厳を守るという消極的役目のみに終わるのであってはならない。かつてファシズムに走ったドイツ、日本、イタリア等の民衆の、そうした理的メカニズムを生み出したものは、結局は自らの無力であり、精神的空虚さであったのであります。

 したがって、一人ひとりのの中に、沸々(ふつふつ)と内より湧き出ずる充実生命力と英知をみなぎらせてゆく法流布の労作こそ、ファシズムの毒草を根から断ち切り、もはや再び芽を出すことのできないようにする積極的な戦いであることを、ここで諸君とともに確認し合っておきたいのであります。


【第15回学生部総会 1974-03-03 東京・日大講堂】